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利用者:Bow/加筆用メモ帳3

将棋の手合割--角落ちは、林葉直子(かとりまさる名義)いわく「ボクサーに左手を使わせないようなモノ」(かとりまさる原案、安藤慈朗漫画『しおんの王』第1巻、講談社 ISBN 4-06-314360-0)--蛇足過ぎますね。でも一応メモ帳だし……


の下書き。


黒石寺蘇民祭

蘇民祭は、岩手県水沢市の天台宗妙見山黒石寺で行われる祭。「東奥の奇祭」として知られ、旧正月7日夜から翌8日の明け方にかけて行われる。裸参り(夏参り、祈願祭とも)、柴燈木登(ひたきのぼ)り、別当登(べっとうのぼ)り、鬼子登(おにごのぼ)り、蘇民袋争奪戦(蘇民ねじり、蘇民びきとも)の5つの行事からなり、五穀豊穣や、厄災消除を願う。現在、国の重要無形民俗文化財に指定されていて、黒石寺蘇民祭保存協会が祭を主催する。

概要

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裸参り

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旧正月7日の午後10時より始まる。祈願者や、厄年の男女が鐘の合図で社務所前に集まる。一人一人、角燈と、割竹にはさんだ浄飯米(おはんねり)を持って、瑠璃壺川(るりつぼがわ、今の山内川)で「蘇民将来」の掛け声とともに、冷水を被り、身を清める。その後、薬師堂、妙見堂を巡る。

柴燈木登り

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11時30分から始まる。カツノキの棒「手木」で地面を払いながら本堂に向かう。本堂前には前日に境内の山中から切り出された生松割木(長さ5尺)を井桁積に3メートル以上の高さに2ヶ所(昔は3ヶ所)積まれており、行列の到着とともに点火する。裸の男たちが火の粉を浴びながら「ジャッソウ、ジョヤサ」と、掛け声を上げ、群集は山内節を歌う。

別当登り

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午前2時に始まる。鐘の合図で、社務所に集まると、手木が祓人(はらいびと)に配られ、

鬼子登り

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午前4時に始まる。男たちが黒石寺本堂の格子に上る。ほら貝と太鼓の音にあわせて、背中に鬼の面をつけた子供(鬼子)を背負った大人たちが登場する。

蘇民袋争奪戦

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蘇民祭のメインイベント。満員電車並みに裸の男たちが密集した所に、蘇民袋が投げ込まれ、頃合いを見て、刃物をくわえた親方が袋を裂き、小間木がまかれる。袋の縛り口を最後に握っていた者が名誉ある「取り主」となる。

歴史

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最も古い文献は713年(和銅6年)もしくは924年(延長2年)の「備後風土記(びんごふうどうき)」にある。

黒石寺蘇民祭の起源は、未だ定説はないが、1773年(安永2年)の「黒石寺書上」(スタブ)

内容:ウィキコード未挿入。歴史の資料がイマイチ。要推敲。


Z項(ぜっとこう)は、1902年(明治35年)に岩手県水沢市の水沢緯度観測所所長だった木村栄が発見した緯度変化を補正するための項(発見者の名前を取って木村項とも呼ばれる)。

水沢緯度観測所の発足と木村栄

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自転している地球は、コマのように首振り運動をしていて、コマ同様ふらつきが生じる。これを緯度変化といい、1880年ごろに発見された。そして、これを世界で協力して観測しようと1899年、国際緯度観測事業が始まり、同じ形の望遠鏡で、同じ星を観測する為に同じ緯度での観測を決めた。これによって選出された緯度が北緯39度8分線上に日本の水沢の他、アメリカのユカイア、シンシナチ、ゲサースバーグ、イタリアのカルロフォルテ、ロシアのチャルジュイの6ヶ所に置かれ、観測を始めた。

各観測所でのデータを中央局(ドイツ)に送り、これを計算。結果を世界に発表という方法を取っていたが、水沢の結果が一番悪いとされ、中央局長から「改善」の警告を受けた。しかし、観測機器の点検をいくらしても、故障が発見できず、他に原因があると考え、突き止めようとした。

そうして、水沢観測所の初代所長の木村栄が、未知の項を発見し、そこから「Z項」と名づけ、計算式に入れて、発表したのだ。この「Z項」を入れて、計算すると、どこの観測所の結果も数段よいものになる事も分かった。これにより、世界の注目を集め、日本の科学水準が欧米諸国と同等、またはそれ以上と、認識を改めさせるきっかけともなった。

Z項の概要

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冬になると北極に約1メートル近づき、夏になると逆に北極から1メートル遠ざかる運動。発見当時は、原因が分からなかったので「Z項」と名づけられた。

当初、5年間であった緯度観測事業は、Z項の発見によって、原因の究明の為、引き続き行われることになった。2度の世界大戦の間も休まず観測を続け、発見から約70年後の1970年(昭和45年)に、木村はそれを知らずして他界したが、またもや水沢で発見された。

当時は、地球の内部は固い(固体)だと思われてきたのだが、実は液体であり、それが、太陽や月の引力に引かれて地表などの個体部分とは違う動きをしていたことが原因だったのだ。

内容:ウィキコード未挿入。取材が必要だろう。他にも書くことはたくさんありそう。

平成19年3月10日付の胆江日日新聞によれば、9日の奥州市市議会一般質問で、新平生誕150周年事業の一環として、水沢区羽田町の羽黒山頂上にある後藤新平銅像の移設計画が提案された。この像は、ボーイスカウト姿の新平と少年が語り合っているもの。現在は、来訪者も少なく、ボーイスカウト姿と言うことで、岩手連盟水沢第3団の子供たちが、新平の誕生日である6月4日前後に清掃を行う程度。新平が鉄道の広軌化を提唱した経緯などから、JR水沢江刺駅前への移設が考えられている。しかし、所有権の所在が明らかになっておらず、市は明確な回答を避けた。1960年(昭和35年)有志の市民が発起人となり、羽黒山を自然公園化する「羽黒山展望園」の構想の中で、水沢三偉人(後藤新平、高野長英、斎藤実)を顕彰する銅像を建てようとしたものだった。しかし、小野寺玉峰が手掛けた新平像だけで、資金難により計画が頓挫。銅像の代金未払いのまま発起人が行方不明になり、地元のボーイスカウト関係者が支払ったという経緯がある。