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利用者:Canorusman/sandbox


福岡俘虜収容所第18分所


福岡捕虜収容所(旧字体:福岡俘虜収容所)、英語:POW、(Prisoner of War Camp Fukuoka) 第18分所(POW Fukuoka18 – Soto Dam)。

太平洋戦争中、長崎県には4つの捕虜収容所があった[注釈 1]。福岡俘虜収容所第18分所はそのひとつである。福岡俘虜収容所 第18分所は、長崎県北松浦郡柚木町(現 佐世保市柚木町)にあった[1][2]。真珠湾攻撃のすぐ後、日本が占領したウェーク島で捕虜となった一般労働者が連れてこられ、相当ダムの建設に従事させられた。相当ダムの完成とともに、収容所は閉鎖され捕虜は他の収容所へ移動させられ、そこで終戦を迎え、母国へ帰っていった。

正式には、「俘虜」の用語が用いられるが、一般的な「捕虜」で表記する。

経過

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太平洋戦争中、日本国内にはたくさんの捕虜収容所があった[3]。そのうち、長崎県には4つの捕虜収容所があった[注釈 1]。ただし、その開設年月日、開設期間、収容人数などはそれぞれ異なる。福岡俘虜収容所 第18分所は、長崎県北松浦郡柚木町(現 佐世保市柚木町)にあった[1]長崎県では佐世保市に最も近い収容所だった。1889年に佐世保市佐世保鎮守府が置かれ、人口増加が著しかった。捕虜の仕事は、飲料水および工業用、艦船への水の供給確保のためのダム(水源地)建設が主たるものだった。捕虜太平洋戦争開戦直後、日本が占領したウェーク島から連れてこられたアメリカの一般労働者だった。

ウェーク島の戦いにおいて、佐世保鎮守府所属の駆逐艦 疾風(はやて)がウェーク島からの砲撃で沈没、駆逐艦 如月(きさらぎ)が敵飛行機から爆弾を受け爆沈した。潜水艦同士の衝突事故も発生し、佐世保鎮守府所属の潜水艦 「呂六十六潜」が沈没した。ウェーク島上陸に際してもアメリカ軍の反撃に遭い多数の戦死者を出して、占領した。そして、そこにいた軍人および民間人を捕虜とした。当初は島内で基地の整備等に使役していたが、食糧、水、医療等の諸問題により日本国内への移送を計った。日本からの兵隊、弾薬、食糧輸送のため入港した貨物船を利用して数回に分けて移送を行った。最終的には98人を残した[4]。移送された捕虜は中国や日本国内などの捕虜収容所へ分散された[5]。その中で、ウェーク島でアメリカ軍の基地造成、港の浚渫工事などに携わっていた民間労働者が佐世保の相当ダム建設のため使役された。

戦後、アメリカに帰国した捕虜は、兵隊でなかったため、兵隊と同じ待遇をアメリカ政府から受けることができなかった。そのためロビー活動等を行い後年兵隊と同じ程度の国家補償を得るようになった。


佐世保における水資源

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佐世保市は 鎮守府(佐世保鎮守府)の開設(1889年(明治22年)7月1日に正式に佐世保鎮守府が開庁した。)に伴い急速に人口増加となった。そのため船舶用の水、住民用の水の確保が重要な課題となった。その多くが川をせき止め水源池とすることによって確保された。そのダム建設工事の多くは海軍によって行われた。海軍によるダム建設の最後となる柚木地区における水源地計画が作成され施工が実施された。

捕虜の証言

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タマス =

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最年長の人。

Owen G. Thomas 1872年7月18日生まれ。1943年4月30日死去。


パトリック・アキ =

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Patrick K. Aki(1924年2月20日-2022年8月7日)

ハワイ出身。

先祖に日本からハワイへの移住者あり。最年少。享年98歳。

ローガン・ケイ と フレッド・J・スティーブンス =

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ジョージ・ウェラーの本に「第五部 ウェーク島の二人のロビンソン・クルーソー」(P140~P162)としてふたりのことが掲載されている。

1941年12月8日から翌年1942年3月9日までのふたりの日記である。

3月10日に日本軍に投降した。ふたりは1942年9月、佐世保へ移送されダム建設に従事した。

その後、ダムの完成により、福岡捕虜収容所第23分所へ移籍。そこで終戦を迎え、「シカゴ・デイリー・ニュース」のジョージ・ウェラー記者と出会う。

クロード・ハウズ =

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ジョージ・ディロン =

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彼は、相当ダム建設中に亡くなった53名の中には入っていない。しかし、福岡捕虜収容所第1分所の死亡者リストの中に名前がある。相当ダム建設中に問題を起こし(喧嘩により相手を傷つけてしまった。)、刑に服しているときに獄死した。彼を加えれば、54名となる。

相当ダムの慰霊碑

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相当ダム敷地内に、慰霊碑「佐世保市上水道殉職者の碑」が建てられている。ダム建設期間中に亡くなった日本名(韓国から徴用で連れてこられ、日本語氏名にされた人だったかもしれない[6]。)とともに53名の氏名が記名されている。毎年、5月に日米合同の慰霊祭が行われている。(慰霊碑は、ダム敷地内にあるため、慰霊碑見学などに際しては佐世保市水道課の許可が必要である。)


日本人職員

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捕虜の労働

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収容所の生活

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終戦、解放

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福岡俘虜収容所第18分所から他の収容所に移籍していた捕虜たちは、終戦後、列車に乗って長崎市へ移動し、大波止に停泊していた病院船や空母などに乗船し祖国へ帰っていった。一部は、鹿児島へ列車で移動し、アメリカ軍の基地へ行って飛行機で帰国した人もいた。

戦犯

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福岡俘虜収容所第18分所では二人が絞首刑、一人が終身刑であった。

戦後/元捕虜の再訪

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施設と捕虜の活動

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閉鎖とその後

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相当ダムの完成に伴い、閉鎖された。

戦後、アメリカ軍が調査のために訪れ、数枚の写真を残している。

また、戦争中亡くなった捕虜の遺骨は戦後日本へ進駐してきたアメリカ軍によって母国等へ返還された。

佐世保市に駐留しているアメリカ海軍による慰霊祭が毎年5月に行われている。

遺構

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捕虜収容所に関連する施設等は撤去されていて、その場所は戦後、農用地整備、区画整理等が行われ農用地として利用されている。

相当ダムおよび「佐世保市上水道殉職者の碑」の慰霊碑だけが遺構となっている。

周辺

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脚注

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注釈

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  1. ^ a b 福岡俘虜収容所 24分所(北松浦郡江迎町)、第18分所(北松浦郡柚木町)、第14分所(長崎市幸町)、第2分所(西彼杵郡香焼村)

出典

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  1. ^ a b 福岡第18分所”. POW研究会. 2023年3月29日閲覧。
  2. ^ 捕虜収容所・民間人抑留所事典 2023, p. 594-598.
  3. ^ 「日本国内の捕虜収容所」 福林 徹”. POW研究会. 2023年3月18日閲覧。
  4. ^ 年  月、まもなくアメリカ軍が上陸してくるものと判断して捕虜98人を銃殺した。ひとりだけ傷つきながらも逃げ出して島内に潜伏したが数日後に食料倉庫の食料盗難から島内の捜査が行われ、捉えられて斬首された。島内に慰霊の岩が残されている。
  5. ^ 写真週報に記事がある
  6. ^ 創氏改名(そうしかいめい) 日本が朝鮮を統治していた1939年(昭和14)に、朝鮮人の姓名を日本式の氏名に変えさせたこと。 朝鮮総督府によって定められた、朝鮮における民事法の扱いについての制令(総督府による命令)である「朝鮮民事令」を改正して行われた。

参考文献

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  • 防衛庁防衛研究所 戦史室 (1970年10月10日). “戦史叢書 中部太平洋 方面海軍作戦 <1> -昭和十七年五月まで-”. http://www.nids.mod.go.jp/. 戦史史料・戦史叢書検索. 朝雲新聞社. 2023年4月18日閲覧。
  • POW研究会事典編集委員会 編『捕虜収容所・民間人抑留所事典 日本国内編』内海愛子・小宮まゆみ・佐久間美羊・笹本妙子・高田ミネ・福永徳善、すいれん舎、2023年12月20日。ISBN 978-4-86369-741-6 

関連項目

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外部リンク

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  1945年9月 日本が降伏調印したあとウェーク島でエリオット・エリソフォンが撮影したアメリカ捕虜の慰霊碑