利用者:Bay Flam/抱影汚染
功罪
[編集]功績
[編集]抱影の功績は、なんといっても星座・星名の啓蒙を通して天文を広く普及したことにある。特に、星の和名を収集した功績は大きい。
星座に関して
[編集]明治以降、日本の教育界も西洋化し、科学の普及に努めていた。それにより、天文学者によって一般向けの天文学の解説書が書かれることがあっても、それが星座にまで及ぶことはなかった。時代が大正になり、抱影の処女作となる『星座巡禮』は初めての専門的な知識を有する者によって著された星座解説書となった。それまでの星座解説は、数理天文学は専門であっても、星座についてまとまった知識を持たなかった天文学者によって書かれており、同署の跋文においては両者の違いが指摘されていた。その後も、抱影は星座をテーマとした随筆を多数発表し、様々な考察も試みている。それらの読者の中に、よく言われるような「星座を入り口として天文に興味を持つ」者が多数現れた。その中にはプロの天文学者もおり、石田五郎は自ら抱影の弟子として「二世天文屋」を名乗ったほどである。そうした天文(というより星座)随筆は戦前から戦中にかけて書かれたが、戦後になっても再編集され幾度となく発刊されている。例えば:
- 『星座の伝説』
- 『星座春秋』
- 『星まんだら』
- 『日本の星』
- 『星座は巡る』
また、星や星座にまつわる神話・伝説も多く語っており、こちらの書籍の中には現在もなお版を範を重ねているものがある。
星の和名に関して
[編集]かつて、「日本人は星に興味を持たなかった。それは日が暮れると夜が明けるまで寝ていたためである」という都市伝説が広く流布していた(ややこしいことに、さらにこの言説には日本研究家チェンバレンに帰する suburban myth とする都市伝説が付加されたが、それについては同項を参照)。これに猛然として反旗を翻したのが国語学者の新村出である。新村は「日本人の眼に映じたる星」という講演を行い、日本の古典籍を漁って日本人が決して星に無関心ではなかったことを紹介してみせた(「日本人の眼に映じたる星」は後に言語学会 編『言語学雑誌』第1巻第7号(1900年8月)寳永館書店、さらに著書『南蛮更紗』(1923年)改造社に収録された)。抱影はこれに賛同して全国各地から、それぞれの土地土地に伝わる星の和名を多数の収集してみせた。
抱影は、今日でいうメディア・ミックスを利用した先駆けでもあった。抱影はもともと中学校の教師であったが、学生時代から副業として出版社で雑誌編集や記事の執筆を行っていた。その雑誌記事の読者を対象とした通信制のサークル「肉眼星の会」の主宰し、それぞれの土地土地に伝わる星の伝説や和名の報告を受け付けていた。さらに、当時始まったばかりのラジオ放送から天文や星座に関する番組の放送を依頼されたのを機に、ラジオを通じても呼び掛けるようになった。このようにして、抱影の手元には全国の天文ファンから続々と報告が寄せられた。それを取りまとめたのが『日本の星』である。同署は戦後になって増補改訂され、さらに随筆から辞書形式の『日本星名辞典』となった。そんなファンの中からは、抱影に感化されて独自に星の和名を調査するようになった石橋正や香田壽男や、文献から星に関する記述を渉猟する草下英明のような「弟子」も現れた。
弊害
[編集]このように多大な功績を誇る抱影であったが、その一方で弊害もあった。抱影が存命当時、彼に匹敵する星座・星名の専門家がおらず実質的な「お山の大将」であった。そのため、抱影に対して批判できる者は山本一清くらいで、他にはほとんどいなかった。抱影批判する弟子は破門されたという(山本一清は天文学者だったがオールラウンダーで、山本の主著である星座解説書『星座の親しみ』は抱影の『星座巡礼』同様、何度も版を重ねた)。また、抱影があまりに星座に精通していたため、天文関係者は誰も星座について調査・研究・検証をせず抱影の記述を引用するようになった。そうなると、抱影の著書には彼の個人的な所感に過ぎないものや誤りも少なからず含まれていたのにもかかわらず、それが「ブラウン運動にまつわる誤解」のように、あたかも「事実」として流布することになり都市伝説化したものもある。この誤謬は抱影の弟子である石田五郎によって指摘された。石田は抱影の記述を鵜呑みにして、まるで「親亀こけたら子亀もこける」様を抱影汚染度と喝破した。
石田が掲げる「抱影汚染」の例
[編集]- コル・カロリの由来譚
- 抱影は『星座神話』において、りょうけん座α星の固有名コル・カロリを1661年の王政復古にちなんで、ハレーがチャールズII世を称えて命名したと説明していたが、石田が計算したところ王政復古の1661年当時ハレーはまだ4歳の幼児でこのようなことはあり得ないことを指摘した。この指摘を受けて抱影は「後になってハレーが……」とアドホックな説明を付け加えた(なお、抱影が依拠したと思われるアレンの『星名とその意味』にはそのような記述はなく「ハレーは1729年に分離した」と説明している)。現在では、この固有名はチャールズII世ではなくイギリス革命で処刑されたチャールズI世を悼んで設定された星座で、のちに単独星名となったものとされている。
- エウエルゲテスが戟を交えたのは?
- 髪座にまつわる伝説で、エジプトのエウエルゲテスが交戦した(戟を交えた)のは「アッシリア」と説明されているが、史実ではアッシリアではなくシリアである。当時、「アッシリア学」などと中東地方を漠然と「アッシリア」と呼んだこともあったため抱影が混同したものと考えられる。
- カルデアの羊飼い
- これは石田ではなく古天文研究家の竹迫忍が指摘したもの。星座は紀元前3000年の「カルデアの羊飼い」によって設定されたとするもの。紀元前3000年頃、すなわち5000年前にバビロニアを支配していたのは「カルデア」ではなく「シュメール」である。これは、抱影が依拠した洋書に "Chardean sherhard" とあったのを誤訳したものと考えられる。"Chardean sherhard" を直訳すれば、確かにだが「カルデアの羊飼い」だがこれでは年代が合わない。この場合の "Chardean" は「数学」(この場合は占星術に必要とされるスキルとして。現代の数学は Chardean とはいわない)"sherhard" は「指導者」を意味するという。
抱影発の都市伝説の例
[編集]特に星の和名に関して、抱影による提案が一人歩きして、があたかも実在した星の和名として今も語り継がれている。実際には伝承者不在で伝承地も存在しないのであるから実際は都市伝説にすぎない。
- 乙女座α星の「真珠星」
- オリオン座α星の「平家星」とβ星「源氏星」
- 双子座α星の「金星」とβ星「銀星」
- 蠍座α星の「麦星」
- 白鳥座の「十文字星」
- 南魚座α星の「南の一つ星」
- 松岡正剛(2001年08月02日)「348夜『日本の星』野尻抱影」『松岡正剛の千夜千冊』(分理篇) https://1000ya.isis.ne.jp/0348.html
- 角山祥道「『南蛮更紗』」(2007年10月26日)「『南蛮更紗』」https://japanknowledge.com/articles/blogtoyo/entry.html?entryid=71(新村出著、米井力也解説)
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