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利用者:足塚 根谷/sandbox

善光寺平用水(総称)
灌漑面積 1099.12(1999年当時)ha
取水 裾花川 犀川
合流 千曲川
流域 凡そ第1次昭和の大合併時の長野市域
備考 一つの用水路の名称でなく、複数の用水路の総称である。
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善光寺平用水(ぜんこうじだいらようすい)は長野市千曲川左岸と浅川右岸に挟まれた範囲に流れる用水路の、長野県善光寺平土地改良区設立以降の総称である。疏水百選に選出されている。

概要

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長野県善光寺平土地改良区が管理を行う用水路の総称として用いられる。裾花川より取水し、一部の用水路は犀川からの補水を受けている。主な用水路は以下のとおりである。

  • 八幡山王堰(北八幡川、南八幡川、漆田川、計渇川、古川、宮川、南俣川、社堰を含む。)

脚注・出典

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関連項目

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外部リンク

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鐘鋳川(かないがわ)は、長野県長野市長野盆地北部を流れる農業用水路である。平安時代前期には開削されていたとされ、善光寺平用水の中では最も歴史の古い用水である。現在、善光寺平土地改良区に属し、鐘鋳堰用水組合が管理しており、善光寺平用水の一つとして疏水百選に選出されている。

なお、長野県の方言として用水路を堰(せき、せぎ)と呼ぶため鐘鋳堰と鐘鋳川の二つの名称が混在しているが、この項目では『長野県水利系統図索引』[1]に記載されている、鐘鋳川の名称を用いることとする。なお固有名称に鐘鋳堰の名称がつかわれている場合は、そのままとしている。

流路

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南長野において、裾花川より取水している裾花幹線導水路の鐘鋳堰分水工から分水し、長野三輪吉田を通過し、浅川に合流している。枝堰によって三輪吉田若槻古牧の4地区の田園40ha[2]を潤している。吉田地区まではほぼ等高線上に沿う形になっており、傾斜がほとんどなく、むしろ下流の方が高いといわれる。長野地区の市街地、三輪地区の住宅街では大部分が暗渠になっているが、それ以外では一部分を除き開渠である。途中の長野中央通りには善光寺七名所の一つ、花相橋が架かっている。三輪の淀ヶ橋では湯福川が樋によって鐘鋳堰の上を横断している。現在は浅川に合流する形をとっているが、元は天井川であった浅川をくぐり対岸にあったカンネ池に注いでいた[3]

歴史

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開削時期

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鐘鋳川の詳細な開削時期については当時の資料がない。ただ、鐘鋳川から分水する中沢川は平安時代末期に開削されたとされているので、平安時代末期以前であるということは確実である。また、鐘鋳川の灌漑している三輪地区は、発掘調査によって平安時代に条里制が施行されたと判明しているため、この開発と同時期の平安時代前期であると推測されている[4]。なお、松平忠輝の家臣、花井吉成慶長年間にほかの用水とともに開削したとの伝承もあるが、1601年慶長6年)に成立した善光寺領が鐘鋳川を領界としていることから1604年慶長9年)の吉成含む家臣団の北信濃入り以前より鐘鋳川があることが解るため、これは誤りである[5]

開削以降

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近世の記録類には「鐘鋳堰」、「かん子川」、「かんねん川」など様々な書かれ方をしているのがみられる[6]。灌漑地域は旧13ヶ村におよび109ヶ所もの分水口があったが、江戸時代初め頃から村同士で鐘鋳堰用水組合を作り管理していた。しかし、主に用水の配分順などでの村同士の争いは絶えず、現在も多くの訴状や和解文書が残る。また当時は裾花川から直接取水していたため、同じく裾花川から取水していた八幡山王堰用水組合との取水口での配分の争いはたびたび起っている。極めつけは1924年大正13年)の争いである。この年は降雨が少なく、鐘鋳、八幡山王両組合で水をめぐる争いとなり、8月16日には暴力沙汰にまで発展し、両組合により水利権確認の訴訟がなされ7年間にわたって争われることとなった[7]

裾花川は年々減水の傾向にあり両組合の争いは続いたため、農地水利問題の根本的な解決を図るべく、長野市農会が裾花川からの頭首工による合口取水と、犀川からの引水による給補水を提案し、1929年昭和4年)に善光寺平農業水利改良期成同盟会を結成し、両組合は事業の遂行を条件に和解、訴訟を取り下げた。同5年に鐘鋳、八幡山王の2組合を連合させる形で善光寺平耕地整理組合(現在の善光寺土地改良区)を設置。1931年(昭和6年)に頭首工やそれに伴う導水路の開削を行う善光寺平農業水利改良事業に着手した。鐘鋳堰関連では従来の現在の妻科は百景苑付近にあった取水口に代わり、1934年(昭和9年)から1935年(昭和10年)までに裾花頭首工、裾花幹線導水路、鐘鋳堰分水工が開削、建設された。また、1936年(昭和11年)に犀川頭首工、犀川幹線導水路が完成し、八幡山王堰用水組合の管理する用水路に補水することとなり両組合の水をめぐる争いはなくなった。現在は善光寺平土地改良区に属し、鐘鋳堰用水組合が管理している[8]

管理運営

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中世にかけての資料は現存しないが、引水する荘園、郷の、荘官や地頭によって管理運営がなされていたと考えられている[9]。江戸時代には灌漑地域の妻科村(南長野)、権堂村、問御所村(鶴賀)、﨤目村、三輪村(三輪)、稲積村(若槻)、西和田村、北平林村、北高田村(古牧)、桐原村、下越村、中越村、吉田村(吉田)の旧13ヶ村が鐘鋳堰用水組合を作り、妻科村の徳武家を堰守とし、代々世襲として管理していた[10]。田の荒起こしの際には下流から水を入れることとなっており、毎年6月20日に初簗手と称して水を引き入れ始め、下流から若い日にちが割り振られ、慣行として定着していた。これは1839年(明治26年)に「鐘鋳堰田用水荒塊引協定」として成文化し、1917年(大正6年)に改定され「規約書」が成立した。堰浚いは1819年(文政2年)の「鐘鋳川堰図」の添え書きに各村ごとに範囲が取り決められている。これらは最近[11]まで遵守されていた[12]

三輪の淀ヶ橋で湯福川が樋で横断しているが、かつては大雨のたびに土砂が流出し下の鐘鋳川が埋没したため各村から人を出し土砂を上げる作業が行われていた[3]。また、門前町では用水路に塵芥を捨てることが半ば常習化し水質が悪化しており、1821年(文政4年)には岩石裏など3か所にごみ捨て場を設置している[13]

善光寺平農業水利改良事業により鐘鋳堰分水工が完成する以前には、裾花川からの取水口に恒久的なはなく、石俵を組んだ簗手と呼ばれるもので堤防の様に裾花川を堰き止め引水していた。八幡山王堰も下流で同様に引水していたが、水量の少ない年は鐘鋳川の簗手を破壊し再構築することによって、鐘鋳川が暮六つから明六つ[14]、八幡山王堰が明六つから暮六つに交代で引水することとなっていた。この時簗手を破壊、修理をする際は両組合の人々が監視していた。ただ、時間がはっきりとしないため争いは頻繁に起きた[15]

現在鐘鋳川は善光寺平土地改良区に属し、灌漑地域の妻科(南長野)、﨤目、三輪(三輪)、稲田(若槻)、荒屋、平林、北条(古牧)、桐原、太田、中越、吉田(吉田)の旧11ヶ村が鐘鋳堰用水組合として管理運営している[15]

脚注・出典

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  1. ^ 長野県土地改良史編集委員会 『長野県水利系統図索引』 1999年、128頁
  2. ^ 1999年当時。
  3. ^ a b 以上裾花川水系-それぞれの用水2016年8月17日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2017年11月18日閲覧。
  4. ^ 以上長野市誌編さん委員会編 『長野市誌』第二巻、2000年、456頁
  5. ^ 以上長野市誌編さん委員会編 『長野市誌』第三巻、2001年、34頁
  6. ^ 長野市誌編さん委員会編 『長野市誌』第八巻、1997年、249頁
  7. ^ 以上1 善光寺用水の概要 - 長野県” (PDF). 2017年11月18日閲覧。
  8. ^ 以上歴史的な農業用水施設 - 長野県” (PDF). 2017年11月18日閲覧。
  9. ^ 長野市誌編さん委員会編 『長野市誌』第八巻、1997年、293頁
  10. ^ 長野市誌編さん委員会編 『長野市誌』第三巻、2001年、682頁
  11. ^ 参考文献の発行年は1997年である。
  12. ^ 以上特記のない限り、長野市誌編さん委員会編 『長野市誌』第八巻、1997年、295頁
  13. ^ 長野市誌編さん委員会編 『長野市誌』第八巻、1997年、251頁
  14. ^ 定時法ならばおよそ午後4時から午前4時。
  15. ^ a b 以上長野市誌編さん委員会編 『長野市誌』第八巻、1997年、102頁

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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