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利用者:Codfish2005/作業場2

ガダルカナル飛行場設定の経緯

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1942年に始まるガダルカナル島における攻防戦はまた、ガダルカナル飛行場(米軍名ヘンダーソン飛行場)の争奪戦でもあった。そのそもそもの発端は開戦前にさかのぼる。1941年9月、対米戦を想定した連合艦隊の図上演習において、南東方面の攻略を担当する第四艦隊はラバウル攻略後さらにラエ、サラモアに進出した。この時連合艦隊関係者は、第四艦隊の任務は内南洋における警戒活動にあるので、ラエ、サラモアへの進出は控えるようにと第四艦隊関係者をたしなめた。その後10月に行われた頭上演習では、第四艦隊は再びラバウルだけを占領しても役には立たないとラバウル地区確保の困難さの所見を述べ、前進基地の必要性を強調した。しかしその当時連合艦隊も軍令部も、もっぱら中部太平洋を彼我の主攻正面と見ていたので、これら南東方面の確保、前進基地の設定の重要さを認識しながら、その研究は後回しにされた。 その後、第一段作戦が順調に推移し、大本営陸海軍部間で米豪連絡路遮断作戦についての意見が交わされ、1942年1月29日には陸海軍中央協定も結ばれ、大海指四七号をもって、ニューギニア、ソロモン群島に対する攻略作戦が発せられた。この時初めて「ツラギ」に航空基地を設定するという文言が登場した。この時点では豪州東方海域の制海権確保という性格で発令された同作戦であるものの、第四艦隊では米豪遮断作戦や豪州攻略作戦などの情報も耳に入っていたため、これら南東方面の攻略作戦もその前段階にあるものと解釈していた。その後、第四艦隊は3月にラエ、サラモア、4月にツラギ、ポートモレスビーの攻略計画(MO作戦)を立てることになる[1]。以下、その後の動きを時系列を追って記述する。

  • 1942年 1月26日 海軍部の強い要請により、陸海軍部主務者間でフィジー、サモア、ニューカレドニア攻略に関する合意があった[2]
  • 1942年 4月16日 軍令部総長、第二段作戦計画を上奏、裁可される。これによってフィジー、サモア、ニューカレドニアの攻略が決定する[3]
  • 1942年 5月 3日 第四艦隊、MO作戦に基づきツラギを占領[4]
  • 1942年 5月18日 この日大本営海軍部よりFS作戦が発令される[5]。同日、ツラギより帰還した横浜空司令から、二十五航戦にツラギ対岸のガダルカナル島に飛行場適地の存在を報告する[6]
  • 1942年 5月25日 横浜空司令の報告に基づき、二十五航戦が大艇をもって現地調査を実施。27日、調査隊帰着、同地が有望であることがわかった[7]
  • 1942年 6月 1日 二十五航戦司令官、十一航艦、大本営海軍部に調査結果を報告、翌2日二十五航戦司令官、十一航艦、大本営海軍部にガダルカナル飛行場急速整備に関して意見具申を行う[8]
  • 1942年 6月 5日 ミッドウェー海戦
  • 1942年 6月13日 大本営海軍部、当面の作戦指導方針案を作成[9]
  • 1942年 6月15日 連合艦隊艦隊司令長官、第十一、十二、十三、十四各設営隊、佐世保第五特別陸戦隊を第四艦隊に編入。また同日、第四艦隊司令部において二十五航戦、第八根拠地隊関係者を交えてガダルカナル飛行場設定について打ち合わせを行う[10]
  • 1942年 6月16日 柱島に帰着した連合艦隊司令部と東京から出張した軍令部関係者が大和艦内で13日作成した、当面の作戦指導方針について打ち合わせを行う。この中で軍令部側は南太平洋の作戦について「九月中旬ごろF作戦を実施す」と延期の提案をし、「本作戦実施の為速やかに『ツラギ』方面陸上基地を整備し(八月中旬迄に整備可能の見込)次いで「ニューヘブライズ」方面の陸上基地を攻略し航空兵力を進出せしむ」などと提案。[11]
  • 1942年 6月17日 連合艦隊、関係各部署にキエタ基地の調査を要望[12]
  • 1942年 6月19日 第四艦隊司令部、二十五航戦、第八根拠地隊関係者ガダルカナル島におもむき現地調査を実施[13]
  • 1942年 6月21日 第四艦隊司令長官、指揮下の南洋部隊各司令官に「ガダルカナル進出陸戦隊をなるべく速やかにガダルカナルに進出せしむ」と通達[14]
  • 1942年 6月22日 連合艦隊、軍令部に対し時期作戦の検討結果を報告。「F作戦 NK(ニューカレドニアのこと)は基地航空部隊を使用し確実に取れる。F・Sは取る確実なる目算なし。従ってF・Sは取り止めのことに思慮あり度(本件長官の意向)。と伝える[15]
  • 1942年 6月29日 ガダルカナル飛行場設営のため、佐世保第五特別陸戦隊と第十三設営隊を乗せた金竜丸がラバウルを出港、翌日上陸、設営準備に入る[16]
  • 1942年 7月 5日 連合艦隊、軍令部にその後の検討結果を報告。「F作戦 ツラギ、キエタの航空基地を整備する。F作戦は端的に言ってやめたい。(以上は長官の意向である)[17]
  • 1942年 7月 7日 軍令部、討議の結果F作戦一時取り止めを正式決定する。

「F作戦は当分の間之を取りやめ 第十七軍及び第八艦隊を以て為し得る限り速やかにモレスビーを攻略すると共に英領ニューギニヤ一帯の残敵を徹底的に掃蕩し 所要の地点にさらに航空基地を設営整備して対豪州航空作戦の地歩を有利にし 且つ敵の企図することあるべき奪回作戦に対する反撃態勢を強化し此の間F作戦の研究準備を進む」

「ニューギニヤ、ソロモンの一線を確保して更に南方へ進出を企図する為には所要の地点に相当数の飛行場を整備すると共に有力なる陸軍部隊駐屯し敵に対する睨みを効かすと共に共同すべき海軍部隊と常に緊密な連携各般の研究準備を進むるの要あり」

「F作戦の必要性は将来減少する事なしとの見解にして抜本的に豪州攻略の可能性生ぜざる限り之が攻略の企図は飽く迄も之を放棄せざるものなり」

と今後の作戦指導方針について各部に説明した[18]

  • 1942年 7月 7日 二十五航戦、ブーゲンビル島キエタを調査「前略~四周の障害物、場内排水等の為中高の不時着場として使用し得る見込殆どなし、尚将来拡張の余地なく~中略~基地として使用の見込全く無し その他ボーゲンビル島内急速基地設営の適地を認めず」と報告[19]

こうした動きからわかることは、大本営海軍部は終始豪州攻略、米豪遮断作戦の実施に意欲を燃やしていたのであり、ガ島飛行場設定もそうした中で策定されたことが窺える。それに対し連合艦隊では、ミッドウェー海戦後機動部隊の使用に消極的になり、可能な限り基地航空部隊を駆使してFS、第二次MO作戦の実施の可能性を模索していたが、結局MO作戦は陸路から、FS作戦は断念するに至っている。ただし、連合艦隊司令部内でも意見は分かれ、幕僚の意見として機動部隊を使用してインド洋通商破壊作戦の実施も提案されている[20]。一方現地部隊は二十五航戦の動きを見ても明らかなように基地の推進に積極的であり、これは中央も含め連合軍の反攻は当分ないと判断していたからで[21]、560浬という進出距離の長さはこの時点では問題とされていなかった。ただしこうした認識は二十五航戦だけではなく、南東方面を第八艦隊が第四艦隊から引き継いだ際(1942年7月25日)、昨今のソロモン方面の情勢から敵のガダルカナル島への積極作戦の可能性を、第八艦隊司令長官の三川軍一が第四艦隊司令部に質問したところ「その虞は絶対になし」と答えられていたので[22]、南東方面部隊の司令部ですらそう考えていたのだから、進出距離が問題とされなくても当然の雰囲気だった。 そして、6月11日発令の大海指百三号の中では「F作戦及びMO作戦開始の時期を当分の間延期す 右作戦実施要領は追って之を指示す」とあり[23]、この時点ではツラギ方面に関する記述は見られないため、ここから13日にかけて「今後の作戦指導方針」を策定する中で、ガダルカナル飛行場の設定へと大本営海軍部が本格的に動き始めたと見て取ることができる。また、連合艦隊はこの時と、8月、10月の都合3度に渡ってブーゲンビル島周辺地域の飛行場の適地調査とその整備を要望しており、連合艦隊は当初からラバウル~ガダルカナル島間の距離を不安視していた。しかし、現地部隊の不熱心さや設営隊の不足により、ブカ、ブイン、バラレ、ムンダの各基地の設営は大きく遅れることになった。

脚注

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  1. ^ ここまでの経緯について『大本営海軍部・連合艦隊<2> 昭和17年6月まで』 p173~p175から引用
  2. ^ 大本営海軍部・連合艦隊<2> 昭和17年6月まで p314~p315
  3. ^ 大本営海軍部・連合艦隊<2> 昭和17年6月まで p347~p348
  4. ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p228
  5. ^ ただし、FS作戦はあくまで空母機動部隊を主体とした奇襲上陸作戦であり、その命令の中にソロモン諸島攻略の文言はない。戦史叢書 南東方面海軍作戦 <1> ガ島奪回作戦まで p358~p362
  6. ^ ツラギへはMO作戦の実施に伴い、飛行艇基地を設定、横浜空が進出していたが、同作戦中止の為司令部は引き返してきていた。戦史叢書 南東方面海軍作戦 <1> ガ島奪回作戦まで
  7. ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦 <1> ガ島奪回作戦まで,p375
  8. ^ その内容は、ガダルカナルに陸上機を進出させることにより、1、珊瑚海方面の偵察距離の延伸、2、ツラギ基地の防空力向上、3、ニューヘブライズ諸島に対し陸攻が攻撃可能となり、FS作戦の支援も可能である、などであった。 戦史叢書 南東方面海軍作戦 <1> ガ島奪回作戦まで,p375~p376
  9. ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦 <1> ガ島奪回作戦まで,p13
  10. ^ これは具体的にガダルカナル島基地設定のためではなく、南東方面の航空基地強化の一環として行われた。戦史叢書 南東方面海軍作戦 <1> ガ島奪回作戦まで,p377~p378
  11. ^ 陸軍部作戦課にも同様の連絡を行い、この時点では軍令部ではF作戦の実施を考えていた。 戦史叢書 大本営海軍部・連合艦隊2 昭和18年2月までp14~p16
  12. ^ 二十五航戦司令部は中間基地が絶対必要であるという認識は薄く、ガダルカナルから更に前進しようとする姿勢であった。戦史叢書 南東方面海軍作戦 <1> ガ島奪回作戦まで,p378
  13. ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦 <1> ガ島奪回作戦まで,p378
  14. ^ 第六水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報
  15. ^ しかしこの提案に軍令部は同意しなかった。戦史叢書 大本営海軍部・連合艦隊2 昭和18年2月まで,p16~p17
  16. ^ 第四艦隊戦時日誌
  17. ^ 戦史叢書 大本営海軍部・連合艦隊2 昭和18年2月まで,p18~p19
  18. ^ この文言からは軍令部としてはFS作戦そのものを諦めた訳ではないことが読み取れる。 戦史叢書 大本営海軍部・連合艦隊2 昭和18年2月までp19~p23
  19. ^ しかしその後、第六戦隊がブーゲンビル島ブイン地区に適地を発見することになる。戦史叢書 南東方面海軍作戦 <1> ガ島奪回作戦まで,p387
  20. ^ 戦史叢書 大本営海軍部・連合艦隊2 昭和18年2月まで.p16p~19
  21. ^ 戦史叢書 大本営海軍部・連合艦隊2 昭和18年2月まで,p135
  22. ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦 <1> ガ島奪回作戦まで,p404
  23. ^ 戦史叢書 大本営海軍部・連合艦隊2 昭和18年2月まで,p12