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大江勝永
大江勝永 (おおえ かつなが、本名・寒河江忠左衛門勝永。文化3年1月22日~元治元年9月9日)は、江戸時代後期の水戸藩の武士であり刀工。山野辺家重臣。大慶直胤門。
来歴
[編集]文化3年、水戸の山野辺邸内に生まれ、15歳で山野辺氏に仕えて、のち老職となった。人柄は剛直で、武芸に通じていたとされる。[1]
天保10年以来、山野辺家の召しに応じ、たびたび助川城で駐鎚した大慶直胤に鍛刀を学ぶ。助川城での同門に善定近則、直江助俊、源直吉らがいる。 助川城初代城主、山野辺義観も余技で鍛刀をしたため、勝永はその手ほどきをした。[2]
大江勝永の号は、祖先が因幡守大江貞種であったことから。貞種は出羽国の村上郡寒河江に住んで、「寒河江」を氏とし、最上家に仕えた。 山野辺の祖・義忠が山野辺城主となってからは義忠に仕え、以来、寒河江氏代々は、義忠が備前岡山に幽閉された時は岡山へ、水戸家に仕えるようになった時は水戸へ移り、山野辺の家臣を勤めた。[3]
婚姻
[編集]山野辺家の家臣・安達氏の女性を娶り、五男四女をもうけた。[1]
最期
[編集]元治元年、水戸藩は大きく天狗党と諸生党の二派に分かれ、幕府や諸藩を巻きこんでの内紛状態にあった。いわゆる「天狗党の乱」である。
時の助川城主・山野辺義芸は、水戸城にたてこもった諸生党・市川三左衛門に、人質同然となっていた徳川斉昭夫人らを解放させるため、8月23日、百余人を率いて水戸城へ向かった。この出立は、市川らに助川城への入場を拒まれ、その鎮撫に苦慮していた宍戸藩主・松平頼徳を助けるためでもあった。
しかし、諸生党は義芸の入城も拒絶。勝永が道理を尽くして説得を試みたが受け入れず、山野辺軍への攻撃を開始した。
この時、「諸生党に与する博徒勢が助川城に迫りつつある」との急報が入り、山野辺軍は急遽反転。松平頼徳の配下と合流し、石名坂の合戦、金沢の合戦を経て、8月25日、助川城に帰りついた。
ところが直後、義芸は幕府から逆賊と見なされてしまう。合流した頼徳軍が天狗党と行動を共にしていたこと、また、山野辺家がもともと水戸藩改革派の重鎮であったことが仇となった。
差し向けられた二本松藩・磐城平藩・松岡藩の追討軍に、諸生党の各隊、および動員された各村の人足790名をくわえた大軍勢により、助川城は包囲される。
圧倒的戦力差を見て、城主・山野辺義芸は9月6日、他日を期し、家臣と投降。 勝永は長谷川繁之介、神永伝兵衛ら24人と城にとどまり、包囲軍の攻撃を約3日間耐えしのいだが、9月9日、城は落城。勝永は應手口の辺りで敵に捕斬された。時に58歳。[2][3][4]
主な作品
[編集]武家の慰み打ちであるため作品は多くない。勝永が製作した刀としては、以下が確認されている。[2][5][6]
太刀 銘「造 大江勝永(花押)/安政三年常陽介川大平山於桃氏亭」 刃長76.1センチメートル
刀 銘「大江勝永作/文久二年八月日」 刃長52.7センチメートル
刀 銘「大江勝永作/文久三年二月日」 刃長不明
脇差 銘「安政二年大江勝永作/於介川桃氏亭」 刃長不明
短刀 銘「造勝永(花押)/嘉永七仲春」 刃長23.0センチメートル
薙刀 銘「常州介川騎士 大江勝永造之/嘉永七年仲春」 刃長78.2センチメートル
参考文献
[編集]- 鈴木彰『日立の歴史と伝説』日立史談会、1941年。
- 関山豊正『水戸の刀匠』郷土史研究会、1959年。 NCID BB0050464X。
- 鈴木彰『助川海防城 - 幕末水戸藩の海防策 -』崑書房、1978年。 NCID BA60483675。
- 『銕の意匠 -水戸刀と刀装具の名品-』茨城県立歴史館、1996年。 NCID BA47563849。
- 『鋼と色金 茨城の刀剣と刀装』茨城県立歴史館、2021年。 NCID BC05737176。