利用者:Bananasannzyou/sandbox
西森暹
[編集]西森暹(にしもりすすむ)は大日本帝国海軍の艦上攻撃機偵察員(パイロットという説も)であり真珠湾攻撃やミッドウェー海戦などの多くの戦いに参加した。
彼は大日本海軍機動部隊第一航空戦隊旗艦「赤城」に乗艦していた。ここに記載する情報は少なく、彼の記録も少ししか残っていない。
航空母艦赤城
[編集]1941年(昭和16年)4月、赤城搭載の艦攻パイロットは鹿児島海軍基地へ移動。そこで訓練用爆弾や訓練用魚雷を使用し、
激しい訓練に励んだ。
真珠湾攻撃
[編集]大日本帝国は1941年12月8日、真珠湾を空襲。西森暹は当時飛曹長であり真珠湾攻撃では第4小隊長として参加。
公式記録には彼は偵察員と書かれているが操縦員という証言もある。西森暹飛曹長らの第4小隊は第2中隊の一部
であり、水平爆撃を行い、カリフォルニア型戦艦(艦名不明)に西森暹飛曹長は800㎏爆弾1発の命中を主張して いる。真珠湾攻撃の有名な赤城からの艦攻発艦シーンは西森暹飛曹長機を撮影している。(AI-316 号機)
西森暹飛曹長機の塗装についてはところどころは銀色が見えていて、尾翼と機首は魚雷進路測定線、主翼の半分は薄い緑でそれ以外は大半が海軍色(中島係)
ほか艦攻と同様に搭乗時の足を置くときに間違えてフラップや燃料タンクを踏んで破損しないように
黒いラインが入っている。カウリングは黒、機体後部に向かって斜めに塗装してあり、機首下、主脚上、主翼下面には16の数字が、尾翼にはAI-316 と書かれており、その下には赤い横ラインが入っていた。(小隊長識別用)また機体の胴には白ふち付きの赤いラインが入っていてそれは赤城所属の印である。カウリング手前、赤城所属の赤いラインの各左側には製造詳細表が書かれていた。
その後の戦闘
[編集]その後はラバウルの戦い、ポートダーウィン空襲、セイロン沖海戦(トリンコマリー空襲)に参加しており、各戦闘での事前索敵も彼を含む偵察機数機が行っている。真珠湾攻撃からポートダーウィン空襲までの間に同乗員が変わっている。またトリンコマリー空襲では同乗員2人を下ろし、西森暹飛曹長機に彼と、もう一人、そして有名な村田重治少佐が搭乗している。各戦闘でも具体的な戦果は不明だがしっかりと活躍した。
ミッドウェー海戦
[編集][詳しくは「ミッドウェー海戦」を閲覧]
1942年6月5日、ミッドウェー海戦で南雲忠一率いる一航戦、二航戦の赤城(旗艦)加賀、蒼龍、飛龍はミッドウェー島を攻撃。赤城、加賀より艦爆、蒼龍、飛龍より艦攻が出撃した。その間一航戦の艦攻は魚雷を抱いて敵艦隊攻撃のために艦内待機していた。西森暹飛曹長はこの時、索敵機として発艦しており、索敵中であった。ほかの索敵機が次々と帰投していき、各母艦に着艦した。西森暹飛曹長機も索敵範囲外ギリギリまで来て、何も見つからなかったので引き返し、艦隊へ戻ると3空母(赤城、加賀、蒼龍)が炎上していた。ほかの索敵機はみな着艦しており、上空にいたのは西森暹飛曹長機、直掩の各空母零戦、蒼龍から発艦した索敵機の艦攻一機と二式艦上偵察機(後の彗星)1機のみで大半が残っていた空母飛龍に着艦した。その後西森暹飛曹長は飛龍第二次攻撃隊に参加、蒼龍の艦攻は発動機不調で出撃できなかったため、艦攻10機で出撃。西森暹飛曹長機は第二中隊第4小隊2番機となった。西森暹飛曹長機は第二中隊の最後に雷撃を試みたが、開戦からずっと水平爆撃しか行っていなかったこともあり、手違いが生じ、魚雷を投下できなかった。その後、帰路で魚雷発射の手順を改めて確認すると魚雷が落下し、海面に衝突。爆発した。その後飛龍に帰艦。戦闘報告を済ませた。そこからは炎上するもまだ海面に浮いている赤城の姿が見えたという。そして飛龍は第三次攻撃の準備をするも航空機は消耗しきっており、第二次攻撃から帰艦した艦攻の中で被弾も少なく、修理後飛行可能なのは西森暹飛曹長機だけであったという。しかし、その後、飛龍は米艦爆からの攻撃を受け行動不能になった。西森暹飛曹長らは救命ボート(カッターかゴムボートかは不明)で脱出。搭乗機も失われた。その後駆逐艦巻雲に乗艦の後、本土に帰還した。その後は資料がなく、どのような障害を歩んだかは不明である。