利用者:Codfish2005/作業場1
codfishの作業場
ラバウル航空隊の年表
長すぎるのでもっとコンパクトにする予定です…
- 1942年 1月20-22日 南雲忠一中将の指揮する機動部隊(一航戦、五航戦基幹)がラバウルを空襲。[1]
- 1942年 1月23日 南海支隊ラバウルに上陸。午後にはラクナイ、ブナカナウ両飛行場制圧。攻略に参加した聖川丸の水上機はそのまま同地に留まり、偵察哨戒任務に就く。[2]
- 1942年 1月25日 水上機基地完成。同日横浜空大艇隊(九七式)8機、いったん進出するが、同地は占領直後から夜間爆撃を受けていたため同日中にグリーン島に移動。[3]
- 1942年 1月31日 千歳空分遣隊の九六戦16機、空母瑞鶴、翔鶴でトラックからラバウルへ空輸する予定だったが、天候不良のため、27日いったんカビエンに空輸、31日改めてラバウルへ空輸された。[4]。
- 1942年 2月 7日 千歳空分遣隊の陸攻(九六式)3機進出。[5]
- 1942年 2月10日 千歳空分遣隊と高雄空陸攻隊(一式)で四空陸攻隊を編成、また戦闘機隊は同じく千歳空分遣隊の戦闘機隊を新編された四空の戦闘機隊(九六戦)が吸収、四空戦闘機隊が編成された。同日四空は二十四航戦に編入された。[6]
- 1942年 2月15日 空母祥鳳によって零戦7機がラバウルに運ばれた。[7]
- 1942年 2月20日 四空陸攻隊、ラバウル攻撃に向かう米機動部隊に爆装で出撃、出撃17機中13機を失う。[8]
- 1942年 2月23日 二十一航戦から二十四航戦に急遽編入された一空陸攻隊、ラバウルに進出、23日から作戦参加。[9]
- 1942年 2月24日 ラエ、サラモア攻略作戦(SR作戦)に基づき、四空及び一空陸攻隊ポートモレスビー方面航空攻撃開始。[10]
**1942年 3月 8日 陸軍南海支隊の一部がサラモアに、海軍の陸戦隊がラエに上陸。ニューギニアの戦い。[11]
- 1942年 3月10日 この日の朝、米機動部隊、及び基地航空部隊100機以上がラエ、サラモア付近の攻略部隊を空襲。聖川丸の水偵3機が応戦したが、これにより輸送船4隻沈没、その他の支援艦艇を含む13隻が被害を受けた。翌日ブナカナウから陸攻22機が発進したが、敵はすでに避退しており発見できなかった。これだけの被害を受けた原因は戦闘機隊の進出(同日午後)の遅れにあった。[12]
- 1942年 3月31日 原田機九六陸攻乗組員一同、モレスビー基地陣地へ自爆命令で特攻「3月31日 付近天候晴れ」[13]
- 1942年 4月 1日 二十四航戦(千歳空、一空、十四空)はマーシャル方面基地航空部隊となり、新編された二十五航戦(台南空、四空、横濱空)が二十四航戦より任務を引き継ぎ、R方面(ラバウル)基地航空部隊となる。四空の戦闘機隊は台南空に編入、陸攻隊搭乗員は一部を残し機種変更の為木更津へ派遣。[14]
- 1942年 4月 5日 この日から台南空(この時点では未進出)、四空の大部をもってポートモレスビーへの反復攻撃を実施するが、連合軍機は空襲に備えあらかじめ飛行機を避退させ、少数機による攻撃では補足するのが困難だった。[15]
** 1942年 4月10日 連合艦隊は「第二段作戦第1期兵力部署」を発令、それに伴い基地航空部隊は全て第十一航空艦隊所属とした。
十一航艦指揮下の部隊編成は以下のように改訂された。
二十一航戦 鹿屋空、東港空
二十二航戦 美幌空、元山空
二十三航戦 高雄空、三空
二十四航戦 千歳空、十四空、一空
二十五航戦 四空、台南空、横浜空
二十六航戦 木更津空、三澤空、六空
また、南西方面艦隊に二十三航戦、東港空、元山空戦闘機隊を編入、それ以外の部隊を十一航艦司令長官直卒の部隊とした。また、十一航艦は二十五航戦に元山空の陸攻隊を加えて第五空襲部隊とし、南東方面へ展開、その他の部隊は内地及び南鳥島に配備し、司令部をテニアンに進出させた。[16]
- 1942年 4月13日 ラエ及びラバウルの空襲激化、四空陸攻隊、補給状況の悪化と地上被害に鑑み四空司令森玉賀四大佐と伴に一時ラバウルに後退。[17]
- 1942年 4月17日 台南空の進出、零戦の補充などで戦力の充実を見たため、ポートモレスビーへの航空作戦を再開[18]
- 1942年 4月28日 横浜空大艇隊、ショートランドに進出。30日には聖川丸の観測機3機、水偵3機が進出した。[19]
- 1942年 5月 1日 元山空の陸攻16機ラバウルに進出。[20]またこの日二十五航戦は五月中の戦果及び被害を報告し、器材及び搭乗員の補充を要求した。[21]
- 1942年 5月 3日 浜空大艇隊3機、聖川丸飛行機隊(水上機隊)の一部、同日陸戦隊によって制圧されたツラギに進出。[22]
- 1942年 5月 4日 ツラギ在伯の部隊は米機動部隊の空襲を受ける。第1波の被害を免れた水偵2機が応戦。これにより菊月を始め4隻が沈没の被害を受ける。[23]この頃第五空襲部隊は日々増強されつつあるポートモレスビーの航空部隊と激烈な航空戦を展開しており、当日もポートモレスビー攻略船団の対潜対空警戒任務に就いていた。[24]
** 1942年5月7日-8日) 珊瑚海海戦
- 1942年 5月 7日 第五空襲部隊が衣笠機(水偵)の敵艦隊発見の報告に基づき雷装の陸攻12機、爆装の陸攻20機が攻撃に向かい7機を失う。[25]
- 1942年 5月15日 ツラギを発進した大艇、東京空襲後急遽珊瑚海に進出してきた米機動部隊を発見するが、翌日見失う。[26]
- 1942年 5月21-23日 第五空襲部隊、MO作戦延期に伴い機材の整備、隊員の休養再訓練の必要を認め一時進攻作戦を中止。[27]
- 1942年 5月 十一航艦司令長官、第四空襲部隊(二十四航戦基幹)の戦闘機及び搭乗員を第五空襲部隊に派遣を指示。[28]
- 1942年 6月 第五空襲部隊、 7月以降実施予定の第二次MO攻略作戦に備え進攻作戦を緩和、兵力の整備訓練と戦力の培養に努める。[29]
** 1942年6月5日 ミッドウェー海戦
- 1942年 6月16日 第五空襲部隊、FS作戦及び第二次MO作戦延期(その後中止)に伴いポートモレスビーへの進攻作戦再開。[30]
- 1942年 7月18-20日 第五空襲部隊はポートモレスビーに対する航空撃滅戦を実施するが、天候不良の為20日の攻撃のみとなった。[31]
- 1942年 7月20日 第四空襲部隊(十四空)から応援の二式大艇ラバウルに到着、同月中に3回タウンスビルへ夜間攻撃実施。[32]
- 1942年 7月30日 二号零戦(零戦三二型)20機がラバウルに到着、ラエ進出中の戦闘機隊の大部はラバウルに帰投し、翌月三日まで同機体の講習にあたる。[33]
- 1942年 8月 6日 この日横濱空の大艇3機がF甲区(ツラギ南方海面)の哨戒を実施したが、天候不良等により付近を航行中の米船団を発見できなかった。[34]
- 1942年 8月 6日 二空(7月14日付で第五空襲部隊に編入)の二号零戦15機、艦爆16機はこの日ラバウル到着。[35]
** 1942年 8月 7日 ガダルカナルの戦い連合軍、ガダルカナル島及びツラギ(ツラギ島、ガブツ島、タナンボゴ島)に上陸。[36]
- 1942年 8月 7-9日 早朝からの空襲により、ツラギの横濱空の大艇全滅。以後各島の守備隊は頑強に抵抗するが、9日までに3島全てが制圧され、横濱空司令宮崎重敏大佐ら幹部はガブツ島にて敵戦車に肉薄攻撃の後全滅。[37]
- 1942年 8月 7日 第五空襲部隊、陸攻27機(四空)、零戦17機(台南空)がツラギ沖の米艦船を攻撃したが、密雲と敵戦闘機の妨害により効果的な攻撃は出来なかった。陸攻隊が爆装だったのは同日ラビを空襲する予定だったため、兵装転換の余裕がなかったからだった。さらに艦爆9機(二空)がガダルカナル島沖の敵駆逐艦を攻撃、一隻に命中弾を与えた。またこの日の午後、三澤空(第六空襲部隊)の陸攻9機がテニアンより到着、第五空襲部隊第五部隊として戦列に加わる。[38]
(1942年 8月 8日 連合艦隊司令長官は内南洋部隊(第四艦隊)、外南洋部隊(第八艦隊)、基地航空部隊を合わせ南東方面部隊と呼称、十一航艦司令長官に統一指揮を執らせることを正式に命令、また、内地及びマリアナ方面に配備されていた二十六航戦(第六空襲部隊)にラバウル進出を命じた。さらに十一航艦に対し、ブーゲンビル島方面の航空基地の整備を命じた。[39])
- 1942年 8月 8日 この日も陸攻23機(雷装)、零戦15機がツラギ在伯艦船を攻撃、これにより駆逐艦1隻中破、輸送船1隻を大破(のち沈没)させた。またこの日の午後、三澤空の陸攻17機と十一航艦司令長官がテニアンよりラバウルへ進出した。[40]
** 8月8日 第一次ソロモン海戦
- 1942年 8月 9日 ラバウルを発進した零戦15機、陸攻16機はガダルカナル島の南方で駆逐艦1隻魚雷2本を命中させ撃沈する。[41]
- 1942年 8月10日 この日も零戦15機、陸攻21機がツラギ泊地に向かったが、連合軍の艦船は外南洋部隊の攻撃により、前日までに泊地を去っていた。十一航艦は攻略部隊を撃退したものと判断し、以後第五空襲部隊へ既に予定されていたラビへの攻撃を命令した。 </ref>第五空襲部隊は10日までの戦果を軍艦、輸送船18隻撃沈などと報告したが、実際の戦果とはかけ離れていていた。これは戦果確認の為の偵察機すら派遣できないほど現地部隊に戦力の余裕はなかった事によるものだった。[42]
- 1942年 8月17日 翌日の南海支隊主力ブナ方面への進出に伴い、第五空襲部隊の零戦22機、陸攻25機がポートモレスビーを攻撃したが迎撃機はなく多数の地上撃破を報告した。[43]
- 1942年 8月21日 零戦13機、陸攻36機からなる索敵攻撃隊ラバウルを発進、敵機動部隊を求めたが、攻撃圏内に発見することは出来なかった。その後零戦隊は陸攻隊と分離し、ガ島上空に突入、哨戒中の敵戦闘機と空戦となった。[44]また同日、二十六航戦司令部が進出、さらに木更津空が同月使用可能となったカビエンに進出した。すでに進出中の三澤空は原隊の第六空襲部隊に復帰した。[45]さらに第五空襲部隊への応援として第四空襲部隊からラバウルに派遣されていた十四空の大艇隊にさらに九七大艇3機、二式大艇1機が増派された.
**1942年 8月 21日 この日連合艦隊司令長官は二十一航戦の東港空(当時は南西方面艦隊所属)へ十一航艦に支隊の派遣を命じた。また、改めてブーゲンビル島方面の航空基地の急速整備を要望した。[46]
- 1942年 8月22日 ブナ飛行場使用可能となり、同日零戦16機(台南空)が進出。[47]
** 8月23日-25日 第二次ソロモン海戦
- 1942年 8月24日 この日朝ショートランドから4機、ラバウルから4機、計8機の索敵機が発進したが、2機が未帰還となり、敵を認めなかった。また、ガダルカナル島攻撃のため零戦13機、陸攻24機が発進したが天候不良で引き返した。これに関して第三艦隊や連合艦隊は不満を口にした。[48]同日、ラビ攻略部隊支援のため、第五空襲部隊の陸攻全力(7機)とカビエンから第六空襲部隊の陸攻7機がラバウルで合同しさらにブナで零戦隊と合同するため向かったが、天候不良で引き返した。[49]
** 1942年 8月26日 連合艦隊司令長官はこの日二十一航戦(鹿屋空、東港空)を、1日には三空(二十三航戦)戦闘機隊の一部をそれぞれ南西方面艦隊から南東方面部隊に編入させ、十一航艦指揮下に置いた。さらに翌月7日には高雄空(二十三航戦)の陸攻隊18機も追加で編入させた。また十一航艦も第四空襲部隊(二十四航戦)に対し、戦闘機、陸攻各1個分隊の派遣を命じた。さらに進出の遅れていた六空の零戦13機が31日ラバウルに進出した。[50]
- 1942年 8月26日-9月5日 航空部隊の集中に伴い、この日から11日間に渡り連日第五、第六空襲部隊によるガ島飛行場及びルンガ泊地の敵艦船攻撃を実施した。[51]
- 1942年 8月28日 第三艦隊の所属の一航戦飛行隊(翔鶴:零戦15機、艦攻2機、瑞鶴:零戦14機、艦攻1機)は完成直後のブカに進出。[52]また同日、ラビ攻略作戦に伴い進出していた第五空襲部隊の二号零戦と艦爆隊は、同地がポートモレスビーに近く、奇襲を受けやすいこと、進出直後から空襲を受け補給が困難なこと、不足しがちな戦闘機の分散配置は得策ではないことを理由にラバウルへ後退する。また、同様にラエに進出していた部隊もラバウルへ引き上げた。[53]
**この頃の南東方面航空部隊の編成[54]
第五空襲部隊(二十五航戦基幹) 戦闘機隊:台南空、六空、二空 艦爆隊:二空 陸攻隊:四空、横濱空、東港空、十四空派遣隊
第六空襲部隊(二十六航戦基幹) 戦闘機隊:一航戦(9月4日まで)、六空(9月12日以降) 陸攻隊:木更津空、三澤空、千歳空派遣隊
- 1942年 9月 1日 ガ島への小型高速艦艇による増援輸送(いわゆる鼠輸送)に伴い、ソロモン方面の対潜警戒、哨戒、偵察の強化のため、十一航戦(千歳、神川丸、山陽丸)に讃岐丸を加えた水上機部隊をもってR方面航空部隊を編制、5日までに大部分がショートランドに水上機基地を設置した。また先に到着していた山陽丸、讃岐丸の水偵隊は2日からガ島増援部隊の上空掩護、対戦警戒などにあたり、4日以降は進出直後の神川丸の二式水戦などでB17爆撃機の迎撃なども行った。[55]
- 1942年 9月 2日 サンタ・イサベル島レカタに水上機基地設置のため向かっていた第三十五号哨戒艇がB17の爆撃を受け沈没、6日改めて第三十六号哨戒艇によりレカタ湾に水上機基地を設置、帰途B17の爆撃を受けたが無事ショートランドに帰着した。[56]
- 1942年 9月 6日-7日 ポートモレスビー方面の航空兵力の増強に伴い、第五、第六空襲部隊の主力を持ってポートモレスビー攻撃を実施するが、連合軍機は事前に空襲を察知して避退しており、有効な損害を与えることができなかった。[57]
- 1942年 9月 9日-12日 川口支隊の飛行場攻撃(12日)に合わせ10日から実施予定の航空作戦は8日の連合軍のタイボ岬の上陸によって一日繰り上げて実施され、第五、第六空襲部隊が4日間でガ島方面の艦船を1回、飛行場を1回、敵陣地を2回攻撃した。[58]
- 1942年 9月12日 鹿屋空の陸攻隊9機ラバウルに到着。[59]
**この頃の南東方面部隊の編制[60]
第一空襲部隊(二十一航戦基幹) 鹿屋空、高雄空陸攻派遣隊
第四空襲部隊(二十四航戦基幹) 一空、千歳空(ラバウル派遣隊欠)、十四空(ラバウル派遣隊欠
)
第五空襲部隊(二十五航戦基幹) 台南空、千歳空派遣隊、三空派遣隊、二空、六空(ガ島進出まで)、東港空、横浜空、十四空派遣隊
第六空襲部隊(二十六航戦基幹) 木更津空、三澤空、四空、鹿屋空派遣隊、六空(ガ島進出後)[61]
- 1942年 9月13日 レカタを発進したR方面部隊の水戦2機がガ島に黎明偵察を実施、「ガ島滑走路南方端に焚火を認む」(この焚火は川口支隊が飛行場を制圧した際の合図として現地陸海軍間で予め打ち合わせていたものだった)「敵戦闘機三上空に在りし他飛行場内に敵機を見ず、付近戦火を見ず」などと報告、またその日の午前には田中陸軍航空参謀を乗せた陸偵(百式)2機、零戦9機がガ島飛行場を偵察、川口支隊が飛行場を制圧していればそのまま着陸する予定だったが、零戦隊はF4F戦闘機と空戦になりこれにより零戦4機を失い、陸偵はそれぞれ「敵は飛行場を使用せず」「敵機40機着陸不能帰途につく」などとこれも相反する報告を行った。また、ラバウルを発進した零戦12機、陸攻26機はタイボ岬の敵陣地を攻撃、敵戦闘機と激しい空戦を交えたが、この時既にタイボ岬に上陸した米軍は撤収した後だった。[62]また、午後になってショートランドを発進した水偵(神川丸所属)2機がガ島を偵察、「飛行場は敵使用中、飛行場北端にて熾烈なる地上砲火を受く、陸戦状況不明」などと報じた。[63]
- 1942年 9月14日 朝、レカタを発進しガ島偵察に向かった水戦3機が全機未帰還となった。[64]また、ラバウルからこの日も陸偵1機、零戦7機がガ島上空まで進出したが、F4F戦闘機と空戦になり、陸偵は未帰還となった。[65]またR方面部隊は航空部隊全力でガ島への薄暮攻撃を実施、制空隊として水戦2機、攻撃隊として零観19機が60キロ爆弾2発を装備して出撃、日没の8分後に飛行場に突入、F4F戦闘機数機と空戦しつつ爆撃を敢行、3か所を炎上させた。[66]
- 1942年 9月14日-16日 三日間に渡り、インディスペンサブル礁に進出した伊百二十二潜を中継基地として、ショートランド、レカタを発進したR方面部隊の水偵でガ島南方海面の索敵を実施、15日には聖川丸水偵一番機がサンクリストバル島南東方で空母1隻を含む機動部隊を発見、二番機がSBD2機と交戦しこれを撃退、また16日には一番機がサンクリストバル島南東方で多数の重油その他浮遊物を発見、二番機はレンネル島南東方にて輸送船9隻を含む輸送船団を発見した。[67]
- 1942年 9月17日 三空派遣隊零戦21機ラバウルへ到着、第五空襲部隊へ編入された。翌日には一時第六空襲部隊に復帰していた六空を再び第五空襲部隊に編入し、第六空襲部隊には陸攻のみを集中して効率化を図った。また、これに先立つ14日、第一空襲部隊の陸攻9機が第一空襲部隊指揮官とともにカビエンに進出した。[68]
- 1942年 9月23日 高雄空派遣隊の陸攻20機がラバウルに進出、予定してあった四空、横浜空の内地帰還、千歳空、鹿屋空のラバウル派遣隊の原隊復帰を下令、高雄空派遣陸攻隊を第一空襲部隊から除き第六空襲部隊へ編入した。[69]
- 1942年 9月27日 十一航艦は9月中旬以降、天候不良で航空作戦を実施できずにいたが、 この日零戦38機、陸攻17機でガ島飛行場を爆撃、F4F戦闘機などと空戦、3箇所に大火災を起し、航空機の地上撃破も多数に上った。この結果、零戦1機自爆、陸攻2機自爆、2機が不時着、その他陸攻は全機が被弾損傷の被害を受けた。翌日も攻撃を実施、零戦40機、陸攻25機でガ島を飛行場及びルンガ河付近の敵陣地を爆撃し、前日同様激しい対空砲火の中敵戦闘機と空戦した。その結果陸攻4機(指揮官機含む)自爆、1機未帰還、2機不時着、その他ほぼ全機が被弾損傷した。[70]三十一空の艦爆9機がラバウルに到着していた。[71]
- 1942年 9月28日 二空零戦(二号)21機がブカに進出。[72]
- 1942年 9月29日 第五、第六空襲部隊、前日の検討結果に基づき、零戦27機、陸攻9機がガ島に向かい、陸攻は敵戦闘機の要撃準備をさせた後反転、零戦はそのまま進攻、敵戦闘機と空戦に入った。[73]
- 1942年10月 1日-9日 第五、第六空襲部隊、再開された鼠輸送に合わせて2日より航空撃滅戦を継続[74]、またR方面部隊は1日よりガ島増援部隊の上空警戒をブカ基地の六空零戦(二号)隊と共同で実施。[75]、10日にはR方面部隊の稼働機がなくなったためブカ基地の零戦隊が日没まで上空直営を実施、最終直の零戦は燃料切れで海上着水、乗員は駆逐艦に収容された。[76]
- 1942年10月 8日 十一航艦司令長官塚原中将、体調不良のため草鹿中将と交代。[77]
- 1942年10月11日 日進、千歳によるガ島輸送作戦に合わせ、第五、第六空襲部隊の戦爆連合によるガ島攻撃が実施された。第一次攻撃隊零戦17機がまず突入し敵機に空戦を強要、その後陸攻45機が敵機着陸時に爆撃するという二段構えの作戦だったが、上空の敵機も少なく、爆撃も密雲のため一部が実施(効果不明)したのみだった。[78]
** 1942年10月11日 サボ島沖海戦
- 1942年10月12日 十一航艦はサボ島沖海戦によりガ島付近の敵艦隊の存在を察知したため、捜索攻撃を実施、零戦21機、陸攻41機(うち雷装27機、爆装14機)が出撃するが、天候不良の為引き返した。[79]また、聖川丸によって十四空水戦9機がショートランドに進出。[80]
- 1942年10月13日 第五、第六空襲部隊、第三戦隊の進出に合わせてガ島飛行場を2度に渡り奇襲攻撃。[81]
** 1942年10月13日 第三戦隊のガ島飛行場射撃
** 1942年10月14日 夜の味方高速船団ガ島突入に合わせてこの日の午前、第五、第六空襲部隊が零戦18機、陸攻26機をもってガ島飛行場を爆撃、さらに第一、第空襲部隊の零戦15機、陸攻〇〇機が第二次攻撃隊としてガ島飛行場を爆撃。また、R方面部隊、及びブカ、ブインの零戦隊が船団の上空警戒にあたった。 [82]
- 1942年10月15日 天候不良などもあり完成が遅れていたブイン基地が使用可能となり、零戦25機、艦爆11機が進出。[83] また、この日も揚陸中の船団に対し、R方面部隊からのべ水戦16機、零観16機、第六空襲部隊からのべ零戦(二号)42機、二航戦からも零戦のべ36機、計110機が上空警戒にあたったが、3隻の輸送船を失った。[84]
- 1942年10月17日-23日 下旬の第二師団の総攻撃に合わせて、ガ島制空権確保の為1週間に渡り、第五、第六空襲部隊零戦によるガ島上空制圧、陸攻による爆撃が実施された。また21日夜には陸攻2機が夜間爆撃をした。[85]
- 1942年10月24日 基地航空部隊は前日までの作戦で疲労困憊していたのと、昨日までの攻撃で敵航空兵力は概ね制圧できたものと判断し、哨戒活動以外は待機とし、攻撃は実施しなかった。[86]
- 1942年10月25日 陸軍からの要望により零戦18機、陸攻00機はガ島敵陣地爆撃、また朝からのべ零戦28機がガ島飛行場の制圧任務につき、F4F戦闘機などと空戦を行った。[87]
** 1942年10月25日 連合艦隊司令長官は陸攻の南東方面集中を要望、十一航艦司令長官は第一空襲部隊(二十一航戦基幹)の陸攻1個分隊(9機)の速やかなラバウル進出を、第二空襲部隊(二十二航戦基幹)には準備ができ次第美幌空、二五二空のラバウル進出を、第四空襲部隊(二十四航戦基幹)の千歳空陸攻隊には準備ができ次第カビエンへの進出を、命じた。[88] ** 1942年10月26日 南太平洋海戦
- 1942年10月26日 この日ラバウルの基地航空部隊は木更津空の陸攻2機によるガ島の敵陣地に対する夜間爆撃を実施したのみだった。[89]
- 1942年10月30日 R方面部隊の零水偵2機によるガ島飛行場夜間爆撃を実施。[90]
** 1942年11月 1日 戦時編成の一部が改訂され、外戦部隊航空隊の名称が数字番号に改められ、それに伴い兵力部署の改訂も行われた。[91]
当時ラバウル周辺に展開していた部隊の部署及び名称は以下に変更
第五空襲部隊
台南空→二五一空、四空→七〇二空、横浜空→八〇一空
第六空襲部隊
二空艦爆隊→五八二空艦爆隊、六空→二〇四空、千歳空→七〇三空、三沢空→七〇五空、木更津空→七〇七空、三十五空→九五六空(三十一空と交代で進出)、飛鷹派遣隊(10月20日母艦の後退に伴いラバウルに進出)
また、9日には第二段兵力部署を下令、第五空襲部隊は10日午前零時をもって当方面の作戦を第一空襲部隊と交代し、12日内地へ帰還した。
第一空襲部隊
二五二空(新編成)、鹿屋空戦闘機隊→二五三空、、鹿屋空陸攻隊→七五一空、二空戦闘機隊→五八二空戦闘機隊
また10月31日現在の基地航空部隊の保有機数は一号零戦27機、二号零戦24機、艦爆10機、陸攻64機、この他飛鷹派遣隊の零戦16機、艦爆17機、などだった。
- 1942年11月 4日-8日 十一航艦、レカタの飛行場適地調査を実行するが同地は湿地帯のため見込みが立たず、6日にはブインの設営隊の報告に基づきバラレ基地の設営を下令、さらに8日にはニュージョージア島、イサベル島方面の適地調査を命じた。[92]
- 1942年11月 5日-12日 鼠輸送の再開、ガ島方面の連合軍部隊の動きの活発化に対し、基地航空部隊はガ島方面攻撃を実施、11日にはブインから零戦18機、艦爆9機が出撃、ルンガ在伯中の敵輸送船、駆逐艦を攻撃、12日には巡洋艦をはじめとする艦隊のルンガ入泊に対し零戦30機、陸攻(雷装)19機が攻撃、無事に帰投した陸攻は2機のみだった。[93]
** 1942年11月12日-13日 第三次ソロモン海戦
- 1942年11月13日 前夜の夜戦で舵故障のため避退できない比叡を基地航空部隊の零戦16機、陸攻1機が隼鷹飛行隊とともに上空警戒した。[94]
- 1942年11月14日 この日の朝二水戦の駆逐艦11隻に護衛された輸送船11隻は、ガ島へ向かう途中ニュージョージア島東方海域で発見され、夕方までの間八次に渡り空襲を受け、これにより輸送船6隻が沈没した。[95]
- 1942年11月15日 前夜ガ島に突入、擱座し揚陸中の輸送船に対し、基地航空部隊は零戦のべ22機、R方面部隊の零観8機で上空警戒するが、来襲した敵機の攻撃を防ぎきれず、多数の揚陸物資を含む4隻全て火災により失われた。[96]
- 1942年11月16日 この日ブナに来襲したした連合軍の上陸部隊に対し基地航空部隊の零戦17機、艦爆9機、陸攻3機が上陸地点の輸送船を攻撃。[97]。また陸軍機の偵察でブナの南東に大規模な敵飛行場が発見された。[98]。
- 1942年11月17日 二五二空、五八二空、ブナ方面の窮迫に伴いラエに進出、東部ニューギニア方面への輸送部隊支援やブナ周辺の敵飛行場の爆撃などを実施した。[99]この後、連合艦隊の方針の転換もあり、基地航空部隊の航空作戦も東部ニューギニア方面重視となっていく。[100]またこれがガ島放棄へと向かう一因となった。[101]
- 1942年11月18日 陸海軍間の中央協定により、陸軍航空師団のラバウル進出が決定した。[102]
- 1942年11月19日 十一航艦司令長官は、ラバウル所在部隊の陸攻は半兵力ずつテニアンにおいて、零戦隊の技術未熟搭乗員はカビエンにおいて12月15日まで訓練に従事することを命じた、また七〇七空を廃止し同隊は七〇五空へ吸収された。[103]この頃(11月後半)ニューギニア方面重視の作戦状況もあり、ガ島方面に対しては少数機の陸攻による夜間攻撃の他はガ島やムンダへの輸送警戒任務などに終始した。[104]
- 1942年11月22日 零戦、艦爆各12機がブナ方面の敵上陸地点を爆撃、また午後にも同様の攻撃を行った。[105]
** 1942年 12月1日時点の十一航艦所属飛行隊作戦可能機[106]
ラバウル 零戦9機 艦爆15機 陸攻16機
カビエン 零戦17機 陸攻10機
ラエ 零戦7機 艦爆8機
ブイン 零戦8機 陸攻10機
** 同時期の南東方面基地航空部隊の配備状況[107]
第六空襲部隊(二十六航戦基幹) 二五二空、五八二空(艦爆隊一部欠)、七〇一空、七〇五空 ラバウル 二〇四空、五八二空(艦爆隊の一部) ブイン
第一空襲部隊(二十一航戦基幹) 二五三空、七五一空 カビエン
- 1942年12月3日 第二次ドラム缶輸送隊の上空警戒についていた基地航空部隊の零観12機が敵機と空戦、5機が未帰還となった。[108]
- 1942年12月20日-27日 基地航空部隊陸攻のべ48機が連合艦隊命令に基づき、ガ島に対して空中補給を実施した。[109]
- 1942年12月14日 ムンダ基地完成。[110]
- 1942年12月17日-19日 基地航空部隊、ラバウル、カビエンを基地とし、マダン攻略部隊の上空警戒にあたる。[111]
- 1942年12月18日 陸軍飛行第十一戦隊の一式戦(Ⅰ型)60機がラバウルに到着。[112]
- 1942年12月23日 ムンダ基地に二五二空零戦24機が進出。[113]
** 1942年12月24日 第八艦隊、第十一航空艦隊をもって南東方面艦隊が新編された[114]
- 1942年12月24日 バラレ基地完成。[115]
- 1942年12月27日 中断していたブナ方面への攻撃再開、零戦12機、艦爆16機、一式戦31機がブナ周辺陣地を爆撃。[116]
- 1942年12月31日 この日の午後、宮中にて開かれた御前会議によってガ島奪回作戦の中止、部隊の撤収が決定した。[117]
- 1943年 1月 2日 R方面部隊、この日より再開されたドラム缶輸送の上空警戒にあたり、揚陸中の船団に来襲した魚雷艇に銃爆撃を実施、1隻を沈めた。[118]
- 1943年 1月 5日-10日 第十一戦隊、ラエ、サラモア増援部隊を乗せた船団の上空警戒にあたる。[119]
- 1943年 1月 6日 ラエ、サラモア増援作戦(十八号作戦)の支援のため零戦59機、陸攻45機がポートモレスビーに向かうが、天候不良のため進攻できず、攻撃目標を途中からラビへと変えたがこれも天候不良のため引き返した。[120]
- 1943年 1月 7日 この日もポートモレスビー攻撃を企図したが、天候不良で果たせず、この日より急遽船団警戒任務を実施する。[121]
- 1943年 1月 8日-31日 基地航空部隊及びR方面部隊、北部及び中部ソロモン方面への増援部隊を乗せた船団の上空警戒にあたる。[122]
- 1943年 1月 9日 飛行第一戦隊の一式戦(Ⅱ型)33機ラバウルに到着。[123]
- 1943年 1月19日-20日 飛行第一戦隊バラレに進出、ブーゲンビルへ向かう第六師団を乗せた船団の上空警戒にあたる。[124]
- 1943年 1月20日-28日 ケ号作戦 準備のため、陸攻によるガ島夜間爆撃を実施。[125]
- 1943年 1月23日 ケ号作戦準備のため、基地航空部隊はガ島方面の哨戒を強化、この日レンネル島沖に敵艦隊を発見、七〇五空、七〇一空陸攻隊による夜間雷撃を実施したが大部分は目標を発見できず、また一部は雷撃に成功したが命中せず帰投した。[126]
- 1943年 1月24日 R方面部隊はこの日からケ号作戦支援のため鈴谷、川内などから三座水偵の増援を受け、ガ島及びルッセル諸島方面の船団上空警戒にあたった。[127]
- 1943年 1月25日 「ケ」号作戦陸海軍協定に基づき、基地航空部隊の零戦54機、陽動隊の陸攻18機をもってガ島方面の航空撃滅戦を実施。[128]
- 1943年 1月29日 瑞鶴飛行隊(零戦26機、艦爆17機、艦攻21機)「ケ」号作戦支援のためラバウルに進出。[129]またこの日、25日以来見失っていた敵艦隊を発見、七〇五空の陸攻が16機、七〇一空の陸攻が15機夜間雷撃を実施、触接機の適切な吊光弾の投下により雷撃成功、重巡シカゴ大破させた、翌日七五一空の陸攻11機が追撃、これを撃沈した。レンネル島沖海戦[130]
- 1943年 2月 1日-7日 イサベル島沖海戦
- 1943年 2月 1日 この日よりガ島撤収作戦(「ケ」号作戦)開始。サボ島北方の敵艦隊に対し、零戦40機、艦爆13機が攻撃、駆逐艦1隻を撃沈。[131]また、ガ島に向かう撤収部隊は二五二空零戦隊18機などが上空警戒していたが、夕方戦闘機、艦爆などの空襲を受け、巻波が航行不能になった。[132]この日の夜、サボ島付近で上空警戒にあたっていたR方面部隊の零水偵2機は魚雷艇8隻を発見、これを銃爆撃、1隻を沈めた。また撤収部隊は翌朝も帰路空襲にあい、零戦36機が向かったが敵を認めなかった。[133]
- 1943年 2月 2日 撤収後帰路に就いた部隊は早朝再び空襲にあい、零戦36機が向かったが敵を認めなかった。[134]
- 1943年 2月 4日 この日第二次撤収作戦を実施、撤収部隊の上空警戒にあたっていた零戦17機はこの日の午後のべ60機の来襲機と交戦、舞風が至近弾により航行不能となった。また撤収部隊は翌朝も帰路空襲にあい、零戦36機が向かったが敵を認めなかった。[135]
- 1943年 2月 7日 この日第三次撤収作戦を実施、零戦のべ49機が撤収部隊の上空警戒にあたっていたが、敵艦爆の攻撃を受け、磯風に2発命中、舵故障の損害を受けた。[136]
- 1943年 2月15日 ケ号作戦後新たな編力部署が発令、ラバウル周辺の航空部隊は以下のようになった[137]。
- 1943年 2月15日 ケ号作戦後新たな編力部署が発令、ラバウル周辺の航空部隊は以下のようになった[137]。
二十一航戦 二五三空、七五一空 カビエン
二十六航戦 二〇四空、五八二空、七〇一空、七〇五空 ラバウル、ブイン
- 1943年 2月17日 七〇一空の陸攻11機がサンクリストバル島西方の輸送船団を薄暮雷撃、指揮官機を含む4機が自爆[138]。
- 1943年 2月19日-23日 七〇一空、七〇五空によるガ島夜間爆撃[139]。
- 1943年 2月20日-27日 八十一号作戦の事前航空撃滅戦として七〇一空、七五一空の陸攻によるポートモレスビー、ラビへの夜間爆撃を実施[140]
- 1943年 2月23日 マーシャル方面の二十二航戦から派遣されていた二五二空主力、及び八〇二空、八五二空、ケ号作戦終了に伴い原隊復帰[141]。
- 1943年 2月28日-3月5日 八十一号作戦輸送船団の上空警戒、対潜警戒を第一空襲部隊(二五三空、二〇四空空、二五二空派遣隊、瑞鳳派遣隊の各戦闘機隊)が陸軍航空部隊と後退で実施、3日敵の空襲により輸送船7隻、駆逐艦2隻沈没2隻大破(その後沈没)の被害を受けた。4日以降は遭難者の捜索や七五一空陸攻と協力し救命具の投下などをおこなった[142]
** 1943年 3月 5日 ビラ・スタンモーア夜戦
- 1943年 3月 6日 五八二空、二〇四空の零戦35機、五八二空の艦爆8機がルッセル諸島を攻撃、また10日にも同様にブインからルッセル諸島を空襲した[143]。
- 1943年 3月 8日 二〇四空、瑞鳳派遣隊の零戦27機(二〇四空12機、瑞鳳隊16機)、陸攻17機(七〇五空8機、七五一空9機)がオロ湾の敵艦船を攻撃[144]。
- 1943年 3月 8日-29日 5日夜の反省から中部ソロモン方面増援部隊の夜間揚陸中の上空警戒にショートランドより水偵で実施[145]。
- 1943年 3月 9日 ハンサ湾増援輸送支援のため二五三空、二五二空の零戦27機が重爆27機とワウを攻撃、11日にも二五三空、二五二空、瑞鳳隊の零戦40機と重爆24機がドボヅラ飛行場を攻撃[146]。
- 1943年 3月12日-15日 二五二空派遣隊、瑞鳳派遣隊、原隊に復帰、また七〇一空は戦力低下のため解隊、七〇五空は練度向上の為一個中隊をテニアンに派遣[147]。
- 1943年 3月18日-26日 R方面航空隊の水偵、ツラギ及びルッセル諸島方面の敵艦船、飛行場の夜間攻撃を実施[148]。
- 1943年 3月19日 ムンダ、コロンバンガラ方面に連合軍機100機以上来襲[149]。
- 1943年 3月28日 二五三空、二〇四空の零戦39機、五八二空の艦爆18機がオロ湾の敵艦船を攻撃、桟橋付近の敵物資集積所を破壊[150]。
- 1943年 3月30日 この日からショートランドに設置されたレーダーによる探知警報に基づき、上空警戒を実施[151]。
- 1943年 4月 1日 二五三空、二〇四空、五八二空の零戦58機、ソロモン方面航空撃滅戦を実施、ムンダ方面に邀撃に向かうが敵機が避退するためさらにルッセル諸島付近に進出、敵機のべ110機と空戦となる[152]。
- 1943年 4月 5日-4月16日 い号作戦
- 1943年 4月 7日 X攻撃(ガ島方面敵艦船攻撃)実施。基地航空部隊は第一制空隊に二五三空零戦21機、第二制空隊に二〇四空零戦26機、第二攻撃隊に五八二空零戦22機、艦爆17機が参加ブカ、ブインから出撃した[153]。
- 1943年 4月12日 Y攻撃(ポートモレスビー敵飛行場攻撃)実施。基地航空隊部隊は第一攻撃隊に二五三空零戦18機、七五一空陸攻17機、第二攻撃隊に二〇四空零戦24機、五八二空零戦20機、七〇五空陸攻27機がカビエン、ラバウルから出撃した[154]。
- 1943年 4月14日 Y1、Y2攻撃(ミルン湾敵艦船攻撃)実施。基地航空部隊はY1攻撃隊として零戦隊は二五三空が17機、二〇四空が21機、五八二空が18機、陸攻隊は七〇五空が26機、七五一空が11機がカビエン、ラバウルから出撃した[155]。
- 1943年 4月16日 ブナ方面敵機攻撃が予定されていたが天候不良のため中止、この日をもってい号作戦は終了した[156]。
- 1943年 4月15日 二十一航戦が南西艦隊から十一航艦に編入、また一五一空が新編、二十一航戦所属となった[157]。また、水上機隊だった十一航戦が解隊、その飛行隊をもってあらたに九三八空を編制、その他九五八空、第八艦隊所属の青葉、川内の水偵などを加え、十一航艦直属のRX(ソロモン諸島)航空部隊となった[158]。
- 1943年 4月18日 前線視察に向かっていた連合艦隊幕僚を乗せた七〇五空陸攻2機及びその護衛の二〇四空零戦6機が、ブーゲンビル島ムッピナ岬付近で敵機に襲われ陸攻2機が撃墜、乗っていた連合艦隊司令長官が戦死。海軍甲事件[159]。
- 1943年 4月21-4月26日 RX航空部隊、ニューギニア方面の魚雷艇攻撃を実施。また27日、29日にはツラギ方面の敵艦船を攻撃した[160]。
- 1943年 4月25日 零戦32機、陸攻8機でガッカイ島の敵上陸基地を攻撃、26日も零戦42機、艦爆9機で同様の攻撃を行った[161]。
- 1943年 5月10日 二十五航戦(二五一空、七〇二空)ラバウルに再進出[162]。
- 1943年 5月13日-23日 七〇五空陸攻隊がガ島方面の夜間爆撃を実施[163]。
- 1943年 5月13日 二五三空、二〇四空、五八二空の零戦54機がルッセル諸島に進出、連合軍機と空戦となる[164]。
- 1943年 5月14日 二五一空の零戦32機、七五一空の陸攻18機がオロ湾の敵艦船を攻撃[165]。
- 1943年 5月21日 二五一空の二式陸偵が夜間邀撃を開始[166]。
- 1943年 5月23日 七〇二空の索敵攻撃隊の陸攻6機が、サンクリストバル島東方で魚雷艇母艦ナイアガラを撃沈[167]。
- 1943年 6月 7日 零戦81機(二五一空36機、二〇四空24機、五八二空21機)がルッセル諸島方面で航空撃滅戦を実施、また12日にも零戦77機(二五一空32機、二〇四空24機、五八二空21機)が同様な攻撃を行った(第一次、第二次ソ作戦)[168]。
- 1943年 6月13日-21日 七〇五空陸攻がガ島方面、七〇二空空陸攻はニューギニア方面の夜間爆撃を実施[169]。
- 1943年 6月16日 零戦70機(二五一空30機、二〇四空24機、五八二空16機)、艦爆24機(五八二空)がルンガ泊地の敵艦船を攻撃(セ作戦)。またこの日の戦いを大本営はルンガ冲航空戦と呼称した[170]。
- 1943年 6月22日 RX航空部隊、ガッカイ島、ルッセル諸島方面夜間索敵爆撃を開始
- 1943年 6月30日 連合軍レンドバ島及びナッソウ湾上陸ニュージョージアの戦いニューギニアの戦い[171]。
** この頃のラバウル方面所在部隊[172]。
二十五航戦 二五一空、七〇二空、一五一空
二十六航戦 二〇四空、五八二空、七〇五空
RX航空部隊 九三八空、九五八空
これらの部隊はこの日全力でレンドバ島方面の敵に対して三次に渡り攻撃を実施するが、零戦14機、陸攻隊は19機が未帰還となる損害を受けた[173]。
- 1943年 7月 1日 前日の陸攻の被害に鑑み、二十六航戦の零戦34機、艦爆6機がレンドバ港の船団を攻撃[174]。
** 1943年 7月 2日 レンドバ島の上陸地点に陸海軍共同攻撃を行う。海軍側は零戦32機で[175]、陸軍側は一式戦及び三式戦23機、重爆18機で攻撃した引用エラー: 無効な <ref>
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- 1943年 7月 3日 零戦48機をもってレンドバ上空で航空撃滅戦を実施[177]。
** 1943年 7月 4日 この日もレンドバ港に陸海軍共同攻撃を実施、海軍側は零戦49機で[178]、陸軍側は戦闘機17機重爆17機で攻撃[179]。
- 1943年 7月 5日 零戦47機、艦爆7機をもってライス湾方面航空撃滅戦及びレンドバ港敵艦船爆撃を実施[180]。
** 1943年 7月 5日 クラ湾夜戦
- 1943年 7月 7日 零戦43機、陸攻6機でムンダ対岸のルビアナ島敵陣地を昼間爆撃[181]。
- 1943年 7月 8日 零戦39機、艦爆12機でライス湾敵陣地を爆撃[182]。
- 1943年 7月 9日 零戦46機でレンドバ上空航空撃滅戦を実施。また七五二空派遣隊(陸攻)がラバウルに進出[183]。
- 1943年 7月11日 零戦47機、陸攻9機でニュージョージア島エノガイの敵陣地を爆撃[184]。
** 1943年 7月12日 コロンバンガラ島沖海戦
- 1943年 7月13日 前夜の海戦の損傷敵艦の攻撃に向かった零戦32機、艦爆6機は敵艦隊上空に達しながら発見できず引き返す[185]。
- 1943年 7月15日 零戦47機、陸攻9機でルビアナ島敵陣地を昼間爆撃[186]。また二〇一空主力がラバウルに進出、同日付で二十四航戦から二十一航戦に編入された[187]。さらに隼鷹飛行隊もラバウルに進出、先に進出していた龍鳳飛行隊とともに第二機動空襲部隊(二航戦基幹)を編制[188]。
- 1943年 7月17日 陸攻隊15機が数次に分かれてガ島飛行場夜間爆撃を実施[189]。
** 1943年 7月17日 南東方面艦隊司令長官は新たな兵力部署を発令
第二機動空襲部隊(第二航空戦隊基幹) 隼鷹艦爆艦攻隊、龍鳳艦爆艦攻隊、五八二空
第五空襲部隊(二十五航戦基幹) 七〇二空、七〇五空、七五二空派遣隊
第六空襲部隊(二十六航戦基幹) 二〇一空、二〇四空、二五一空、隼鷹零戦隊、龍鳳零戦隊
また二五三空派遣隊、七五一空派遣隊は20日原隊復帰した。[190]。
- 1943年 7月21日 零戦58機、艦爆7機でレンドバ港を昼間強襲[191]。
- 1943年 7月25日 零戦57機、レンドバ島上空で航空撃滅戦を実施[192]。
- 1943年 8月 1日 零戦38機、艦爆6機をもってレンドバ港方面の艦船を攻撃[193]。
- 1943年 8月 3日 第二機動空襲部隊と第六空襲部隊をもって第一連合空襲部隊を編制[194]。
- 1943年 8月 4日 零戦31機をもってムンダ上空で航空撃滅戦を実施、10日、13日にも同様の戦力で航空撃滅戦を実施[195]。
- 1943年 8月 7日 零戦48機、艦爆12機でレンドバ港方面の敵艦船を攻撃[196]。
- 1943年 8月15日 零戦48機、艦爆6機(第一次)及び零戦48機、艦爆11機(第二次)をもってベララベラ島の敵上陸船団を攻撃、さらに陸攻16機が二次に分かれガッカイ島沖の敵輸送船団を攻撃[197]。
- 1943年 8月18日 零戦48機、艦爆10機(第一次)及び零戦41機、艦爆6機(第二次)をもってベララベラ島の敵艦船攻撃を実施[198]。
- 1943年 8月21日 零戦46機、艦爆12機(第一次)及び零戦48機、艦爆13機(第二次)をもってビロアの敵上陸船団を攻撃[199]。
- 1943年 8月24日 零戦48機、艦爆12機をもってベララベラ島揚陸地点を爆撃[200]。
- 1943年 8月25日-31日 零戦、艦爆をもってビロアの敵艦船及び敵陣地を爆撃[201]。
** 1943年 9月 1日 第十一航空艦隊の新たな兵力部署が発令され、南東方面艦隊の航空部隊は以下のようになった[202]。
二十一航戦は解隊され、一五一空は十一航艦直属に、二〇一空は二十六航戦に、二五三空と七五一空は二十五航戦に編入された。また内地から進出した五〇一空は二十六航戦に、七〇五空は二十六航戦から二十五航戦へ編入され、二五一空は夜間戦闘機専門の部隊となった。またラバウルに進出していた二航戦はそのまま二〇四空、五八二空に吸収され、二航戦司令官は二十六航戦司令官に補職された。
9月1日現在のラバウル周辺の部隊
二十五航戦 二五一空、二五三空、七〇二空、七〇五空(この後テニアンに後退)、七五一空
二十六航戦 二〇一空、二〇四空、五〇一空、五八二空
十一航艦附属 一五一空
第八艦隊 九三八空、九五八空
- 1943年 9月 4日-7日 二〇一空、二〇四空、二五三の零戦、五八二空の艦爆、七〇二空、七五一空の陸攻をもってラエ方面に向かう敵艦船、及び輸送船団を攻撃[203]。
- 1943年 9月15日-10月3日 セ号作戦支援のため基地航空部隊、RX航空部隊はムンダ、ビロアなどの敵陣地攻撃及び航空撃滅戦に従事し、陸攻隊と水偵隊はコロンバンガラ島、ベララベラ島の部隊に夜間物資投下を実施した[204]。
- 1943年 9月22日 零戦53機、陸攻(雷装)8機がフィンシュハーフェン冲を南下中の敵輸送船団を攻撃[205]。
- 1943年 9月24日 零戦32機、陸攻9機でフィンシュハーフェンの敵揚陸地点を攻撃[206]。また、中旬までに整備されたブイン第二(トリポイル)基地に二〇四空進出[207]。
- 1943年 9月26日 この月完成したラバウル第三(トベラ)基地に二五三空が進出[208]。
- 1943年 9月28日-10月5日 ベララベラ島に孤立した鶴屋部隊に水偵により、糧食、弾薬、医薬品などを夜間空中投下[209]。
- 1943年10月 6日 ベララベラ島撤収作戦支援のため、水偵のべ9機によりベララベラ島敵陣地を爆撃、また戦闘機隊は上空警戒を実施[210]。
- 1943年10月15日 零戦40機、艦爆15機がオロ湾の敵艦船を攻撃[211]。
- 1943年10月18日 五〇一空の彗星艦爆隊14機がラバウルに進出、その後11月4日さらに8機が進出[212]。
- 1943年10月27日 零戦40機、艦爆8機(九九艦爆6、彗星2)がモノ島方面の敵艦船を攻撃、また、九三八空の水偵のべ14機がモノ島の敵揚陸地点と魚雷艇を夜間爆撃[213]。
- 1943年10月28日 ろ号作戦発令。また、ブインに展開していた二〇一空ブカに後退[214]。
- 1943年10月31日 この日の朝、一五一空陸偵がガッカイ島南方冲に敵輸送船団を発見[215]
- 1943年11月 1日 零戦44機、艦爆9機(内1機彗星)がタロキナ沖の敵上陸船団を攻撃、さらに零戦42機、艦爆7機(内彗星1機)が第二攻撃を実施[216]。
- 1943年11月 1日 ブーゲンビル島沖海戦
- 1943年11月 5日-11日 第一次~三次ブーゲンビル島冲航空戦。第一基地航空部隊は一航戦飛行隊と共同で敵機動部隊及びタロキナ沖敵艦船群への攻撃を実施した[217]。
- 1943年11月12日 ろ号作戦終結、翌日一航戦飛行隊はトラックへ帰還した[218]。
- 1943年11月13日 七〇二空の陸攻(雷装)7機は二五一空の夜戦1機とともにムッピナ岬沖の敵艦船群を夜間雷撃した(第四次ブーゲンビル島沖航空戦)[219]。
- 1943年11月14日-17日 二十二航戦所属の二八一空の零戦16機、五三一空の天山12機がラバウル、カビエンに進出、また五五二空(艦爆25機)は二十六航戦に編入された[220]。
- 1943年11月15日 陸攻3機でブナ飛行場を爆撃[221]。
- 1943年11月16日 一五一空陸偵、タロキナに連合軍飛行場を発見[222]。
- 1943年11月17日 陸攻9機(七〇二空3機、七五二空6機)、五八二空の艦攻7機がムッピナ岬沖の敵艦船軍を夜間雷撃[223]。さらに黎明時、零戦56機、艦爆11機(内彗星位3機)がこの艦船群を攻撃(第五次ブーゲンビル冲航空戦)[224]。
- 1943年11月22日 二十六航戦の零戦46機によるタロキナ方面航空撃滅戦を実施[225]。
- 1943年11月25日 この日連合軍タロキナ輸送第六梯団(LST)がタロキナに入泊したが、基地航空部隊はこれを発見できなかった[226]。
- 1943年12月 3日 連合軍のタロキナ輸送第九梯団に対し、二十五航戦の陸攻(雷装)6機、月光(爆装)1機、二十六航戦の艦爆17機と艦攻11機が攻撃した(第六次ブーゲンビル島沖航空戦)[227]。
- 1943年12月 5日 五五二空トラックへ帰還[228]。
- 1943年12月 8日 瑞鶴艦攻隊16機がトラックよりカビエンに進出[229]。
- 1943年12月15日 連合軍、ニューブリテン島マーカス岬に上陸、これに対し二〇一空、二〇四空の零戦55機、五八二空の艦爆9機が攻撃、[230]。
- 1943年12月16日 二〇四空、二〇一空の零戦54機(内爆装16機)がマーカス岬沖の敵舟艇を銃爆撃、夜には五八二空の艦攻4機、瑞鶴艦攻8機が陸攻4機とともに敵舟艇及び敵陣地を爆撃[231]。
- 1943年12月17日 二〇一空、二〇四空の零戦55機、五八二空の艦爆12機がマーカス岬沖の敵輸送船団を攻撃[232]。またこの日、九三八空がブカ基地を撤退[233]。
- 1943年12月18日 瑞鶴零戦隊18機がラバウルに進出、また五五二空の艦爆が再進出[234]。
- 1943年12月21日 零戦63機、艦爆32機(五五二空20機、五八二空12機)はマーカス岬沖の敵輸送船団を攻撃、午後、さらに零戦64機、艦爆18機が同船団を攻撃した[235]。また21日から25日にかけて七五一空の陸攻、五八二空、瑞鶴隊の艦攻が同地域の夜間爆撃を実施[236]。
- 1943年12月25日-1月3日 連合軍の機動部隊、三次にわたってカビエンを空襲[237]。
- 1943年12月26日 連合軍、ニューブリテン島ツルブ(グロセスター岬)に上陸。零戦56機、艦爆27機がマーカス岬沖の敵艦船を攻撃、その後零戦55機、艦爆25機でツルブの敵艦船を攻撃[238]。
- 1943年12月27日 戊号輸送(ニューアイルランド、及びアドミラルティ諸島増援作戦)支援のため二航戦の飛鷹、龍鳳零戦隊36機、カビエンに進出[239]。
- 1943年12月31日 零戦21機、艦爆9機がマーカス岬沖の敵輸送船団を攻撃[240]。またこの日の夜、マーカス飛行場に陸攻4機が物資を投下、翌年1月3日と7日にはツルブの守備隊に対しても同様の物資投下を行った。[241]。
- 1944年 1月 4日 二〇一空、戦力消耗のためトラックへ後退[242]。
- 1944年 1月 5日 二航戦零戦隊、トラックへ帰還[243]。
- 1944年 1月25日 二航戦飛行隊ラバウルに進出、瑞鶴飛行隊、二十六航戦(二〇四空及び五〇一空の一部)はトラックへ後退[244]。
- 1944年 1月26日 五五二空原隊復帰のためラバウルより後退[245]。
- 1944年 2月上旬~中旬 九三八空の水偵のべ56機がブーゲンビル島方面の哨戒、魚雷艇攻撃、味方舟艇の護衛を実施[246]。
- 1944年 2月 1日-19日 五〇一空の彗星艦爆のべ54機がブナ、ツルブ、フィンシュハーフェン、マーカス岬方面の艦船及び陸上施設を索敵攻撃した[247]。
- 1944年 2月 5日-13日 七五一空の陸攻のべ25機、二航戦艦攻隊(呂部隊)の艦攻のべ10機ダンピール海峡を通過する敵輸送船団及びツルブ、フィンシュハーフェンの敵拠点を夜間攻撃した[248]。
- 1944年 2月12日 二航戦の艦爆2機ブイン第2(トリポイル)基地へ進出、翌未明モノ島を奇襲攻撃、15日にも同様に艦爆2機がモノ島を爆撃[249]。
- 1944年 2月17日 トラック基地、米機動部隊の空襲を受ける[250]。
- 1944年 2月19日 この日からラバウルの航空部隊は順次トラックへ移動を開始する[251]。
- 1944年 2月28日 ラバウル所在の可動機は20日一時ゼロとなったが、この日までに零戦16機、夜戦1機が航空廠によって修復、整備された[252]。
- 1944年 2月29日 この時点でのラバウルに残存した陸上機 被弾し大中破した零戦約20機、夜戦4機、非可動の陸攻3機の計27機[253]。
- 1944年 3月 4日 二十六航戦は十一航艦から新編の十四航艦へ編入、それにともない二〇四空、五八二空は解隊、七五一空は二十六航戦に編入され、二五三空は二十五航戦へ編入[254]。
- 1944年 3月8日-25日 第十七軍の第二次タロキナ攻撃の支援のためトラックから陸攻4機が派遣され、ラバウルからも零戦6機が参加するが17日の夜間爆撃が成功したのみに終わる[255]。
- 1944年 3月10日 ラバウルの航空関係者、搭乗員などを飛行艇によってトラックへ転出(登作戦)[256]。
- 1944年 3月20日 カビエンは敵艦から艦砲射撃を受ける。ラバウルで修復された零戦7機がカビエン南方の敵艦船を攻撃[257]。
- 1944年 5月 5日 二十五航戦は戦時編成から解かれ解隊、一五一空、二五一空、二五三空は二十二航戦所属となり、残留員をもって「第一〇五航空基地隊」が編制された[258]。
- 1944年 5月25日-31日 「あ」号作戦発動にともない。一五一空の偵察機1機がブイン第二(トリポイル)基地を経由し、ツラギ、フィンシュハーフェン、アドミラルティ諸島を偵察[259]。
- 1944年 6月 5日-18日 零戦1~2機によるアドミラルティ諸島在伯の米艦隊を偵察[260]。
- 1944年 9月15日-1月12日 「捷」号作戦発動に合わせ、零戦及び百式司偵でアドミラルティ諸島在伯の米艦隊を偵察[261]。
- 1944年11月 9日 零戦3機(内1機は複座に改造)は各機60キロ爆弾1発を携行、アドミラルティ諸島のハイン飛行場を急襲[262]。
- 1945年 4月28日 零戦2機がアドミラルティ諸島に敵艦隊を発見、同夜艦攻2機をもって泊地を奇襲[263]。
- 1945年 8月15日 天皇の終戦に関する詔勅をかすかに受信、同夜、南東方面司令長官は各部隊長を艦隊司令部に集め、これを伝達[264]。
- 1945年 9月 6日 草鹿南東方面司令長官、今村第八方面軍司令官とともにラバウルにおいて降伏調印[265]。。
出典
[編集]- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p69~p72
- ^ 聖川丸戦闘詳報
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p83
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p82~p83
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p83
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p83~p84
- ^ この結果、下旬に始まるポートモレスビーへの進攻作戦が可能となった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p83
- ^ これは敵機動部隊の位置が450浬以上離れており、九六戦では随伴できなかったことと、零戦はまだ増槽がラバウルには到着していなかったためである。また、航空魚雷も同様にまだラバウルには届いていなかった。攻撃隊の報告には「防御砲火熾烈」とあり米艦艇の対空火力はこの頃から既に脅威であった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p90~p91
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p114
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p114
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p118
- ^ これは開戦以来最大の被害だったが、同時期に実施された蘭印攻略作戦の成果に隠れて一般の関心は低かった。また、この被害が4月に予定していたMO攻略作戦を遅らせる原因となった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p123~p125、p163
- ^ 「ヨーイ、テーッ!―海軍中攻隊、かく戦えり」中攻会編 ISBN-13: 978-4163666907
- ^ 台南空は4月上~下旬にかけ順次ラバウルに展開、四空陸攻隊主力は4月下旬~5月初頭にかけラバウルに再展開。戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p145~p147
- ^ このため二十五航戦司令官は十一航艦及び中央に兵力の増強を要求した。戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p154~p155
- ^ これによって十一航艦は南西方面艦隊所属の部隊を除き、全ての基地航空部隊の一括運用が可能となった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p167~p169
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p206~p207
- ^ 台南空が「ラバウル戦闘機隊」として勇名を謳われたのはこの頃からである。戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p206~p210
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p227~p228
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで, p237
- ^ 報告によれば五月中の零戦、陸攻の消耗は34機、1日時点の使用可能機数は零戦18機、陸攻17機などとなっていた。戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p210~p211
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p228
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p231~p233
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p237
- ^ これはMO攻略船団要撃の為に米機動部隊から分派された部隊であった。攻撃隊は戦艦1、重巡1撃沈などと報じたが実際の被害はなかった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p288~p289
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p255~p257
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p264
- ^ この結果25日零戦15機が補充されたが、それでも第5空襲部隊戦闘機隊の作戦可能兵力は零戦32機に過ぎなかった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p264
- ^ 6月1日時点の第五空襲部隊の使用可能機数は零戦33機、陸攻18機、大艇8機だった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p265
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p412
- ^ なお20日の攻撃は零戦13機、陸攻25機で実施されたが、上空に敵機はなく飛行場の爆撃のみに終わった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p398
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p413
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p413
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p429
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p442~p443
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p427
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p500~p503
- ^ 日本側の被害は陸攻5機、零戦2機、艦爆は洋上不時着3機を含め全て失われた。しかしこの空戦の結果米機動部隊は保有する戦闘機99機の内21機を失い、上陸船団の支援を一時放棄、南方に避退した。これが翌日の第八艦隊による夜襲成功の遠因となった。また、この時出撃した零戦は一号(二一型)であり、二号(三二型)零戦は航続力の問題もあり攻撃隊に加わらなかったが、同日ガ島方面の作戦に呼応してラバウルに来襲したB17爆撃機を迎撃している。 戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p451~p455
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p447~p448
- ^ この結果、陸攻18機、零戦1機が未帰還となった。当時付近に米機動部隊は存在せず、ほとんどが対空砲火による被害だった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p457~p459
- ^ これは前日の攻撃により損傷し後退中の駆逐艦ジャービスであった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p460
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p461~p463
- ^ この結果南海支隊主力は敵機に襲われることなく上陸、船団も無事ラバウルへ帰投した。戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p601
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p549~p550
- ^ これは川口支隊のガ島進出に伴い、同地の飛行場に進出する予定だったが、一木支隊先遣隊の壊滅によって、それは実現しなかった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p530
- ^ これはガ島飛行場の設定を検討していた6月から2度目の要望であった。これに対し十一航艦は、ブカ基地は既に18日には整備が完了していたが、戦闘機18機程度の発着が限度であり、それ以上の拡張には設営隊が不足(当時設営隊はラバウル、ブナ、カビエン、ガ島の整備拡張にあたっていた)であり、またブーゲンビル島は短期間に造成可能な適地は無く、余裕があれば詳細な調査を実施すると返答している。戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p524~p526
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p603
- ^ これに対して十一航艦は飛行場の整地の問題、夜間発着能力の不足や現地の天候の特異さをあげ、航空作戦が困難であったと述べている。戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p582~p583
- ^ ラビ地区を含むミルン湾周辺は多雨地帯であり、しかもこの時期は雨季であり、この方面の航空作戦はしばしば天候不良で実施されなかった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪回作戦開始まで,p612~p614
- ^ このように日本海軍は積極的に航空兵力を南東方面に集中しようとしたが、これは一木支隊先遣隊の壊滅、20日の連合軍機のガ島進出による情勢の緊迫によるものだったが、全ての部隊が展開し終えるのは9月20日頃と見られていた。それでもガ島奪回を目指すには十分ではなく、特に二号零戦(三二型)の航続力が問題とされた。その為あえて空戦性能に劣る一号零戦(二一型)の集中を図っていたことも問題を複雑にさせていた。戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p36~p37
- ^ 11日間の間攻撃が実施できたのは天候不良のため4日間に終わった。また5日の攻撃は第五空襲部隊の零戦15機、第六空襲部隊の陸攻26機がガ島上空に向かうが密雲のため、飛行場を照準できず予定を変更してルンガ川東方の敵陣地を爆撃した。敵戦闘機との交戦により陸攻1機が未帰還となった。 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p41~p43
- ^ ブカには当時整備員すら配属されておらず、本来同基地には六空が進出する予定であり、それが遅れていたため先にラバウルへ到着していた六空整備員を急遽ブカへ派遣し一航戦飛行隊の整備にあたった。その後十一航艦の指揮下で作戦を実施、翌月4日母艦に収容され艦隊に復帰したが、帰還した零戦は15機に過ぎなかった。この間機動部隊はブーゲンビル島北東方面で行動、ガ島方面に米空母の存在も確認していたが、ガ島奪回を優先する連合艦隊の方針により、ブカに艦載機を派遣するに止まった。 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p36、p61
- ^ この頃のブナ基地への来襲機数は一日のべ50~60機に達していた。結局ラビ攻略作戦は失敗に終わり、9月5日をもって陸戦隊は撤収することとなった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p44
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p8
- ^ 水上機隊の任務の中には対岸に位置するブイン地区の写真偵察も含まれ、これは先の連合艦隊司令長官からの飛行場整備に関する要望に十一航艦が応えたものだった。 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p46~p51
- ^ このレカタ基地はショートランドからガ島方面へ作戦する水偵、飛行艇の中継基地として1943年9月のセ号作戦により撤退するまで1年あまりの間重要拠点として機能し続けた。 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p49~p50
- ^ なお6日の進出機は零戦30機、陸攻27機、7日の進出機は零戦26機、陸攻27機だった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p43
- ^ 十一航艦は9日、六空を第五空襲部隊に編入し、10日には四空を第六空襲部隊に編入した。これは戦闘機隊は第五空襲部隊に、陸攻隊を第六空襲部隊に集めることで、損耗の激しい航空部隊を少しでも集中運用しようという意図があった。また、同作戦中のガ島におけるF4F戦闘機の行動は活発で、陸攻隊の損害が大きかった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p93~p95
- ^ その他前日には六空の一号零戦12機が到着、この結果南東方面部隊の14日現在の使用可能機は零戦(一号、二号)40機、艦爆5機、陸攻25機、陸偵3機、飛行艇10機だった。 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p78
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p81~p82
- ^ (注)六空の配備が変動的なのは、ガ島奪回作戦協力のため一時第五空襲部隊に編入し、その後ガ島奪回時には第六空襲部隊が同地に進出する予定だったからである。また、第一空襲部隊はテニアンに待機、第四空襲部隊はソロモン、ギルバート方面の哨戒索敵に任じられていた。
- ^ 朝の水戦の報告に十一航艦司令部も判断に苦心したが、焚火の報告などを希望的に解釈し川口支隊の攻撃は成功したものと一時は判断し「飛行場占領せること概確実」などと各部に通知したが、その後の陸偵の帰還報告により午後になり「『ガ』島飛行場は未だ占領し非ず」と訂正通知した。戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p96~p98
- ^ これは午前中に十一航艦より発信された報告に疑問を持った連合艦隊司令長官より、R方面部隊へ詳細な偵察を命じた結果によるものだったが、結局この日ガ島の陸戦状況はつかめなかった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p109
- ^ 当日の通信状況からガ島飛行場上空で敵戦闘機と空戦の結果未帰還となった模様。戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p110
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p99
- ^ この攻撃で自爆2機未帰還1機の損害を受けた。戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p109~p110
- ^ 16日に報告された海面の重油その他は前日伊一九潜の雷撃により致命傷を負い、味方駆逐艦に処分された空母ワスプのものだった。この作戦は敵制空権下の珊瑚礁で潜水艦を補給基地として水偵を発進させるという大胆な作戦だったが、SBDとの空戦で被弾した1機を焼却処分した他は潜水艦、水偵隊の損失はなかった。このインディペンサブル礁を利用した索敵はこの後も実施された。 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p110~p112
- ^ 第一空襲部隊のカビエン進出は二十五航戦(台南空、四空、横浜空)の消耗が激しく、第一空襲部隊の進出と交代で順次内地に帰還させ、再建するためだった。しかしこれは川口支隊の攻撃失敗によって11月にずれ込むことになった。 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p101
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p146~p147
- ^ この後、ラバウルの基地航空部隊では被害対策の研究会が開かれた。その中で被害の直接原因は戦闘機隊の連携不足や、戦闘機隊が陸攻隊から離れてしまったこと(指揮官機のエンジン不調による)や当初から戦闘機隊(二十五航戦)が陸攻隊の掩護に対して消極的であったこと、また、間接理由としては、そもそも敵戦闘機の多数存在する状況で戦爆連合で攻撃を実施すべきではなくまず戦闘機による航空撃滅戦を実施すべきだった、などとし、戦闘機隊前進基地整備まで陸攻隊は夜間攻撃が適策であるという意見が出た。二十五航戦も同様に戦爆連合方式を批判し、戦闘機による航空撃滅と陸攻による夜間攻撃を主張した。戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p149~p151
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p147
- ^ これは8日より飛行場造成が開始されていたブイン地区及び、ガ島方面増援艦船の在伯するショートランドが下旬に入り敵の来襲が増え、R方面隊の十一航戦が訴えた戦闘機隊のブカ派遣の要請に十一航艦が応えたものであった。 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p156~p157
- ^ その結果1機未帰還、1機不時着の被害を受けた。戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p151
- ^ しかし、天候不良などもあり実施されたのは2日と3日の2回のみだった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p173~p175
- ^ しかし、ブカ基地からガ島までは遠く、零戦隊の護衛はしばしば実施されなかった。その為R方面部隊の水上機隊は連日上空警戒に出動、10日には稼働機無しとなる。ガ島増援部隊の3水戦司令は同日R方面部隊の奮戦に対し感謝電を送っている。 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p176~p177
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p190
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p175~p176
- ^ 現地でこの空戦を見ていた三井少佐によれば、敵機は空襲を察知すると零戦隊突入30分前より哨戒機を残し全機空中避退をしていた模様。戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p189~p190
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p200~p201
- ^ その他零観4機が補充された。これによって再び増援部隊の上空警戒が可能となった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p217
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p212
- ^ この日の午後、午前中の飛行場爆撃にも関わらず船団に対し戦闘機、艦爆が来襲し、当時上空警戒中だった零観7機がこれを迎撃した。 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p218~p219
- ^ 六空及び三十一空の戦闘行動調書によれば、六空零戦隊は14日、三十一空艦爆隊は16日からブインで作戦を開始している。 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p154
- ^ 護衛にあたった四水戦司令官は所見として「敵機は味方上空直衛機の行動を終始観測し、その間隙に乗じ来襲するものの如く」などと述べている。 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p220~p222
- ^ この結果ガ島連合軍機の行動は激減し、ガ島飛行場も発着に支障を来すほど損害を受けた。戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p241~p243、251~p252
- ^ なお24日時点での第五空襲部隊の使用可能機数は零戦50機、艦爆17機、陸偵1機、大艇5機だった。 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p264
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p264~p265
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p265
- ^ この結果について連合艦隊参謀長は連合艦隊命令の発令が遅れたためと日誌に記しているが、当日発見された機動部隊へは触接ができず、またそれとは別に発見された艦隊はラバウルから650浬離れていた。戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p312~p313
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p340
- ^ これはこれまで、南東方面の航空部隊は戦力の集中のために他方面の航空隊や空母航空隊から応急的に集中されたものが多く、また、各部隊の消耗も激しく、ガ島方面の攻勢も振り出しに戻ったため、この際部隊の整理を図り、戦力の消耗した他方面からの派遣隊は原隊へ復帰させ、内地帰還の遅れていた第五空襲部隊をカビエンに進出していた第一空襲部隊と交代させ、各航空隊の戦力の回復を狙ったものだった。 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p332~p333
- ^ 元来十一航艦は飛行場の設営に積極的でなく、これは川口支隊、第二師団のガ島奪回に期待をかけていたからだった。しかしそれも失敗に終わり、31日には連合艦隊参謀長が機会あるごとに適地調査を実施するように通知したこともあり、ようやく真剣に基地設定に動き始めた。戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p333~p335
- ^ この他6日~9日までは天候不良のため攻撃は実施されず、その背景には発進基地がラバウル及びブカ、ブインに限られる不利もあった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p335~p336
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p373
- ^ 基地航空部隊は零戦をのべ36機、R方面部隊は零観のべ14機をもって上空警戒にあたったが、被害を阻止することはできなかった。船団はその後健在な輸送船4隻をもってガ島に向かった。 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p379~p380
- ^ 増援部隊の指揮官からは上空直衛機の不在を思わせるような発言すら出るほど両日にわたる上空直衛は不首尾に終わったが、基地航空部隊再編制中のため直衛機の不足(一直につき3機~9機程度)も去ることながら、二号零戦の航続距離を勘案すれば、継続した上空直衛には空母乃至は近接した飛行場の存在が不可欠だった(当日はブインから発進した)。 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p397~p398
- ^ これは海上トラック3隻、鹵獲した大発1隻よりなる部隊で、うち1隻が沈没した。 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p413~p414
- ^ この飛行場が稼働すれば、ラバウルも連合軍小型機の行動範囲に入ることを意味していた。戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p415
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p422
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p418~p421
- ^ 戦史叢書 大本営海軍部・連合艦隊<3> 昭和18年2月まで,p418、p480~p482
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p403~p405
- ^ 七〇七空の廃止は補充不可能なほど消耗してしまったからである。この時点で現地搭乗員の技量低下はすでに深刻であった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p422~p423
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p422
- ^ これ以降12月に入るまで連日のように、ラバウル及びラエからブナ方面へ航空作戦を実施したが、機材、搭乗員の不足に加え、12月中旬以降は戦闘機隊のムンダ進出やマダン、ウェワク攻略支援のためブナへの陸戦協力は困難となった。 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p468~p469
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p423
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p458
- ^ 零観隊の奮戦により、被害は巻波が至近弾によって小破したのみでドラム缶投入は無事に成功した。 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p440
- ^ 陸攻による空中輸送は3日からすでに行われており、これは鼠輸送再開後の駆逐艦の消耗による輸送手段の転換によるものだった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p443~p445、p450
- ^ これは前月25日上陸した設営隊の、連日の爆撃下の昼夜作業のたまものだったが、設営隊を先行させたため同地の対空防御は極めて貧弱だった。 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p452~p453
- ^ この間連日のようにB17、B24爆撃機の空襲を受けた。爆撃機単独の来襲だったため撃退には成功したが、戦闘機隊の技量低下もあり撃墜は困難だった。 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p476~p477
- ^ これは海軍からの再三に渡る要請から紆余曲折をへての進出だったが、十一戦隊を含む第六飛行師団は翌年にかけて順次ラバウル、マダン、ウェワク等に展開、以降東部ニューギニア方面陸上部隊の支援に従事する。戦史叢書 東部ニューギニア方面陸軍航空作戦,p68
- ^ しかし進出直後から連合軍機の激しい空襲にあい、29日にはラバウルに引き上げてしまった。 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p455~p456
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p456~p457
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p518
- ^ これは初の陸海軍共同の戦爆連合による作戦で、十一戦隊は主に制空を担当し作戦自体は成功したが、ブナは28日をもって撤退支持が下り同方面の航空作戦はこれが最後となった。 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p470
- ^ 戦史叢書 大本営海軍部・連合艦隊<3> 昭和18年2月まで ,p498~p499
- ^ 魚雷艇の航跡は夜間でも視認可能で、以後魚雷艇対策に水偵が活用された。 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p511~p512
- ^ 第六飛行師団は直衛機の不足を感じたが、海軍はその余裕はなく、一戦隊がまだ未進出なため十一戦隊だけで実施することを決めた。 戦史叢書 東部ニューギニア方面陸軍航空作戦,p117~p120
- ^ この頃、十一航艦の参謀長は連合艦隊参謀長に対し「今日あらしめたるは航空技量の低下なり。天候不良とか何とか云うも結局これに帰着す」と述べている。「戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p486
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p486~p487
- ^ この輸送作戦はガ島撤収にともない発令されたソロモン諸島確保の大本営命令に基づくものだった。 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p516~p518
- ^ 戦史叢書 東部ニューギニア方面陸軍航空作戦,p68
- ^ この結果空襲による被害は輸送船1隻が大破したのみだったが、敵潜水艦によって3隻が沈没した。 戦史叢書 東部ニューギニア方面陸軍航空作戦,p138~p139
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p549~p551
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p540~p541
- ^ 撤退支援部隊の出入りするガ島やルッセル諸島の泊地へ侵入する敵魚雷艇警戒がR方面部隊の最も重要な任務だった。 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p537~p538
- ^ しかし敵の反撃は少なく、零戦4機、陸攻1機が未帰還となった。 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p550~p551
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p540
- ^ この両日の戦闘で指揮官機を含む10機の陸攻が失われた。 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p542~p549
- ^ 零戦隊の内訳は瑞鶴隊19機。五八二空21機である。この攻撃で零戦3機、艦爆5機を失った。 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p558~p559
- ^ 巻波は文月に曳航されショートランドへ後退した。戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p559~p560
- ^ この戦果により、水偵による夜間の銃爆撃が魚雷艇掃討に効果があることをあらためて実証した。 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p559
- ^ これは零戦隊の到着が遅れたためである。なお、撤収部隊の被害はなかった。 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p560
- ^ その後舞風は長月によりショートランドへ曳航された。 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p564
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで,p567~p568
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p14
- ^ 部隊は輸送船1隻、駆逐艦2隻撃沈などと報告したが、輸送船団に実際の被害はなかった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p24
- ^ この頃はケ号作戦後の兵力再編成時期でもあり、積極的な作戦を実施するまでの兵力がなかった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p23~p24
- ^ しかし天候不良もあり実際にポートモレスビーに爆撃を実施できたのは21日の七五一空4機のみだった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p50~p51
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p9~p10
- ^ 3日の空襲当時、船団上空には二五三空、二〇四空の零戦26機が、その後瑞鳳隊も空戦に参加したが、同時異高度、異方向爆撃に対処できなかった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p55~p63
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p80
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p82
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p77~p78
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p73
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p79~p81
- ^ これは七〇一空の解隊、七〇五空の再編成によって陸攻による夜間攻撃実施困難の為の苦肉の策だった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p80~p81
- ^ この頃南東方面の日本軍基地は連日爆撃され、ムンダ、コロンバンガラ方面の月間来襲機数は1000機を超えた。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p83
- ^ 米軍も「最近における最も破壊的な攻撃」と報告している。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p82~p83
- ^ しかし敵を補足するまでには至らなかった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p84
- ^ この結果9機が自爆、未帰還となり2機が大破、不時着の損害を受けた。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p110
- ^ 二五三空は自爆1、未帰還1、二〇四空は自爆1、五八二空は零戦1、艦爆2未帰還、艦爆2自爆の損害を受けた。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p111~p117
- ^ この結果七五一空陸攻が自爆5機、未帰還1機、不時着1機、七〇五空陸攻2機が不時着、戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p120~p122
- ^ この結果、七五一空陸攻1機不時着、七〇五空陸攻3機未帰還、1機不時着大破の損害を受けた。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p122~p124
- ^ なおこの作戦における日本軍の損害は零戦18機、艦爆16機、陸攻9機、連合軍の損害は駆逐艦1隻、油槽船1隻、コルベット艦1隻、輸送船2隻が沈没、航空機25機喪失だった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p124~p127
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p138
- ^ 十一航戦の解隊の際、第八艦隊司令官、第十一航空艦隊司令長官は前年8月以来の敢闘を称えるとともに今後の活躍を期待する訓示を行っている。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p136~p137
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p127~p129
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p137
- ^ これはすでに連合軍が中部ソロモンに攻略の足掛かりを構築し始めたことを意味していた。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p138
- ^ この進出は本来二十四航戦の進出と共に前線の二十一航戦、二十六航戦と交代する予定のもので、前線部隊の休養再編成を狙ったものだったが、北方情勢の急迫により二十四航戦は北方に進出、二十一航戦のみがマリアナに後退した。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p144~p145
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p153~p154
- ^ この結果、未帰還行方不明4機の損害を出したが、5月に実施された航空撃滅戦はこの一度のみに終わった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p150~p151
- ^ この結果陸攻は隊長機を含む6機を失った。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p151~p152
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p154~p157
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p153
- ^ これは「セ」作戦実施にあたっての事前準備作戦であり一連の行動は六〇三作戦と呼ばれる。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p178~p182
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p187
- ^ この結果零戦14機、艦爆13機が未帰還となった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p182~p185
- ^ ガ島撤収まで,p206
- ^ この内二十五、二十六航戦は六〇三作戦の損耗からの回復中で、機材の補充と未熟搭乗員の訓練に従事していた。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p210~p211
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p223~p224
- ^ この攻撃で零戦5機が未帰還、艦爆2機自爆、1機が未帰還となった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p224
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p224~p225
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p188,p217,p225
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p225
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p220
- ^ この後、ニューギニア方面の戦況悪化、重爆の損耗により第六飛行師団はニューギニア方面へ転進、陸海軍共同攻撃はこの2回で終了した
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p226
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p242
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p242
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p242
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p242
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p243
- ^ この結果零戦5機、陸攻6機を失い七五一空派遣隊は准士官以上が全滅、陸攻による昼間爆撃は中止された。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p243
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p243
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p242
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p244
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p244
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p251
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p254
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p258~p259
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p258
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p259
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p259
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p266
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p266
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p266
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p266
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p266
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p310~p313
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p344~p345
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p302~p303
- ^ この結果陸攻は自爆4、未帰還2、不時着大破1、など全滅に近い被害を受けた。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p350~p351
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p351~p352
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p365
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p365
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p305
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p308~p310
- ^ この結果、艦爆は指揮官機を含む自爆未帰還が14機、零戦は8機を失い、五八二空の艦爆はほぼ全滅状態となった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p320,p353
- ^ しかし彗星は稼働率が悪く一日6機以上が出撃することはなかった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p320
- ^ この結果、艦爆3機、零戦1機が未帰還となった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p377~p378
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p372,p378
- ^ この日、夕方から夜にかけラバウルから陸攻が、ブカから艦攻が、ショートランドから水偵が攻撃に向かったが、五八二空の艦攻1機を除きいずれも発見に失敗した。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p379~p380
- ^ 乗員の半数以上が日に二度の攻撃を実施、この結果零戦15機、艦爆5機が未帰還となったが、敵上陸船団に有効な損害を与えられなかった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p382~p383
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p404~p419
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p420~p421
- ^ この結果陸攻1機が未帰還となったが巡洋艦デンバーに魚雷が命中、夜戦の牽制攻撃や電探欺瞞行動が有効であると報告された。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p422~p423
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p422
- ^ 11月中のニューギニア方面の攻撃は戦力に余裕がなく、ほとんど実施されなかった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p440
- ^ 同飛行場の連合軍機の進出は翌月10日からである。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p434~p435
- ^ この結果陸攻4機が未帰還となった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p424~p425
- ^ この結果零戦6機、艦爆4機(彗星3機9が未帰還となった。なお連合軍輸送駆逐艦マッキャンが雷撃により沈没している。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p425~p426
- ^ この結果4機が未帰還となった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p428
- ^ これは北部ソロモン方面の制空権を完全に失ったことを意味していた。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p428
- ^ この結果陸攻2、艦攻6、艦爆2が未帰還となった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p433~p434
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p445
- ^ 13日にはさらに3機が進出した。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p445
- ^ この結果零戦2機、艦爆2機を失った。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p444~p446
- ^ その結果零戦4機、艦攻1機(瑞鶴隊指揮官機)が未帰還となった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p447
- ^ この結果零戦1機、艦爆3機が未帰還となった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p446
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p435
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p446
- ^ この結果零戦2機、艦爆11機が未帰還となったが、豪公刊戦史によれば敵輸送船団に大きな損害を与えた模様。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p449
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p450
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p463~p466
- ^ 結果、午前と午後で別々の目標を攻撃したが、これは朝の出撃後出されたツルブへの攻撃変更命令が十分に伝わらなかったことによる。またこの日の攻撃で零戦4機、艦爆17機が未帰還となった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p453~p454
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p464
- ^ その結果艦爆7機を失った。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p455
- ^ これは現地陸軍部隊の要請に基づくものだった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p456
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p473
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p473
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p448,p475~p476
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p476
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p479
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p478~p479
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p478
- ^ 実質的な戦果はともかく、現地で孤立する守備隊の士気高揚の効果はあり、第八艦隊司令長官は謝電を発している。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p479
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p481
- ^ これはトラック方面の防備強化のための連合艦隊命令だったが、結局ラバウルに航空部隊が戻ってくることはなかった。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p482
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p484
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p482
- ^ この結果形式的には5月まで二十五航戦は存続した。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p483~p484
- ^ また九三八空の水上機もブインに進出し作戦協力した。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p503
- ^ 同作戦はこの後5月まで実施され、搭乗員の大部分はラバウルから転進した。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p484
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p492
- ^ この部隊が終戦までラバウルの航空作戦を実施した。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p484~p485
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p501~p502
- ^ また5月から6月にかけて水偵のべ5機がラバウル周辺の魚雷艇攻撃を実施している。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p501~p502
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p503
- ^ この翌日、大本営から祝電が発せられた。戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p503
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p505~p506
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p513
- ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収以後,p513