利用者:藤倉 正美/sandbox
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根本山神社
沿革
群馬県桐生市と群馬県みどり市・栃木県佐野市の境に頂を位置する根本山(1199m)は桐生城築城(1350年)の折、城から北側を護る山砦を建てたと言われている。桐生城築城から224年後の1573年3月桐生城落城の折、桐生城落ち武者の安蔵・生形・園田の三名と根本山神社 中興 良西先師が山に篭り十九日間後の同年4月1日に本山派修験総本山と言われる聖護院より『 聖護院宮末修験根本山大正院 』(しょうごいんみやまつしゅげんねもとさんだいしょういん)の名を頂き再興した。大山祇命・大山咋命の山神を祀る 。本地仏 不動明王
後に、江戸幕府は、慶長18年(1613年)に修験道法度を定め(聖護院も天台寺門宗の総本山である園城寺に属した)真言宗系の当山派と天台宗系の本山派のどちらかに属さねばならないことにした事を受け、輪王寺を本山とした。輪王寺は栃木県日光市にある寺院で日本天台宗の門跡寺院である。本地仏を薬師如来とした。1872年(明治5年)発布の修験道廃止令が終戦により消滅し聖護院が独立するまで続き終戦を期に333年ぶりに聖護院を本山とした。地理的にも史実的にも日光と関係が深く根本山神社10代目神官『永信法印』は日光輪王寺で修行をされました。日光東照宮と久能山東照宮を結ぶ線上に本社が位置するため江戸幕府から別格の待遇を受け彦根藩の飛び地として厚遇され、彦根藩主・井伊家祈祷所でもあった。江戸時代に発生した災害や病気に対する祈祷を複数回行い成就御礼として絵図の奉納や、第12代征夷大将軍徳川家慶の側室である『歌浦』より病気回復祈祷回復御礼として、紫の幕の寄贈などがあり複数現存している。現在でも神事として行われている相撲界からの奉納品が現存しており、式守 伊之助寄進の水鉢が現存している。本社から谷を隔てた正面に相撲場(角力場)を有し、相撲の奉納が行われた史跡がある(現在は危険につき立ち入り禁止)。
(根本山は日光連山の峰続き南方に位置し、多数の修験者が入山し稜線等に修験者が建てたと思われる石碑が複数残されている。現在は地元の瑞雲クラブなどで現地調査が進んでいる)
里宮は現在の桐生市梅田町4丁目に有る桐生川ダムに沈んだ今倉の里に置き、江戸時代には根本山講が開講し大いに賑わい、関東一円や東北地方より多くの人で賑った。
江戸時代後期には根本山講のガイドブックが出版された。
『根本山参拝路飛渡里安内』 安政六年 1859年
現在『みやま文庫』より復刻版〈みやま文庫No151〉が出版されている。
参拝道
石鴨天満宮の境内下に根本まで三十六丁と刻印された石碑が残されており一丁は約109メートルであるから約3.9キロメートルとなる。現在確認されている他の丁石は9箇所に10の丁石が確認されている。この内の移動されていないと判断される丁石が7個有る。これらと人家跡・石碑等を結び、現在の14代神官が先代13代神官と歩いた道を参考に考察すると、現在の根本山登山道沢コース上における根本沢へ下降地点から上流側300メートル付近で根本沢右岸(西側)へ大きく迂回し等高線に沿って移動した道が見えて来る。
(現在の登山道の不死熊橋脇より岩場にロープを伝い登る道は初代根本沢林道(昭和44年)(不死熊橋より100メートルほど十二沢上流部が分岐点)であった林道へ直接出る道であるが二度の崩落事故があり、分岐点をさらに十二沢林道(昭和44年)上流部に300メートルほど登った所へ昭和50年代に現在の根本沢林道入り口が設置されている。現在の根本沢林道も複数回の崩落事故があり工事中止となっている。したがって、根本山登山道の根本沢林道間は上下二段構造であり、崩落もおき易く根本沢林道を歩く時は落石に細心の注意を必要とする。)前述のように、崩落しやすい地形から起きる事故回避目的に、大きく迂回するルートとした古道を、開山から昭和初期まで使用したと推測される。
〈蛇足ではあるが、山に暮らした民は山での仕事中に自過失・自然現象に関わらず落石を目にした時点で大きな声で『石が行ったぞー』と叫んだモノである。これは下方で作業する仲間や沢で釣りをする者が居るかもしれない、その者の安全を考慮し一刻も早く回避行動が取れるよう配慮する大事なルールで有った。ゲストとして山へ入る方達もこのルールを作られたらどうかと存じます。2019年に発生した富士山における落石死亡事故もこのルールが確立していれば、死亡事故に成らなかった可能性が増加すると考えます。〉
この道は根本沢沿いを登り、参拝道上流部の魚止めの滝まで荷車が通れる道であったと伝えられており、その道幅は調査で発見された両側が石垣だった部分の測定では幅約1、6メートル、尚且つ荷車を引ける勾配を維持していた。(現在、瑞雲クラブにて現場測量などを進めており古道復活が期待される)丁石は遠く江戸まで設置されていたと伝えられているが、殆どが消失しており確認は困難である。(お心当たりのある方はお知らせ頂けると幸いに思います。)参拝道を下流部へ辿ると、根本山登山道駐車場の下流側に上藤生沢があるが、この上藤生沢中腹(現在の三境林道 上藤生橋脇)まで多少のアップダウンはあるものの等高線に沿って参拝道が通っていたと思われる。参拝古道沿いに、石積や土盛・墓石など三箇所6軒あまりの住居跡を瑞雲クラブが確認している。上藤生沢に突き当たる場所では、屋敷跡の石垣下に石宮二柱があり、南からの参拝道である石鴨から北上した道と、みどり市側(沢入)から南下した街道(北からの参拝道)と、根本沢へ繋がる根本山神社参拝道の分岐点となっていたと推測される。現存する丁石と屋敷跡等は別図に示す。
現在の中尾根登山コースは、根本山神社の東隣にある十二山神社の群馬県側参拝道として機能していた。中尾根コース中腹にある祠も十二山神社に奉納されている祠と同時期に奉納されたものである。十二山神社開山は当時の根本山神社神官 藤倉良西先師が山を隔てた隣村(現在、栃木県佐野市飛駒町に根古谷森林公園として残っている)に有った大覚院(大学院)小野家より根本山を裏から拝みたいとの要請により聖護院へ開山を仲介し、根本山神社開山から17年後の1590年開山した。(2011年に小野家は絶えてしまい、現在跡地は公園になり、社殿は根古谷神社として公園の一部となっているが、境内に根本山神社と書かれ十二山神社の説明が有る)他にも近隣の聖護院系神社の開山を複数仲介したと根本山神社に言い伝えられている。(現十四代神官より)
歴史
(根本山神社とその本山・歴史背景を共に表す)
尚、神社固有情報・歴史情報 参照元は
① 平成28年発刊 清水 義男 著
『 霊峰・根本山 』根本山神社大正院 発行
② みやま文庫 第217巻
増田 宏 著『 山紫水明 』桐生の山
③ 国会図書館デジタルコレクション
山田郡誌
④ 桐生市図書館所蔵 昭和初期山田郡地図
⑤ 江戸時代の絵地図
⑥ 参照元サイト
ウイキペディア ・ コトバンク
及び、現神官 藤倉 孝康氏より聞き取り調査と
瑞雲クラブ現地調査によるものである。
年 表
28代 宣化天皇期 552年 仏教公伝
六世紀末 新宮時建立開始 ・ 神仏習合
33代 推古天皇期 593年 羽黒山を開山(社史)
月山神社 羽黒派修験(独自な修験)
天平神護二年 766年 日光山「紫雲立寺」建立
直後に「四本龍寺」と改めた。
後の輪王寺
延暦六年 787年 比叡山に延暦寺開山
日本天台宗本山
弘仁七年 816年 空海は高野山を賜った。
真言宗本山 当山派修験本山
寛治四年 1090年 白河坊 開山 天台寺門宗
1160年前後 白河坊 から 聖護院 へ変更
本山派修験総本山
正平 四年 1350年 桐生城築城
根本山に桐生城の北を護る山砦を築く
元亀四年三月十二日 1573年 桐生城落城
元亀四年四月一日 1573年 根本山神社再興
慶長八年 1603年 江戸時代
慶長十八年 1613年 修験道法度
聖護院は天台寺門宗に所属
根本山神社の本山を輪王寺へ
元和三年 1617年 日光東照宮建立
弘化元年 1845年 今倉の里 三日三晩の大火
根本山神社の里宮の里が大火に見舞われた
近隣より再建への寄付800両寄進を受けた。
嘉永三年 1850年 井伊直弼 彦根藩藩主
安政元年 1855年 安政江戸地震 祈祷
安政六年 1860年 根本山神社 江戸開帳へ出立 (一万石大名相当の行列)
安政六年 1860年 桜田門外の変 ・ 井伊直弼没
安政六年 1860年 根本山神社 江戸開帳中止
開帳中止の借財1600両 (現代換算1億6000万円)
明治元年 1868年 大政奉還 ・ 神仏分離令
根本山神社と菩提寺形態に分離
明治四年 1871年 上知令
根本山神社 社地 四百六十町歩 没収
( 東京ドームのグランド351個分 )
明治五年 1872年 修験道廃止令
昭和二十年 1945年 終戦
修験道廃止令・神仏分離令消滅
聖護院は天台寺門宗から独立
根本山神社 本山を聖護院へ復した
根本山神社と菩提寺形態のまま現在に至る
昭和三十八年 1963年 没収した土地の代金
(推定数億円)返還すると国より申し出
根本山神社13代神官 返還不要と返答
昭和四十四年 1969年 県境変更 根本山神社里宮 栃木県安蘇郡田沼町入飛駒今倉 より 桐生市梅田町5丁目へ編入
昭和四十七年 1972年 桐生川ダム建設着手
完成後 根本山神社里宮の里 桐生川ダムに沈んだ
昭和五十年 1975年 根本山神社と根本山神社別当家の菩提寺である碧雲寺 共に現在の地・桐生市梅田町一丁目へ移転
社殿等
里宮 大火の跡に残された木材を利用し、1845年に復元された。
移転後に復元された社殿には大火の跡が見える。
狛犬・水鉢・灯篭・石碑・石鳥居
本院 天保二年 1831年寄進
釣鐘堂 享和二年 1802年寄進
奥社 天保十一年 1840年寄進
獅子岩と祠 行者山へ登る岩の中腹
篭り堂跡 石灯籠に天保七年 1836年寄進
薬師如来像 安政二年 1855年
不動明王像 男坂不動の滝下部洞窟
不動滝 男坂入り口登山道に危険の標識有り
参拝道の丁石
参拝道の祠
参拝道の地蔵像
江戸時代の鉄はしご 天保十二年 1841年寄進
江戸時代の鎖
根本山神社の祭神
根元の大神
大山祇命 おおやまつみのみこと 「大いなる山の神」 「土木・建築・酒造の神」
大山咋命 おおやまくいのみこと 「山の地主神」 「酒造の神」
根本山神社に残る「 神徳記 」には次の十二の神徳が記されている。『 霊峰・根本山 』根本山神社大正院 発行 より転記します。
一 刀杖繋縛(とうしけいばく)の難を除く
二 業報を転じて難治病災を救う
三 夭寿横死の難を除いて延命の福を授く
四 愛嬌を成就して上下の人をして服さしむ
五 戦場の奇特を得て怨敵を摧破せしむ
六 沙汰に勝つ事を得て口舌の難を去る
七 風雨時に順じて百穀を成就せしむ
八 養蚕倍盛にして如意吉祥ならしむ
九 大小眷属共に火盗の難を防護する
十 家宅吉慶にして子孫永久ならしむ
十一 財宝盈溢(えいいつ)にして貧困の愁(うれい)を除かしむ
十二 未知の内証を輝かして二世の宿望を除かしむ
鎌倉期以後、ことに室町時代の根本山は、桐生城北端の山塞(砦)であって、また、阿蘇郡と足利郡の境界分水嶺という、重要な場所でした。
別称、黒幣(くろべい・黒兵衛とも)称され、天狗を祀る修験道の霊山として、今に、その姿を伝えているのです。
神徳記と一緒に、
一 諸人僧を貴く思うこと
二 諸人愛嬌を得ること
三 寿福を増長せしむること
四 怨敵忽(たちまち)に消滅せしめること
五 大六天魔王恐を成すこと
六 飯綱不退円満のこと
という「請願(元和2年=1616)」も伝えられています。