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利用者:鵡川耳郎/室蘭生協

沿革

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1913年(大正2年)8月7日 - 日本製鋼所購買組合として設立。

1943年(昭和18年)8月6日 - 日本製鋼所配給課に移管。

1946年(昭和21年)6月1日 - 有限責任日本製鋼所室蘭製作所員購買組合として再開。

1949年(昭和24年)2月1日 - 日本製鋼所生活協同組合に改組。

1954年(昭和29年) - 分裂

1972年(昭和47年)2月9日 - 室蘭中央生協と合併。

概要

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日本製鋼所購買組合として設立

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1908年(明治41年)、日本製鋼所が民間軍需工場第一号として室蘭市に設立された。本格的に操業が開始されると人口が急増したため物価の急激な上昇を招いた。若干高い給料を貰っても生計はプラスにならないので、従業員の互助機関として設置されていた共栄組合と会社の厚生施設の物品販売所が統合して新しく産業組合法に基づく、日本製鋼所購買組合が1913年(大正2年)8月7日に設立された。(出資金2千円, 組合員数1315人,年供給高20万円)。

組合員は掛通帳で物品を購入、代金は給料控除システムで御用聞き制度を採用したため、既存商店街に大きな反響をあたえた。「購買組合とは会社が利益を得るため業者と結託して、粗悪な品物を割高で従業員に売りつける組織である云々」と宣伝し対抗したので、購買組合は開設したものの運営は軌道にのらなかった。

第一次世界大戦によるインフレにより、物価が急上昇したため購売組合の利点が組合員に理解され運営がようやく安定した。しかし、第二次世界大戦により殆んどの生活物資が統制され、軍需工場に優先配給されるようになった。購買組合の運営維持が難しくなり1943年(昭和18年)8月6日付で業務一切を会社配給課に移管し、店舗は配給所となり組合従業員は社員として配給業務に従事した。

終戦後、国民経済は混乱し、特に北海道は冷害により食料品を始め、生活物資が極度に欠乏し、生活は破綻しようとしていた。購買組合を知っている多数の人々の生活物資を確保するためには組合員組織で自主的運営をする消費組合が生活に密着した制度として最も望ましいという世論が強く沸き起こり、日本製鋼所と従業員合意のもとに2年有余続いた会社直営配給所を廃止した。

1946年(昭和21年)6月1日、有限責任日本製鋼所室蘭製作所員購買組合(出資金17万円,組合員数3032人,年供給高1,677万円)として再開。農家との産直、漁船をチャーターして漁獲、冬期間の燃料の確保に東奔西走。精米、製粉工場や養豚飼育所の開設をしながら統制品の配給も続けていた[1]

日本製鋼所生活協同組合

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1948年(昭和23年)10月1日の消費生活協同組合法施行により、1949年(昭和24年)2月1日、日本製鋼所生活協同組合に改め、生協理念に基き民主的運営を目指して歩みだした。そのころから統制も逐次緩和され、戦前の問屋も開業し始め、生協は戦前の信用もあって順調に商品を入荷するようになってきた。全面的御用聞制度、物品代の給料控除を復活させた。

日本経済は終戦後の壊滅状況から立ち直りの時期に朝鮮戦争が起き、予期しない特需と輸出ブームで経済レベルが一気に高まった。日本製鋼所も軍需工場から民需工場へと転換していたが、創立以来一般市場の販売ルートが弱く先行不安をもたれていたが、特需により従来の技術が生かされ復興した。しかし事変終結後の1953年(昭和28年)、一般経済界の不況と緊縮財政の浸透から鉄鋼需要が著しく減退し、経営困難となり徹底的な合理化を行なうことになった。 室蘭製作所従業員915名に解雇通知書が伝達されたため214日に及ぶ激しい労働争議となり労働組合も生協も2つに分裂するという労働者にとって悲惨な結末に終った(日鋼室蘭争議)。そのうえ、会社から人件費や水道光熱費等、福利厚生施設として受けていた助成が打ち切られ独立採算性となり、生協の運営にとって大変厳しいものであった。


職員204名のうち会社に籍のあるものは64名であり、このうち役員と幹部18名が会社から賃金を支払われていた。生協はこの人件費を含めて月間約75万円の補助金と、土地建物の借用など会社から援助を受けていた。日鋼生協は歴史的には典型的な会社工場付属生協と考えられてきたが、一応組織の独立的運営は守られており、会社と労組の間の争議協定においては、争議時において生協は中立の立場をとることが確認されていた。しかし54年の争議においては、生協はこの限界を破って労働者の側にたつことになる。

労働争議が始まって間もない7月1日、理事会は「いかなる状況下に置かれようとも生協は共同体なるため、制定された定款諸規定に基いて運営執行する」と確認し、7月8日会社が解雇通知を発送すると、10日の理事会は解雇通知を受けた組合員も争議解決までは組合員として取り扱うことを決定した。7月21日会社はロックアウト宣言を発して工場を閉鎖し、争議の長期化が予想される事態となってきた。労働組合では長期闘争の体制をかためるため、「消費規制」による最低限の生活必需物資を中心とした掛売実施を生協に申し入れた。生協では理事会でこの申し入れを受け入れることを決定し、労働組合の闘争に公式に協力することとなった。

日鋼室蘭労組はそれまで御用組合と言われ弱体であり、会社の人員整理方針が発表された時もこれと根本的に対決する姿勢はなかった。ところが個人宛の解雇通知が行われると情勢は急速に変わり、まず解雇該当者とその家族が解雇反対に立ち上がった。日鋼室蘭においては明治以来2代3代にわたって日鋼で働いてきた労働者が大きな部分を占めており、その家族の間には姻戚関係が広く出来上がっており、長い間社宅に住み着いて帰るべき故郷はなかった。このような条件が、労働者の妻たちを闘いに立ち上がらせ、7月7日炭労にならって主婦の会が結成され、以降闘いの大きな推進力となってゆく。争議が始まると日鋼における合理化攻勢を労働者階級に向けられる一連の合理化攻勢の突破口であることを感じた各労働組合も、次々と支援した。すでに6月末、三鉱連は支援オルグを派遣し、7月15日には総評が日鋼室蘭の決議した。こうして総評を中心に鉄鋼労連、炭労、国鉄、全道労連、室蘭地協、それに地元の富士鉄労組などによって強力な支援体制がつくられた。こうした全国的な支援を受けた労働組合に対し、会社側はロックアウト、立入禁止仮処分の申請と一歩も引かなかった。9月に入って仮処分が決定し強制執行したのを契機に、会社側は労組の分裂工作を開始した。そして9月22日警官500名の介入によって半成品の搬出を強行したが、以降警官の介入はしばしば行われるようになる。

争議が長期化するにつれ、売掛金の回収は次第に悪化し、生協の資金繰りを圧迫するようになってきた。日鋼生協の売掛代金の給与差引は会社労使間の協約に従って行われていたが、会社の経営が悪化するにつれ給与差引分の生協への支払いは悪くなり、すでに争議以前の3000万円以上の未払い金が残るようになっていた。争議開始後はこの支払が一部分争議解決まで持ち越された。一方、労働組合においても資金繰りの悪さから、消費規制を8月16日から


所得倍増計画が引きがねになって設備投資ブームが起き、日本製鋼所もこのブームにのって新技術の導入により生産高も上昇し従業員の採用も年々増加したので職域内における生協の役割も拡大してきた。昭和30年代に構内売店2店、病院売店及び構内食堂3店の開設を始め独身寮給食4寮、病院患者給食、社宅内の浴場3カ所、洋裁所(紳士婦人服仕上と修繕)の委託経営や、従来資材課や厚生課で扱っていた事務用消耗品の供給や作業服安全靴の支給、文化、体育会や祭典、レクレーションに必要な物資や景品、永年勤続表彰の記念品等、生協の分担する任務も増えてきた。また主婦組合員から要望の強かった直営美容所3店舗を オープン、これらを含め店舗商品供給事業を区分し利用事業として管理してきた。

34年にセルフサービスの試験を設けスーパーマーケットの学習を始めた。しかし鉄鋼産業は好不況の波が激しく、職域生協は組合員が固定化しているうえ、会社の事業が直接運営に影響してくるので店舗の改装など計画実現に弱さがあり、この打開策を考慮していたところ、昭和40年栗林商会直営配給を移譲したい旨申入れを受けた。この本輪西配給所は1929年(昭和4年)頃開設され、米穀、和洋酒類、たばこ、の許認可商品を中心に食料品主体の取扱いをしていた配給所的性格から脱しきれず、多様化する従業員の生活ニーズに対応できなく赤字経営になっていた。約1年経営譲渡の条件、店舗用地など協議のうえ臨時総代会で譲り受けを決議。約800名の加入、そのなかから理事2名総代5名を選出。1966年(昭和41年)6月、理美容室を併設し7店目を開設し職域連合として組織の拡大を図ることにした。

昭和30年代後半、日本製鋼所は持家制度を推進することになり、社有地に系列の不動産業者による旭ケ丘団地の分譲が始まり、同社従業員をはじめとする住民が大幅に増加していった。要請を受けて生協は中央に店舗用地を購入。1969年(昭和44年)7月に8店目となる旭ケ丘ストアが現在の登別市美園町4丁目に出店。店を利用する周辺の消費者の生協加入を進めた[2]

室蘭市は42年から6000戸、人口2万人の宅地造成を始め44年から白島ニュータウンとして分譲を始めたが商業用地の小売店は規模も小さく価格も高いため居住者・市役所の強い要請を受けて46年に9号店を開店した。

職域から職域連合へ、更に職域地域混合型へと一歩一歩生協運営の基盤確立を図り会社や労働組合の諒解を求めながら職域生協の弱さを逐次補なってきた。生協の体質強化については42年からの第1次5ヵ年計画にそって既存店を250坪を標準に改築を進め、管理部門は43年に2台の電子会計機を導入、買掛金、給与計算, 供給高日報,店別部門別供給高荒利益高在庫高、不明ロス、値引、損益管理表や従業員1人当り供給高、荒利益高, 1坪当り供給高や日々の客数, 客単価,買上げ点数等を正確で迅速に把握できるよう改善し52年コンピューターに切替え、事業所別経費明細、バランスシート、組合員出資金の管理など機械化した。組合員が増加しその要望により指定店も18店から24 店、さらに30店に増やしたが、最近は年々利用率が低下している[1]

室蘭生協

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1954年(昭和29年)の労働争議において労働組合と生協が分裂。労働組合は1964年に統一を実現したが、生協は同一地域内での日本製鋼所生協(職域生協)と室蘭中央生協 (地域生協) の競合が続いていた。1969年(昭和44年)に中央生協が経営困難に陥り、道連合会は支援の要請を受け指導にあたったが先行再建に目途がたたないため道連理事会で合併について討議され日鋼生協が速やかに対応するよう求められた。45年9月臨時総代会で長時間審議の結果基本的に承認されたので道連と両生協の代表者により委員会が構成され7回にわたり合併形態、新定款の作成、中央生協の債権債務、従業員問題等協議の結果、1972年(昭和47年)2月9日調印された。分裂以来実に17年振りに1本化され合併披露会には市長、会議所会頭始め業界代表、日本製鋼所関係200名の方々から祝福を受け室蘭生協として市民に愛され親しまれる生協になるよう前進を始めた。

重複店舗の統廃合、既存店の改築、体質の強化を図り店舗も13店となり、51年101億、 55年125億円で地域一番の供給高になった。しかし56年には全国でも珍しい大型店3店同時オープンにより競争が激化し、更に58年 からの構造的不況により人口が減り始め、生協も再び困難な時代を迎えた[1]

  1. ^ a b c 『生協運営資料 111号』日本生活協同組合連合会、1986年9月25日、111-114頁。 
  2. ^ 『新登別市史』登別市、2021年3月31日、262頁。