利用者:眞鍋浩巍
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原田熊吉 陸軍中将の絞首刑 昭和44年3月神戸市立高羽小学校を卒業したわたしは同年4月に神戸市立造船工業学校に造船技師を夢見て入学するも実習と言ふ名目で同年11月3日に三菱重工神戸造船所に学徒勤労動員で勤務する、仕事の内容は3台の造船台のうち2台で作らられる戦時標準A型船のマーキング、朝鮮人数100と共に働いていた、昭和45年6月5日神戸大空襲で我が家は全焼、父、母は防空壕暮らし、私は転校拒否されたが四国丸亀の父方の伯母の家に密かに転居姉、妹は父の本籍で別れ別れの生活、昭和45年8月15日天皇の詔勅を聞きながら坂出商業に転校、翌年丸亀市役所の斡旋で大豪邸の不玉を借りて父だけ神戸に残し母、姉、妹と4人やっと家族の生活に入りました、その家は11部屋に土蔵3棟広い庭園の大豪邸で原田熊吉中将のお屋敷でした、原田中将は陸士22期、陸大28期卒、東京35師団長、佐倉27師団長を歴任後中国大陸の作戦に参加後大戦勃発後山下大将の副官としてマレー半島作戦からシンガポール陥落、 その後インドネシア方面軍の最高指揮官で作戦後日本の敗戦となりました、が戦争責任を問われてシンガポールに身柄を送られました、昭和19年12月7日夜中M7,9の大地震発生3棟の土蔵のうち1棟が目の前で崩れた、その後月日がたち昭和22年の5月の有る夜奥の原田さんの部屋からすすり泣く声が聞こえてきました。 翌朝母から聞かされたのは原田熊吉陸軍中将は部下の犯罪行為の責任を負ってシンガポール、チャンギー刑場で絞首刑になられた。 明治21年8月生まれ、亨年 59歳短いと言えば短い一生だった