利用者:(あ)/試作6
ソードダンサー[注 1] | |
---|---|
欧字表記 | Sword Dancer |
品種 | サラブレッド |
性別 | 牡 |
毛色 | 栗毛[1][c 2] |
生誕 | 1956年4月24日[2][3] |
死没 | 1984年11月16日(28歳没)[3] |
父 | Sunglow |
母 | Highland Fling |
母の父 | By Jimminy |
生国 | アメリカ合衆国 |
生産者 | Brookmeade Stable[4][2][3][c 2] |
馬主 | Brookmeade Stable[4][c 2] |
調教師 | J. Elliott Burch[4][3][c 2] |
競走成績 | |
生涯成績 | 39戦15勝[4][2][3] |
獲得賞金 | 829,610ドル[4][2][3] |
ソードダンサー(Sword Dancer、1956年4月24日 - 1984年11月16日)は、アメリカ合衆国の競走馬・種牡馬。1959年のベルモントステークスに優勝するなどの高い競走成績を残し、後年にアメリカ競馬殿堂入りを果たした。種牡馬としてダマスカスの父ともなった。
経歴
[編集]出生
[編集]ブルックミードステーブル(Brookmeade Stable)名義でオーナーブリーダーを営むイザベル・ダッジ・スローンが生産したサラブレッドの牡馬である。生まれた頃のソードダンサーは貧弱な馬で、体格は小さく、幅がなく、骨も細く、サラブレッドらしい尻の張りも見られなかった[c 3]。ソードダンサーの父母はともに際立つほどの競走・繁殖実績がなく、貧相な見た目のソードダンサーを産んだことでスローンもその繁殖能力に失望し、母馬ハイランドフリングを売却したという[c 3]。この体格は成長とともにそれなりに向上したが、3歳9月の時点で体高15.3ハンド(約155センチメートル)とサラブレッドとしては小型な部類のままであった[3]。また、胴回りについても後年のアケダクト競馬場においての計測で、胸囲70インチ(約178センチメートル)、管囲7.75インチ(約19.7センチメートル)と、見かけほど極端な体格はしていないことがわかっている[c 4]。
この当時、ブルックミードステーブルの競走馬はプレストン・モリス・バーチ調教師に預けられていたが、1957年にバーチは引退し、代わって息子のジョン・エリオット・バーチがブルックミードの競走馬を預かる役目を継いだ。ソードダンサーもまた、開業間もなくのジョン・エリオット・バーチの厩舎に送られて、温暖なフロリダで訓練を積んだ[c 3]。
2歳時(1958年)
[編集]※ 特記がない限り、競走の馬場はすべてダート。また、競走当時はグレード制未導入。
ソードダンサーは小柄な体格からか仕上がりは早かった。勝てるうちに勝たせておきたいと考えたバーチは、デビューの時期としてはかなり早い時期である、2月28日のハイアリアパーク競馬場で行われる未勝利戦(3ハロン)に登録した。ソードダンサーはその競走でS・ブールメティス騎手を背にして出走、馬券では8番人気と期待されず、レースでも中位から差を詰めて4着に入っただけに終わった[c 5]。バーチはソードダンサーは意外と可能性があると考え、改めてじっくり調教を積んでから、6月に入ってニューヨーク州の競馬場へとソードダンサーを送り込んだ。しかし、目論見に反してソードダンサーはすぐに結果を出さず、ベルモントパーク・デラウェアパーク・サラトガと8月まで競馬場を転戦し、8戦目に迎えたサラトガ競馬場の6ハロン戦でようやく初勝利を挙げた[c 5]。
ソードダンサーの素質を確信していたバーチは、未勝利脱出直後のソードダンサーをすぐさまステークス競走へと送り込んでいった。初のステークス挑戦となったワールズプレイグラウンドステークス(アトランティックシティ・7ハロン)では4着、その後一般戦2走で3着・1着の結果を残している。その後にサフォークダウンズ競馬場で行われたメイフラワーステークス(8ハロン70ヤード)へ出走、この競走では後方待機から第3コーナーでまくり上げていく競馬で、先頭に近づいて最後の直線で追い出しにかかると、後続を大きく引き離して4馬身半差の圧勝を見せた[c 6]。ソードダンサーの馬体は依然として貧弱であったが、貧弱なりながらも独特の精悍さを身に着けていた[c 5]。この圧勝にスローンは「こんなに強い馬だったのか」と驚き、バーチはそれに笑顔で答えたという[c 6]。
ソードダンサーは続いて、この当時の2歳戦における大競走のひとつであったガーデンステートステークス(10月25日・ガーデンステートパーク・8.5ハロン)に登録された。同年のこの競走には2歳戦線を賑わしてきたファーストランディングやトミーリー、インテンショナリー、ブラックヒルズなどの強豪が登録しており、ソードダンサーはそれらの人気馬に次いで5番人気に支持されていた[c 6]。この競走でソードダンサーはスタートで出遅れ、インコースで他馬に包まれながらの道中を進めていった。第3コーナーに入ると周囲の馬が動き出し、それに合わせてソードダンサーも外側へと身を持ち出して順位を上げていった。そして最後の直線で追い込みを図ったが、アタマ差の決着となったファーストランディングとトミーリーにはついに追いつけず、2着トミーリーから2馬身離れた3着に敗れた[c 6][5]。ガーデンステートで3着に入ったことでソードダンサーへの注目度は高まり、翌戦ジャマイカ競馬場のレムゼンステークス(8.5ハロン)ではソードダンサーが1番人気に推されていた。しかしこの競走でも馬群に包まれながらの競馬となり、一度最後尾まで下がってからの追い込みを図ったが、勝ち馬アトールには届かず4着に終わった[c 6]。ガーデンステートでの競走内容が評価されてか、同年の2歳馬フリーハンデキャップにおいて122ポンドと評され、1位のファーストランディングから6ポンド差の5位にランクインしている[c 6][3]。レムゼンステークスのあと、バーチ調教師はこの年の暮れもソードダンサーをフロリダに送って翌年に備えた[c 4]。
3歳初旬・クラシック戦線(1959年)
[編集]ソードダンサーの3歳シーズンはフロリダのガルフストリームパーク競馬場から始まり、初戦に迎えたハッチソンステークス(6.5ハロン)では追い込みが不発に終わり5着、続いて一般戦(8ハロン70ヤード)では先行策を取って2馬身差で勝利した[c 4]。同年の3戦目、4月4日に迎えたフロリダダービー(ガルフストリームパーク・9ハロン)においてもソードダンサーは先行策にでたが、最後の直線で追い込んできたイージースパー(Easy Spur)に追いつかれ、3/4馬身差差し切られて2着に敗れた[c 4][6]。
これまでイージースパー相手にはハッチソンステークスを含めて2度破れていたが、バーチ調教師は強気にソードダンサーをチャーチルダウンズ競馬場に送り込み、そこのステッピングストーンパースという一般戦(7ハロン)で再びイージースパーと対決させた。鞍上をウィリー・シューメーカーに替えたソードダンサーはここでも先行する競馬を進め、再びイージースパーに最後の直線で追い込まれるが、今度はこれを1馬身差離して勝利した[c 4]。この競走では、サンタアニタダービーを牝馬ながら制してきたシルバースプーンが出走して注目されていたが、ソードダンサーから2馬身半差の3着に敗れている[7]。
5月2日に迎えた3歳戦の大一番にしてアメリカクラシック三冠の第1戦ケンタッキーダービー(チャーチルダウンズ・10ハロン)には、2歳戦でも戦ってきたファーストランディングやトミーリー、フロリダから続いて対峙するイージースパー、前走でも対戦したシルバースプーンらとの対決となった。この競走でシューメーカーはトミーリーに騎乗したため、ソードダンサーには代わりにウィリアム・ボランドが騎乗している[c 4]。競走が始まるとボランドはソードダンサーを馬群の外側に置いて道中を進めていき、第3コーナーに入って先手をゆくトミーリーに接近した。一度は並びかけて先頭を奪ったが、トミーリーとシューメーカーも抜かれまいと抵抗する。最後の2ハロンでボランドが20回以上鞭を打ってまで駆り立てた激戦の末、2頭は完全に並びかけた形で決勝線に飛び込んだ[c 7][c 8]。ゴール後、シューメーカーはボランドに対して「グッドラック、あなたが勝っていることを祈っているよ」と語りかけたが、写真判定の結果軍配が上がったのはトミーリーのほうであった[c 7]。一方で、ボランドはトミーリーがコーナーと残り半ハロンの標識地点とで何度もぶつかってきたことを訴えており、17分にわたる審議が行われたが却下されている[8][9]。
この年の三冠第2戦プリークネスステークス(ピムリコ・9.5ハロン)はケンタッキーダービーから2週間後の開催で、トミーリーの陣営はダービー後の疲労が回復していないことを理由に出走を取りやめ、クラシック戦線から撤退した[c 7][c 8]。このため、本来トミーリーに続けて乗るはずだったシューメーカーの手が空き、ソードダンサーの陣営は彼にプリークネスでの騎乗を依頼した[c 7]。当日の馬券人気では前走3着だったファーストランディングが1番人気に推され、ソードダンサーが2番人気になっている[c 8]。
3歳後半(1959年)
[編集]4歳時(1960年)
[編集]表彰
[編集]- 1975年 - サラトガ競馬場に、ソードダンサーの名を冠したソードダンサーインビテーショナルハンデキャップが創設される。
- 1977年 - アメリカ競馬名誉の殿堂博物館に殿堂馬として選定される。
- 1999年 - ブラッド・ホース誌の選ぶ20世紀のアメリカ名馬100選において53位に選ばれる。
種牡馬入り後
[編集]血統表
[編集]ソードダンサーの血統 | (血統表の出典)[§ 1] | |||
父系 | テディ系 |
[§ 2] | ||
父 Sunglow 1947 栗毛 |
父の父 Sun Again1939 栗毛 |
Sun Teddy | Teddy | |
Sunmelia | ||||
Hug Again | Stimulus | |||
Affection | ||||
父の母 Rosern1927 栗毛 |
Mad Hatter | Fair Play | ||
Madcap | ||||
Rosedrop | St.Frusquin | |||
Rosaline | ||||
母 Highland Fling 1950 黒鹿毛 |
By Jimminy 1941 黒鹿毛 |
Pharamond | Phalaris | |
Selene | ||||
Buginarug | Blue Larkspur | |||
Breakfast Bell | ||||
母の母 Swing Time1935 栗毛 |
Royal Minstrel | Tetratema | ||
Harpsichord | ||||
Speed Boat | Man o'War | |||
Friar's Carse | ||||
母系(F-No.) | (FN:1-o) | [§ 3] | ||
5代内の近親交配 | Fair Play4×5=9.38% | [§ 4] | ||
出典 |
血統背景
[編集]父サングロウ(Sunglow、1947年生)は、ケンタッキー州のメアワースファーム(Mereworth Farm)で生まれた牡馬である[c 9]。サングロウの父、サンテディも同牧場に繋養されていた種牡馬であった[c 10]。サングロウはキーンランドのサマーセールに上場され、そこでスローンのブルックミードファームに8,000ドルで落札された。スローン所有のもと競走馬としてデビューし、サラナクハンデキャップ、ディスカヴァリーハンデキャップ、ワイドナーハンデキャップ、チェサピークステークスなどで勝利した。ケンタッキーダービーにも出走しており、4着に入っている[c 9]。
その競走成績は一流には一歩及ばないもので、また主流から外れた血統のため種牡馬としての期待は低かったが、スローンはサングロウをメアワースファームに戻して種牡馬入りさせた。種付け料は500ドルと格安であったが、それでも配合牝馬は20頭程度しかおらず、初年度産駒は未勝利を勝ちあがるのが精いっぱいという状態であった[c 9]。生涯で出したステークス競走勝ち馬は6頭にとどまっている[c 10]。
母ハイランドフリング(Highland Fling、1950年生)はスローンが自家生産した繁殖牝馬で、2歳時に骨折して未出走のまま繁殖入りした馬であった[c 3]。先述の通り、スローンはソードダンサーの馬体の貧弱さに失望し、翌年にハイランドフリングをキーンランド・ミクストセールに出品、2,000ドルでフィリップ・ゴドフリーに売却しているが、その後ソードダンサーが活躍すると、ゴドフリーは同馬を80,000ドルで売却している[c 3]。ソードダンサー以外の産駒も出しているが、ステークス勝ち馬はソードダンサー以外には出さなかった[c 10]。
母母スウィングタイム(Swing Time、1935年生)はスローンが1936年のサラトガセールで6,200ドルで購入した馬で、競走馬としては8戦して未勝利に終わっている[c 3]。
3代母のスピードボート(Speed Boat)はテストステークスの勝ち馬であった[c 3]。スウィングタイムのほかのおもな産駒には、1941年のコーチングクラブアメリカンオークスなどで優勝したレベルベスト(Level Best、1938年生)がおり、このレベルベストは繁殖牝馬としてもジョッキークラブゴールドカップ優勝馬レベルリー(Level Lea、1950年生)を出すなど高い成績を残している[3]。4代先の子孫には1965年ベルモントステークス勝ち馬のヘイルトゥオール(Hail to All)がおり[3]、それ以外の末裔にもアメリカ殿堂馬レイチェルアレクサンドラ(Rachel Alexandra、2006年生)や、フランス1000ギニー優勝馬イルーシヴウェーヴ(Elusive Wave、2006年生)などがいる[12]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 山野浩一『伝説の名馬 PartIII』中央競馬ピーアール・センター、1996年。ISBN 4-924426-49-0。
- Ercel Ellis Jr. (2019). Kentucky Horse Tales. History Pr. ISBN 978-1467141475
- Richard Sowers (2014). The Kentucky Derby, Preakness and Belmont Stakes: A Comprehensive History. Trade paperback. ISBN 9780786476985
- ジム・ボウラス(原著)、桧山三郎(翻訳)『ケンタッキー・ダービー・ストーリーズ』荒地出版社、1996年。ISBN 4-7521-0098-3。
- William H. P. Robertson (1964). The History of Thoroughbred Racing in America. Bonanza Books. ASIN B000B8NBV6
注釈
[編集]出典
[編集]- ^ “Sword Dancer(USA)”. JBISサーチ. 2020年5月1日閲覧。
- ^ a b c d “Horse Profile for Sword Dancer”. equibase.com. 2020年5月1日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l Avalyn Hunter. “Sword Dancer (horse)”. American Classic Pedigrees. 2020年5月1日閲覧。
- ^ a b c d e “Sword Dancer”. racingmuseum.org. 2020年5月1日閲覧。
- ^ “First Landing Captures Rich Garden State Stakes”. Reading Eagle (1958年10月26日). 2020年5月3日閲覧。
- ^ “Easy Spur Steps To Victory In Florida Derby”. Ocala Star-Banner (1959年4月5日). 2020年5月4日閲覧。
- ^ Whitney Tower (1959年5月2日). “FROM HERE TO CONFUSION”. Sports Illustrated. 2020年5月4日閲覧。
- ^ Jennie Rees (2015年4月24日). “Derby Countdown | *Tomy Lee, 1959”. Courier Journal. 2020年5月4日閲覧。
- ^ “1959”. kentuckyderby.com. 2020年5月4日閲覧。
- ^ a b c “血統情報:5代血統表|Sword Dancer(USA)|JBISサーチ(JBIS-Search)”. 日本軽種馬協会. 2020年5月1日閲覧。
- ^ a b “Sword Dancerの血統表”. netkeiba.com. 2020年5月1日閲覧。
- ^ “Family 1-o”. Thoroughbred Bloodlines. 2020年5月2日閲覧。
外部リンク
[編集]- 競走馬成績と情報 netkeiba、JBISサーチ
- Sword Dancer - アメリカ競馬名誉の殿堂博物館
== 脚注 ==
=== 参考文献 ===
=== 注釈 ===
=== 出典 ===
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