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利用者:蚯蚓/サンドボックス9

ダレスの恫喝

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ジョン・フォスター・ダレス米国務長官
重光葵外相
ダレス米国務長官と重光外相

ダレスの恫喝(だれすのどうかつ)とは、北方領土問題に関連して、1956年にアメリカのダレス国務長官が発したとされる、「もしも日本が二島で妥協するなら沖縄を返還しない」[1]との趣旨の発言である。

概要

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1955年から始まった日ソ国交回復交渉において、ソ連が支配していた北方四島(択捉島国後島色丹島歯舞群島)の返還を求める日本に対し、ソ連は二島(色丹島・歯舞群島)の引き渡しによる最終解決を主張し、両者の主張は平行線をたどった。そこで対ソ交渉の全権であった外務大臣重光葵は、ソ連案を受け容れることを決断したが、それに対しアメリカのダレス国務長官は重光に対し「もし日本が国後、択捉をソ連に帰属せしめたなら、沖縄をアメリカの領土とする」と述べたとされる[2]。その後、日本政府は領土問題を棚上げした形での日ソ共同宣言締結に至ったため、この発言はしばしば冷戦下における日ソ接近を警戒したアメリカによる圧力だったと解される[3]

経緯

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日ソ交渉の膠着

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第二次世界大戦後、日本とソ連の間には国交がなく、また日本が西側陣営に属したこともあって日ソ間には禍根が残っていた。とりわけ、サンフランシスコ平和条約で帰属が明記されなかった北方地域(南樺太千島列島)の扱いについては、1955年から始まった日ソ国交回復交渉の過程でも最後まで対立が残ったままであった。松本俊一衆議院議員を全権とする日本側に対し、ヤコフ・マリクを全権とするソ連側は同年8月に色丹・歯舞両島の引き渡しを提案したが、日本政府は択捉・国後の返還も要求したため交渉は膠着した。

重光葵外相の登板と「豹変」

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行き詰まった交渉を打開するため、鳩山一郎首相は外務大臣重光葵を全権として起用し、1956年7月よりソ連側との交渉を再開した。重光は従来対米協調・対ソ強硬派であり、1955年8月には「日ソ関係正常化は太平洋地域の安定化に貢献するが、それは決して我々がソ連と親交を結ぶ意図があるとの意味を持たない。我々は米国との強力な協調関係をわずかでも害するいかなる約束をも行わない[4]」とさえ述べている。こうした姿勢は全権就任後も続き、松本をして「ほとんど不必要に思われるまでに強硬[5]」と言わしめるほどに、色丹・歯舞のみならず択捉・国後を要求する姿勢を見せていた。

しかし、重光の強硬姿勢に関わらず、ソ連側の回答は変わらなかった。すると重光は1956年8月12日、二島引き渡しというソ連案をそのまま受け入れると主張しはじめ東京に訓電、「政府の方針や自民党の党議や国民感情にも反する」とした松本の説得も聞き入れなくなり[6]、この態度の変化は松本をして「豹変」と呼ばれることとなる[7]。これに対し日本政府は翌日、早期妥結を拒否する旨を回答した[8]

脚注

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  1. ^ 時論公論 「戦後70年・北方領土交渉 過去と展望」 - NHKオンライン(Wayback Machine、2018年7月1日) - http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/209209.html
  2. ^ #松本・佐藤(2012)、125~126頁
  3. ^ 「2島か、沖縄か」日ソ共同宣言直前、領土返還で圧力かけた“ダレスの恫喝” - The Page, 2018年4月29日閲覧
  4. ^ 『日米会談:防衛関係再検の時期責任均分化へ政局安定-ソ連とは親交せず』毎日新聞、1955年8月31日
  5. ^ #松本・佐藤(2012)、113頁
  6. ^ #松本・佐藤(2012)、119頁
  7. ^ #松本・佐藤(2012)、123頁
  8. ^ #松本・佐藤(2012)、122頁

参考文献

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  • 松本俊一佐藤優『日ソ外交回復秘録』朝日新聞出版、2012年。ISBN 9784022599926 
  • 五百旗頭真・下斗米伸夫・A.V.トルクノフ・D.V.ストレリツォフ『日ロ関係史』東京大学出版会、2015年
  • 河野康子『沖縄返還をめぐる政治と外交』東京大学出版会、1994年
  • 久保田正明『クレムリンへの使節』文藝春秋、1983年
  • 樋渡由美『戦後政治と日米関係』東京大学出版会、1990年
  • 下斗米伸夫『日ロ関係 歴史と現代』法政大学現代法研究所、2015年
  • 北岡伸一『自民党 政権党の38年』中公文庫、2008年