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利用者:鈴木幹啓

1975年10月2日三重県伊勢市で理容店の長男として生まれる。 両親2人とも理容師。父親の親(故祖父)も理容師で、母の親(故祖父)も理容師。 生粋の理容師家系である。親戚や従兄もみんな理容師か美容師。

両親は仕事で忙しかったので、私は3歳くらいまで津市の母の実家に預けられていた。 保育所に行くようになってからは土日だけ(土日は理容店の仕事が忙しかったため)、妹と一緒に遠い親戚の老婆に預けられた。

小学校、中学校の成績は優秀でオール5。

3人子供がいる 長女(平成27年4月より1年間に海外(スイス)留学中) 次女 長男

2007年、一浪後に自治医大に入学。 医学部ではラグビー部に所属し、ラグビーに明け暮れ、ろくに勉強もせず、交遊に明け暮れていた。1年生の前期の成績は103人中103位と最下位 しかし、そこからは6年間猛勉強した。6年生時の国家試験模試で学内3位、全国30位であった。他の学生からも一目置かれるようになった。 1年生以後、1つも単位を落とさず、頑張ってきたが、唯一単位を落としたのが小児科であった。再実習のため、長期の休みがつぶれ、予定していた海外旅行を泣く泣くキャンセルした。自己責任なのだが、小児科という学問と小児科の教授が大嫌いになったとのこと。この時は自分が小児科医になるなんて、思ってもいなかったと語っている。

自治医大は今のローテーション研修スタイルを30年前の1期生の時から採用しており、ストレートではなく、様々な科を研修勉強させて頂いた。それは一人でへき地勤務が義務付けられているからだ。 内科を中心に、外科、小児科、麻酔科などを経験した。その中で、内科では沢山のがん患者の方をはじめ、病気で亡くなる方を御見送った。人が亡くなることにも慣れてきた。鈴木曰く命を軽んじて言っているのではなく医師として、プロとして慣れてきたという意味だそうだ。 その中で、夜中にすすり泣く家族の声が聞こえた。小児科病棟からだ。何か雰囲気が違ったと振り返る。 人の死になれているはずの自分が担当でもない子供の死にたたずむことしかできなかった。その時は命の重さに差があるように感じたと語る。 そして、小児科不足が叫ばれていた時代背景もあり、そこに自分が求められている気がしたとのこと。小児科に進む決心をした。

センター病院と紀南病院(御浜町)とを数年単位で行ったり、来たりした。 そして、センター病院で勤務していた時に、紀南病院で診ていた患児が訪れ、「先生、帰って来て」の言葉で新宮市で開業するに至った。

開業して5年経過したころ、新宮市の過疎化と高齢化社会を実感した。 鈴木は釣りが趣味であったが、釣り仲間が入院したり、亡くなったり、釣りができない後遺症を負ったりする経験をするうちに介護に興味を持ち始める。

鈴木は児科医と高齢者介護との二足の草鞋を履くことになるがそのことに関して「簡単なことではないと思うが、今、人生の岐路にいる自分を自覚し、それを自分で楽しみたいと思っている。」と語っている。