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利用者:深沢秋男/sandbox

井関隆子

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井関隆子(いせき・たかこ) 幕末の旗本の主婦。日記・物語の作者。 天明5年(1785)6月21日出生~天保15年(1844)11月1日没、60歳。

江戸・四谷表大番町で生れた。現在の新宿区大京町26の辺である。父は大番組・庄田安僚である。 隆子の実家の庄田家は、3千石の旗本、庄田安信を祖とする庄田家の分家である。庄田本家の第3代安勝は長男安利に2千6百石を与え、次男安議に4百石を分知して、これを分家とした。 安議を祖とする分家の庄田家は、延宝5年(1677)3月、四谷表大番町に6百60坪余の屋敷を拝領した。隆子はここで生れ、育った。

父は、分家4代の大番組・庄田安僚で、隆子には、3人の兄、3人の姉、1人の妹がいた。 父・安僚は、隆子が8歳の時に没したので、隆子は母親と長兄・安邦の下で成長した。 20歳の頃、大番組の松波源右衛門と結婚したが、間も無く離婚し、しばらく実家にいたが、30歳の頃、納戸組頭・井関親興の後妻として井関家へ嫁いだ。

嫁ぎ先の井関家は、江戸城に近い九段坂下の飯田町にあった。これは、井関家が代々、小納戸組や広敷用人など、将軍の側近くに仕える家柄であったためである。 井関家に嫁いでからも、暫くは旗本の主婦として多忙であったと思われるが、12年後に夫・親興が没し、家督を子の親経が継いだので、家庭の切り盛りも、親経の妻が引き継ぎ、隆子は悠々自適の生活を送ることになる。このような生涯を見わたすと、家庭環境の上でも時間的にも、比較的に自由に、文筆の道に打ち込む事ができたものと思われる。

隆子は、古学を教える塾に学んだり、冷泉流の老女に歌の指導を受けたり、また、国学者の林国雄を家に招いて講釈を聞いたりしたようであるが、いずれも満足できるものではなかったようである。結局は、賀茂真淵や本居宣長などの国学関係の本を読んで、独学で古典の知識を身につけ、教養を蓄えていったものと推測される。

隆子の著作には、『井関隆子日記』『さくら雄が物かたり』『神代のいましめ』『いなみ野』などがある。