利用者:農近/sandbox
アルゼンチンの映画(アルゼンチンのえいが)では、アルゼンチンの映画について解説する。その歴史は19世紀末にブエノスアイレスではじまるが、幾度となく起こる国内の政情不安がそのたびに映画産業に停滞を強いて、ときには映画人が投獄されるなど不幸な時期が少なくない[1][2]。そうしたなか、人物はレオポルド・トーレ・ニルソン、フェルナンド・E・ソラナスといった映画監督を輩出しており、作品は『天使の家』(1957年)、『オフィシャル・ストーリー』(1985年)や『瞳の奥の秘密』(2009年)が各国の映画賞を受賞するなど、メキシコとブラジルにならぶラテンアメリカの映画大国として発展してきた[1][3]。映画祭は1950年代からマール・デル・プラタ国際映画祭が開催されており、さらに2000年前後から国際映画祭の設立が相次いでブエノスアイレス国際インディペンデント映画祭、コルドバ国際アニメーション映画祭、ブエノスアイレス・ロホ・サングレなど、おおくの都市で国際映画祭が開催されるようになった。
歴史
[編集]創生期から1930年代
[編集]アルゼンチンの映画は、19世紀末にその歴史が始まり、創生期は主にヨーロッパ人移民の手によって発展をとげてきた[4]。1896年、ベルギー出身の貿易商アンリ・ルパージュがブエノスアイレスで初めて映写機のシネマトグラフ・リュミエールを紹介し、リュミエール兄弟が製作した映画『ラ・シオタ駅への列車の到着』などが上映された[4]。それから間もなく、ルパージュとともに働いていたフランス出身の写真技師ウジェーヌ・ピーがゴーモンの撮影機材を用いて映画撮影を行い、アルゼンチン最初の映画『アルゼンチン国旗』(1897年)を製作する[4]。1900年にはブエノスアイレスに最初の映画館が開業して、イタリア出身の指揮者マリオ・ガッロが製作したアルゼンチン最初の劇映画『ドレゴの処刑』(1908年)が成功をおさめる[1]。また、ピー同様にルパージュと共に働いていたオーストリア出身のマックス・グリュックスマンが製作から配給や興行まで一貫したシステムをアルゼンチン国内のほか、ウルグアイやチリに整備して、強大な興行網を敷いた[5]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- ジョルジュ・サドゥール 著、丸尾定 訳『世界映画史 1』(第2)みすず書房、1980年。ISBN 4-622-01506-4。
- 永冶日出雄「アルゼンチンにおけるシネマトグラフの受容と初期の映画産業 - シネマトグラフの世界的浸透(その7)」『愛知教育大学研究報告(人文・社会科学)』第49巻、愛知教育大学、2000年。 NAID 110000576053。
- 村山匡一郎「中南米映画」『世界映画大事典』岩本憲児、高村蔵太郎、日本図書センター、2008年。ISBN 978-4-284-20084-4。
- 村山匡一郎「中南米映画」『日本大百科全書』Yahoo!百科事典 。2013年8月18日閲覧。
- 広岡勉 著「ラテン・アメリカ映画」、加藤周一 編『世界大百科事典』 29巻(改定新)、平凡社、2007年。ISBN 978-4-582-03400-4。
- Bawden, Liz-Anne, ed. (1976), “Argentina”, The Oxford Companion to Film, Oxford University Press, ISBN 0-19-211541-3