利用者:緑さん/緑ポータル/国/日本
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- 日本国
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(国旗) (国章(事実上)) - 国の標語:なし
- 国歌:君が代
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公用語 日本語(事実上) 首都 東京都(事実上) 最大の都市 東京都区部 建国 紀元前660年2月11日だと言われている。 通貨 円(JPY) 時間帯 UTC+9 (DST:なし) ISO 3166-1 JP/JPN ccTLD .jp 国際電話番号 81
日本 (にほん、にっぽん)は、東アジアの島国で、G7にも加盟しているなど、先進国の中の一国である。
歴史
[編集]建国
[編集]紀元前660年に神武天皇が天皇に即位したことで日本が建国されたと言われている。
行政改革
[編集]紀元後に入ると卑弥呼を中心とする邪馬台国や天皇を中心とするヤマト王権が日本列島を統一し始め、その頃から中国や朝鮮半島との貿易も活発になった。
ヤマト王権は都を中心とし、地方には国司(現在の知事的な役割を持つ)を派遣したり、遣隋使や遣唐使を通じて中国から法律を取り入れ、日本初の法律(大宝律令)を作るなど現在の日本の原型を作った。ちなみに少し前にヤマト王権は公地公民制(土地は国のものであるとし、「畑を開墾してもいつかは国に返さなければならない」という法律)を取り入れたが、農民は「いくら開墾してもいつかは国に返さなけばならない」という法律に絶望し、開墾どころか農作業ですら行わなくなったため、公地公民制を少し緩和したが、それでも働かなかったため公地公民制は廃止された。
貴族の繁栄~武士の登場
[編集]10世紀には自身の娘を天皇の妃とした藤原道長を筆頭とする藤原氏が権力を掌握した。藤原氏のような高貴な身分を天皇から与えられた人物などを今日では「貴族」と呼んでいる。藤原氏などの貴族が権力を掌握した方法は、頻繁に天皇を交代させ、新たに即位した無力な幼い天皇を「補佐」という形で天皇を傀儡とする方法である。
藤原氏をはじめとする貴族は贅沢な暮らしをして繁栄したが、その裏で新たに「武士」という名の武術に優れた豪族が力をつけていた。武士は、前述した通り武術に優れており、それのお陰で強力な軍事力を保持していた。武士は最初は「貴族の屋敷の警備」や、「犯罪の取り締まり」などの警察のような仕事をしていたが、天皇や貴族などからも信用され、地位を高めていく内に「武士団」と呼ばれる武士だけのグループができ、大規模な反乱(平将門の乱、藤原純友の乱など)を起こすことが出来るほど権力を手にした。ただ、その反乱も別の武士団が鎮めるなどこの頃から「武士団対武士団」の構図も出来上がっていった。
武士の時代へ
[編集]11世紀後期に前九年合戦・後三年合戦を鎮めた源氏が東日本で、奥州藤原氏が東北で勢力を拡大し、12世紀前半に瀬戸内海の海賊を取り締まった平氏が西日本で勢力を拡大した。
この中でも特に平氏と源氏は日本中に勢力を伸ばし、圧倒的な強さの勢力を築いていた。
ちなみにこの頃に「畑を開墾した者はその土地の領主に畑の農民が収穫したものを納めなければならない(年貢)」という新しい制度が完成した。そして、今までは土地の領主といえば貴族などであったが、この制度が導入された頃から「武士が土地の領主」という地域が急激に増え、この出来事から当時から武士は貴族と同等の権力を握っていることが分かる。
保元の乱や平治の乱などの朝廷内の内乱が起こると、武士も内乱に参加し、保元の乱では平氏と源氏が武功をあげ、平治の乱では平氏が源氏を破るという武功をあげた。
この二つの内乱で武士が活躍したことで武士は朝廷からも信頼され、平氏の代表である平清盛が政治の実権を握った。
平清盛は宋との貿易に利益に気づき、港や航路を整備するなど優秀な手腕を見せた一方、私利私欲な政治もしていたため、平氏以外の武士が不満を持ち始めた。さらに、平清盛が後白河上皇を監禁するなどの行動を起こすと、武士の不満が爆発し、源氏の源頼朝を筆頭とする各地の武士は平氏に対して反乱を起こした。
源頼朝は武術に優れた弟の源義経に軍を率いさせ、無事平氏が滅びると源義経を頼朝は自害させ、1192年に鎌倉で幕府を開き、日本を統治した。(諸説あり)
1199年に頼朝が死去すると、頼朝の長男である源頼家が将軍に就任するが、頼朝の妻の実家である北条氏と対立し、頼家は1203年に北条氏に監禁され、後に暗殺された。
そうして源頼家の弟である源実朝が1203年に将軍に就任するが、それと同時に北条氏は将軍の権力を弱め、執権という北条氏が世襲する権力の強い新たな役職を創設し、源実朝を傀儡とした。
1219年に実朝が甥に暗殺されると、源頼朝系の源氏は滅ぼされ、名実ともに北条氏が鎌倉幕府のトップとなった。
北条氏が日本を統治し始めてから日本国内の農業や商業、文化などもが発展し始め、モンゴルの侵攻も撃退するなど政権は比較的安定していた。
南北朝時代~室町幕府創設
[編集]しかし、鎌倉幕府の政権は永遠ではなかった。北条氏中心の幕府に反感を持ち、幕府の命令に従わず、年貢を強奪する武士(悪党)も現れ、日本国内の治安も悪化した。
それを見た後醍醐天皇はもう一度朝廷が日本を統治できるようにするため、足利尊氏や新田義貞などの有力な武士を朝廷の味方にし、鎌倉幕府を滅ぼした。
鎌倉幕府を滅ぼし、日本を統治し始めた後醍醐天皇は日本の政治を武士中心から天皇中心に戻し、首都も京都にした。後醍醐天皇は武士より貴族を重視したため、足利尊氏を筆頭とするほとんどの武士は政治に不満を持ち、武士中心の政治に戻すために後醍醐天皇の政権に対して反乱を起こした。反乱が勃発してから1年も経過せずに後醍醐天皇政権が崩壊し、後醍醐天皇は奈良に亡命した。
後醍醐天皇が亡命した後、尊氏は光厳天皇を新たな天皇として即位させ、京都で幕府を開いた。これが室町幕府である。
しかし、奈良では後醍醐天皇が天皇を自称し始め、天皇が2人となった。この天皇が2人いた時代のことを「南北朝時代」と呼ぶ。そして、京都(光厳天皇側)の朝廷を北朝、奈良(後醍醐天皇側)の朝廷を南朝と呼ぶ。