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利用者:Codfish2005/作業場3

陸軍第6飛行師団派遣の経緯

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陸軍の航空部隊である第6飛行師団のラバウル派遣については、様々な紆余曲折を経てのことであった。陸軍の航空部隊派遣については現地では陸海軍ともに(第17軍、第十一航艦隊)その必要性を認めていたが、大本営中央、とりわけ陸軍航空作戦課の反対によりその実現までには相当の時日を要した。この問題が表面化したのは1942年8月下旬に大本営海軍部第一課の航空主任部員(以下軍令部と表記)三代辰吉中佐が大本営陸軍部(以下参謀本部と表記)第二課の航空班長久門有文中佐に対し、陸軍航空部隊の南太平洋方面の派遣を要請したことに始まるのだが[1]、この問題の推移の中で天皇の態度が少なからぬ影響を与えていた。ことの発端は8月6日杉山参謀総長がニューギニア作戦について上奏した際に「陸上作戦において海軍航空隊だけでは十分に協力することができなきのではないか、陸軍航空部隊を出す必要はないのか」と質問した。これに対し杉山参謀総長は、陸軍の航空部隊に余剰戦力がないこと、航空機材の生産が損耗分の充足にすら事欠く状況であること、南東方面は海洋作戦であり陸軍の航空部隊ではその実力を発揮できないことなどを理由にその考えはないと答えた[2]。その後前述の軍令部三代中佐の派遣要請が起きるのだが、この時の参謀本部久門中佐の返答も先の杉山参謀総長の天皇に対する応答と同様に、余剰戦力の不足、器材生産能力の不足、基地の不備による海上作戦実施の準備不足などを理由としてあげ、断っている。しかしこのやりとりはお互いに相当激しい論調でされたようで、久門中佐は海軍には南西方面に転用可能な余剰戦力があることを無遠慮に指摘するほどであったという[3]これは双方の胸の内に、南東方面における航空作戦の損耗負担を押し付けられているという疑心暗鬼が働いていたことがその背景にあった。こうした角逐を生んだ背景には、戦前からある、航空機材の生産分担を巡る陸海軍間の争いがあった。生産拠点が限られる当時の日本では陸海軍の生産施設を完全に分ける事ができず、そのため激烈な対立を生む結果となり、同一工場で生産される場合、作業場に隔壁を設置することもあった。こうした対立は中央でも同様で、作戦戦力に関しては中央の主務者間でやり取りはあったが、お互いが持つ資材や生産実績、航空要員の状況などには厳重な秘密主義がとられ、相互に連絡しあうことはなかった。そのためお互いの縦深戦力はほとんど把握できず、そのことがこのような疑心暗鬼を生んだ背景にあった。また、6月のミッドウェー海戦の敗北も、参謀本部の一部の人間には知らされていたものの、直接関与しない部課員には知らされず、このため参謀本部の航空関係者は華々しい海軍の発表を信じ、戦力に余裕があるはずだとの思いもあったようである[4]。それでも大本営はスマトラ方面の海軍航空隊の負担を減らすため、担当区域を陸軍第9飛行団と交代する処置をとった[5]。しかしこの直後の8月29日、第17軍からブナ揚陸掩護の為の戦闘機とモレスビー方面の威力偵察の為の偵察機の派遣要請が出た[6]。その結果9月9日、百式司偵Ⅱ型装備の独立飛行第76中隊をとりあえず派遣することとなったが、参謀本部ではその他の部隊に関する派遣は依然として強硬に反対していた[7]。しかし9月15日、参謀総長が川口支隊の攻撃失敗と今後の作戦方針について天皇に上奏した際、再度陸軍航空部隊の派遣について質問があった[8]。。従来、こうした陸海軍間の問題に対し、指導的な発言はしない慣例になっていたため、この再度の質問は参謀本部に少なからぬ影響を与えた。参謀本部作戦班班長である辻政信中佐は「海軍が苦戦し、陸上部隊も悲惨な状況にある時に陸軍航空部隊が救援に行かない道理はない」と投入を主張、それに対し航空班班長の久門中佐は南太平洋方面作戦の価値や全般的な戦局の推移の見通しからこれを断固として拒絶、議論は平行線をたどった。[9]。参謀本部航空班は陸軍の航空運用の中枢的な組織であり、その班長である久門中佐は航空部隊の運用に関して大きな影響力があったので、彼の承服なしに航空部隊の投入は困難な状況であった。そして議論の決着がつかぬまま、辻中佐は9月18日前線視察のため南東方面へ旅立ち、久門中佐も同様に北東方面へ前線視察へと向かったところが、久門中佐は10月6日択捉島付近で行方不明となってしまった。辻政信は戦後「陸軍航空の南東方面反対の拠点がここに崩れた」と述べている[10]。10月18日軍令部から「航空兵力の損耗によりニューギニア方面を負担しきれないので航空兵力を出してほしい」との要請を受ける。同時期、軍令部は現地部隊に陸軍飛行師団を母艦輸送する際の可否を問い合わせている。これに先立つ10月2日には南方軍から飛行場設定隊の転用が発令されており、陸軍飛行師団の投入は実際には決定していないものの、こうした動きの中で大本営主務者間でそれに向けた研究作業が始まっていた[11]。10月23日、新航空班長松前未曾雄中佐が着任、この時作戦課課長の服部卓四朗大佐より、陸軍航空の南太平洋方面の投入を研究するようにと指示があり、松前中佐は前任の久門中佐と同様な考えを持っていたため、投入に関して完全に納得していたわけではなかったが、期間や規模を限定するならば派遣もやむをえないと考えるようになっていた[12]。10月28日、第二師団の攻撃失敗直後、第十七軍は飛行師団の派遣を訴えた[13]。同日、大本営陸海軍部間で今後の作戦方針に関する作戦検討がなされ、30日には宮中にて大本営首脳を交えた合同研究会が開かれ、ガ島奪回、モレスビーの奪取に関する意見の一致を見、その中で制空権の獲得が確認された[14]。同時期、服部大佐は今後の南東方面の作戦指導と現地陸海軍とこの件に関して協議するために9月28日東京を出発し、29日にトラックで連合艦隊司令部に連絡、30日ラバウルへ到着した。田中少将は30日の研究会の結果を受けて服部大佐に「陸軍航空部隊の進出に関する海軍側の要望は深刻であり、運用の具体策があれば連絡されたい」と打電[15]、これに対し、3日ガ島に到着し現地を視察した服部大佐は「敵航空兵力の制圧には飛行場を推進し強力な航空兵力の投入をもってする他なし、このため速やかに戦闘、重爆、各二個戦隊を派遣の準備に取りかかられたい」と報告した[16]。この頃参謀本部の主務者は軍令部に対し、零戦36機を内地で受領、あらかじめ内地で訓練を実施できれば戦闘二個戦隊(零戦、一式戦各一隊)、軽爆二個戦隊、司偵一個中隊の派遣は可能、ただし11月4日の陸軍省の回答までこの件に関する確答は待ってほしい、と連絡していた。[17]。また11月5日には三たび天皇から「陸軍航空は出せないのか」と質問があった。これを受け参謀総長は翌6日、陸軍航空部隊の派遣について上奏した[18]。その後11月18日、前述の中央協定や第八方面軍作戦要領などの大陸指が発令され、陸軍航空部隊の南東方面派遣が正式に決定した[19]。この作戦要領の中で第十二飛行団などの南方軍からの転用が決まり、白城子教導飛行団、独立飛行第七十六中隊(これまでの6機編制ではなく9機の完全編成)などとともに第六飛行師団を編制し、司令部は11月28日に編制された[20]



  1. ^ 戦史叢書 東部ニューギニア方面陸軍航空作戦 p24
  2. ^ 戦史叢書 大本営陸軍部<5> 昭和十七年十二月まで,p350~p351
  3. ^ 戦史叢書 東部ニューギニア方面陸軍航空作戦 ,p26~p27
  4. ^ 戦史叢書 東部ニューギニア方面陸軍航空作戦 ,p25~p26
  5. ^ この結果海軍の二十一~二十四航戦の各飛行隊から南東方面へ部隊が転用された。戦史叢書 東部ニューギニア方面陸軍航空作戦 ,p27
  6. ^ 第17軍では海軍の航空作戦協力に強い不満をもっていた。戦史叢書 大本営陸軍部<5> 昭和十七年十二月まで,p351
  7. ^ ただし、参謀本部第一部長の田中新一少将自身は、この様な要望が現地の陸軍部隊から出るのはもっともなことだと考えていた。戦史叢書 東部ニューギニア方面陸軍航空作戦 ,p29
  8. ^ 天皇はガ島奪回に関しこの時点で疑問に感じていたようである。 戦史叢書 大本営陸軍部<5> 昭和十七年十二月まで,p44~p45
  9. ^ 久門中佐は当初からガダルカナル島奪回作戦そのものに疑問をもっていた。戦史叢書 東部ニューギニア方面陸軍航空作戦 ,p32~p33
  10. ^ 戦史叢書 大本営陸軍部<5> 昭和十七年十二月まで,p352
  11. ^ 戦史叢書 東部ニューギニア方面陸軍航空作戦 ,p34~p35
  12. ^ 戦史叢書 東部ニューギニア方面陸軍航空作戦 ,p35
  13. ^ 戦史叢書 大本営陸軍部<5> 昭和十七年十二月まで,p352
  14. ^ ここから陸軍航空部隊派遣に関する軍政当局へのはたらきかけも始まっている。戦史叢書 東部ニューギニア方面陸軍航空作戦 ,p37
  15. ^ この時零戦の陸軍への譲渡の件に関して現地十一航艦へ連絡するようにと伝えている。戦史叢書 大本営陸軍部<5> 昭和十七年十二月まで,p256~p257
  16. ^ 現地を視察した服部大佐は11日帰京した、その報告からはガ島の陸軍部隊は完全に敵制空権下での行動を余儀なくされており、海軍の航空作戦協力に関して期待できない旨述べられていた。戦史叢書 大本営陸軍部<5> 昭和十七年十二月まで,p309~p310
  17. ^ この件に関して田中少将は陸軍省に対し、派遣を実施した際の損耗補給は月50パーセントとすべきことや、昭和18年度飛行機生産の要望は1.1万機を最小限とすることなどを述べた。戦史叢書 大本営陸軍部<5> 昭和十七年十二月まで,p353
  18. ^ この日取り決められた南太平洋作戦陸海軍中央協定案の使用兵力の中に方面軍直属として航空部隊の文言が入っている。同,p353
  19. ^ 零戦の譲渡に関しては結局うやむやになり、陸軍から二個戦隊とも派遣することとなった。戦史叢書 東部ニューギニア方面陸軍航空作戦 ,p46
  20. ^ 戦史叢書 東部ニューギニア方面陸軍航空作戦 ,p59~p65