利用者:沢町/下書2
義道 | |
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宝暦12年6月30日- 天保5年1月1日(*137-138)(宝暦暦) 1762年8月19日 - 1834年2月9日(〈グレゴリオ暦〉) | |
幼名 | 岩松(*137) |
名 | 義道、一圓(字)(*137) |
号 | 魯縞庵(*137) |
宗旨 | 浄土真宗(*桑本112) |
寺院 | 大悲山長円寺(*桑本112) |
著作 |
『桑府名勝志』、 『久波奈名所図会』、 『秘伝千羽鶴折形』他。 |
義道(ぎどう)は、日本の浄土真宗(*桑本112)の僧侶で、三重県桑名市の大悲山(*桑本112)長円寺の第11世住職(*連史8)、また俳人・漢詩人・郷土史家・折り紙作家。俳人・漢詩人として広瀬蒙斎・片山恒斎・秋里籬島・木村蒹葭堂らと交流(*千羽鶴138)、郷土史家としては『桑府名勝志』・『久波奈名所図会』などを著し(*連史8)(*連史128-129)、さらに『秘伝千羽鶴折形』・『素雲鶴』を著すなど折り紙作家としての一面もあった(*8)。名の表記は、号と併せて魯縞庵義道(ろこうあんぎどう)、または字と共に義道一圓(ぎどういちえん)と表されることがある(*連史8)。
生涯
[編集]宝暦12年(年)6月30日、伊勢国桑名の大悲山(*桑本112)長円寺の第9世住職昇道の次男として生まれる。幼名は岩松、幼少時より折紙を好む(*連史8)。父である9世昇道は何らかの理由で40歳半ばにして住職の座を譲ることとなり、昇道長男右近が早世していることもあり本来であれば義道が10世住職となる筈であったが、まだ幼くて(注2)継ぐことができなかった(*連史8)。そこで、姉で昇道三女の天留に京都光明寺次男(*千羽鶴175)の義聞を婿にとり第10世とし、義道は天留の養子となり、義聞の猶子となった(*千羽鶴138)。天留は義聞との子が無いまま亡くなったので、義聞は野呂東庵娘の順(*連史165)と再婚し、男子である義空をもうける(*千羽鶴138)。しかし義道が第11世となることは決まっていたためか、義空は義聞の実家である京都光明寺へ(*千羽鶴175)養子に出される(*千羽鶴138)。義聞は天明元年に亡くなり、義道は天明2年3月13日第11世に就任したと考えられている(*連史164)(注3)。その数年後(注3.1)、鍋屋町佐藤正九郎娘の伊奈と結婚、七子をもうけるが皆早世する(*千羽鶴138)。
寛政2年()、当時一流の文化人であった大坂の商人、木村蒹葭堂が江戸幕府から謹慎を命じられ、伊勢国長島藩領川尻村(現・~)に滞在することになると、義道は木村を訪ねて何度も足を運ぶようになった。木村もまた長円寺を訪れて宿泊してから帰るなど交流した。木村が大坂へ帰ることになると、義道は送別の詩稿『一歩艸』を贈り、木村が大坂へ帰った後も、義道が大阪まで訪ねて行くなど交流が続いていたことが日記や手紙などから明らかになっている(*千羽鶴139)。
義道は先述のとおり幼少から折紙を好み、長円寺を訪れた東海から来た人や北越から来た僧侶に様々な折形を教わり、(*連史9)寛政5年()春までに18年の歳月をかけて30種類の連鶴を考案した。翌年の寛政6年()までに「百鶴品目」(30種類100羽)、「続百鶴品目」(23種類100羽)、「続後百鶴品目」(22種類100羽)を考案した(*連史8)(*連史165)。寛政6年()6月、これらの連鶴の作成方法を集めて、一つずつ題を付けて句を添えて小冊子『素雲鶴』を記した。(*連史8)(注3.2)
寛政8年()9月22日に長円寺本堂を再建、親交のあった長島藩主増山雪斎に絵を依頼して下賜される(*連史8)(注3.3)。
寛政9年()、『素雲鶴』の中から49種類を選んだと思われる『秘伝千羽鶴折形』が刊行された(*千羽鶴140)。巻末には後編も刊行すると書かれたが実際に刊行されたかは不明で、現在のところ形跡は見つかっていない。(*千羽鶴140)。
寛政9年冬、秋里籬島が『東海道名所図会』を編著し、義道の句「一本の松におぼろや雪の曙」が掲載された。義道と秋里は『東海道名所図会』の取材の旅で知り合ったと推測されている。義道はこの『東海道名所図会』に影響を受けて後の『久波奈名所図会』を著したのではないかと考えられている。(*千羽鶴138)
義道は歴史にも造形が深く、寛政10年()には桑名城下の寺社、名所、旧跡、旧家の由来を記した『桑府名勝志』を著す。(*連鶴126)さらに享和2年には『桑府名勝志』に工藤鱗溪による挿絵を加えた『久波奈名所図会』を完成させた。当書は刊行するつもりであったようだが、その形跡は認められない。(*連鶴128)同じ頃、義道は桑名の様々な記述や『慶長自記』などの古書の書写を含んだ『縞庵随筆』も著す。当書は『桑府名勝志』の忘備録のようなもであったと考えられているが、現在では桑名の歴史を知る為の貴重な史料となっている。(*連鶴130)
享和3年2月21日に、下総国香取郡丁子村の医師である佐藤元寧脩安が長円寺を訪れた。(*連鶴166)脩安は長円寺第二世円道の子孫で先祖の縁を慕って訪ねてきた。第二世円道は出家前は佐藤左馬頭義治という藤原鎌足を先祖とする武士で、織田信長に仕え戦功あって感状や宝物を下賜されたが勘気に触れて浪人となった。出家して円道と名乗り、中興開山第一世貫道の娘を妻として第二世となった。円道には男子が二人おり、長男は出家して玄好と名乗り第三世となった。次男の佐藤六之進義時は信濃国高遠城主であった保科正直に仕えた。以降の保科家の転封にも子孫は仕え続け、義時七世孫で会津藩士の佐藤嘉右衛門廣明が脩安の兄であった。脩安は系図を持参しており長円寺に伝わる系図と照合することができた。このことがきっかけとなり同年同月下旬に「大悲山長圓寺系譜序」を作成し、文化元年4月中旬には「歴代相承系譜」を改めた。また、同年10月に義道が撰した力士・千田川の墓碑銘から、この頃は「第十二世」を自称していることがわかるが(159)、文化7年夏に「大悲山歴代本系譜」を作成した時には、それまでの12世から11世に名乗りを改めている(連鶴114)(167)。
文化3年()に妻の伊奈が亡くなり、大夫村山本七郎兵衛妹の幸と再婚して四子をもうけた(*千羽鶴138)。
文化7年、当時の桑名藩主奥平松平家の統治が100年を迎えたことを記念し、藩主である松平忠翼に101羽の連鶴を献上した。(連鶴167)
文政元年9月、『新撰 素雲鶴』を著す。寛政6年に著した『素雲鶴』を清書して、余白にその後考案した折形を年号と共に書き加えた忘備録のようなものと考えられる。裏表紙の年号は文政元年であるが、その後文政6年まで書き足された。(連83)
文政6年、久松松平家が陸奥国白河から桑名へ国替えとなり、藩主松平定永は領内で優れた人物や孝子を探し出すように、家臣で儒学者の広瀬蒙斎と片山恒斎に命じた。この時に二人は当時一流の文化人であった義道と知り合ったと考えられている。広瀬は義道の連鶴を初めて見た時の驚きを『紙鶴記』として著した。また後に義道の『桑府名勝志』を絶賛し序文を寄稿するなど交流が続いた。(p138)(連鶴147-149)片山と義道は特に親交を深めたようで、片山が著した漢詩からそれを窺い知ることができる。(p138)尚、広瀬と片山に見いだされた義道は、藩主に謁見して鶴の家紋を下賜されたと長円寺に寺伝がある。現在の本堂にもその紋が掲げられている。(p138)(連鶴156)
天保5年()1月1日に73歳で亡くなる。六男藤丸の子、孫にあたる樹音(注4)が後に義道の跡を継いで第12世となった(*千羽鶴138)。長円寺はその後戦災と伊勢湾台風によって殆どの史料を失っており、義道の墓も現存していない。(史155)
顕彰碑
・義道が考案した連鶴の折形は「桑名の千羽鶴」として桑名市の文化財に指定されている。(連8)(千羽鶴135)
(注2)7歳以下であったとされる。 (注3)文献では「安永2年」とあるが、当時は義道が11歳、義聞も存命なので、義聞が亡くなった翌年の「天明2年」と推測されている。
(注3.1)住職を継いだと推測される天明2年3月13日から、長女・知勢が亡くなる天明7年12月31日までの間と推測されている。(*連史164)
(注3.2)現存せず。
(注3.3)戦災により焼失し現存しない。(*連史8)
(注4)藤丸の子には疑問あり(千羽鶴174)
著作物
系譜など長円寺や仏門に関する著作は除いた文学的な著作のみ列挙する。
『桑府名勝志』全6巻
『桑府年代記』全2巻
『桑府什寶記』全3巻
『久波奈名所図会』全3巻
『縞庵随筆』全6巻(注連130)
『公私文庫』
『松響集』全3巻
『日南集』
『一歩艸』
『古語園』
『諸国方角図』
『素雲鶴』
『算鏡』
『和漢古銭二百品角力番付』
年表
[編集]和暦 | 月日 | 西暦 | 満年齢 | 内容 |
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宝暦12年 | 6月30日 | 1762年 | 0 | 誕生 |
年不詳 | 三姉の天留、京都光明寺次男義聞と婚姻、義聞が10世となる。 | |||
年不詳 | 10世義聞の猶子となる。 | |||
年不詳 | 得度する。 | |||
明和 | 6年11月28日 | 1769年 | 7 | 三姉で養母の天留が亡くなる。享年19歳。 |
安永 | 2年3月13日 | 1773年 | 11 | 長円寺11世に就任する。(*注) |
安永4年 | 1775年 | 13 | この頃から連鶴を考案か | |
安永7年 | 月日不詳 | 1778 | 16 | 『古語園』を著す。 |
天明元年 | 10月7日 | 1781年 | 19 | 猶父である10世義聞が亡くなる。 |
天明2年 | 3月13日 | 1782年 | 20 | 長円寺11世に就任する。(*注) |
年不詳 | 鍋屋町佐藤正九郎娘伊奈と婚姻する。 | |||
天明7年 | 12月30日 | 1787 | 25 | 長女の知勢が亡くなる。享年当歳。 |
寛政2年 | 11月11日 | 1790年 | 28 | 伊勢長島川尻村に居住していた木村蒹葭堂を訪ねる。 |
寛政3年 | 2月7日 | 1791年 | 29 | 木村蒹葭堂を訪ねる。 |
初夏 | 伊勢神宮を参拝する | |||
9月24日 | 木村蒹葭堂を訪ねる。 | |||
12月17日 | 1791 | 次女の久我が誕生。 | ||
寛政5年 | 1月14日 | 1793年 | 31 | 木村蒹葭堂を訪ねる。 |
2月 | 「連鶴30種類101羽」を記す。 | |||
2月 | 10世義聞の後妻、野呂東庵娘順が吉之丸の山田氏譜代佐野氏と再婚する。 | |||
2月3日 | 木村蒹葭堂が長円寺に来訪し宿泊する。 | |||
2月4日 | 木村蒹葭堂が長円寺を発ち、大坂へ帰る。 | |||
月日不詳 | 大坂への旅立つ木村蒹葭堂へ送別の詩稿『一歩佐久』 |
人物・逸話
[編集]・「秘伝~」編者と目されている秋里は義道の句が掲載されている。(*千羽鶴138)
・広瀬や片山と出会い(*千羽鶴138)
・鶴の家紋(*千羽鶴138)
・片山の漢詩(*千羽鶴139)
・千羽鶴の名称(*千羽鶴137)
・寺に滞在した人から秘伝(*千羽鶴139)
系譜
[編集]- 父母
- 兄弟
- 長兄:右近(延享3年(1746年)[注 1] - 延享3年8月21日(1746年)) - 享年当歳。(*175)
- 長姉:妙栄(法名)( - 延享3年9月17日(1746年))(*175)
- 次姉:秀代( - 宝暦8年3月1日(1758年))(*175)
- 三姉:天留(寛延4年(1751年)[注 1] - 明和6年11月28日(1769年)) - 享年19歳。義道を養子とする。(*175)
- 三姉夫:義聞(延享3年(1746年)[注 1] - 天明元年10月7日(1781年)) - 京都光明寺次男。長円寺第10世住職。義道を猶子とする。(*175)
- 三姉夫後妻:順( - ) - 野呂東庵娘。天留亡き後、義聞に嫁いで二子をもうけるが、義聞が亡くなって12年後の寛政5年2月に吉之丸の山田氏譜代佐野氏と再婚する。(*175)
- 三姉夫長男(甥):義空( - ) - 京都光明寺の養子となる。(*175)
- 三姉夫長女(姪):稲垣千蔵妻( - )
- 妻
- 先妻:伊奈(明和5年(1768年)[注 1] - 文化3年8月7日(1806年)) - 享年39歳。(*175)
- 後妻:幸( - 万延元年12月26日(1861年))(*175)
- 子女
- 長女:知勢(天明7年(1788年)[注 1] - 天明7年12月30日(1788年)) - 母は伊那。享年当歳。(*175)
- 次女:久我(寛政3年12月17日(1792年) - 寛政11年12月19日(1800年)) - 母は伊那。享年9歳。(*175)
- 長男:十萬吉(寛政6年(1794年)[注 1] - 寛政6年2月1日(1794年)) - 母は伊那。享年当歳。(*175)
- 次男:巌(寛政10年(1798年)[注 1] - 寛政10年2月24日(1798年)) - 母は伊那。享年当歳。(*175)
- 三男:竺道(寛政12年1月18日(1800年) - 文政6年6月5日(1823年)) - 母は伊那。幼名は多善也、文化5年2月26日(1808年)得度して竺道となる。享年24歳。(*175)
- 四男:多美也(享和3年1月24日(1803年)- ?) - 母は伊那。幼名は清麿、文化9年11月24日(1812年)得度。(*175)
- 三女:冕(文化元年3月1日(1804年) - ) - 母は伊那。(*175)
- 五男:觀智(法名)(文化5年9月26日(1808年) - 文化5年9月26日(1808年)) - 母は幸。死産。(*175)
- 六男:藤丸(文化7年4月25日(1810年) - ) - 母は幸。(*175)
- 六男長男(孫):樹音( - ) - 長円寺第12世住職。
- 七男:殿也(文化8年9月(1811年) - 文化8年12月7日(1812年)) - 母は幸。享年当歳。(*175)
- 四女:藤江(文化12年1月27日(1815年) - ) - 母は幸。
著作
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集](*桑本311に著書)
参考文献
[編集]- 桑名市博物館『連鶴史料集-魯縞庵義道と桑名の千羽鶴』岩崎書店〈桑名叢書III〉、2016年3月31日、???-???,???頁頁。ISBN 978-4-265-80227-2。
- 大塚由良美『桑名の千羽鶴』(新訂増補版)、2017年11月1日、137-139,175頁頁。
- “魯縞庵義道の人となり”. 【博物館】連鶴の原典「素雲鶴」復元事業ブログ. 桑名市 (2015年4月21日). 2019年8月1日閲覧。
- 近藤杢、平岡潤『桑名市史』 補編、桑名市教育委員会、1960年8月31日、359-360頁。
- 西羽晃『郷土史を訪ねて』西羽晃、2001年6月1日、176-177頁。
- 西羽晃「幕末・維新の桑名藩シリーズ43 服部半蔵正義」(PDF)『桑員まちのかわら版』第86号、みえきた市民活動センター事務局、2015年1月25日、4頁。