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利用者:Blue-comet/編集後記

Wikipediaでの編集を振り返って

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2007年末ごろから編集し始めてからもうそろそろ3年になる今日この頃、ここらでWikipediaの編集を振り返ってみたいと思います。

編集技能についてマークアップのやり方もよくわからず、方針もよくわからず、恐ろしく時間をかけて編集していた昔と比べると(まだまだ基本的なレベルは低いですけど)だいぶ上がったかなとは思います。連続投稿のクセはいまだにありますが昔に比べればマシにはなりましたし、細かいだけの編集が多かったのに最近はそうでもないですしね。ただ改めて振り返ってみるとWikipedia:雑草とりに書かれてるような行為は実はあんまりしてこなかったことに気づきました。

自分が作成した新規投稿記事についてはそんなに増えないだろうと思っていたのに3年近くも編集してるからでしょうが、思っていたよりは増えました。ただ、「なんでこの項目が無いのかな? しょうがない自分でやるか…」と思って作った新規投稿記事は誰かがもっと加筆してくれるだろうという甘い考えだったためか、マイナーな項目であったためか、いままで立項されなかった項目であったためか、他のユーザーの方の加筆はあまり無かったですね。しょうがなく自分でちょこちょこと編集し続けていますが、結果として納得のいかない完成度の低い記事が並んでしまいました。ある程度の見積もりを持って記事を作るべきだったと遺憾に思っています。

ウィキペディア日本語版そのものについて言うと、編集を重ねれば重ねるほど、ウィキペディアの限界と言うか、負の側面もそれなりにあるんだな、と感じることが増えました。基本的には素晴らしいプロジェクトだとの思いは今も持っていますが、無責任体制というか、質の担保の維持が難しいというか、全面的な信頼は出来ないというか、ルールが複雑というか、議論がまどろっこしいというか、争いが絶えないというか。悪口連発ですいません。ただ基本的にはウィキペディアはすばらしいプロジェクトだとの思いは今も持っていますけどね。(大事なことなので2度言いましたよ)

ウィキペディア日本語版の現状については自分がよく見るページに限ればだいぶ赤リンクが少なくなってきたと感じるなど量的な面に関してはそれなりに充実してきていると感じるようになりました。と同時にウィキペディアは終わりが無いプロジェクトであるという面にも改めて気づかされました。やってもやってもキリがない面があるんだな、と。また、閲覧だけしていたときはほとんど見なかった英語版は質、量ともにすばらしくて日本語版とは差があるんだな、ということにも気づきました。あと、日本語版は編集者に偏りがあるということも感じています。

編集者としてフリー百科事典の執筆者にはあまり向いてないかな?とも思いはじめています。あえて「急がず」、「無理せず」、「執着せず」に編集するようにしてきましたが、基本方針とガイドラインの遵守は大前提ではあるけれども、ガンガン議論して、ガンガン編集して、というタイプの方のほうがフリー百科事典の執筆者に向いてるのかな、と。私も編集し始めてから一年経った時、議論に参加するようにしようと思ってそれなりにはしてきましたが、振り返ってみるとガンガンというほどのことはしませんでしたしね。あと、質の担保の維持が難しいと考えている割には「質、真理の追求」を自らはあまりしてこなかった、しようとしてこなかったという面があったな、と。出典をつけるようにはしてましたけど。

そもそもなぜウィキペディアの編集に参加しようかと思ったかと言うと、マークアップの勉強も兼ねて、読みにくいと思った文章を直したい、赤リンクとなっている記事を作りたい、色々知識を与えてくれたウィキペディア、お世話になったウィキペディアに恩返しが出来たらいいなということでした。未整備のルール制定の議論にもう少し貢献したかったという思いはあるものの、それなりに恩返しは出来たかなとは思います。完璧に恩返しが出来たとは思いませんが、なんと言ってもウィキペディアでの編集はキリがないですからね。

キリの無いウィキペディアの編集から足を洗って違う何かを見つけたい。違うステージに進みたいと思ったり思わなかったり、やっぱりウィキペディアの編集を続けようかなと思ったり思わなかったり。そんな今日この頃です。

— --Blue-comet 2010年10月5日 (火) 12:14 (UTC)

特筆性について

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違うステージに進みたいと思ったり思わなかったりしてから1年以上経ち、ダラダラとウィキペディア編集をつづけてきましたが、今日はWikipediaのWikipedia:特筆性についてちょこっと語ってみたいと思います。

利用者登録した当初は特筆性概念に関してはあんまり意識していませんでしたが、何時頃からか良く覚えておりませんがいろいろと考えるようになりました。特に、普段は政治経済関連の編集ばかりで、ほとんど編集もしない、あまり得意分野でもない、音楽記事の削除依頼に関わるようになっていきました。おそらくきっかけは「あるバンド」の削除依頼からでしょうか。

バンドやアイドルグループの記事の中に百科事典としてレベルが低い記事が多数あることは認識していましたが、特に問題は無いと思っていました。しかし、ある炭酸飲料を調べていたらウィキペディアでほぼ同名のバンド記事がヒットし、とりあえず見てみたら残念な内容だったことがありました。それが「あるバンド」でした。その後、改めて様々なバンド記事を調べなおしてみると、たいした活躍もなく(中には書かれていないだけで、活躍したバンドもありますが)解散していたり、二次資料の裏づけのない自己宣伝的な内容(個人的にはウィキペディアで色々書いたところであまり宣伝にはならないとおもっていますが)ばかりの記事が多数あることを再認識しました。また、それ以上に私が問題視したのは有名な単語を少しだけ変えたバンド名とか、日本語の単語を外国語に翻訳して名づけたバンド名とかのバンド記事が大量にあることでした。ウィキペディアのミラーサイトが多数ある中で、「言葉としては有名」だけれども記事が実は残念な内容のバンド記事がネット上にばらまかれてしまう、削除依頼しないと何年もほったらかしになる可能性がある、ウィキペディアの質の観点からも問題がある等、これらの記事は積極的に削除したほうがいいかな、と思うようになりました。Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかを確認しなおすと「ウィキペディアは情報を無差別に収集する場ではありません」、「ウィキペディアは名鑑ではありません」、「ウィキペディアは演説台ではありません」などの項目がありますし、Wikipedia:特筆性 (音楽)もガイドライン化されていますしね。

削除依頼に積極的に参加するようになると、「削除を軽々しく行ってはいけません」とされる割には下調べがあまりなされていなかったり、参加者が少なかったり、あまり議論されずにあっさりと削除される(泥沼化することもありますが)ことがあるんだな、と気づきました。記事を作成する側の労力は結構大変なのに比べて消す側はもうすこし努力すべきだ、と思うことが結構ありました。あと、注目されるバンドのメンバー記事は全くマイナーなタレントや歌手に比べて基準が厳しすぎる時があるな、と。世間一般のブログを見ると削除することに批判的な意見も多い中、そこまで無理に削除したり、リダイレクトにしたりする必要はないのでは?と思うこともあります。

ただ、客観的に見ると日本語版の記事数が80万に届こうとしている中、削除しなければならない「百科事典に記載するほどの著名性・特筆性がない記事」はそれほど多くないとは思っているものの、一定数あるのも事実なので、複数の観点から見て確実に必要の無い記事はやはり削除していくべきだとは思っています。無理せず時間の許す限りですけどね。

本当は音楽記事よりも、あまたある特筆性のない企業記事のほうを削除したほうがいいのでは?と思っています。古今東西に渡って、企業は数限りなくありましたからね。そのためにはWikipedia:特筆性Wikipedia:特筆性 (組織)のガイドライン化は必要だと思っていますが、手を付けようとすると大変かな、面倒だから、やめようかな、そもそも論としてウィキペディアの編集をやめようかなと思ったり思わなかったり。そんな今日この頃です。 — --Blue-comet 2012年1月19日 (木) 10:09 (UTC)