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利用者:赤井彗星/執筆中/日本の生化学の歴史

日本における生化学は、1881年ドイツから招かれ、現在の東京大学農学部で教鞭をとったオスカル・ケルナーオスカル・レーヴによってもたらされたのが始まりとされ、彼らを師事した古在由直鈴木梅太郎らが発展させた。

当時の主な研究は食品成分からビタミンアミノ酸のような栄養的に重要な物質を分離する研究で、この傾向は戦前まで続いた。一方医学系生化学においてはドイツに留学した隈川宗雄荒木寅三郎がそれぞれ1889年に東京大学、1895年京都大学に開設した医化学講座がはじまりとされる。こちらでは動物体内における食品の分解過程を研究の主題としており、特にアミノ酸代謝の研究は日本のみならず世界から注目された。戦前までの生化学は植物、動物、微生物などから新しい物質を抽出し、精製することによって構造を決め、生理活性との相関性を究明することや、新しい作用をもった酵素に関する研究が重きを占めていた。また、戦時中は他の分野と同じく軍事研究に多くを割き、基礎研究は中断された。

戦後、日本で生化学研究が再開されたのは1950年ごろからで、日本国外から多量の学術情報が流入し、それまでの研究方法に革命的な変革をもたらした。特に放射性化合物を用いた目に見えない微量の物質を確認する手法(ペーパークロマトグラフ法)はそれまで化合物を大量に投与した動物の排泄物から分離・結晶化して確認していた日本にとって画期的な手法とされた(但し当時は放射性化合物の使用が禁止されていた)。1951年イギリスでペーパークロマトグラフ法を用いてインシュリンの構造決定がなされたのをきっかけに、日本でもタンパク質研究が大きな盛り上がりを見せ、1952年赤堀四郎により考案された構造決定法のひとつであるヒドラジン分解法は欧米で高い評価を獲得している。

DNAの研究に際しては遺伝の仕組みが1944年アメリカで解明されたのを受け、岡崎令治によりDNA合成前駆体である短断片(岡崎フラグメント)が発見されている。また、リボ核酸の構造決定には1957年江上不二夫が発見し結晶化した酵素が用いられた。