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利用者:江戸川ファン/sandbox

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申孝園

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申孝園(しんこうえん)は東京都江戸川区一之江六丁目にある霊園である。

国柱会HP 申孝園案内図 申孝園の説明あり⇒ http://www.kokuchukai.or.jp/archives/001/201002/4b6fa54a0945b.pdf

区史

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申孝園は昭和3年(1928年)4月 、田中智学(1861-1939)によって造築されたもので、宗教法人国柱会本部が置かれている。

申孝園は神武天皇の「天神をまつりもって大孝を申べん」により、国柱会は日蓮の三大誓願の1つである「われ日本の柱とならん」から命名されたものである。

敷地は1万6500㎡の広さを持ち、泉石池丘を配した霊園で、池には昭和46年に移植した大賀蓮も見事に育っている。

国柱会本部の大講堂は戦災で焼失したので昭和26年に復興し、その後昭和43年に現在の大講堂を新築した。

妙宗大霊廟は昭和3年の建造で、創始者が多年にわたる純正日蓮主義の理想と信念を啓示された一塔合安式の霊廟で、鉄筋コンクリートの大カロートと、その上の宝塔からできていて、中には遺骨100万体、霊名600万を納めることができるといわれている。

国柱会は全国的な組織を持ち、諸行事には全国各地から多数の会員が参加している。(区史523)

史跡と名所

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大正3年田中智学が純正日蓮主義を唱えて国柱会を組織し、昭和3年霊廟をこの地に建て申孝園と名付けた。霊廟は創始者が純正日蓮主義の理想で信念を啓示した一塔合安式のもので、鉄筋コンクリートの大カロートとその上の宝塔からできていて、中には遺骨100万体、霊名600万を納めることができるという。国柱会は全国的な組織を持つ宗教法人で、申孝園は信仰のメッカとして全国から多数の信者が参集している。敷地は1万6500㎡の広さを持ち、泉石池丘を配した名園。(史跡103)

田中智学

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田中智学は文久元年(1861年)日本橋本石町に生まれ、幼名を秀丸、後に巴之助と称したが両親に死別し、10歳の時、妙覚寺に入って剃髪得度し智学の法名を受けた。早くから純正日蓮主義を唱え、明治17年に立正安国会を創立したが、大正3年前新たに国柱会を組織した。(区史523)

田中智学コトバンク

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宗教家。東京生。東京江戸川一之江妙覚寺で得度。のち僧籍を返還し、日蓮宗を脱して日蓮主義による宗教活動を提唱。立正安国会創立。日刊新聞『天業民報』を発行。国柱会本部を建設。昭和14年(1939)歿、79才。


日蓮宗系の在家仏教運動者。東京生れ。幼名巴之助。10歳で得度したが,1879年に還俗,1880年横浜で蓮華会を結成して在家仏教運動を開始。1885年には東京に移って立正安国会を創立,1914年には国柱会を設立した。おもに講演と著述による伝道を展開,おもな著書は《宗門之維新》《本化摂折論》《日蓮主義教学大観》など。


明治-昭和時代前期の仏教運動家。文久元年11月13日生まれ。明治12年日蓮宗門から還俗(げんぞく)。17年東京で立正安国会を結成,大正3年国柱会を創設。法華経と国体との一体化を説いた。その独自の日蓮主義は高山樗牛(ちょぎゅう)らに影響をあたえた。昭和14年11月17日死去。79歳。江戸出身。旧姓は多田。名は巴之助。著作に「宗門之維新」「日蓮主義教学大観」など。【格言など】仏法は仏法でござる。権威よりも道理じゃ


1861‐1939(文久1‐昭和14) 近代の日蓮系在家仏教運動者。東京日本橋に生まれた。幼名巴之助。10歳のとき日蓮宗の僧について得度したが,当時の日蓮宗檀林の天台教学中心の学風と教団の摂受(しようじゆ)的傾向にあきたらず,1879年脱宗還俗した。翌80年横浜に蓮華会をおこして在家仏教運動を開始,85年には東京に移り立正安国会を,さらに1914年には国柱会を創立した。主として講演と著述による折伏(しやくぶく)中心の活動を展開,その著《宗門之維新》《本化摂折論》は当時の日蓮系の僧俗に影響を与えた。


生]文久1(1861).11.13. 江戸 [没]1939.11.17. 東京 宗教家。町医者多田玄龍の3男。本名は巴之助。幼少にして日蓮宗に入ったが,宗門にあきたらず 1879年脱宗。翌年法華信仰の在家信者団体,蓮華会をつくった。 91年東京で立正安国会 (のちの国柱会 ) を創立し宗教の革新を唱道した。日清戦争の際は大阪天保山に大国祷壇を設けて戦勝を祈願,97年鎌倉に師子王文庫を設立した。 1902年独自の日蓮宗学体系『本化妙宗式目』を完成。機関紙『天業民報』によって「純正日蓮主義」を広める一方,21年国柱会総裁を退き,日本国体学の体系化を進めた。


明治~昭和期の宗教家。国柱会(こくちゅうかい)の創始者。江戸・日本橋の生まれ。本名巴之助(ともえのすけ)。鐘宇(しょうう)、巴雷(はらい)と号した。父の医師多田玄竜(ただげんりゅう)は、法華(ほっけ)信者。幼にして父母を失い、東京・江戸川一之江の日蓮宗妙覚寺で得度、二本榎(えのき)大教院などに学んだが、やがてその教学を疑い、還俗(げんぞく)して1880年(明治13)に横浜に蓮華(れんげ)会をおこして祖道復古、宗門改革を目ざした。1884年には東京に進出して在家仏教の立場から立正安国会を創立、1887年には日本最初の仏教結婚式を制定、また教学の府として鎌倉に師子王(ししおう)文庫を設立する。さらに1914年(大正3)には、有縁(うえん)の諸団体を統合して教行を統一して、檀家(だんか)制度によらない信仰者の組織である国柱会を創始した。この間、日蓮主義組織教学を大成、また日本国体学を創建した。編著は『日蓮主義教学大観』『本化聖典大辞林』など200種に及ぶが、なかでも『宗門之維新』に啓発された高山樗牛(たかやまちょぎゅう)をはじめ、姉崎正治(あねさきまさはる)(嘲風(ちょうふう))、石原莞爾(いしわらかんじ)、宮沢賢治、中里介山(なかざとかいざん)、田中光顕(たなかみつあき)ら多くの人々を感化した。[中平千三郎]

『田中智学著『師子王全集』全36巻(1931~1940・同書刊行会、真世界社) ▽田中香浦著『田中智学』(1977・真世界社) ▽田中芳谷著『田中智学先生略伝』(真世界社・師子王文庫) ▽田中芳谷監修『田中智学先生影譜』(真世界社・師子王文庫)』

国柱会コトバンク

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日蓮系の新宗教。日蓮宗の僧籍を有していた田中智学 (1861~1939) が在家仏教を唱道し,僧籍を離脱して横浜に蓮華会を創設した (1880) のが始り。 1884年に立正安国会,さらに 1914年に国柱会と改称。『法華経』を教典とし,佐渡始顕妙曼荼羅を本尊とする。聖祖 (日蓮) に帰れ,祖廟に集れと,宗門統一,祖道復古を主張した智学の教えを踏襲し,強い日蓮主義をその特徴とする。本部は東京都江戸川区一之江。機関誌には『日蓮主義』『真世界』 (ともに月刊) がある。


東京都江戸川区に事務所を置く仏教日蓮系の宗教団体。創設者田中智学(1861‐1939)は,江戸日本橋の医者の子として生まれたが,10歳の年に父を失い日蓮宗の寺で出家得度した。日蓮の思想に学ぶうちに,個人の心の救済よりも社会環境の浄化を重視するようになり,宗門のあり方に疑問を感じて,19歳で還俗し,1880年在家仏教の運動のために蓮華会を創立,85年蓮華会は立正安国会に発展した。日蓮主義にもとづく国家建設の主張は各地にひろまり,1914年立正安国会を中心に,門下の信仰団体を統一して国柱会が創設された。


日蓮(にちれん)主義による在家(ざいけ)仏教教団。1880年(明治13)に田中智学(ちがく)が横浜に組織した蓮華(れんげ)会に端を発し、1884年結成した立正安国(りっしょうあんこく)会を経て、1914年(大正3)、組織を全国的に統一、静岡県三保(みほ)に最勝閣(さいしょうかく)正境宝殿を建立して本拠とし、国柱会が創始された。名称は、日蓮の著『開目抄』にある「われ日本(にほん)の柱とならん」に由来する。創始以来、『妙宗(みょうしゅう)』『天業民報(てんぎょうみんぽう)』『大日本(だいにほん)』など機関紙を発行し、文筆による伝道活動を活発に行ったが、その主張は、日蓮聖人を末法における人類救済のために必要不可欠な唯一者として仰ぎ、『法華経(ほけきょう)』を信行(しんぎょう)、日本国体を開顕(かいけん)し、立正安国の真世界を目ざすことにあり、在家仏教の立場から仏教改革を提唱、実践している。1928年(昭和3)には、東京・江戸川一之江に妙宗大霊廟(みょうしゅうだいれいびょう)を建立して本部(申孝園(しんこうえん))を置くに至ったが、この間、山川智応(ちおう)(1879―1956)、伊勢丹(いせたん)創業者の初代小菅丹治(こすげたんじ)(1859―1916)らも内外から教勢の発展に努めた。著名な会員に石原莞爾(いしはらかんじ)、宮沢賢治らがいる。第二次世界大戦後も、機関紙による文書伝道の伝統を守って運動を展開している。支局数59、教師数49、信者数1万8974(『宗教年鑑』平成26年版)。[中平千三郎]

『田中香浦著『日蓮主義の研究』(1981・真世界社) ▽田中香浦著『日蓮聖人の宗教』(1979・真世界社) ▽田中香浦著『これからの世界・人間』(1978・真世界社) ▽国柱会教務部編『国柱会百年史』(1984・真世界社)』



宮沢賢治の歌碑[編集]

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大霊廟の手前左にある。信者であった賢治の50回忌追善のため昭和57年に建てられたもの。「病(いたつき)のゆゑにもくちんいのちなり みのりに棄てばうれしからまし」など辞世の歌二首が刻まれている。造形的にも美しい碑で、敷石のまわりには賢治ゆかりの岩手県で集めた石に、一石一字の写経をして敷きつめてある。(史跡103)





事典 国柱会

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飯高檀林から日蓮宗大教院(院長・新居日薩)に学び、当時の「天台ずり」教学に疑問を抱くようになった田中智学が、還俗ののち『本化妙宗式目講義録』(のち『日蓮主義教学大観』)を発刊後、大正三年(一九一四)一一月に創設した在家集団。

当時五四歳。

名称は日蓮聖人の三大誓願の一つ「我れ日本の柱とならむ」に由来したもの。

大正五年一月下旬から『本化聖典大辞林』第一分冊の刊行が始まる。

国柱会の発展と共に田中は大正一一年国柱文芸会、翌一二年立憲養正会などを次々に設立し、活動のワクを拡げた。

田中の日蓮主義は「摂受的に行用する仏教」でなく「折伏的に行用する仏教」であることを主張する。

とくに特徴的なものが「日本国体学」で、その基点に天照大神の「神勅」をおいた。

それが『日本書紀』にある「皇孫、正ヲ養フノ心ヲ弘メ、然ル後、六合ヲ兼ネテ以テ都ヲ開キ、八紘(はつこう)ヲ掩(おう)ヒテ宇(えい)ト為サンコト」という一節の重視となり「八紘一宇」という敗戦前の侵略主義用語の代名詞を新造させもした。

それが「天業たる世界統一を実現すべき実行者は神武天皇であり、指導者は日蓮聖人である」(『師予王国体篇』)となり、王仏冥合論による絶対主義天皇制と日蓮主義との統合理論になる。

そこから国立戒壇的独特な戒壇論も生れた。

その戒壇論が、戦後において創価学会が国会に進出するための理論づけとした「国立戒壇論」の下敷になったことは余り知られていない。

ところで日蓮宗に「立正」の勅額降賜が実現したのは、昭和六年(一九三一)であるが、この奏請文を起草したのは田中智学である。

その後も文筆に講演にと活躍した智学であったが、昭和一四年七九歳で一生を閉じた。

江戸川区一の江に本部をおく国柱会は、戦後の現在も智学の遺志を嗣いで、運動を続けている。昭和五一年版『宗教年鑑』では信者数は二万四二九八人となっている。

《田中智学講述『日蓮主義教学大観』、田中智学『田中智学自伝』、田中香浦『田中智学』、田中芳谷『田中智学先生略伝』、中濃教篤「田中智学」(中濃教篤編『近代日蓮教団の思想家』、渡辺宝陽「田中智学」(『日本近代と日蓮主義』)》

事典 田中智学

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(一八六一-一九三九)明治、大正、昭和初期にかけて活躍した日蓮宗系の在家仏教運動者。

幼名を巴之助といい、明治三年(一八七〇)七月、智境院日進を師として得度し智学と改名した。

明治四年、日蓮宗の学問道場である下総の飯高檀林に入り、檀林が廃止されるまでの四年間ここで勉学した。

その後、日蓮宗大教院に入ったが入学後一年余で病気のため休学し、脱宗還俗した。

これ以後在家仏教運動を始める。

まず明治一三年横浜で蓮華会を結成し、後に東京に移り、明治一八年立正安国会を設立した。

活動の中心は著述、講演に置かれ、明治三〇年『宗門之維新』『本化摂折論』の草案を著し、同三四年宗門の要人に対してこれを発表した。

続いて明治三六年から三七年にかけて、大阪立正閣で開かれた本化宗学研究大会で『本化妙宗式目』を発表した。

これは山川智応によって筆録整備され『本化妙宗式目講義録』としてまとめられ、改題して『日蓮主義教学大観』と名付けられている。

これにおいて智学の思想は本化妙宗教学として組織大成されている。

更に大正三年(一九一四)国柱会が組織された。

門下には、鷲塚清次郎(智真)、保坂麗山(智宙)、高安太右衛門(智円)、長滝泰昇(智宙)、山川伝之助(智応)らが参会し、高山樗牛、宮沢賢治らの文学者にも思想的影響を与えた。

このような在家仏教運動者は幕末頃からその活動が見られるが、智学の場合は一度得度し、その後還俗して活動したことに特徴が見出せる。

彼は最初檀林に学んだが、檀林の学風はいわゆる天台学中心のものであり、日蓮聖人遺文を中心とするものではなかった。

彼の述懐によれば、日蓮宗の中村、小西、飯高などの檀林は、比叡山や三井の園城寺よりも天台教学の正流を継いだかと思われる程、天台学が盛んであるのに、日蓮聖人遺文の研鑽は風馬牛相関せずといった体で、宗学の組織化がされていない状態であったという。

このような不満、疑問の解決は、日蓮宗大教院入学へと彼を導いた。

明治の日蓮宗は、幕末の宗学者優陀那日輝の門下によって支えられたといっても過言ではない。

日輝は檀林の学風を批判し、また僧風の向上を主張した。

その高弟の一人である新居日薩が当時大教院の院長をしており、智学は自己の不満の解消を、そのような主張の日輝門下に求めたのであろう。

しかし日蓮宗の主流となった日輝門下は教学そのものは自由な風潮に満ちていたものの、既成の日輝教学を金科玉条とするところから、その結果として却って自由な学風が没却されていた。

智学は日蓮聖人の教義は終始折伏に一貫しているとの考えを持ち、日輝の摂受的気風を継承する宗門に反発を示し、遂に脱宗還俗して在家活動を展開させる。

彼は摂受、折伏を弘通の手段として分別することを批判し、本化の弘通はそのような分別を超越した折伏でなければならないとした。

そして真理は世俗の事柄を統合することができなければ現実の社会には無用であり、法華経こそがその真理であるとし、このような考えから、人類の思想と目的を法華経によって統一することが折伏の願行であるということを標榜した。

更に仏国土顕現の境界としての日本国を主張し、本化妙宗の国教化、法華経と国体との冥合を力説したが、これは彼を国家主義者と誤解させてしまったうらみがないでもない。

しかしながら、こうした活動には、守成的な既成教団を排し、日蓮聖人の宗教を時代に蘇生することによって新国家の道を歩み始めた日本、あるいは民衆の中に生きた思想としての仏教を萠芽させようとした智学独自の時代観、仏教観が指摘されるであろう。

事典 田中智学と国性文芸

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近代の日蓮主義文芸運動は、日蓮主義の唱導者であり国柱会総裁として活躍した田中智学(一八六一-一九三九)を中核として展開された。

明治新政府下の神仏判然・廃仏毀釈により明治期の仏教界は防衛的な立場を固守せざるをえなかったが、その中で田中智学は明治一三年(一八八〇)に蓮華会を結成、同一七年には立正安国会を創立して在家主義による日蓮主義復興を積極的に推進し、日蓮聖人の四箇格言を説き宗門革命、祖道復古を鼓吹した。

この智学の活動は、演説、討論、出版等を通して組織的に展開され、大正三年(一九一四)の国柱会創立を基点に国家社会に対応し法華経による日本国体の開顕とそれに基づく世界統一の実現にむけられた。

こうした智学の社会的実践における重要な側面の一つとして国性文芸の運動が存在していた。

国性文芸とは、法華経の国体開顕論なかんずく日蓮聖人一代の人格、抱負を基軸とする日蓮主義の理想を、文芸を通して活現することによって国民の性情に感化させる点をめざすものであった。

国性文芸は、国性芸術とも称され、国性劇ないし国民劇と呼ぶ聖史劇・史劇・思想劇・舞踊劇・経典劇・殉教劇・楽(がく)劇等を中心に、舞楽(雅楽)・能楽・舞踊歌曲(長唄・端唄・小唄)・短劇舞踊・童謡・吟舞・浄瑠璃(義太夫)・能狂言等の多彩な分野に及んでいる。

これらの創作はいずれも智学自身の手になるものであり、聖史劇『佐渡』『社頭諫言』等を筆頭に、その作品数は枚挙にいとまがない。

智学の日蓮主義運動は、教学・布教両面にわたるが、個人の内面的深化に信仰教説が影響を与えるためには社会的感化力を国家・国民全体に持っていなければならないとする点に特徴があり、国性文芸は国体の精神・国性の本質を発揮させていくために不可欠なものとして明確に位置づけられていた。

 智学は、明治二五年・三二歳の時に長唄『法の船』唱歌『立正歌』を初めて作り、同三九年・四六歳の時より、機関誌『妙宗』百号記念として芸術伝道を開始した。

この折長唄『百代師子』『池上八景』『身延名所』常磐津『船守』『首途』、筑前琵琶『小松原』の新曲六種を創作し演奏せしめた。

この芸術伝道の創唱は、大正四年の謡曲『後の羽衣』、琵琶歌『神宮奏上』を経て、やがて同一一年・六二歳の時に創立した国性文芸会の活動へと発展してゆく。

国性文芸会は、千葉県市川に設立され文芸会実演部員が智学の作品を演じた。

智学は、史劇『凱旋の義家』、思想劇『函谷関』『人形の家を出て』等の一般的な劇作のほか聖史劇『俎岩』を発表、殉教劇『畳屋太兵衛』等を上演した。

国性文芸会は春秋二季に演奏大会を開いた。

昭和七年(一九三二)三月、日比谷公会堂にて「国性芸術社会進出・発表宣言大演説会」を開き、日蓮聖人六五〇遠忌聖旨奉答と日中戦争下の国防思想鼓吹を目的に芸術運動の社会的展開を図り、国性文芸会の地方活動を強力におし進めた。

史劇『大橋太郎』、聖史劇『元冦退治』を翌八年に創作、次いで同一三年一月には時局応援国性大会を開催して、戦時劇『護国の花』等戦時文芸八作品を上演し戦意高揚を図るに至るのである。

 智学の国性文芸運動にとって重視すべきことは、文芸・思想界に多大な影響を与えた点である。

智学の指導・助言をうけた高山樗牛は日蓮聖人研究に傾注し、明治三〇年代の仏教復興、日蓮主義鼓吹の気運を社会的に高める一方の旗手となった。

坪内逍遙・中里介山・姉崎嘲風・笹川臨風・山崎紫紅・中村吉蔵・本山狄舟・宮沢賢治ら、智学と親交を結んで指導をうけ、あるいはその思想や実践から感化を蒙り、ないしは智学の作品を評価した文学者も多い。

特に国性文芸の影響は、皇族・軍人・思想家および歌舞伎役者に至るまで広がっていた。

このうち特筆すべき事がらは、智学の代表作、聖史劇『佐渡』が日蓮聖人降誕七〇〇年に際し新文芸協会再興とも関連して坪内逍遙の添言により東儀鉄笛から依頼されて執筆、上演されたことである。

大正一〇年二月・六一歳の智学は、『佐渡』七幕一一場を書き、三月に東京歌舞伎座で初演されて以来横浜・名古屋・大阪等にて上演、これを機縁に新文芸協会の加藤精一は独立して国民劇研究会を結成した。

智学は特別賛助員として、史劇『栗橋の静』を新作、「国民劇」第一回試演を国柱会館で行い、この脚本を上演した。

この国民劇は国性文芸会結成の土台ともなり、同時にこれは近代の日蓮聖人劇ならびに国性・国民劇活動における智学の大きな役割を示すものといえる事がらであった。

智学の国性文芸運動は、時代的・歴史的限定を持つとはいえ、「日蓮聖人と近代文学」の歩みのうえで最も中枢に位置しており、近代の日蓮聖人劇においても注目すべき劇作活動を展開した。

これは、日蓮主義活現の社会的実践としてなされたという特徴をも同時に具備しており、日蓮主義の布教、芸術演劇による信仰的感化をめざす文芸活動の原点を意味している。

《田中芳谷著『田中智学略伝』、田中香浦『田中智学』、「国性芸術とは何か」、『師子王全集』、『国性芸術内容概観』、山上ゝ泉『日本文学と法華経』、石川康明(教張)『日蓮と近代文学者たち』》

一之江境川親水公園

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センベイブラザーズ 笠原製菓

八幡神社?

三嶋神社?

申孝園 注釈

ボランティア団体等

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一之江境川親水公園を愛する会

一之江境川親水公園 自然感察クラブ

一之江抹香亭ボランティア

江戸情緒を考える会

NPO法人 もも

NPO法人 和船の会

小西法縁

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佐藤秀三

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日進 改訂

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外護 俗人が権力や財力をもって仏教を保護し、種々の障害を除いて僧尼の修行を助けること。(歴史民俗用語辞典 日外アソシエーツ)

城東電気軌道

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城東電気軌道(じょうとうでんききどう)は大正6年に開通した路面電車である。城東電車とも称された。(PDF)また車両の形から「マッチ箱電車」発車合図のベルの音から「チンチ ン電車」とも呼ばれた。当初は

散歩マップ

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城東電車線路跡 大正14年~昭和27年、東荒川か ら今井までを走っていた一両編成 の電車。当時の写真付きパネルと 実際に使われていたレールの一 部が展示されています。この電車 は車両の形から「マッチ箱電車」、 発車合図のベルの音から「チンチ ン電車」と呼ばれていました。

城東電車

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この城東電車は、城東電気軌道株式会社の経営した路面電車です。明治44年 (1911)3月、当時の本所区錦糸町と瑞江村大字上今井間に敷設の許可がおり、大正6 年(1917)12月に、第1期線として小松 川線(錦糸堀―小松川)が開通、同10年 (1921)1月には水神 すいじん 森 もり ―大島間が開通 しました。

そして同 14年 (1925)12月に江戸川 線(東荒川―今井間)が開通し、翌年3 月には小松川線が西荒川まで延長さ れて、荒川をはさんだ東荒川と西荒川 との間はバスで連絡しました。

軌道は 現在の松江通りの南を並行して走っ ていました。沿線の村々からはバスよ りもはるかに多い利用者があり、春に は篠崎 堤 づつみ の桜を見る人々でマッチ箱 のような電車は満員になったという 城東電車(昭和 6~7 年頃) ことです。開業当時の駅は上記のとおりですが、その後、松江・一之江間に西一之江が新設されました。

昭和17年(1942)には、城東電車は東京市の経営になって運行され、市電とよばれ ました。錦糸堀―西荒川は系統38番、東荒川―今井間は系統4番となり、翌年の都 制施行で都電となりました。その後、錦糸堀―西荒川間は日比谷まで延長され系統 25番となりました。

一方、系統26番となった東荒川―今井間は、昭和27年(1952)に都内初のトロリー バス(101系統)が開通したことによって廃止されています。このトロリーバスは、 上野公園と今井を結んでいました。しかし昭和30~40年代にかけての人口急増と、 自動車の普及に伴い、交通渋滞など道路事情が悪化し始め、トロリーバスもまた43 年(1968)9月29日に廃止されました。 また、区内唯一の都電、西荒川―日比谷公園(系統25)は、昭和43年3月31日に西 荒川―須田 す だ 町 ちょう に短縮され、同年9月29日トロリーバスとともに廃止されました。

現在、松江公園(松江七丁目)と一之江境川親水公園内(今井街道のそば)に軌 き 道 どう 跡 あと のモニュメントが存在しています。

城東電車の江戸川区内の停留所:新町 小松川 西荒川 (荒川 バス連絡) 東荒川 中庭 松江 (後から西一之江)一之江 瑞江 今井

昭和7年 (1932)に発刊された『南葛飾郡各町村現状調査』(東京市役所)の瑞江村の村勢現況 につぎのような記載があり ます 。

本村 は 都心 よ りの 隔離 は なは だ 遠く 、加 うる に 交通 機 関の 便 少な く、従 来 の発 展 は極 め て遅 々た る を免 れ ざり き 、さ れ ば今 日 なお 農業 を 主要 産 業 と する 一 農村 の 域を 脱せ ず 、(中 略)し かれ ど も最 近 に至 り 、城 東 電車 の 開 通 する も のあ り て漸 次人 口 の増 加 を 来 きた し、村 勢 発展 の 道を 辿り つ つあ り 。

さらに「城東電車は、東荒川を起点とし本村今井に至る。本線は村の中央を 府道に沿ひて西北より東南に走り村民の利便甚だ多し」とも書かれています。

区史 マッチ箱電車

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本区内の都電は、城東電車に始まる。城東電車は、城東電気軌道株式会社の経営によったもので、 当時の本所区錦糸町と南葛飾郡瑞江村大字上今井間に電車軌道敷設の特許が下りたのは、明治44年(1911) 3月7日であった。

大正6年12月30日、まず第一期線として錦糸堀ー小松川間3.389kmの小松川線が開通し、ついで同10年1月1日、水神森-大島間1.0kmが開通した。この線は全部工場地帯を通っているので、都心と郊外を結ぶ近郊電車というより工場関係通勤者の市内電車と同一に見るべきものであった。

当時の乗客数を『小松川町誌』は次のように記している。大正10年709万8286名  13年1113万4418名 14年1064万761名

大正14年12月31日、東荒川-今井橋間の江戸川線が開通、3.178kmの間に、東荒川、中ノ庭、松江、一之江、瑞江、今井 の停留所が設けられた。翌15年3月1日小松川線が200m延長されて西荒川までくるようになると、東荒川と西荒川を結んで同社の連絡バスが走ることとなり、乗り継ぎ、乗り換えの不便はあるものの都心から今井までの交通はぐっと楽になった。沿線の村々からはバスよりもはるかに多く利用者があり、春には篠崎堤の桜を見る人々でマッチ箱のような電車は満員となり、また瑞江あたりから手拭を下げて乗 り、松江あるいは東小川で降りて銭湯に行くという姿も見受けられた。 昭和8年における本区南1日平均乗降者数が、京成電車が約300名なのに比較し、城東電車が約2300名と記録されていることからも、この城東電車の好評ぶりがうかがわれる。

この江戸川線開通の年、「瑞江篠崎電車期成同盟」がつくられ、延長計画が上げされたが結局実現しなかった。

市電から都電へ

昭和13年4月1日、市内交通事業調整のための陸上交通事業調整法が制定され、この法律に基づいて組織された交通事業調整委員会は2年にわたり東京の交通調整の方向を審議した。この時、東京市側はあくまで市有市営の根本方針を主張したが、交通調整委員会は昭和15年12月、東京駅を中心として半径30キロないし40キロメートルを調整区域とし、これを6ブロックに分ける、いわゆる地域別調整案を決定した。政府はこの答申に基づいて翌16年7月15日、まず中央の2ブロックに対して調整命令を発し、旧市内の地下鉄道はすべて帝都高速度交通営団に譲渡し、路面交通事業はあげて東京市が買収し、または管理の受託をすることとなった。この時の東京市長への依命通牒および企業体への命令は次のようなものであった。

この命令により、本区関係では、17年2月1日、城東電車が全線東京市に買収された。買収設備は、土地3万870坪、建物1401坪、軌道延長19.394キロメートル、電線路延長20.769キロメートル、車両28両で、買取価格は553万7300円であった。

こうして、市電として生れ変った路線は、新設された城東営業所の所管となり、錦糸堀ー西荒川間は系統番号38番、東荒川-今井橋間は4番であった。そして翌18年7月1日、都制施行によりその名は都電と改まった。

その後旧小松川線の方は、西荒川ー錦糸堀間(25系統)が日比谷まで路線延長され、一方江戸川線(26系統)の 方は、昭和27年5月20日、トロリーバスの開通により廃止され、時代離れした四輪の小型電車は惜しまれなが ら姿を消していった。

撤去まで

ながい間、庶民の足として親しまれてきた都電に暗い影がさすようになったのも昭和27、8年頃 からであった。路面交通を取りまく環境はひどく変化していた。道路混雑によるスピードの低下、物価上昇と人件費増、それらによる赤字財政など悪条件がじわじわと押し寄せていた。

そして30年頃から関係審議会などの答申に、都電の撤去問題がチラホラし出した。撤去の論拠は赤字財政もさることながら、軌道や安全地帯の存在がそれだけ道路の交通容量を減損し、路面混雑の大きな原因を作っているという点にあった。30年10月、首都交通審議会の答申は「 路面電車が都民に与える便宜の大なるはいうまでもない が、一方都内混雑の極めて甚しい地域における電車路線については考慮を要する....」といい、さらに運輸省の都市交通審議会も34年4月、路面電車の将来についての中間報告で、「路面電車はその運行方式、速度から見て路面交通における異質的な存在であり、最近における道路整備、交通規制の強化をもってしても今後改善の余地はすくないものと予想される。ここにおいて、公共輸送の使命を果すため及び道路混雑の緩和を図るためには路面電車を撤去 して他の交通機関をもってこれに代替せしめることが適当である.........」とした。都交通局は34年1月、「路面電 車は廃止すべきでない」と公式見解を明らかにしていたが、その見解は結局受け入れられず。首都圏整備委員会は、 都電の年次別撤去を37年度より予算化するよう都知事に指示した。都知事の諮問機関である首都交通対策審議会 も路面電車の一部撤去を含む答申を36年10月に提出、翌37年7月30日、交通局と首都整備局は、杉並線、 青山線、番町線の撤去を決定、明治44年市電誕生以来の庶民の足も余命わずかを残すのみとなった。 こうして38年、杉並線をはじめ三本の路線が廃止されたのを皮切りに、42年12月から本格的な撤去が開 始され、47年11月の第六次廃止を最後に、専用軌道の三ノ輪橋ー赤羽間、荒川車庫-早稲田間を残し他はすべて姿を消した。

本区内の25系統は、43年3月31日、第三次短縮により西荒川ー日比谷公園間が西荒川ー須田町間に短縮され、ついで、同じ年の9月29日、第四次廃止路線の中に入れられ、城東線時代から数えると52年余の生活を終えた。

野尻泰彦著『都電春秋』(昭和44年刊)は、終り近い25系統を次のように描いている。 主に中小工場の乱立した地帯であるが、中川の水面からも、荒川水路の水面からも低い場所にひらけた町である。この一角、小松川の低地の東端、放水路の提防ぎりぎりのところまで、ぽつんと入ってくる都電がある。日比谷という都心を始発とする第25系統であるが、この系統の電車が途中見てくる賑やかな町にくらべ、その終点の西荒川付近の何と淋しいことであろう。いやそれは人里離れたという過しさでなく、うらぶれた寂寥感におそわれる場所なのである。

ずれまで電車が来たものだと思われるほど、今乗 まま子線である。 って見よう。西を見れば、よくもこのような町は 西荒川終点の前に立ちはだかる数本路の開防に登 たか想像がつくであろう。 るということで、如何にスローモーな電車であっ もうそこまで電車が来ているのに子供が遊んでい うな有様であった。架線はたるみ、緑路上では、 路面を転がっていくという形容がぴったりするよ 精一杯で、車輪のプランジの部分が、ゴロゴロと ルの上を走るというより、横にずり出さないのが 土中に埋もれ、紡木など勿論見えず、車輪はレー 城東電車当時、ポギー車とはいうものの、韓路は いたものを昭和十七年東京市が買収したいわゆる 都電の路線でなく、東京地下鉄東響が経営して 元来、この第二十五系統の路線は、錦糸町以東は おそわれる場所なのである。

って来た電車がぽつんと寂しく見える。 なお、昭和十八年以来の路面電車料金の変遷をたどると第2表のようになる。

1 リトバス(無軌条電車)

都電にかわる登場 昭和三年、阪急電鉄が花屋敷|新花屋敷画一・六一キロメートルに敷設したのがわが国におけ るトロリーバスのはじまりである。

東京において本格的にトリまバスの建設が計画されたのは昭和三年で、京浜運株式会社が当時の荏原郡品川 町大字北品川地内を起点とし、同郡大森、蒲田、川崎市および横浜市酒見を経て同市青木町を終点とする計画を立て たが、敷設道路が狭隘という理由で許可されなかった。

終戦後、都は交通混乱を解消するため路面交通の拡充を図ったが、バス事業は、燃料特にガソリンの輸入事情など により現状以上の基張は困難であった。また歌道事業の拡張の方も言う大なその建設資金の調達は難しく、ここに電 気を動力とするトロリーバスが脚光を浴びることとなった。トロリーバスの長所として、面電車との比較の上で は、日建設費が安いこと、「煮動が少なく騒音を発しないことなどが、バスとの比較の上では、電力の供給と無格 が安定していること、日乗客収容力が大きいことなどがあげられていた。昭和二十四年十月十八日、東京都は、五路 線、総延長六五・O* メートルについて出願した。この建設計画は計画沿線住民の大きな支持を得、本図る江東区 と連名で、二十五年六月十九日、運輸審議会宛次のような早期実現力の陳情書を送った。

この江戸川線開通の年、「瑞江篠崎電車期成同盟」がつくられ、延長計画が上げされたが結局実現しなかった。 この時の模様を、本州製紙江戸川工場発行の『江戸川三十周年記念』(昭和28年2月10日発行)は次のように記録している。

当時篠崎村は南越飾郡中最も交通不便の地であった。あの頃東京市内に出る乗りものは、堤下の川岸から深川 の高善通いのポジどでか、今井から流しの「シー」を拾うか、さもなければ渡車で行電小学校に出 で、角伊勢旅館前から明治時代の遺物型のガタ馬車(後に自動車)に乗り、八幡に出て京成電車に乗るかの三筋 で、小岩廻りの省報利用者は稀であった。で、その何れを選んでも時間がかかり、またその頃渡船は午後六時過 ぎは止となり、行から大声を張り揚げて、船頭さんを呼んでもなかなか通じなく、今井橋りも億劫で遂に 角伊勢に泊ったこともあり、市内へ出ても帰り時間に気をとられ、落ちついて用達も出来ず、午後四時頃には無 り仕度と会う時代であった。村内の有力者達が土地の発展策として、「篠崎村事期成同盟会」なるものを起し た。(本会い電気軌道株式会社江戸川験運江村上今井終点 起経崎村富十無断罪式会社江戸川工場経ヶ崎村

貫通や小道村至男京成電車務式会社高砂傘置所ニ達スル電気軌道敷設ヲ当該会社ニ交渉を行センムルヲ以テ目的と ス)。それは城東電車の東小松川今井間の新線完成を機会に、更に今井より府道に沿って小岩迄延長する計画案 であった。依て村代表者達が城東電車側に交渉した処、同社も大に賛成されたが、人口密度の薄い地域への延長 は採算不利との理由で、敷地全部を村が無償提供すれば起工する。との意向を示したので羅々対策を立て、土地 貫最代金の予算を立てた結果篠崎村の負担額は四万円余となり、これが財源は村債発行に依り賄う計画で、先づ 主なる地元民に折衝した処、最も交通不便を感じている工場近傍の人々は、大賛成だが、今井と小岩に隣接して いる人達が気乗り薄、否一部の者には反対があり、結局比の計画も実現出来なかった。

城東電車コース

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8.「一之江」停留所付近(日蓮宗妙覚寺・一之江保育園)

中山法華経寺の末、金島山等覚院といい、本尊の日蓮上人木座蔵は「新編武蔵野国風土記」にも記述があります。寺の外側駐車場付近が「一之江」停留場跡付近です。都電江戸川線は二台が両方から出発して「一之江」停留場付近ですれ違っていました。

11.日蓮宗長勝寺

利栄山善学院といって中山法華経寺の末で同じ日蓮宗である「妙覚寺」と「感応寺」の中間にあることから「中寺」と呼ばれています。正面右側が「一之江」停留場跡の付近でした。

新川千本桜

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感應寺

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明治・大正期

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廃仏毀釈

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関東大震災

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コトバンク

篠崎・妙勝寺

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江戸川区の文化財 もしくは、日蓮宗寺院大鑑編集委員会『宗祖第七百遠忌記念出版 日蓮宗寺院大鑑』大本山池上本門寺 (1981年)

寂海法印本覚坊日寂上人(弘安9年=1286=11月1日示寂)により弘安2年(1279)開創しました。

日寂上人は、もと天台宗の僧で浅草観音金龍山浅草寺の住職でした。安養寂海法印と称され、北方の能化と呼ばれた学徳兼備の高僧でした。弘安羊中(1278)中山法華経寺の日常上人・日祐上人と法議を論じ、日蓮聖人と面談して、日蓮宗に改宗、浅草寺を退隠して浅草石濱村に妙勝寺を創建しました。後第2世日正上人の代、元享2年(1322)当篠崎の地に移りました。

申孝園

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宮沢賢治 ウィキペデイア

国柱会によれば宮沢賢治の骨はない・遺形納鎮とは直筆の手紙が収められている。

妹とくの遺骨はある(国柱会は全骨とする?)(分骨説?)

(株) 林風舎 <花巻駅(東北本線)より徒歩3分)オーナーは、宮沢賢治の弟清六の孫の宮沢和樹

〒025-0092 岩手県花巻市大通1丁目3-4 TEL 0198-22-7010 FAX 0198-24-4101

http://j-president.net/iwate/rinpoosha/

http://www.e-haweb.com/home/rinpoosha/index.html

田中智学

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妙覚寺 追加

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日蓮木造座像

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本堂内に鎌倉時代に彫られたとされる長さ1尺余りの日蓮木造座像があり、像の裏には法華堂彫刻日朗と記されている[1]。日朗は日蓮の高弟で六老僧の1人に数えられ[2]、東京都大田区にある大本山・池上本門寺2世である[3]

脚注

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注釈

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出典

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感應寺 改訂

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正法寺(東京の主な小西法縁寺院)、中山法華経寺(主な旧末寺)

日蓮銅像 新島1丈、目黒の石材店

日蓮坐像修復 長澤市郎 

平山郁夫「祇園精舎」レプリカ

曼荼羅 京都 本圀寺レプリカ

感応の事由 

37世・日進(雨宮慣行)明治29年9月5日山梨生まれ 建築設計士雨宮房太郎の長子 昭和47年3月9日没 

本所・大法寺46世中込貫量に15歳で得度。大正7年、大法寺47世 大正12年9月 関東大震災で倒壊 江戸川区逆井 大正13年8月 大法寺 本堂庫裡を建設(現存) 

昭和13年3月感應寺37世(江戸川仏教連合会業務理事・協議員・貯蓄奨励委員) 紀州本山・報恩寺 26世貫主(加歴)

書家 金鳳書道会 雨宮金鳳 柳田泰麓に師事 東方書道会理事 江戸川区書道連盟理事

38世・日裕 東部宗務所長 立教改宗750年慶讃会事務局長 東京東部伝道センター長 東京東部宗務所顧問 

2005年火災?出典?