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利用者:Ayabelinda/sandbox

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リチャード "ディック" ターピン(Richard "Dick" Turpin 1705年9月21日洗礼-1739年4月7日)はイギリスの追い剥ぎ(普通、馬に乗って現れて道行く人を襲う盗賊)。追い剥ぎの罪によりヨークで処刑されたのち、美化されて描かれるようになった。若き日は父親の跡を継ぎ肉屋として働いていたが、1730年代前半、鹿に乗った盗賊の仲間に加わり、密猟、泥棒、追い剥ぎ、殺人をはたらいた。愛馬ブラック・ベスに乗りロンドンからヨークまでの200マイル(320㎞)を一晩で走ったことでも知られているが、これは彼の死後およそ100年経ったヴィクトリア時代に、小説家ウィリアム・ハリソン・エインズワースによって書かれたために有名になった作り話である。 ターピンは主に追い剥ぎとして犯罪に関わり、1735年に仲間たちが逮捕されてからその年の末まで人々の前から姿を消していた。その後、1737年に新たに2人の仲間を引き連れて現れたが、うち一人を彼がおそらく誤って撃ち殺したといわれる。ターピンは現場から逃亡したうえ、その後すぐに自分を捕らえようとした男をも殺害した。そしてその年のうちにヨークシャーに移り、ジョン・パルマーと名を偽った。彼が宿屋に滞在していたとき、地元の治安判事が「パルマー」という名前を不審に思い、職業を尋ねた。そこで「パルマー」は追い剥ぎとしての容疑をかけられ、ヨーク城に収監されたのち巡回裁判にかけられることとなった。ターピンの身元は、彼が独房で義理の兄に書いた手紙が裁判官のもとに渡ったことで明らかになった。1739年3月22日、ターピンは2つの追い剥ぎ容疑で死刑の判決が下され、刑は1739年4月7日に執行された。 ターピンは処刑後に伝説となり、イギリスの民謡や18、19世紀に人気のあった劇場、20世紀の映画やテレビにおいて、颯爽と現れる英雄としてロマンティックに語られた。

Early life (画像) 1705年9月21日、エセックス州ヘムプステッド村、バプティスト教会区の名簿にターピンの名前が記帳されている。

リチャード「ディック」ターピンはエセックス州ヘムプステッド村のブルー・ベル・イン(のちのローズ・アンド・クラウン)で、ジョン・ターピンとメアリー・エリザベス・パーメンターとの間に生まれた6人の子供のうち5番目。両親が10年以上前に結婚した教会区において1705年にバプティストとして洗礼を受けた。 ターピンの父親は肉屋で宿屋の主人。いくつかの記録によれば、ディック・ターピンはこれらの父親の稼業を継いだ。たとえば10代の頃、ホワイトチャペルの村で見習いとして働いていたことや、サクステッドで自身の肉屋を営んでいた記述がみられる。1739年に行われた裁判での証言によれば、彼は初等教育を受けており、日付の記録はないが1725年頃にエリザベス・ミリントンと結婚している。見習いとして働いたのち、彼らはエセックス州バックハーストに移り、そこで自身の宿屋を開業した。

Essex gang ターピンは1730年代初頭にエセックスで鹿に乗った盗賊の一団に加わった。鹿を使った強盗はロイヤル・フォレスト・オブ・ウォルサムに蔓延しており、1723年にはこの問題を解決すべく「ブラック・アクト」が法律化された。この呼称は森にいる間は黒を着たり変装したりして顔を隠すことが禁止されたことから来ている。鹿に乗った強盗は違法行為であり、民事法廷ではなく治安判事のもとで裁かれた。1737年までに課せられた最も重い刑は7年の追放令であった。 しかし1731年、7人の御料林管理官が盗賊の犯罪増加を深刻視し、彼らの憂慮を示す宣誓供述書を作成した。この供述書はニューキャッスルの初代侯爵トマス・ペラム・ホレス宛てに提出され、彼は盗賊の身元を知らせた者に10ポンドの賞金を与え、仲間を告発した盗賊には恩赦を加えることも約束した。しかし監獄の看守とその家族に脅迫状が届いたのちに殺されるなど卑劣な行為が続き、行政は1733年に賞金を50ポンドに増やした。  エセックスギャング団(グレゴリー・ギャングとも呼ばれる)にはサミュエル・グレゴリー、その兄弟のジェレミア、ジャスパー、ジョセフ・ローズ、メアリー・ブレイジアー(ギャング団の盗品売買者)、ジョン・ジョーンズ、ロマス・ラウデンとまだ少年のジョン・ウィーラーが所属しており[10]、彼らは鹿を手に入れる手助けを必要としていた。 その界隈で仕事をしていた若き肉屋ターピンは、確実に彼らと接触があったとされている。1733年までにギャング団の財政が傾くと、ターピンはすぐさま肉屋の仕事をやめ、宿屋を経営するようになったが、これがクレイ・ヒルの「バラと冠」ではないかと言われている。ターピンが窃盗に直接関わったことを示す証拠はないが、彼らに顔を知られていたことからも、1734年の夏までにギャング団と深く関わっていたことが覗える。 1734年10月までにギャング団の何人かが逮捕され、あるいは逃亡し、 残りの団員は密猟をやめ、ウッドフォードのピーター・スプリットという蝋燭や食料雑貨を売る商人の家を襲撃した。 犯人の身元は分かっていないが、ターピンが関わっていた可能性がある。 2日後、再びウッドフォードのリチャード・ウールリッジという紳士の家を襲ったが、彼はロンドン塔の武器庫で小火器を作る家具商であった。12月、ジャスパー、サミュエル・グレゴリー、ジョン・ジョーンズ、ジョン、ウィーラーはチングフォードで行商人ジョン・グラドウィンとジョン・ショックリーの家を襲った。 12月19日 、ターピンとその他5人の男は、300ポンドの財産があるとされていたバーキング出身のアンブロース・スキナーという73歳の農場主の家を襲撃した。  2日後、ターピン以外のギャング団のメンバーはエッピングの森で猟場番人ウィリアム・メイソンの家を襲った。略奪の間にメイソンの使用人は逃げ延びたが、約1時間後に数人の近隣に住む人々とともに戻ってみると家は荒らされ盗賊はとうに姿を消していた。 1735年1月11日、ギャング団はチャールトンのサンダース氏の家を襲撃した。 一週間後にシェルドンという紳士の家を略奪した時、ターピンは仮面を被りピストルを構え、4人の仲間を従えて現れた。同月、同じギャング団に属していた2人の男がダイド牧師の家を襲った。牧師は留守であったが、男たちは下男の顔を「野蛮なやり方で」切りつけた。ほかにも1735年2月1日にラフトンで残酷な襲撃が起こった。[16] 

(画像)エッピングの森はエセックス・ギャング団がよく出没する場所であった。

ギャング団はロンドン市街または近郊に住んでいた。ターピンもミルバンクに引っ越す前、ホワイトチャペルに住んでいたことがある。1735年2月4日、ターピンはロンドンのブロードウェイ市にある宿屋でジョン・フィルダー、サミュエル・グレゴリー、ジョセフ・ローズ、ジョン・ウィーラーに会った。彼らはエッジウェアでアールスベリー農場を営むジョセフ・ローレンスの家を略奪する計画を立てた。その日の午後遅く、道すがら2度、飲食に立ち寄ったのち、羊飼いの少年を捕らえピストルをもって家に押し入った。2人の女中を縛り上げ、70歳の農場主に容赦なく暴力を振るった。彼らは農場主の半ズボンをくるぶしまで引っ張り、家の中を引きずり回したが、ローレンスは財産の隠し場所を告げるのを拒んだ。ターピンはローレンスの尻を露出させるとピストルで殴打してひどい打撲を負わせ、ギャング団のほかの仲間はピストルで頭を殴りつけた。彼らは窯の水をローレンスの頭にぶちまけ、尻を露出させたまま火の上に座らせ、鼻と髪をつかんで家じゅうを引きずり回した。グレゴリーは女中の一人を上階に連れていき暴行した。そこまでしたにもかかわらず、ギャング団は30ポンド以下の儲けしか手に入らずに逃げた。 3日後、ターピンは仲間にウィリアム・サンダースとハンフリー・ウォーカーを加えメリルボンにある農家を襲ったが、その襲撃でも90ポンド以下の利益しか得ることができなかった。翌日、ニューキャッスル公はウッドフォードで起こった2件の強盗と、シェリー未亡人およびダイド神父が被害に遭った強盗に関わる「複数の人物」を捕えるため、手がかりとなる情報を提供した者に50ポンドの賞金を与えると約束した。2月11日、フィルダー、サンダース、ウィーラー逮捕。この逮捕に関しては2つの記録が残っており、一つはギャング団がローレンス家を略奪しに行く道中で酒場に寄ったこと、その主人が2月11日当日にブルームスベリーの酒場の外に馬がまとめて留められているのを見つけたと示している。彼はローレンス家の襲撃の前に同じ男たちの一団が同じ馬を自分の店に留めていたことに気づき、教会区の治安官に知らせた。もう一方の記録には、ギャング団のうちの2人はジョセフ・ローレンスの使用人の尽力で突き止められたと書かれている。 そして3人は1人の女(おそらくメアリー・ブレイジアー)とともに飲んでいるところを素早く逮捕され、投獄された。 当時たった15歳のウィーラーはすぐに仲間を裏切り、まだ逮捕されていない仲間に関する彼の供述が報道された。ロンドン・ガゼット(英国政府官報)には、ターピンは「肉屋リチャード・ターピンは、背は高く溌剌とした男で、天然痘の痕が目立つ。26歳前後、身長5フィート9インチ。かつてホワイトチャペルに住み、最近はウェストミンスターのミルバンク周辺に宿をとっていた。青みがかった灰色のコートを着、鬘は着用していない」と書かれている。

エセックス・ギャングの解体

(画像)ウィリアム・パウエル・フリスによって1860年に描かれた絵画「クロード・デュヴァル」。追い剥ぎによる略奪がロマンティックに描かれている。

ウィーラーの供述が出回ると、ギャング団のほかの団員は縄張りから逃亡した。ターピンはグレゴリーほか仲間たちにウィーラー逮捕を知らせると、自らはウェストミンスターに逃れた。 1735年2月15日、ウィーラーが政府への供述を進めている間、「3,4人の男」(サミュエル・グレゴリー、ハーバート・ヘインズ、ターピン、トマス・ローデンとされる)がチングフォードでセント・ジョン夫人の家を略奪した。その翌日、ターピン(とローデン)はグレゴリー、ヘインズと仲間割れし、家族に会うためヘムプステッドへ向かった。2月17日にグレゴリーとヘインズがデブデンの酒場に立ち寄り、羊の肩肉を注文して1泊したことを考えると、2人はターピンを探しに行ったのではないかとされている。しかし、パルマーという人物が2人を見つけ、教会区の治安官に報告した。騒ぎの末、2人は逃亡に成功。ジョーンズとローデンがウッドフォード[28]に戻る前にグレイヴセンド[ ]に行って留守の間、2人はターピンと再び仲間同士となった。2月下旬にウッドフォードで新たな強盗が報告されており、グレゴリーとその仲間による仕業とされているが、逃亡に使うほとんどの道路は遮断され、当局が目を光らせる中、エセックス・ギャング団の残りのメンバーはエッピング・フォレストでなりを潜めていた。 フィルダー、サンダース、ウィーラーの逮捕から6日後、ターピンと仲間たちがグレイヴセンドから戻ってくる最中に、ローズ、ブレイジアー、ウォーカーがウェストミンスターの雑貨屋でパンチを飲んでいるところを逮捕された。 フィルダー、ローズ、サンダース、ウォーカーの裁判は ミドルセックスの一般刑事裁判所で1735年2月26日から3月1日まで行われた。 そこでターピンとグレゴリーも住居侵入罪で告発された。 ウォーカーはニューゲート刑務所に収監されている間に死亡し、ほかの3人は3月10日にタイバーンで絞首刑にされ、死体が腐敗するまでエッジウェア・ロードで晒された。ウォーカーの死体は鎖に巻かれて吊るされた。 絞首刑の2日前、イースト・シーンの酒場から届いた「4人の容疑者」についての新聞記事にはグレゴリーとその仲間について書かれていた。 しかし、残りのエセックス・ギャング団員については、3月30日にそのうちの3人がサフォーク伯の使用人の馬を盗もうとして失敗するまで報道されなかった。ターピンは4人の仲間と3月8日に報道された別の強盗に関わっていた。 その間にジャスパー・グレゴリーが逮捕され、3月下旬に処刑された。彼の兄弟はウエスト・サセックスのレイクで4月9日に逮捕されたが 、その騒動の中でサミュエルは剣で鼻の先を削がれ、ジェレミーは足を撃たれている。ジャスパーは ウィンチェスター監獄で死亡し、サミュエルは3月に裁判にかけられ 、6月4日に処刑された。 彼の死体はその後、ほかの仲間と共にエッジウェアで鎖に巻かれて吊るされた。メアリー・ブレイジアーはアメリカの13州植民地に流刑となった。 ハーバート・ヘインズは4月13日に逮捕され、同月に処刑された。 かつての仲間の所業を白状する道具となっていたジョン・ウィーラーは釈放されたが、1738年1月にハクニーで死亡した。死因は記録されていないが、自然死とみなされている。 エセックス・ギャング団が政府によって解体され、ターピンはその所業においてもっとも知られるところとなる追い剥ぎを開始する。4月10日と12日にも盗みを働いた可能性があるが[37]、彼に最初の追い剥ぎ容疑がかかったのは7月10日、「肉屋ターピン」と「白目職人」トマス・ローデンの2人組が起こした事件である。数日後、2人はエッピング・フォレストを襲撃し、サザーク出身の男の所持品を略奪した。首に100ポンドの賞金が追加される中、彼らは1735年後半のあいだ中、活動を続けていた。8月にはバーンズ・コモンの馬車に乗った5人を襲い、そのすぐ後にパトニーとキングストン・ヒルの間でほかの馬車を襲撃した。8月20日にはハウンズロー・ヒースでゴドフリーという男から6ギニーと札入れ1つを盗んだ。追っ手から逃れるため、彼らはハートフォードシャーのブラックヒースに移動したのちにロンドンへ戻っている[42]。12月5日に2人はウィンチェスターで目撃されているが、12月後半にジョン・ジョーンズが逮捕されると2人は関係を絶った。ローデンは以前、にせ金づくりで有罪判決を受けたことがあるが、1736年7月にダニエル・クリスプと名を偽って偽造通貨を流したことで再び罪に問われた[44]。クリスプの本名は最終的に知られるところとなり、1738年6月に流刑となった。ジョーンズもアメリカ13州植民地へ流罪となった[39]。

1736年のターピンの活動についてはほとんど知られていない。多くの目撃情報からオランダへ旅をしたのではないかとされているが、名を偽って人々の前から姿を消していたともいわれる。しかし1737年、彼は妻とそのメイド、そしてロバート・ノットという男とともにパッカリッジで1泊している[46]。ターピンは手紙で略奪の打ち合わせをしようとしていたが、その手紙が政府の手に渡った[47]。ターピンが敵の目を巧みに避けながらケンブリッジへの逃亡を試みている間、ほかのメンバーは「危険なならず者としての暴行容疑と公道上での窃盗」の罪で逮捕された。彼らはハートフォードの監獄につながれ、その後、女性たちは無罪となった(ノットは次の巡回裁判で釈放された)。3月後半の報告では、ターピンは、めったにしないことであったが、たった一人で行商人の一団を襲い、同月にはほかの2人の追い剥ぎ仲間、マシュー・キング(のちにトム・キングの間違いと分かった)とステファン・ポッターとともに窃盗を働いていると報道されている。3人は1737年3月から4月にかけての一連の窃盗事件の罪に問われていたが[48]、キング(資料によってはターピンともいわれる)がウォルサム・フォレストの近くで馬を盗むという突然の事件により終わった。レイトンストーンのグリーン・マン宿の主人で馬の飼い主のジョセフ・メイジャーは、リチャード・ベイズに窃盗被害を届け出た。ベイズ(のちにターピンの伝記を書いた人物)は「赤獅子亭(レッド・ライオン、ロンドン各地にみられる酒場の名称)」からホワイトチャペルまで馬の後を追った。メイジャは自分の馬を見つけたが、夕方遅い時間で馬も「新しい飼い主」の元にいなかったため、彼らは寝ずの番をすることに決めた。ジョン・キング(マシュー・キングの兄弟)が夜遅くに到着し、潜んでいた彼らと地元の治安官によってすぐに逮捕された。ジョン・キングはそばで待っていたマシュー・キングの居場所を彼らに教えた[nb6][49]。乱闘の末、キングは撃たれて重傷を負い、5月19日に死亡した[50]。ポッターはのちに逮捕されたが、証拠不十分で釈放となった。    Fatal shooting

マシュー・キングの死についてのベイズの陳述はかなり脚色されている可能性がある。ターピン自身の供述も含めたいくつかの記録[52]には、1737年5月初旬の当日夜に起こったことについての記述について差異がみられる。初めの方に出た記録にはターピンがキングを撃ったと書かれているが、翌月に出た同じ新聞には、これに反論してベイズが致命傷を負わせたと書かれている[53]。しかし、キングが射殺された事件はその後のターピンの人生を大きく変えた。ターピンはエッピング・フォレストの隠れ家に逃げ、それが森の管理者の召使いの一人であるトマス・モリスに目撃された。5月4日、モリスがピストルで武装しターピンを逮捕しようとしたとき、ターピンは彼を騎銃で射殺した。その射殺事件は「ザ・ジェントルマンズ・マガジン」に報道された。

(画像) エッピング・フォレストでのトマス・モリスの殺害

何種類かの新聞は5月6、7日にターピンはエッピング近郊で2度の強盗を行ったと報じている[nb7]。5月7日、エリザベス・キングという女性が「赤獅子亭」でマシュー・キングが残した2頭の馬を守ろうとした事件があったことから、ターピンは自分の馬を失くしたと考えられている。その馬は「追い剥ぎ」が所持していた疑いがあり、キングは逮捕されて聴取を受けていたが、刑罰を受けることなく釈放された。モリスの殺害でターピンの名は知れ渡り、逮捕に200ポンドの賞金がかけられた[56]。

ジョン・パルマーとして

1767年6月頃、ターピンはジョン・パルマー(またはパーマン)と名を偽ってブラフの船着き場から船に乗った。ヨークシャーのイースト・ライディングとリンカンシアの歴史地区の間にあるハンバー川を渡りながら、馬を売る商人のふりをして時折、地元の紳士とともに狩りをしていた。1738年10月2日、道端で闘鶏の相手の鶏を撃ち殺し、ジョン・ロビンソンによって懲戒を受けている間、ターピンは彼も撃つと脅した。そこでイースト・ライディングの裁判官3人―ジョージ・クロール(ハルの議員)、ヒュー・べセル、マーマデューク・コンスタブルがブラフに派遣され、この事件の供述録取書を受け取った。彼らはターピンに謹慎処分を負わせようとしたが、ターピンは要求された補償金の支払いを拒否し、ベヴァリーの更生施設に入れられた。ターピンはベヴァリーまで教会区の治安官ケアリー・ジルに連行された[57]。どういうわけか彼は逃亡を図らなかった[58]。ターピンはこの時、人生の失敗を感じて絶望していたのではないかとバーローは推測している(1973)[59]。 イースト・ライディングの治安判事裁判所書記官ロバート・アプレトンとその部下はこの事件について詳細な記録を残しており、3人の治安官は「パルマー」が犯罪という手段での金稼ぎをしたのではないかと疑い、どうやって金を稼いでいたのかをアプレトンに尋ねたと報じられている。ターピンは自分のことを、借金に苦しむ肉屋でリンカンシアのロング・サットンの家から逃げてきたのだと説明した。そこでロング・サットンの治安官(デラメアという名だとされる)に連絡を取ったところ、ジョン・パルマーはそこで9か月間住んでいたが[60]、羊を盗んだ容疑をかけられ、地元の勾留所から逃亡したことが確認された。デラメアはパルマーが追い剥ぎではないかとも疑い、それを証明する供述録取書をいくつかそろえると、3人の治安官に彼は勾留したままのほうがいいことを告げた[60]。彼らはこの事件は深刻すぎてパルマーを更生施設にこれ以上入れておくわけにはいかないと判断し、パルマーの保証人にヨークの巡回裁判に来てもらうよう要求した。ターピンはこれを拒否し、10月16日にヨーク城に拘束された[61]。

追い剥ぎは1545年に死刑に値する罪となった[62]。17、18世紀は、財産の権利を侵す犯罪は最も厳しく罰せられており、200の資本法令のほとんどは財産侵害について書かれていた[63]。暴力を伴う窃盗は「死刑の次に重い犯罪(比較的少数の犯罪)で、最も厳しい方法で罰せられる」[64][nb8]とされた。ターピンはパルマーとして名を偽っている間、何度か馬を盗んだ。1737年7月、ターピンはリンカンシアに住むピンチベックの馬を盗み、ヘムプステッドの自分の父親を訪ねるのに使った。ターピンがブラフに戻った時(道中、3頭の馬を盗んだ)、彼は父親に去勢馬を残していった。ジョン・ターピンの息子の身元はよく知られており、その馬の持ち主もすぐに証明された。そのため1738年9月12日、ジョン・ターピンはエセックスの牢に馬の窃盗の罪で投獄されたが、脱獄を防ぐことに協力したことで刑は1739年5月5日に免除された。その約1か月後、「パルマー」がヨーク城に移され[60]、ターピンに盗まれた3頭の馬の持ち主トマス・クリーシーは馬たちを取り戻すことができた。ターピンが裁判にかけられることになったのもこの窃盗が原因となった[66]。

(画像)ニューキャッスル第1代公爵トマス・ペラム・ホレス。ターピンはロンドンで裁判にかけられるべきだと強く主張した。

ターピンは牢獄でヘムプステッドに住む義理の兄ポンパー・リヴァーナルに手紙を書いている。リヴァーナルはターピンの姉ドロシーの夫。手紙は地元の郵便局に保管されていたが、リヴァーナルはヨークの郵便局の切手が貼られているのを見て、「ヨークに知り合いはいない」と郵便料金の支払いを拒否した。リヴァーナルは郵便料金を支払いたくなかっただけという可能性もあるが、ターピンの事件に関わり合いたくなかったということも考えられている。そして手紙はサフロン・ウォールデンの郵便局に送られ、そこでターピンに字の読み書きを教えたジェームズ・スミスによって彼の筆跡だと分かった。彼が連絡を取った治安官トマス・スタビングがその手紙の郵便料金を払い開封した。スミスはヨーク城に行き、2月23日にパルマーはターピンであることが確認された[67]。スミスは、トマス・モリス殺害の後、ニューキャッスル公がかけた賞金の200ポンドを受け取った。

裁判

(画像)トマス・カイルによる小冊子。ターピンの処刑から10日後に出版され、裁判の傍聴記録が記されている。わずかな誤りや不足部分がありながらも一般的には信ぴょう性のある資料とされている。

裁判が行われるべき場所についてはいくつか問題があり、特にニューキャッスル公は彼の裁判をロンドンで行うべきだと主張したが、裁判はヨークの巡回裁判で行われた[71]。訴訟手続きは3月22日、冬の巡回裁判が開かれた3日後に始まった。ターピンはクリーシーの3ポンド相当の雌馬、20シリング相当の仔馬、3ポンド相当の去勢馬を盗んだ罪に問われた。起訴状には、犯罪は1739年3月1日にウェルトンで起こったと書かれ、ターピンは「ジョン・パルマー、またの名をポウマー、またの名をリチャード・ターピン。最近までヨーク市ヨーク城の労働者であった」と記述されている[nb9]。この告発状は厳密には矛盾しており、実際の犯罪はウェルトンではなくヘッキングトンで1738年8月に起こっている[72]。

裁判長は、60代前半で位も高く尊敬を集める裁判官ウィリアム・チャプル卿であった。告発は王室顧問弁護士のトマス・プレイスとリチャード・クラウル(ジョージの兄弟)によって進められ、ヨーク市民トマス・カイルが記録した。ターピン側に法廷弁護士はいなかったが、この時代のイギリスでは被告人に法的な代理人を立てる権利はなく、被告の権利は裁判長の手に委ねられていた。法廷に立った7人の証人の中にはトマス・クリーシーとターピンの筆跡を確認したジェームズ・スミスもいた。ターピンは告発人への質問はほとんどせず、クリーシーに尋ねることはないかと聞かれたときには「何も言えない。今日来てほしかった証人はここにはいない。予想はしていたがな。閣下、俺の裁判を別の日に延ばしてくれよ」と発言し、スミスについて尋ねられた時には彼のことを知らないと主張した。ターピン自身の行いについては、雌馬と仔馬はヘッキングトン近郊の宿屋の主人から購入したものだと語った。パルマーという偽名を使うことになった理由は、パルマーは母親の旧姓であると繰り返した。リンカンシアに来る前の自身の名前について裁判官に尋ねられると、彼は「ターピン」だと言った[73]。法廷を出ることなく、陪審員はターピンが最初の罪である雌馬と仔馬の窃盗について有罪であることがわかり、それに続く告発で去勢馬の窃盗の罪も明らかになった[74]。裁判の間中、ターピンは自分の弁護の準備をする時間がなかったこと、自分側の証人を呼ぶまで告発を遅らせてほしいこと、そして裁判はエセックスで開かれるべきであることを繰り返し主張した。判決が下る前、裁判官がターピンに死刑を免れるに値する理由があるかを問うたところ、ターピンは「そりゃあ難しいな、閣下。だって俺には自分の弁護の準備ができなかったんだから」と言った。それに対して裁判官は「なぜできなかった?巡回裁判が開かれる時期はここにいるすべての人々同様、君も知っていたはずだろう」と答えた。裁判はエセックスで開かれるべきであるというターピンの請願に対して裁判官は「君にそう言うように教えた人は罪深い。我が国は君が死に値する罪を背負っていることを証明したのだから、君に判決を下すのは私の役目だ」と答えて死刑を宣告した。 

処刑

(画像)タイバーンの絞首台はヨークの絞首台に似ていた[76]。 (画像)この墓石はヨークのフィッシャーゲートにあるターピンの墓の場所を表しているといわれる。

処刑前、ターピンのもとには頻繁に訪問客があった(看守はターピンと訪問客に飲み物を売って100ポンド稼いだといわれる)[77]。しかし彼は地元の牧師による「真剣な諌言と訓戒」を拒んだ[78]。ジョン・ターピンは息子に手紙を送った可能性があり[nb10]、3月29日の日付と「お前の犯した様々な法に背く行為について神に許しを請いなさい。キリストとともに処刑された泥棒が最期の時に十字架の上で神の許しを得たように」と諭す言葉が書かれていた[80]。ターピンは新しいフロック・コートと靴を買い、処刑の前日には5人の泣き屋を(5人合わせて)3ポンド10シリングで雇った。1739年4月7日、泣き屋が付き添う中、ターピンとジョン・ステッド(馬の窃盗犯)は、荷車でヨークからロンドンのタイバーン絞首門に相当する街であったナヴェスマイアまで引き回された。ターピンは「ひどく厚かましく振舞い」、「すれ違う見物人に頭を下げた」[81]。彼は絞首台への梯子を黙って登り、処刑執行人に話しかけた。ヨークには職業としての絞首刑執行人がおらず、囚人に向かって処刑執行人の役目を行うことの許しを請うことが習慣であった。このとき、許しを乞うた処刑執行人の男は仲間の追い剥ぎ、トマズ・ハドフィールドであった[76]。1739年4月7日の「ザ・ジェントルマンズ・マガジン」の記事には「ターピンは剛胆に振舞った。梯子を上る間に右足が震えているようだったが、絞首刑執行人に二言三言話しかけ、身を投げ出し、5分後には死んでいた」[82]と、ターピンのあつかましさが書かれている。  ショート・ドロップ(死刑囚の首にロープを巻き付けて短い距離を落下させ、窒息死させる絞首刑)の方法は、死刑囚がゆっくりと窒息死することを意味しており、ターピンは午後遅くまで吊るされた後、切り落とされキャッスルゲートの宿屋に連れていかれた。翌朝、遺体は今のローマ・カトリック聖ジョージ教会の向かいにあるフィッシャー通りの聖ジョージ教会の墓地に埋められた。埋葬後、火曜日に遺体は死体泥棒に盗まれたといわれている。医学の解剖用に死体を盗むことは珍しくなく、ヨーク政府にも黙認されていたようである。しかし一般的にはよくないことであったため、ターピンの死体を運んでいた死体泥棒はすぐに治安部隊に逮捕された。遺体は取り戻され再び埋葬されたが、この時はおそらく生石灰が使われた。ターピンの遺体は、墓石の被葬者については今も疑問が残るが、聖ジョージ教会の墓地に埋葬されていると言われる。

現代の見方

(画像)リチャード・ベイズによる記事は現代においてディック・ターピンが語られる際の情報源となっている。 (画像)1866-1868年の三文小説『ブラック・ベスと街道の騎士』

ターピン伝説はリチャード・ベイズの『リチャード・ターピンの真実』(1739年)に依るところがあるが、これは大衆の興味を満足させるため、裁判の後すぐに虚実織り交ぜて作られたものである[85]。死刑囚の発言、犯罪者の伝記、裁判を題材にした文学は17世紀後半から18世紀初頭にかけての流行であり、現代小説の先駆けとして大衆に向けて書かれ、「歴史上に現れた乞食たちの比較として作られた」[86]。このような文学はニュースとしてや「一般的に犯罪、刑罰、罪業、救済、地方政府の機能、社会的・道徳的な罪が語られ論じられる公開討論」として機能した[87]。 ベイズによる報告は憶測も含まれている。たとえばターピンがミス・パルマー(エリザベス・ミリントンではなく)と結婚したという彼の主張はほぼ間違いなく誤りで[5]、ターピンが結婚した日付も、1739年にはすでにターピンは結婚して11年か12年経っていたというベイズの主張[85]のみに基づいて語られており、実際には証拠となる書類は残されていない。エセックス・ギャング団が起こした強盗に関わったと彼が主張する人物の中には当時の新聞に一度も書かれていない人名も含まれており、デレク・バーローによれば、これはベイズが彼の作った物語を脚色したことを示している。ベイズが描いたターピンと「追い剥ぎキング」との関係はほぼ確実に作り話である。ターピンは1734年にはすでにマシュー・キングと知り合いで[nb11]、1737年2月には彼と行動を共にしたが、「追い剥ぎの紳士」の物語はおそらくベイズが事件を回顧した際にエセックス・ギャング団の末路と結びつけるために作った物語である[89]。バーローはまた、トマス・カイルの1739年に出版された書籍に書き添えられた、ターピンの死体が盗まれた事件についての記述は「ほとんど尊敬に近い美しさで語られている」ため、その出所に疑問が残ると考えている。 ターピンの生前の肖像画はなく、悪名高いがすぐれた重要人物ではないため後世に残されるほどではないと考えられていた。1739年に出版されたベイズの作品には洞窟に隠れた男が版画で描かれており、それがターピンではないかと言われているが[90]、現存するターピンの描写で最も実像に近いものはジョン・ウィーラーの「はつらつとした男で、天然痘の痕が目立つ。身長5フィート9インチ。青みがかった灰色のコートを着、明るい色の髪を持つ」という供述である[24]。このような報告に基づき、電子的顔面同定技術よって作られたターピンの顔が2009年にヨーク市のキャッスル・ミュージアムから公開された。 ターピンは追い剥ぎとしてもっとも有名であるが、処刑前に報告された彼の追い剥ぎに関わる犯罪は、1737年6月に大判の高級紙に掲載された「ニュース、ニュース;アイルランドへの逃亡をはかった偉大なるターピンの逮捕報告にどよめくロンドン」の記事のみである[92]。彼と同時代を生きたジェイムズ・ヒンド、クロード・デュヴァル、ウィリアム・ネヴィソンなど、中には呼び売り本の題材になった者もいるが、19世紀に入るときに初めて物語化されて世に出回ったディック・ターピン伝説ほど、現代ではよく知られている人物はいない[93]。しかしこれはロンドンからヨークまでを馬で駆け抜けたという作り話で、19世紀の作家ウィリアム・ハリソン・エインズワースがそれに刺激を受けて1834年に小説「ルーク・ウッド」において脚色した。エインズワースは物語の中でターピンを狂言回しとして登場させ、ほかの登場人物よりも生き生きと描いている。ターピンは偽名のパルマーとして紹介され、のちに愛馬ブラック・ベスに乗って逃亡しなければならなくなる。ブラック・ベスは追撃の手を逃れたが、旅のストレスで遂には死んでしまう。この場面はもっとも読者を感動させ、ターピンは罪人としての人生を魅力的に見せる愛すべき登場人物として描かれたため、この物語はターピンを取り巻く現代の伝説の一部を形作った[94]。画家のエドワード・ハルはエインズワースの作品に投資し、ターピンの所業の中で重要な6つの事件を描いた版画を公開した[3]。 エインズワースの描いた、ターピンが雌馬ブラック・ベスに乗ってロンドンからヨークまで一晩で走り抜けた物語は、ダニエル・デフォーの1727年の作品『グレードブリテン全島周遊記』に収録された物語にその起源がある。ウィリアム・ネヴィソンが1676年にケント州で強盗を働いた後、アリバイを作るためヨークまで馬を飛ばしたとみられ、その描写が庶民の伝説となった[96]。似たような物語が早くも1808年にはターピンをモデルに語られ、1819年には演劇になったが[97]、エインズワースが想像した200マイルを1日以内で走り抜けるという離れ業は不可能である。にもかかわらず、エインズワースの作ったブラック・ベスの伝説は小説『ブラック・ベス』や『街道の騎士』などで繰り返し語られ、254冊もの三文小説が1867-68年にかけて出版された。その物語の中で、ターピンは信頼する仲間クロード・デュヴァル、トム・キング、ジャック・ランを従えるヒーローである。さらに、イギリスの犯罪をロマンティックに語るという伝統文化[98]にならい、ターピンはあばたのある殺し屋から「路上の紳士で弱きものの見方」に変貌している。これらの作品はターピンを題材にした物語詩に反映され、最初のものは1737年に『ディック・ターピン』と題して発表されている。のちの物語詩では18世紀のロビン・フッドに似せて「ターピンは捕まって裁判にかけられたが解放され、闘鶏で死んだ」表されている[99]。 ターピンの物語は20世紀に入ってからも出版され続け、伝説は演劇にもなった。1845年、脚本家のジョージ・ディブディン・ピットはターピンの人生で最も重要な「事実」を作り直し、1846年にはマリー・タッソーがタッソー蝋人形館のコレクションにターピンの蝋人形を加えた[100]。1906年、俳優のフレッド・ギネットが映画“Dick Turpin’s Last Ride to York”を自作自演した[101]。ほかにもいくつか無音映画が銀幕に登場し、脚色の中にはターピンがロビン・フッドの風貌で現れるものもある[102]。シド・ジェイムズは1974年にキャリー・オン・フィルムの映画“Carry On Dick”でターピンを演じ、LWTは社名の由来となった作品『ディック・ターピン』でリチャード・オサリヴァンをターピン役に据えた。