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利用者:準緑/sandbox

尊満(そんまん)は、室町時代前期から中期にかけての足利将軍家の一族。第3代将軍・足利義満の子で、第4代将軍・足利義持と第6代将軍・足利義教の兄に当たる。正式名は青蓮院尊満(せいれんいんそんまん)。友山清師(ゆうざんせいし)とも言われる。 昌幸の死後、信之はその葬儀に関してを家康の側近である本多正信に尋ねた。それに対して正信は昌幸は重罪人であるから幕府の意向を確かめてから対応するようにと忠告している[註 12]。死してなお、昌幸は容易に許されなかったのである[30]。

徳川家康は大坂冬の陣において真田が大坂城に入城した知らせを受けると「親の方か?子の方か?」と訊ねたと言われる。これは「謀将」昌幸の病死を家康を始め当時の武将達が半ば疑っていたことを示唆している。また、その時家康の手はがたがた震えていたと伝えられ、家康がそれだけ昌幸に恐怖していたとされる。実際は昌幸ではなく、当時は無名の信繁と知って安堵したとも伝わる。

家康とは相容れぬ関係にあり、反骨精神が旺盛であった。家名存続のために信之を送り込んでいるが、一定の距離を保っている。これは武田信玄の時代から家康と敵対関係にあったためではないかとされ、家康が出陣していないとはいえ2度の上田合戦で勝利し、自領の周囲が家康の脅威にさらされながらも敵対した事は昌幸の信念や自負が強烈だった事が伺える[31][32]。

人物像

昌幸を「表裏比興の者」と評した文書がある[33]。これは天正14年(1586年)の上杉景勝の上洛を秀吉が労う内容の文書で、同日付で豊臣家奉行の石田三成・増田長盛が景勝へ宛てている添書条に記されている。これは家康上洛に際して家康と敵対していた昌幸の扱いが問題となり、家康の真田攻めで景勝が昌幸を後援することを禁じた際の表現で「比興」は現在では「卑怯」の当て字で用いられる言葉だが「くわせもの」あるいは「老獪」といった意味で使われ、武将としては褒め言葉である。これは地方の小勢力に過ぎない昌幸が、周囲の大勢力間を渡り歩きながら勢力を拡大させていった手腕(知謀・策略)と場合によっては大勢力との衝突(徳川との上田合戦等)も辞さない手強さ(武勇)を合わせて評したものである。実際、昌幸を「比興の者」と評したと目される三成は、真田家と縁を結んでいる。

昌幸は現代の歴史小説において「謀略家」「謀将」として描かれる傾向が非常に根強い。誤りとまではいわないが、この従来の人物像の基礎になっているのは江戸時代の享保16年(1731年)に成立した信濃松代藩士・竹内軌定の『真武内伝』である。そのため、確実な一次史料の存在が乏しく、昌幸の人物像や個性に関しては不明な点も少なくない[34]。文人としての知識や興味は乏しかったためかどうかは不明だが、昌幸の著作や詩歌に関連する物は皆無の状態である[34]。『真武内伝』が信頼できるかどうかには疑問も持たれているが、これから昌幸の人物像を紹介すると、「昌幸卒去」の項に死に臨んで信繁に対し、昌幸は九度山幽閉中に家康が近い将来豊臣氏を滅ぼすことを予期していたと言われ、その際には青野ヶ原(大垣市を中心とする西美濃一帯・関ヶ原とほぼ同地点)で徳川軍を迎撃する策などを画していたとされる[34]。ただこの作戦は寡兵で多勢の敵軍に何度も勝利した楠木正成が採用した策略や陽動作戦そのものであり、昌幸が死に臨んで披露したかどうかには疑問をもたれている[34]。昌幸の策略は常に少数の敵で大兵力を抱える敵を破る事にあった。『真武内伝』では「古今の英雄で、武略は孫子呉子の深奥を究め、寡をもって衆を制し、神川の軍前には碁を囲んで強敵といえどもものともせず、その勇は雷霆にも動じない」と評している。同書によると昌幸は策略において常に楠木正成を手本にしていたとされている[34]。また策略だけではなく、家臣や領民を糾合して大敵に当たった昌幸の統率力は高く評価されている[35]。これらの伝承から、昌幸が2度も徳川の大軍を寡兵をもって撃退したことを踏まえ、「大坂の陣に昌幸がいたら、豊臣と徳川の運命は大きく変わっていたかも」とする憶測が生んだものとされ今もなお同じように考える人は少なからず存在する。

昌幸は最初の主君である武田信玄を生涯において熱く敬愛し、絶対の忠誠を誓っていた。天正13年(1585年)12月に昌幸は信玄の墓所を自領である真田郷内に再興しようとした。また『真武内伝』によると昌幸は信玄に幼少期から仕え、信玄全盛期の軍略や外交を見て模範にしていたとされる。同書によると、秀吉と昌幸が碁を打っていた際、秀吉が「信玄は身構えばかりする人だった」と評した。それに対して昌幸は「信玄公は敵を攻めて多くの城を取ったが、合戦に手を取る事なくして勝ちを取ったもので、敵に押しつけをした事は一度もない」と答えて秀吉をたしなめたと伝わる[35]。

昌幸は大名となる過程で秀吉の支援を受けていたため、秀吉に対して一定の恩顧心があったとされる[31]。領主としての昌幸に関しては不明な点が多い[32]。

昌幸は非常に筆まめだった[36]。大名時代から信之、家臣の河原氏などに対する書状が確認され、流人時代には信之や近臣に頻繁に書状を送っている[36]。流人時代には彼らから生活の援助を受けており答礼を記したものもあるが、書状の中では旧主として振る舞っているようにも見られ、昌幸の芯の強さが伺える。一方で昌幸は我が子を愛しており、死去する1か月前には信之に何としても会いたいという気持ちを吐露する書状を送っているほどである[37]。

関ヶ原

徳川秀忠が西軍についた真田昌幸の篭る上田城に前進を阻まれていた時、秀忠は冠が岳にいる先陣の石川玄蕃、日根野徳太郎に連絡する必要に迫られ、島田兵四郎という者を伝令として出した。兵四郎は地理がよくわからなかったうえ、上田城を避けて迂回していたのでは時間がかかりすぎると思い、なんと上田城の大手門前に堂々と馬を走らせ、城の番兵に向かって「私は江戸中納言(=秀忠)の家来の島田兵四郎という者。君命を帯びて、我が先陣の冠が岳まで連絡にいくところです。急ぎますので、どうか城内を通してくだされ」と叫んだ。味方に連絡するために、現在交戦中の敵城を通してくれ、というのだから、とんでもない話である。番兵たちもあまりのことに仰天してしまい、真田昌幸に報告すると、「なんと肝っ玉の太い武士だろう。通してやらねばこちらの料簡の狭さになる。門を開けてやれ」と門を開けるように指示した。「かたじけない」と城内を駆け抜け裏門を抜ける際、島田兵四郎はちゃっかりと「帰りももう一度来ますので、また通してくだされ」と言った。その言葉通り、再び島田兵四郎が帰りに城に立ち寄った時、真田昌幸はいたく感服し、兵四郎に会い、「そなたは城内を通過したので、我が城内の様子を見ただろう。しかし様々な備えはあれど、それは城の本当の守りではない。真の守りは、城の大将の心の中にあるのだ。」と、自ら直々に案内して城内を詳しく見せてやり、その後門を開けて帰してやったという(『名将言行録』、『週刊ビジュアル日本の合戦』)。