利用者:老/実験用サブページ
実験用サブページを開設しました。ここで私の編集を手助けする方針としたいと思います。
以前までここに長期にわたって放置していた案件は、諸事情により見送りとしました。以下は、アイタペの戦いの編集途中段階を記載します。なお、(たぶん)もうすぐ完成・投稿する予定です。また、文章に不適切なもの・誤字・脱字があったりなど何かお気づきの点がございましたら、お手数かとは存じますがノートページまで意見をお願い致します。
アイタペの戦い | |
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アイタペの戦いの戦闘経過 | |
戦争:太平洋戦争 | |
年月日:1944年7月10日 - 1944年8月25日 | |
場所:ニューギニア島アイタペ | |
結果:連合軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
枢軸軍 日本 |
連合軍 アメリカ合衆国 オーストラリア |
指導者・指揮官 | |
安達二十三 | ロバート・L・アイケルバーガーほか |
戦力 | |
5,5000 | |
損害 | |
戦死・戦病死 3,3000 生還者 2,2000 |
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アイタペの戦い(アイタペのたたかい、英:Battle of Aitape)は、太平洋戦争中の1944年7月10日から同年 8月25日まで、日本軍とアメリカ合衆国・オーストラリア軍の間で戦われた戦闘である。その戦地はニューギニア島北岸沿いの小さな町・アイタペであり、東部ニューギニアにおける他の戦闘と同様に、日本軍は武器・弾薬・食糧に乏しい中での長期にわたる抗戦を強いられた後、撤退・敗北した。
また本項では、7~8月のアイタペにおける戦闘の他に、アイタペにおいて行われたその前哨戦及び戦闘後の持久戦についても記述する(#背景、#その後参照)。
背景
[編集]米軍の上陸と前哨戦
[編集]1943年から1944年にかけて、日本軍はラエ、フィンシュハーフェン、マダン等の諸地域において徐々に戦線を後退させていた。またこのとき日本軍は、ニューギニアの諸作戦において第2方面軍隷下の第18軍を主力として戦っていたがそして1944年3月末頃からはホーランジア、アイタペの両地域に米軍が空襲及び艦砲射撃を行って、4月21日に再度大規模な空襲を行った翌日の4月22日朝、米軍は1個師団・兵力2万強をもって両地区への上陸を開始した。強靭な後方支援及び豪空軍の援助もあり、第32歩兵師団や第112騎兵連隊から構成された米軍上陸部隊は、上陸地点の日本軍数百名を蹴散らしていった。その後はホーランジアにおいて熾烈な戦闘が繰り広げられ、第18軍を投入してこれに挑んだ日本軍は、大半の兵力を損失させながらサルミ方面へと追いやられた(「ホーランジアの戦い」を参照)。
同時にアイタペでは、日本軍の兵站関係者約1,600名が小規模な戦闘の後に西方のサルミに向かっていた。その道中では、450名の第20師団補充員が米軍と激しい防御戦を交えることとなったが、後にその450名と残りの部隊はそれぞれ東方のウエワクと西方のサルミに散って向かうことにした。
一方アメリカ軍は、ホーランジア南側においてこれを迎撃するため待ち伏せをしており、ホーランジアを南側へ迂回しつつサルミへ向かった部隊がこれに邀撃されてほぼ全滅となった(目的地のサルミに到着したのは2名のみだった)。またウエワクに向かった450名も米軍からの攻撃に遭遇して250名の損失を被ったため、ウエワク到着時の残存兵力は200名となっていた。
第18軍の残存兵力
[編集]また日本軍の第18軍は、4月末頃には第20師団・第41師団・第51師団及び兵站・海軍・航空部隊を抱えており、合計すると55,000の兵力を持っていた。そしてその大半はウエワクに留まっており、ウエワク内部には飛行場や港、潜水艦基地などがあって、海軍・航空部隊兵力の合計は3,200となっていた。
だがこの頃より第18軍への補給はほぼ打ち切りの状態となり、この時点において、第18軍の持つ物資は、大発動艇27隻、小発動艇10隻、車両100台と備蓄食料35,000t(当時居た全将兵の食料約2ヶ月分に相当)ほか少量の火器・弾薬だけであり、戦力と成り得る兵力は、今までの戦闘・移動・感染病で疲弊し切った上記の3個師団のみとなっていた。一方ニューギニアのアメリカ軍は4個師団、オーストラリア軍は2個師団を保持しており戦力の差は歴然としていた。
戦闘直前の状況
[編集]6月20日、第18軍は第2方面軍から南方軍(寺内寿一陸軍大将指揮下)の直轄部隊となるが、相変わらず物資は補給されず食料も底をつきつつあった。また大本営からは、「第十八軍は、東部ニューギニアの要域に於いて持久を策し、以て全般の作戦遂行を容易ならしむべし」との任務が通達される。要は、大本営は積極的な攻撃は避けて自衛のために防御を固めておくように図ったのだ。だが安達二十三第18軍司令官が各隊を激励してまわったこともあったため、各部隊の精神力・士気は非常に高揚していた。司令部はこの様子を見据えて、6月30日に2万の兵力を投入してアイタペへ向けての総攻撃を決定、各師団にその旨を下命した。
一方その総攻撃の対象地となったアイタペにある連合軍は、5月4日には既に飛行場へ航空機およそ60機を配備しているため制空権を確保しており、沖合においても主に巡洋艦等の艦艇群20隻を配備させて制海権をも獲得していた。また兵力も、6月末の時点で1個師団を備えていたが、その1ヶ月後には一挙に3個師団にまで膨れ上がっていた。
戦闘の経過
[編集]日本の第18軍は、1944年7月10日午後10時にアイタペ奪還のため総攻撃を開始した。日本軍はここで、アイタペ東方にあるドリニュモール川(日本側のつけた名称は坂東川)に迫っていた連合軍と交戦することになる。まず日本軍は10分間に及んで準備射撃を行い、その後第20師団及び第237歩兵連隊がドリニュモール川河口から約2マイル上流の位置へ移動し、対岸に布陣していた連合軍に猛烈な射撃を浴びせ掛けた。しかしその移動中に、連合軍の強襲部隊から集中砲火を浴びせられて第20師団部隊が損失を出していた。とはいえ翌11日の朝の時点では、日本軍は付近の地域を一通り制圧して次の作戦に向けて準備を開始しつつあった。☆序盤は第20師団部隊が敵陣に川付近にまで深く切り込んだが、7月13日からは連合軍が本格的な反撃を開始、対する日本軍も第41師団を投入して戦火が激しくなっていった戦闘は主に海岸沿いにおいて行われ、両軍とも一進一退の熾烈な戦いを繰り広げた。
8月になると、物資に貧弱な日本軍は一気に戦力を落とし、いくら士気の盛んな日本軍でもこの状態で戦闘を継続すれば全軍が餓死に陥ることは目に見えていた。そのため司令部は8月4日正午をもって作戦を中止し、同日夜から川を渡ってウエワクに戻ることになった。