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利用者:Abhinav (usurped)

Biography [[アビナヴ スレンドレンという人物は、歴史がとても古く、仏教が生まれた国として知られるインドで生まれました。インドでも、神様や椰子の国と呼ばれているケララ州が、彼の故郷です。緑が豊かで、列車で通るとき椰子の木がきれいに並んでいる様子がよく見られます。 家族を紹介しましょう。父は政府のセメント会社に勤めています。いつも転勤で大変です。母は主婦です。一番好きなことは神話を読むことです。二人ともアンドラ プラデッシュ州に住んでいます。弟は彼より一年年下で、今祖母と一緒にケララ州にいます。彼は以前から日本にとても興味を持っていました。日本に行きたいという夢は小学校5年から強く持ち続けたものでした。16歳になって日本に来る夢が実現しました。  彼が学校の先生方によく言われたのは、「勉強はできるが努力しない」ということです。小学校時代のときはよく勉強してきましたが、中学校に入ってから勉強のペースは全くあがりませんでした。他の同級生達は、私以上に勉強するようになっていました。やっと、中学校3年生になって、自分で、勉強しないと将来は困るという事がわかってきました。父の会社も不景気で、会社がつぶれることも考えられるので、長男である自分が責任もって物事を考えなければならないと思い、その年から必死に頑張ってクラスで一番になりました。その成績があったからこそ、オイスカ高校の奨学生として日本に行く夢もかないました。その時そのように考えさせてくれた神様と、チャンスを作って下さったオイスカには、感謝にたえません。]]



2.日本で過ごした二年 日本に来たこと

3年前の事です。休みの日でした。母がある新聞記事を持ってきて、みせてくれました。それは日本に留学できるという記事でした。それを見たとたん、私は、これはチャンスだと思いすぐに担任の先生に電話しました。オイスカの募集と知った先生はいいことだから是非申し込むようにと言いました。 第一選抜、第二選抜と順調に進みました。次の面接官は日本の先生だということを聞いたらちょっと緊張しました。日本人の先生が二名、インド人二名。父と母も一緒に部屋に入ってきました。そのため緊張も2倍になりました。面接中なぜか母が泣いていました。面接が終わって、午後の3時頃に合格の話を聞きました。今までないくらい嬉しかった事を覚えています。そして五月一日、私はとうとう日本の土を踏みました。 オイスカ高校の先生方や生徒達からのあたたかい歓迎に感動しました。矢島先生や校長先生の顔は見覚えがありましたが他の顔は皆同じに見え、これから覚えることが大変だろうなと感じました。


 その後、寮に迎えられました。親切な先輩達が私たちの荷物を運び寮まで連れて行ってくれました。 その時感じたことがおもしろくて今でも忘れられません。 寮の玄関に入ったとたん、目に入ったのは、店に並べてあるように靴が並んでいる下駄箱でした。本当にびっくりしました。それとともに、これはインドではなく、日本だと実感しました。 初日の様子 部屋には、畳が敷いてあってあたたかく感じました。畳の臭いも好きになりました。いよいよ、日本食の体験です。日本の文化に慣れるには最初、食事から始めようと思って、最初の日から何でも食べる努力をしました。なんと言ってもお箸に慣れるには一週間から二週間かかりました。皆が食べ終わっても、留学生はまだまだ……。ソースはキャベツにかけて食べるものだ。そして醤油は天ぷらにかけて食べるものだということが段々わかってきました。 しかし納豆は私にとって今でも食べられないものです。揚げ物はなんでも好きです。特にコロッケや餃子は大好物です。お寿司や刺身は好きです。回転寿司で食べる機会があれば是非とも行きたいです。


初日の寮 寮生活は私にとって初めてのもので、何をどうすればいいのかさっぱりわからない状況でした。初めにバビル先輩に教えてもらったのは「先輩」という言葉でした。その意味がどんなに深いかはそのうちわかりました。先輩に対して敬語を使わなければならないと言われたことは今もよく覚えています。夜、お風呂に入る前のこと……恥ずかしくて入ろうにも入れないような状態で、最終的にはむりやり先輩に入れられました。入ってみると皆平気で浴びている様子を見て私も大丈夫と思い、浴びました。大変な夜でした! 先生と先輩という言葉の意味 先生という言葉を最初に聞いたのはオイスカ南インド支局のバブさんからでした。その時、矢島先生と藤﨑先生の紹介をして下さり、先生というのはティーチャーのことですと教えてくださいました。日本に来て漢字の勉強を始めて、小学校一年生の漢字を勉強する途中に「先」という字と「生まれる」という字を勉強しながら初めて、思い浮かんだのは先生という言葉でした。自分より先に生まれた人は自分より世間のことに詳しいということは事実だなと思い、素晴らしい言葉だと思いました。


日本語の特徴 日本語の一番大きな特徴は、漢字を用いる事です。漢字は私にとって初めて出会う文字でした。中国からわたって来た漢字は見るだけで意味がわかるという特徴があります。最初に漢字を見た時は全然意味がわかりませんでした。小学校一年生の漢字を勉強し始めてから、段々意味がわかってくるようになりました。四ヶ月経って、面白い事に気がつきました!小学校一年生と二年生の漢字が混ざり合って、すべての漢字ができていることに気がつきました。その後漢字の勉強は楽しくなってきました。例えば、「親」という漢字なら「木の上に立って見る」と覚える、このようなコツをつかんで漢字の勉強をしてきました。 日本語とマラヤラム語の共通点 私の母語はマラヤラム語です。インドでも難しい言語の一つであるマラヤラム語は他の言語よりも発音の数が多いです。日本語の勉強をしていくうちにマラヤラム語と日本語に共通している点をたくさん見つけました。日本語とマラヤラム語の文法はほとんど似ていて、文の構造も一緒です。ただ、マラヤラム語の言葉の所に日本語を当てはめるだけで、済みます。日本語の「麗しい」という言葉はマラヤラム語にもあります。意味も同じ、発音も同じです。不思議に思いませんか?遠く六千キロも離れているインドの言葉と日本語に共通点があるというのは本当に不思議ですね。



いろいろな所での交流会 日本に来ていろいろなところでスピ-チをしました。今でもしています。小学校や中学校にいって交流をするたびに、算数を教えてあげました。自分がやっているやり方と違ったやり方を見てびっくりする子供達を見て私も嬉しくなります。 小学校の子供達は最初、クラスに入ると大きい目で私たちを見ます。それで私たちも大きい目で見たら「目、大きいね、ああ怖い」という子達がほとんどでした。日本人と違って肌の色もちょっと黒いし、目も大きいから、子供達は驚くに違いない。でも少し時間が経ったら、話しかけて来ます。一番慣れにくいのは高校生です。算数などを教える時に小学生は生き生きして質問をしますが、中学生や高校生になるにつれて、質問は全然出てこないし、話もあまりしてこないのです。しかしインドの子供達は大きくなるにつれて、質問をしてくる子達が多いのです。 それには特別な理由があります。インドの人口は10億人です。しかし、仕事は少ないです。自分がしたい仕事に就くには自らアピールしなければなりません。教室でただ先生の話を聞いているだけでは勉強ができません。自分の考えをはっきり主張できる人こそ優秀なのです。ですから私は日本人もそのようになってほしいと思います。自分の持っている実力を外に出すことによって国が発展します。間違っていても恥ずかしがらないで自分の発想を伝えることが大事ではないでしょうか。


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3.インドに伝えたいこと]] 私は日本に来てたくさんの方々に出会いたくさんのことを勉強することができました。日本でしかできない勉強もいくつかありました。それをインドに伝えたいと思っています。インドを発展へと導くために役立つと思います。 時間厳守 日本に来てからいろいろな方と出会い、価値のある話をたくさん聞きました。その中で、いつまでも宝として残っている話があります。それはある方に時間厳守という言葉の意味を教えていただいた時です。時間を守るというのは約束を守る事と一緒です。約束を守らない人というのは社会でも尊敬されないし、信用することもできません。逆に、約束を守る人は人生において段々成長し、最終的には成功するのです。つまり、時間厳守というのも約束と同じで、人間である限りは守らなければならないものの一つです。時間どおりに物事を運ぶことは、時間や人、お金のロスを失くす事にもつながります。小さなロスでも、つみ重ねれば大きな時間になる。それは経済の発展の妨げにもなるでしょう。 掃除のやり方 掃除はとても大事なことです。自分の身の回りをきれいにする、そして、掃除は、場を清めると同時に、自分の魂も清めるという考え方があります。お寺のお坊さんがする掃除は、単に、きれいにするというより心身を清めるという目的でなされている。掃除のやり方も人によって違います。私はある人に教えてもらったのは、部屋の隅を丸く拭く人もいれば、隅々まできれいに拭き取る人もいます。しかし、人生で成功するのは隅々まできれいにする人です。このような人は細かい所まで気をつけて一所懸命やり終えようという意識が強いのです。何でも、「成功は一所懸命する人の足元に」という表現はインドにもあります。


寮で毎朝掃除をするというのは私にとって初めてでした。インドでは学校で掃除をした事がありますが家の掃除はお母さんを手伝うくらいしかしませんでした。 良いと良くないのどれですか…? 日本で生活するなかで、インドでは良いが日本では良くない事がいくつかありました。例えば、インドでは頭を坊主にするといつも帽子を被らなければならないという習慣があります。家の中でも帽子を被っている人もいます。昨年の春に私も頭を坊主にしました。そして、ある日帽子を被って寮の廊下を歩いていました。すると、ある先生に叱られました。インドでは当たり前の事だが日本では良くないことだったのです。 もう一つ例を挙げましょう。 この例は食事のことについてです。インドでは左手でご飯を食べるということは非常に不浄なことです。左手で食べるインド人はいないと思います。しかし日本では左手で食器を持って食べなければならないことにびっくりしました。 国際社会では良いと良くないことの判断は難しい事だとわかりました。自分は良いと思ってしますが相手にとっては良くないことになるとはなんと不思議なことでしょう!


途上国になった方がいいのか先進国になった方がいいのか? ある先生にこのような質問をされました。私は、自分の答えに自信を持ち、胸を張って先進国になった方が良いと答えました。そして、なぜかと聞かれたので、「今より、良い、便利な生活おくりたいから」と答えました。しかしその先生の考え方は私と違いました。途上国の方が良いという考えでした。それはなぜかというと、戦争はいつでも起こる可能性があります。先進国は、今まで便利で快適な生活に慣れているため、戦争によって被害を受けると、不便な生活をせざるを得なくなります。不便な生活に慣れている途上国の国民より、数倍も大変な思いをするでしょうということです。 これを聞いて立派な考え方だなと思いました。一つのことをいろいろな方面から考えられる人は本当の天才です。このような勉強は他の外国に行かない限りは不可能です。日本だけではなくたくさんの外国に行き、そこの考え方に触れることができれば本当に良いと思います。


隣国との関係と戦争の元  インドが独立するとともにパキスタンも独立しました。それ以来、いまだにインドとパキスタンは戦争をし続けています。インドにいたときインド-パキスタン問題についてしか知りませんでした。しかし、日本に来てみると日本と北朝鮮の間にも大きな問題があることがわかりました。戦争が起きているのは隣国同士がほとんどです。 人間は自分に近い人とよく喧嘩しますが、遠く住んでいる人とは親しくなっても、行き合う機会は少ないものです。もし私たちの家に泥棒が入ったとしたら、助けに来てくれるのは近所の人しかいません。ですから、一番仲良くするべき人と喧嘩するのは愚かなことだと私は信じています。これは人間だけに関わらず国同士でも同じです。 戦争の元というのは人間の欲です。どんなに我が家の芝生が良いものでも、隣の芝生が青く見え、それをすぐ欲しがるのが人間です。その考え方がある限り戦争という雑草を取り除くことができません。 恩返しを通して日本の発展  夏休みや冬休みのホームステイでも教科書以外の知識をたくさん得ることができました。恩返しという言葉はとても大事なことだとホームステイ先のお父さんに教えていただきました。例えば、ある人が大変困っているときに、百円を貸してもらったとします。そして、そのお金を返すとき、その二倍を返すような気持ちで、恩返しをするでしょう。しかし、その倍の恩返しをするためにはたくさん努力をしなければなりません。その努力がひいては国の発展につながるのではないでしょうか?国民一人一人がそういう心を持っているからこそ日本では国民の経済的な格差が小さいのです  途上国ではお金持ちがいる一方、一回の食事のために苦しんでいる人もいます。その差はとても大きいです。なぜならばお金持ちはお金を貸してあげるが返してもらわない代わりに、その人を自分のために働かせます。ですから、貧乏な人はいつまでも金持ちにこき使われるだけの貧乏人になってしまい、お金持ちは常に、お金持ちでいるのです。そのような国はいつまでたっても、発展しません。日本人の経済的な発展には恩返しの精神が非常に大きい関わりを持っているように私は感じています。


 日本が発展した理由  私が考えたことは、北半球には先進国が多いが熱帯地方には途上国が多いということです。なぜでしょうか、たとえて言えば砂漠で生活している人こそ水の大切さがわかるからです。飢えを体験している人こそご飯の大切さがわかるからです。北半球ではお米ができる時期が決まっています。だから、夏の時期に収穫して保存しておかないと冬の時期は食糧不足で大変になります。  しかし、インドなどの熱帯地方の国々は年中作物が育つのにふさわしい気候です。ですから、作物がたくさんできるし食糧もたくさん確保できます。すると安心した人々は食糧を得る努力をせず、食糧は放っておいても年中あるものだと思い、大切にしなくなります。日本に来てから、「ものを大切にしなさい」という言葉を事あるごとに言われました。私がインドに伝えたい事は物を大切にすることです。そして、熱帯地方だからこそできることがたくさんあります。天然資源に恵まれているアジアやアフリカなどの国々は頑張れば欧米国の国々より発展できる可能性があります。過去にしてしまった間違いを理解しながら新たな国造りに携わるべきです。日本をリーダーとして認めて日本がアジアを発展の道へ導いてやるべきだと私は思います。



日本とインドの仕事に対しての考え方そして私の将来 日本では仕事に対して良い仕事や悪い仕事という考え方がないことに気が付きました。日本人には仕事をやり遂げる責任感があります。どんな仕事でも仕事は仕事である。そしてそれをきちんとできるかできないかによって人は偉いかどうかが決まるのです。しかし、インドではよい仕事や悪い仕事というのが決まっています。仕事に対して考え方が違うというのはその国の教育制度に関係するのではないかと私は思います。 今、日本の教育制度は人の個性を伸ばそうとしているのではないかと私は思います。しかし、これに対してインドでは共同社会的な考え方を成長させようとしています。ですからそれが反映され、人によってどんな仕事に就きたいのかというのも違っています。日本人は努力さえすれば自分がやりたい仕事に就くことができます。しかし、インドでは同じ仕事をする人が何億人もいるのです。ですから、今一番流行している仕事に就いている人の方がよいと考えています。 今のインドでは一番良い仕事というのはソフトウェアエンジニアの仕事と医者です。毎年大学で工学部や医学部を卒業する人は何万人もいます。そして海外に行ってしまう人もいればインドで働く人もいます。インドの会社に入るのはとても難しいことです。医者やエンジニア、その中から優秀な人はすぐ仕事が見つかります。そして入りそびれた人達は学力が高いので、自分がやりたいやりたくないにかかわらず、どんな会社にでも入ってしまいます。しかし、その会社の専門を勉強した人達は学力の高いエンジニアや医者に自分の仕事が奪われてしまうのです。そして、自分がやりたくなかったのに仕方なく会社に入ってしまったエンジニア達はただお金のためだけに仕事をするので、その分野の発展に努力することもありません。そして国の発展が遅れてしまうのです。 それでも、今、インドは急速に発展しています。インドは特にITに力を入れています。日中はインドの企業で働き、夜はアメリカの企業の仕事をやっている人は少なくありません。インドも日本のように工業化している一方です。そこで問題が起こってしまいます。それは環境問題です。インドは環境問題の取り組みは何もしていません。このままではインドも日本が昔してしまった同じ間違いをするに違いない。日本は大先輩としての役割を果たすべき時期が来ていると思います。インドは日本などの国々を見習い良いところを受けながら発展すべきです。 そこで、私はどうして物質工学部を選んだのかについて話をしたいと思っています。私は日本に来た時、他のインド人と同じようにソフトウェアエンジニアになることが夢でした。しかし、オイスカ高校にきて、環境理解の授業を受ける事によって私は自分の夢を変えました。私もソフトウェアエンジニアになったら他のインド人と一緒になることがわかりました。ただ、発展だけではなく環境問題の取り組みをしながらの発展が私の夢です。そのためには天然資源の節約そして代替エネルギー開発の大事さをインドの人たちに教えることがとても大事です。 日本の進んだ技術をインドに伝え、そして日本とインドが協力していけるように私は人生を尽くしたいと思います。


「日本」私の夢の国 日本が発展した理由というのはたくさんあります。その中で一番基本になっているのは日本人が自分達の文化に対して持っている尊びや誇りです。自分たちの文化が自分達を発展の道に導いてくれたのだという考え方。そしてこのようにすれば必ず成功するという考え方などです。時間、掃除、仕事に対しての考え方は日本独特の考え方だと私は思います。インドをはじめアジアの国々は皆日本のようになりたいという強い気持ちを持っています。  日本人の優しさ、お客様に対してのおもてなしや思いやりの心は世界中で有名です。私は一番関心を持ったのは、道路などを通るときによく目にする工事中という看板です。発展しているのにさらに発展を目指している日本人を私は心から尊敬しています。  そこで私は日本に伝えたいことがあります。 こんな話があります。インドが独立して間もない頃の話です。一人のヒンドゥ教の聖者が日本を訪れました。ある駅に降り立った聖者は食事をしようと思い、レストランを探していました。インドの聖者は一日に一回しか食事をすることができません。しかも、肉を食べることは絶対にありえないことで、臭いをかぐことすら罪になります。ですから、肉以外の物を食べられるレストランを探していました。しかし、どのレストランもベジタリアンが食べるような物は置いていませんでした。果物ならあるだろうと思いさらに探しつづけていると一人の日本人が近づいてきて、聖者に果物を差し出しました。聖者は驚きました。そして、お礼が言いたかったけれども言葉が分からなかったので頭を下げて、その場を立ち去りました。この話は私がインドの教科書で読んだ話です。これがインド人の日本人に対して持っているイメージです。しかし、私はこんな経験をしました。ある時、ある人にこう質問されました。「インドではガムは売っていますか?」この質問に私は本当に驚きました。情報メディアが世界一と言えるほど発達している日本でこんな質問をされるなんて驚きの極みでした。「インドにだってガムくらい売っている!」私は傷つきました。なんだか自分の国が非常に遅れていて何もない国だと思われているような気がしました。


 しかし、その人がどういう気持ちでこの質問をしたかはわかりません。別にばかにするような気持ちで言ったわけではないかもしれません。本当に無知から来る質問だったのかもしれません。けれども、このような些細な一言で日本人全体に対するイメージが悪くならないとも限りません。 インド人がイメージしているのが日本人の全てではないのと同じく、日本人が思っているインドと実際のインドは全然違います。インドも過去数年間で発展してきています。国民の生活習慣も変わってきているし、若者の考え方も変わってきています。経済にせよ、社会制度にせよ、いろいろな面で、このままではいけない、インドも発展するべきだというのは皆思っていることです。ですから私は多くの日本人に、アメリカやヨーロッパなどの国々にいって豪華なホテルに泊まって観光するのだけではなく、アジアの他の国に行ってほしいと思います。そしてそこの情報を他の日本人に伝える。そしてさらに他の人にも知らせる。このようなことによってこそ、その国の正しい状況を知ることができるのです。今、日本は途上国に多くの支援をしていますが、その国の正しい状況を知れば、さらに良い支援ができるようになります。支援される国のよりよい発展につながるのではないかと思います。 言語や文化が違う国の間には様々な問題が起こりがちです。聖者の話のように良い例もありますが、私が経験したように間違いも起こり得ます。やはり、表面的ではなく、その国を深く理解することが大切です。 最後に私はインドに伝えたいのは「郷に入ったら郷に従え」ということです。海外に行くインド人はとても多いです。そして、彼らの多くが頻繁にインド人のお店に行ってインド料理を食べています。しかし、それだけでは外国の文化に触れることができません。私たちは外国に行くのはただ観光だけではなく外国の良いところを身に付けるのが一番大事です。インドの文化を外国に教え、外国の文化をインドに伝えながら、信頼関係も深まるにつれてインドの発展にも役立つのです。 日本で過ごした二年は私の人生での黄金時代です。私にとって日本での二年間は本のようでした。これから大学に行くのですが、ますます社会とふれあう機会が多くなると思います。勉強することもまだまだたくさんあります。一生日本にいても日本全国を知ることは不可能です。私の日本という本の勉強はこのまま一生続いていくでしょう・・・・・・。


[[ 最後に…]] 私がオイスカと関わりを持ったことも、日本で勉強できたことも偶然です。そして、たくさんの人たちに出会うことができました。それらの出会い全てがすばらしいものでしたが、その中でも特に近しく感じられた出会いはオイスカの先生方と、3年の夏休みにホームステイでお世話になった奈良のお母さんたち、友達との出会いでした。 うれしい時はもちろん、辛く悲しい時もいつも近くにいてくれたのがオイスカ高校の先生方でした。2年間、一度もインドに帰ることができなかったのに、みなさんのお陰でホームシックになることはありませんでした。 奈良でのホームステイはたった一週間でした。しかし、なぜ、こんなにも奈良のお母さんたちと友達のことを近く感じるのでしょう。なんと表現していいかわかりませんが、それに名前をつけるなら壁。それが奈良のみんなとの間には全く感じられませんでした。奈良にいる間、私たちはほとんど毎晩寝ずに語り合いました。それは、インドのこと、お母さんたちのこと、大きなことから小さなことまでとにかくいろいろなことを語り合いました。たった一週間の間に私たちの心は深く通じ合いました。ホームステイの後もお母さんたちは自分の子どもにしてくれるように私たちに思いをかけてくれました。誰かが、風邪をひいたと聞きつけると風邪を予防する器具を送ってくれたりもしました。自分の息子に何か送ることがあれば、その中に必ず「インドの息子たちの分」も入っていました。


私は日本に来る前はとにかく、一所懸命勉強することだけを考えていましたが、それだけではなく、人との出会いがこんなに尊いことを学びました。素晴らしい出会いに恵まれました。 ある日、私は寝ながら音楽鑑賞をしていました。音楽を聴きながら、インドにいる父と母に会えない、親せきにも会えない、インド料理も食べられない、私と一緒にインドからきた友達と別れる日がもうすぐやって来る、そんなことを考えていました。一緒にインドからきて、二年間一緒に過ごして何事も一緒にやって朝起きることから風呂に入ることそして、夜寝ることまで一緒にやっていて、いつの間にか二年間が過ぎてしまいました。 そこで、私はこのようなことを思いました。「出会いがあれば別れがある。そして大切にすればするだけ別れが辛くなる。けれども、それは物理的な別れでしかない。」と。なぜならば、私たちのことはみんなの心の中にいつまでも残るにちがいないからです。もちろん、同じように私の心にもみんなのことがいつまでも残ります。 「一期一会」という言葉があります。これは茶道のもてなしの精神を表した言葉です。ここにある出会い、一緒に過ごす時間、交わす言葉、それら全てはもしかしたら一度限りのもので二度とこのような機会は訪れないかもしれない。だから、今、この機会を大切に、精一杯のおもてなしをしよう。そういう意味だそうです。私には、今、この言葉の意味がとてもよくわかります。


私にとって今いちばん辛いことは、日本のみなさんとお別れすることです。出会いを大切に思えば思うほど辛さは大きくなります。私はみなさんとの関係を一生続けていきたいと願っています。 2年間本当に、本当にありがとうございました。