利用者:Ami du Peuple/恐怖政治
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恐怖政治(きょうふせいじ、仏: Terreur, 英: Reign of Terror)とは、フランス革命のときに対外戦争と反革命の内乱による危機、経済的悪化という窮地を打開するために[1]、モンターニュ派がサン・キュロットの支持のもとに始めた強力な独裁政治のことである。
公安委員会、 保安委員会、革命裁判所の3つの機関を通じて統治し、全ての反対派や疑わしい将軍達、十分に革命的ではないと判断されたあらゆる市民を厳しく取り締まって、多くを投獄やギロチン処刑とし、同時に最高価格令や総動員法で経済統制を実施することで、革命を苛烈な強権的手法で制御した。これによってフランスは一時の恐慌状態から脱して、戦線では反撃に転じ、経済は小康に至ったが、他方では恐怖政治の犠牲者は膨大な数に及び、特に地方のナント、リヨン、マルセイユ、トゥーロンなどの都市では派遣議員に指揮された大量虐殺も引き起こされた。
恐怖政治は、広義では1792年の8月10日事件から、狭義では1793年6月2日のジロンド派追放または同年9月5日の国民公会における恐怖政治の採択決議[2]から始まり、その終結は狭義では テルミドールのクーデター翌日の1794年7月28日まで、広義では1795年5月20日の プレリアル蜂起[3]鎮圧まで続いた。何れの場合も、最終的には全ての責任をロベスピエール派およびモンターニュ派に押しつける形で葬り去られ[4]、反動政治に変わった。
このテルールこそが、テロリズムの語源であり、フランス革命の恐怖政治が転じて、他国のこれに類した暴力的な強権政治(特に言論弾圧を伴うもの)に対しても「恐怖政治」という表現が使われるようになった。
概要
[編集]フランス革命の恐怖政治はサン・キュロットの暴力を背景にした
「恐怖政治」の原因の一部は、旧社会の病的な不平等から生まれた狂信的な平等主義にあったとすることができる[7]。フランス革命は人民を主権者の地位に就けたが、その権力の限界を定めなかったので、食糧危機が深刻化する度に階級闘争が姿を現した。すなわち戦闘的な下層階級[8]が、貴族階級の次にブルジョワ階級を標的とし、あらゆる社会階級の壊滅、すわなち平等と、搾取に対する懲罰の両方を実行しようとしたのである。
恐怖政治の支持者達はマラーの『人民の友』紙や、彼の死後はエベールの『デュシェーヌ親父』紙などの新聞を代弁者あるいは擁護者とし、その扇動に勇気づけられて九月の虐殺や6月2日の革命、三月蜂起[9]など起こした無名の市民であった。彼ら人民の直接行動は、
フランス革命は絶対的で不可分の主権という観念に基づいていたが、それは人民が一体であることを前提にしていたので、諸分派の異なる考えは、排除して統一性を保つ必要があった。つまり粛清は共和国の未来にとって必要不可欠であり、分派の殲滅はあらゆる裏切りの芽を摘むという意味で正当化できた。恐怖政治の実現に最も熱心だった
一方で、現実の恐怖政治は、局面によって様々な顔をもっていた。最も早くに現れた文壇での恐怖政治は、革命に血なまぐさいイメージを受け付け、サディスティックで猟奇的な文学表現として流行をなして、声高に裏切り者の殺戮を叫ぶ政治パンフレットの中に溢れた。これらが広めたデマゴギーによって数々の革命事件が誘発され、革命を急進化させた。 軍隊での恐怖政治は、極端な平等主義であった。兵士と将校との間に強い不信感があったからだ。将軍の等級[14]は廃止され、貴族出身の士官はそれだけで一時的にその職責を解かれた。裏切りの嫌疑をかけられた軍人は数知れず、いわれのない疑いで裁判にかけられた彼らは、十分に身の潔白が証明できなければ、些細な咎でも処刑された。処刑方法は平等にギロチンであった。革命戦争初期の将官の大半は何らかの嫌疑をかけられて、処刑されるか亡命し、新しく下層階級出身の士官に入れ替えられたが、それこそが政治目標であった。 地方での恐怖政治は、ギロチンの恐怖を背景にした人間と物資の総動員であった。国内外の敵に囲まれた共和国は臨時の非常手段を必要とし、パリの政情を安定させるためには食糧を強奪してでも供給し、ヴァンデの王党派農民と南フランスの連邦主義者[15]の蜂起はいかなる手段を持ってしてでも鎮圧しなければならなかったからだ。一番苦しい時期にこのような裏切りを受けた共和国の憎しみは倍となったので、反撃に転じた後でも容赦なく報復し、徹底的な殲滅が行われた。最大の犠牲者が出たのは地方であった。 パリでの恐怖政治は、すぐに内ゲバの様相を呈した。最初に告発合戦を始めて殺し合いへと導いたのはジロンド派であったが、彼らが追放された後でも、モンターニュ派の分派の粛清は際限なく続き、多くの血が流された。恐怖政治の尖兵となる最も過激なサン・キュロット達は、最高賃金令[16]が出されると、ついにはロベスピエールすら穏健すぎるとしてして批判し、最終的には見限った[17]のであり、貴族や反革命容疑者のみならず、あらゆる者を対象にした恐怖政治は、我が子を食らうサトゥルヌスのように革命自らを喰らい、その魂をも葬り去ってしまうことになる。
階級闘争は、サン=ジュストによってヴァンドーズ法が提出されたときには、貧者への土地の無償分配という土地改革にまで闘争は拡大された。しかしそうなるとブルジョワジーは団結して反旗を翻して、後にテルミドール派と呼ばれるようになる政治家達を後押し、終焉を望んだ。これら政治家達は、ある者は地方で大虐殺を指揮した派遣議員[18]であり、ある者は地位を利用した脅迫や略取で不正に蓄財して裁判を待つ身[19]であり、ある者は口では金持ちを糾弾しながら裏では政商と結託して賄賂を受ける代わりに保護していた変節漢[20]であった。彼らは共通してロベスピエール派を打倒しなければ命がなかった。左右の反対派が同床異夢に集結したことがクーデタが成功した理由であり、恐怖政治の終焉は、それが嫌忌されたからではなく、内部対立による政争であったに過ぎない。これは恐怖政治の清算にさらにジェルミナル暴動[21]とプレリアル蜂起[3]という二つの事件を必要としたという事実からも裏打ちされる。
テルミドール反動では、クーデタに協力したにもかかわらず1793年憲法の施行を望んだ左派は、かつての圧制者ロベスピエールの同類として徹底的に弾圧された。モンターニュ派はテルミドールの10ヶ月後に完全に壊滅し、ジロンド派と王党派が国内に帰還した。そして右派の台頭はヴァンデミエール13日のクーデターへと続いたが、恐怖政治とともに左派、言い換えればジャコバン派が消滅したことで以後ブルジョワジーの支配が揺らぐことはなかった。
犠牲者数
[編集]革命による処刑について全体像のわかる統計は存在しないが、パリのギロチン処刑に限ればかなり詳細な記録が残っている。1935年にアメリカの歴史家ドナルド・グリーアが発表した研究[22]によると、革命裁判所で死刑を宣言されて処刑された人数だけで、約16,600名(他の研究では17,000名[23])と推定され、そのうち2,625名(他の研究では2,639名[23])はパリで処刑されたという。斬首されたのは主に商店主や職人といった普通の市民が多く、特権階級が標的になったと考えるならそれは誤解である。そもそも彼らの多くはすでに亡命していた。
恐怖政治はパリよりも地方で過激であり、ギロチンで1人1人首を落とすという方法よりももっと効率的な大量虐殺の方法がとられた。結果、全体の死刑の52%は西部で、19%は南東部で宣告され、執行されている[23]。1793年3月から1794年7月の間に逮捕された市民の総計は50万人以上で、この数字は処刑されていない人々が無罪放免となったという意味ではなく、死刑以外の刑に処された者(プレリアル法成立以前)の存在や、裁判も行われないままま監獄に無為に放置されていた、膨大な数の反革命容疑者の存在を示している。収監者はテルミドールのクーデタ後に解放されるまで長々と拘置されたが、いくらかは収監中に劣悪な環境のなかで病死したとみられている。以後の数字は後世の歴史家の推計となるが、死刑判決以外での犠牲者、つまり牢獄で病死や餓死などで死んだり、私刑で殺された者の数は約3万5,000名で、その内訳は28%が農民、31%が職人や労働者、20%が商人や投機人であるのに対して、貴族は8~9%、聖職者は6~7%に過ぎなかった。
また上記の数字は、革命裁判所(またはそれに類する地方特別法廷)で裁かれた者だけであり、恐怖政治の実際の犠牲者には、これに加えて、派遣議員による虐殺の被害者および内戦の戦没者も含まれるべきで、カリエの溺死刑やテュローの地獄部隊の活動の犠牲者も加えなければならい。ヴァンデ戦争の犠牲者の推計は、論拠とすべき史料にばらつきがあってとても困難なのであるが、最大で60万人、最小でも10万人は下らないと見積もられている[23]。フランス全体での人的損害の全体像については、研究者の間で意見の一致があるわけではないが、約60万人というのが内戦と恐怖政治の両方を含めた犠牲者の推計とされている[23]。
成立
[編集]背景
[編集]恐怖政治の根源は、すでに1789年の夏には存在したパリ市民の暴力であった。フランス革命は貴族の陰謀に脅かされているという信念は、7月14日にパリを取り巻いた群衆をさらなる直接行動に走らせた。22日、「飢えたら干し草を食え」との暴言を発した財務総監フーロン・ド・ドゥエ[24]を群衆は潜伏先から見つけ出して市役所の街灯で吊し、命乞いをさせた上で、縛り首にし、その首を切り落として口に干し草を詰めて晒し者にした。さらにその女婿のパリ地方総監ベルティエ・ド・ソーヴィニー[25]も捕まえて、亡き義父の首と体面させた後で、同様に殺害した[26]。このような執拗で陰湿な暴力は、革命勃発その日からパリを支配していたのであり、徹底的な不信と、敵に対する過大評価がそれを煽った。革命は、王や神に譲渡された権利を再び人民の手に戻したが、その不可侵の権利には
沿革
[編集]1789年9月12日 マラーが『人民の友』紙を創刊(一時発禁を経て)
ジャコバン派の分裂
[編集]マラーの暗殺
[編集]制度
[編集]実態
[編集]軍隊での恐怖政治
[編集]地方での恐怖政治
[編集]ナントの溺死刑
[編集]リヨンの解放都市
[編集]パリでの恐怖政治
[編集]分派粛清
[編集]終焉
[編集]テルミドールのクーデタ後
[編集]後世の評価と影響
[編集](広義の)ジャコバン派の分裂は途方もない損失をもたらした。
プレリアール22日法の制定によって、司法手続きが大きく簡略化された
1793年3月10日、革命裁判所が設置された。これは上訴審のない、簡略にして強力な決定権をもつ、危険な機関であった。告発検事にはフーキエ・タンヴィルが任命された。同年3月21日から4月2日にかけて、議会は各コミューンに反革命派取締のための監視委員会の設置、9人から成る公安委員会の設置を決定した。そして4月6日、革命裁判所の最初の法廷が開かれ、公安委員会が発足した。これらは恐怖政治への道を開くものであった。
この頃ジャコバン派では、ジロンド派と山岳派が決裂し、マラーやロベスピエールはジロンド派を裏切り者として攻撃した。当時、食糧難や経済の混乱から各地で民衆のデモが頻発しており、ロベスピエールはこの人民を利用する計画を立て、集会に参加するサン・キュロットに金が支払われ、人民を扇動する方策が講じられた。
5月25日、ロベスピエールは人民の蜂起を求める演説をおこなった。5月31日、ロベスピエールの計画に基づきジロンド派の追い落としが開始された。33のセクションの代表者が集められコミューンと協力し、人民軍の指揮はアンリオがとることになった。6月1日、ジロンド派のロラン夫人が逮捕、ジロンド派の新聞は禁止された。翌日、アンリオは武装した群衆を率いて国民公会を包囲、逃亡しようとする議員に議事の進行を要求、ジロンド派幹部の議員29名と大臣2名の追放と逮捕が議決された。のちに29人のうち20人が地方へ逃げたが、そのうち数人は処刑され、2人は自殺した。こうして6月2日からジャコバン派独裁が開始される。
山岳派独裁開始後も、当初はジロンド派の抵抗が見られ、地方では6月2日事件への反発が強かった。ジロンド派の宣伝に影響を受けたシャルロット・コルデーが7月13日にマラーを殺害した。しかし、こうした抵抗も空しく、多くの人間が断頭台の露と消えることとなる。
6月23日には1793年憲法(通称「ジャコバン憲法」)が制定される。民衆やサン・キュロットなど議会外の要求を代弁する「過激派」のジャック・ルーやヴァルレの主張により、より大きな権限が公安委員会に付与されることになる。公安委員会は再三改組され、7月にダントンらは排除され、9月に最終的に12人の委員が決定された。これによりロベスピエールが指導権を掌握、クートンとサン=ジュストなどがそれを補佐する構造が完成した。革命裁判所では検察官のフーキエ・タンヴィルが仮借のない弾圧の執行者となった。
山岳派は、農民の心をつかむため、6月には国有地の小区画での売却や、共有地の分割を認める法律を制定しており、7月17日には領主権の無償廃止を決定する。さらに、27日には、小麦を独占・隠匿したものに対する極刑を規定した。
山岳派と国民公会は要求に応じる形で、巧みに自分たちの政策実現を果たした。 この頃、民衆が武装して一団となって立ち上がるべきだ、という要請が直接行動を重視するセクションの意見として議会に提出されていた。ロベスピエールが議長となった国民公会は、8月23日、ダントンの介入でこれを採択。しかし、これはセクションのイメージと違い、軍を立て直すための一種の国民総動員令であった。これにより93年秋から94年春までに、40万近い兵力が調達された。
公安委員会は9月5日ジャック・ルーを逮捕し、18日にはヴァルレを逮捕した。「過激派」のクラブや出版物も禁止された。9月には民衆のデモに応えて食糧の価格統制が定められ、同月末には全般的価格統制法が制定され、経済統制が実施されるようになった。10月10日、サン=ジュストが公安委員会を代表して演説し、国民公会は「フランスの臨時政府は、平和が到来するまで、革命的でありつづける」ことを宣言した(革命政府宣言)。
10月16日には王妃マリー・アントワネットが処刑された。粗末な服を着せられ、両手を後ろ手に縛られた彼女は、群衆の中を刑場に送られ、断頭台の露と消えた。ついで、ジロンド派の粛清が行なわれた。国民公会は3日間しか弁論の期間を与えず、21人のジロンド派全員が死刑判決を受けた。うち1人は自殺し、ブリッソー、ヴェルニヨら20人は10月30日にギロチンで処刑されたが、処刑に要した時間はわずか38分であった。11月8日にはロラン夫人が処刑された。彼女は「ああ自由よ、汝の名においていかに多くの罪が犯されたことか!」と叫んだという。その死を知った夫のロランは自殺した。
さらにフイヤン派のバイイ、三頭派のリーダーであるバルナーヴも処刑された。逃亡中のコンドルセは服毒自殺した。デュ・バリー夫人は金持ちというだけで処刑された。また有名な化学者のラヴォアジェは、審理が終わらないまま、「共和国は学者を必要としない」という理由で処刑された。
12月4日、法令により政府の細目が制定される。これにより、公安委員会が外交・軍事・一般行政を、保安委員会が治安維持を担当することになった。
1794年には、ルイ16世の妹であるエリザベート王女、ルイ16世の弁護をつとめたマルゼルブ、ラ・ロシュフコー、詩人のアンドレ・シェニエも処刑された。
革命裁判所が死刑を宣告した数は、1793年9月中旬から10月中旬までに15、次の1ヶ月間には65、翌年の2月中旬から3月中旬には116、3月中旬の1ヶ月では155、4月中旬からの1ヶ月では354にという風に漸次増加していき、それに合わせて裁判手続きは簡素化された。
中央のパリでジャコバン派がイニシアティヴをとった後も、地方では王党派やジロンド派の勢力が残っていた場所があった。革命政府はそれらの地域に対し、中央のパリから派遣議員を送り、反革命派の粛清をはかった。これに対する反革命派の抵抗により、フランス全土は内戦状態に陥る。
内戦により、ヴァンデ、リヨン、トゥーロンで革命軍による虐殺が起きた。ヴァンデの反乱は1793年末までに、ほぼ鎮圧され、ロワール川を渡りブルターニュを目指した8万人の農民のうち、生き残ったのは僅か4、5千人であった。リヨンでは派遣議員のフーシェ、コロー・デルボワの指導のもとに教会の略奪が命じられ、叛徒の処刑が4ヶ月にわたり間断なく続けられ、犠牲者は2千人を越えた。トゥーロンでは、陥落後にバラスとフレロンの指揮下で1794年1月末までに千人以上の処刑が行なわれた(詳細はヴァンデの反乱・リヨンの反乱・トゥーロン攻囲戦をそれぞれ参照のこと)。
分派闘争
[編集]ジャコバン派内では、ロベスピエール、もしくはサン=ジュストとクートンを加えた「三頭政治家」へのダントン派(寛容派)とエベール派の戦いという形で分派闘争が起きる。
1794年1月8日、ロベスピエールは、ジャコバン・クラブで、両派を激しく非難する演説を行なう。
矛先はまずダントン派に向けられた。インド会社の解散に伴う清算における横領が発覚し(インド会社事件)、1794年1月13日、ファーブル・デグランティーヌが逮捕され、外国人から収賄している議員の名前を暴露した。これにより議員や銀行家、投機家が逮捕された。
2月、ロベスピエールは「民衆の革命政府の原動力は徳と恐怖である。徳なき恐怖は有害であり、恐怖なき徳は無力である」という有名な演説を行い、革命政府を擁護する。
2月末から3月初め、サン=ジュストが、反革命派の土地を没収し貧困者に無償で配分する、ヴァントーズ法を提案する。これには民衆運動を味方につける狙いがあった。 エベール派は民衆に対して公安委員会に反対して革命的運動をとるよう呼びかけた。3月13日、国民公会でサン=ジュストが「悪徳に対して戦え」と叫んだことから、エベール派の指導者が逮捕された。3月23日、エベール、ロンサン、モモロ、クローツなどの過激派は、外国人と通謀し、市民を腐敗させる計画を練っていたとして処刑された。
その後、ロベスピエールは盟友のダントンを排除することを決定し、ダントンの腐敗について記したノートをサン=ジュストに手渡した。国民公会でダントンの逮捕が決定され、3月30日にダントンはカミーユ・デムーランらと共に逮捕された。ダントンは法廷で熱弁をふるい検事の論告を押し返したが、発言が停止させられ、彼が退席したまま討論が続けられ、4月4日に死刑判決が出され、翌日執行された。ダントンは首切り役人に「俺の首を人民に見せてやれ。それだけの値打ちはある」と語った。断頭台はダントン派の処刑で血の海となり、首切り役人は言われたとおりダントンの首を高々と差し上げて群集に示した。
パリで革命裁判所が設置された1793年4月から94年6月10日までに、1251人が処刑されたのに対し、審理を経ない略式判決が許された6月11日から7月27日、(テルミドール9日)までの僅か47日間で、パリの断頭台は1376名の血を吸い込んだ。
恐怖政治のために反革命容疑で逮捕拘束された者は約50万人、死刑の宣告を受けて処刑されたものは約1万6千人、それに内戦地域で裁判なしで殺された者の数を含めれば約4万人にのぼるとみられる。
恐怖政治は疑心暗鬼の悪循環を生み出し、ロベスピエールらを孤立化させ、テルミドール反動を惹起する。
脚注・出典
[編集]- ^ 前川貞次郎, 外山軍治 & 1990年
- ^ 無制限戦争を主張していたエベール派の圧力によるもので、群衆の強訴をうけた公会と委員会は、恐怖政治の実現のために諸制度を整える義務を負った。
マチエ, 市原豊太 & 1989年, (下)pp.79-87 - ^ a b 1795年5月20日に左派を代表するサン・タントワーヌ街の市民が「パンと93年憲法」を求めて起こした武装蜂起。軍隊によって鎮圧され、この左派残党の敗北によってモンターニュ派は壊滅した。()
- ^ ロベスピエールが腐敗議員(テルミドール派)を裁くために集めていた証拠は、テルミドール派によって破棄されて、都合の悪いものは消し去られた。小林良彰 & 1969年, pp.454-464
実際にはテルミドール派こそがテロリスト(=恐怖政治の実行者)で過去を捨てて反動に走った転向者であり、市民の要求によって始まった恐怖政治は、国民公会と民衆の革命全体に責任が帰されるべきものであった - ^ 「Sansculottism」のこと。過激共和主義や暴民主義とも訳される。超平等主義を標榜し、万人の必要のためには財産権も一定の制限をうけうると主張し、生存権の保全と、貧富の格差の解消のためには直接的な暴力も辞さないという考え。ジャコバン主義よりも過激で性急な手法が特徴。
ソブール & 1953年, pp.65-70、フュレ, オズーフ & 1999年(3), pp.122-133 - ^ フュレ, オズーフ & 1999年, p103
- ^ フュレ, オズーフ & 1999年, p125
- ^ 歴史家フランソワ・ミニュ(François Mignet)が「平民」または「群衆」と定義した下層市民をさす
- ^ 1794年3月4〜11日にパリで起きた「神聖な蜂起」と称するエベール派の未遂に終わった蜂起のこと
- ^ 市民は、投機商人がパリへの流通を止めて、小麦などを倉庫に隠し、値上がりするのを待って売りに出して、価格を高騰させていると信じていた。このため打ちこわしのような事件が頻発し、値上げしたパン屋や穀物商を吊し上げて殺害した事件も起こった。買い占め禁止法が制定され、革命軍(実質的には食料徴発隊)による家屋の捜索も行われた。もし規定よりも多くの物資を蓄えていたことが発覚すれば、例えそれが卵一個であっても市民は反革命容疑者として逮捕された。
- ^ フュレ, オズーフ & 1999年, pp.120-121
- ^ (関連話)
- ^ フュレ, オズーフ & 1999年, p.122
- ^ 日本語で言う、大将・中将・少将のこと。革命後はジェネラルより上はなくなり、各種名称も変更になった
- ^ 6月2日の革命で追放されたジロンド派のこと。地方で反乱を起こした
- ^ 公定賃金を定める法律で、労働者の手当を確保し、かつ商品の価格が固定されているために利幅の少ない雇用主に労働者を解雇させないためであったが、一般市民からは理解されず、賃金を抑制する目的であると勘違いされ、評判が悪かった
- ^ テルミドール9日のクーデタの際、ロベスピエールは「最高賃金の畜生!」と罵られた
- ^ カリエ、フーシェ、コロー・デルボワ、レオナール・ブールドン(Léonard Bourdon)など
- ^ バラス、フレロンなど
- ^ タリアンなど
- ^ 1795年4月1日にパリ市民が国民公会議事堂を占拠した事件。経済統制の放棄によるアッシニアの暴落と物価高騰による生活苦に貧窮した市民がテルミドール反動に反発したもの。フレロンの金ぴか青年隊の暴力によって排除された。()
- ^ Greer & 1935年
- ^ a b c d e セデイヨ, 山崎耕一 & 1991年, pp.23-33
- ^ ネッケルの後任に任命された人物。1週間だけその任務に当たった。バスティーユ襲撃後は、卒中で死んだというウソをついて隠れようとしたが捕まった。(Joseph Foullon de Doué)
- ^ バスティーユ襲撃後はコンピエーニュに逃走したが捕まった。なお地方総監は知事と同義。(Louis Bénigne François Berthier de Sauvigny)
- ^ ミシュレ & 1979年, pp.100-101
参考文献
[編集]- 猪木正道, (編); 前川貞次郎, ほか10名 (1957), 『独裁の研究』, 創文社
- 河野健二, (編) (1989), 『資料フランス革命』, 岩波書店, ISBN 4-00-002669-0
- マチエ, アルベール; 市原豊太, ねづまさし共訳 (1989), 『フランス大革命 』, 上・中・下, 岩波文庫
- ミシュレ, ジュール; 桑原武夫, (編)ほか (1979), 『世界の名著 ミシュレ 』(フランス革命史の抄訳), 中央公論社, ISBN 4-12-400658-6
- 前川貞次郎 (1987), 『フランス革命史研究 - 史学史的考察 - 』, 創文社, 3022-460150-4226
- 小林良彰 (1969), 『フランス革命の経済構造』, 千倉書房
- 前川貞次郎, (編); 外山軍治, ほか (1990), 『世界史辞典』, 数研出版, ISBN 4-410-00352-6
- フュレ, フランソワ; オズーフ, モナ (1999), 『フランス革命事典 1 事件』, みすず書房, ISBN 4-622-05025-0
- フュレ, フランソワ; オズーフ, モナ (1999年(3)), 『フランス革命事典 3 人物II』, みすず書房, ISBN 4-622-05036-6
- ソブール, アルベール; 小場瀬卓三, 渡辺淳, (訳) (1953), 『フランス革命』, 下, 岩波新書
- セデイヨ, ルネ; 山崎耕一, (訳) (1991), 草思社, ISBN 4-7942-0424-8
- Greer, Donald (1935), 『Incidence of the Terror During the French Revolution: A Statistical Interpretation』, Peter Smith Pub Inc, ISBN 978-0844612119