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利用者:河川一等兵/sandbox

東軍

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加増

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外様大名

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武将名 官位 旧領 石高(石) 新領 石高(石) 合戦中および戦後の動向(本人)
赤井忠家 - 大和十市郡 1,000 大和十市郡内 2,000 元は丹波国衆。石田三成の密書を家康に献上。関ヶ原本戦の功もあって加増された[1]
浅野長重 従五位下采女正 - - 下野真岡 20,000 浅野長政三男。江戸城留守居を務め戦後真岡2万石を新封、父長政の死後隠居領・常陸真壁5万石を継ぎ真岡領は返上した。元和8年には常陸笠間5万3000石に加増転封となる[2]
浅野長政 従五位下弾正少弼 - - 常陸真壁 55,000 東軍に加担した唯一の五奉行。慶長4年に武蔵府中に隠居、徳川秀忠に所属して中山道隊に従軍した。戦後慶長11年に隠居領として常陸真壁・近江愛智郡内他で5万5000石を新封。死後隠居領の内真壁5万石については三男長重が継承した[2]
浅野幸長 従五位下左京大夫 甲斐府中 225,000 紀伊和歌山 375,000 浅野長政嫡男。本戦では岐阜城攻略に続き南宮山麓に布陣して毛利秀元らを牽制。慶長5年11月紀伊一国に加増転封され、さらに翌慶長6年11月15日には従四位下紀伊守に昇叙・任官されたことで名実共に紀伊国主となった[2]
蘆野政泰 - 下野蘆野 800 下野蘆野 2,700 那須七騎蘆野氏当主。上杉景勝への備えとして家康より在国を指示され居城の蘆野城を守備した[3][4]
伊王野資信 下野守 下野伊王野 740 下野伊王野 2,740 那須七騎伊王野氏当主。上杉景勝への備えとして家康より大田原晴清の居城・大田原城防衛を指示され援軍として入城。さらに9月14日から15日に掛けて上杉軍が越境攻撃したため迎撃、大関・大田原両軍の加勢もあって上杉軍を撃退した[3][4]
岡本義保 宮内少輔 下野塩谷 3,300 下野塩谷 3,800 上杉景勝への備えとして家康より大田原晴清の居城・大田原城防衛を指示され援軍として入城。戦後芳賀郡内にて500石を加増された[3][4]
千本義定 大和守 下野芳賀郡 2,020 下野芳賀郡内 3,370 那須七騎千本氏当主。上杉景勝への備えとして家康より大関資増の居城・黒羽城防衛を指示され援軍として二の丸に入城[3]。本戦後の慶長6年6月20日には岩城貞隆家臣・竹貫重光を追討し、これらの功により慶長7年3,370石に加増された[5][4]
福原資保 雅楽頭 下野佐久山 2,600 下野佐久山 4,500 那須七騎福原氏当主。上杉景勝への備えとして家康より大田原晴清の居城・大田原城防衛を指示され援軍として入城。この功により慶長7年4,500石に加増された[3][4]
〇〇 〇〇 〇〇 1,000 〇〇 2,000 〇〇

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ 『寛政重脩諸家譜』第2輯pp.263-264
  2. ^ a b c 『新編藩翰譜』第3巻pp.263-269
  3. ^ a b c d e 『栃木県史』通史編4(近世1)pp.142-144
  4. ^ a b c d e 『栃木県立博物館研究紀要』第3号p.141
  5. ^ 『富岡町史』第1巻(通史編)p.152

参考文献

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  • 新井白石著『新編藩翰譜』、人物往来社、1967年
  • 栃木県史編さん委員会編『栃木県史』通史編4(近世1)、栃木県、1981年
  • 栃木県立博物館編『栃木県立博物館研究紀要』第3号、栃木県立博物館、1986年
  • 富岡町史編纂委員会編『富岡町史』第1巻(通史編)、福島県富岡町、1988年