利用者:陽寿/琉球史記事5
集産党事件
[編集]治安維持法違反として、1927年(昭和2年)11月に名寄を中心とし、稚内・士別・旭川・剣淵等で活動していたマルクス・レーニン主義者を大量検挙した共産党弾圧事件。これは前年の京都学連事件に次いで全国2件目、北海道では初の治安維持法違反を名目として行われたものであったため、世間を沸かせたうえ警察側も思想取締り強化を再認識した事件であった[1]。
「集産党」は、大正デモクラシーの思想的な影響を受け民主主義的考えをもつ者を中心として名寄で結成された「名寄新芸術協会」のメンバーが「党員」と目された政治結社であり、結党はされていたものの実体を周知していない者も多かった。そのため、検挙者のなかには自分がなぜ検挙されたのか、いつ党員にされていたのかも認識していない者も存在した[2]。 この事件では、北村を含む「名寄新芸術協会」のメンバー計11人有罪とされたが、北村は第1審の有罪判決を上告し執行猶予付きで実刑を免れている[3]。 このように、本事件ではもっぱら「名寄新芸術協会」のメンバーが検挙の中心となったために、本事件を「名寄集産党事件」と言う場合もある[4]。
北村は、1927年(昭和2年)に新潟農林高校を卒業後「名寄新芸術協会」に加入、戯曲を書きつつ農民運動に加わっていた[5]。 北村は、高校在学中から小作争議の応援演説に行くなどしており、すでにこの頃には、日農北連(日本農民組合北海道連合会)の荒岡庄太郎からも人手が足りないと声がかかるなど、運動家とのコネクションも有していた。このように、名寄新芸術協会における文芸活動や日農北連での農民運動を通して、今野大力、小熊秀雄、小林多喜二らと親交を持った[6]。
この事件の真相について、後年北村は党側ではなく検挙側にあったのではないかと推測している。北村によると、定説としてはソ連革命10周年に「反抗を発散せよ」とした不穏文書を党や党員が獲得したためとされているがそれはウソで、検事側の働きかけに特高警察が呼応したことが真相であるとする[7]。
- ^ 『北海道警察史(2)昭和編』北海道警察本部、1968年(昭和43年)、185頁。
- ^ 『新士別市史』士別市史編纂室、1989年(平成元年)、862頁。
- ^ 山家忠志 (1983年). “名寄集産党事件について”. 士別市立博物館報告 創刊号: 29.
- ^ 山家忠志 (1983年). “名寄集産党事件について”. 士別市立博物館報告 創刊号: 27.
- ^ “北村順次郎氏略歴”. 士別市民文芸 NO.8: 6. (1984年(昭和59年)).
- ^ 『蛇紋岩』士別市民文芸の会、1983年(昭和58年)、77-84頁。
- ^ 北村順次郎 (1982年(昭和57年)). “集産党事件 5(「北」の語りべ 89)”. 朝日新聞 2月25日号(のち『士別市民文芸』NO.8 43頁に転載).