利用者:武藤ひめ/sandbox
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武藤 ひめ
[編集]- 武藤 ひめ HIME CLINIC院長 トランスジェンダーMtF(TransgendrMtF) HIME CLINIC 所在地:愛知県名古屋市中区錦3丁目15-15 CVT錦ビル
日本で唯一のトランスジェンダーの院長
前任の久屋クリニック院長の際、トランスジェンダーの当事者である医師がトランスジェンダーを診療する外来を開設し、新聞報道で取り上げられた。
https://www.chunichi.co.jp/article/feature/iryou/list/CK2018082802000294.html
「説明」
元新生児科医 小児科専門医で、現HIME CLINICでは「都会の町医者」をキャッチフレーズにして、小児科、一般内科診療をはじめ、皮膚科、美容皮膚科
なども診療している。都会の患者のニーズに合わせて「クソ真面目に美容医療」をモットーに美容医療も行っている。自身がトランスジェンダーMtF(男性から女性)
であり、小児科医でもあることから、心と体の性が一致しないトランスジェンダーを性自認の獲得、性自認を発達過程での性の獲得の問題と捉え、異性の服装や遊びを
好む小児の両親からの相談を積極的受けている。
また、性自認に原因があるトランスジェンダーと、性自認に問題を抱えないレズ、ゲイ、バイセクシャルといった同性愛の性的マイノリティと、LGBTと一緒に扱われる
ことに反対を表明し、明確に区別されるべきと主張している。ブログなどで武藤ひめ本人から見た男性は異性で、過去に男性として生活していたが結局、男性の気持ち
などはよくわからないと言っている。
また、トランスジェンダーの社会的な扱いに関して、人権保護団体などがトランスジェンダーの人権を守ろうとする、トランスジェンダー用トイレの設置やトランスジェンダーを
特別に扱おうとする運動そのものが逆に差別に値すると主張している。その理由を彼女はSNSで、トランスジェンダーは生まれ持った性とは反対の性別で完全に生活していくことに
人生の価値を求める。そのため、トランスジェンダー用トイレの存在は、完全に反対の性別では生活ができなくなる差別的な象徴だとしている。また、トランスジェンダーだと主張する人が
が就労などで、問題を抱えた場合、その本人が反対の性別として成り立っていないことも考えるべき、つまり異性装や立ち振る舞いが元の性別のままと周囲が感じることが原因であり、
一方的に反対の性別として社会生活が成立していないトランスジェンダーを擁護することは、先天的には性自認に問題がなく何らかの原因でトランスジェンダーだと主張する異性装者を
混同することになり、こうした何らかの原因でトランスジェンダーを主張する異性装者に医療的行為を含めて適切な対応ができなくなるばかりか、トランスジェンダーが完全に反対の性別として
社会生活が送れなくる原因になるとしている。
「経歴」
青春期は、人を楽しませたいと俳優を目指し、俳優養成所にも所属していたが、人は心身に問題がなければ演劇や映画などを観に行けない、すべての人に楽しんで
人生を送ってほしいならそもそも人が健康でなければいけないという衝動にかられ、医師を目指すようになった。
18歳から故郷(静岡県駿東郡)を離れ、愛知医科大学医学部進学のため、名古屋で暮らし始めた。
愛知医科大学医学部在学中、後の恩師となる現・宮崎大学学長 池ノ上 克氏から、脳性麻痺や自閉症の子供に出会い、その原因の多くが
分娩からそのあとの新生児期である周産期にあると知り、在学中より新生児科医を目指す。しかし、このとき武藤ひめは、居酒屋で出会った
この紳士が池ノ上氏だとは知らなかった。医学部卒業後は、武藤ひめが名古屋で暮らしていたこともあり、当時、世界的にも先生児医療のメッカ
といわれ日本を代表する新生児医療が専門の戸苅創氏が教授(当時:現・金城学園大学理事長)を務める名古屋市立大学小児科に入局。名古屋市立
大学で研修医を開始した。
翌年、小児科主体の新生児集中治療室(NICU)ではなく、産婦人科主体の新生児集中治療室(NICU)で新生児医療を学ぶため、鹿児島市立
病院周産期センター(鹿児島県鹿児島市)へ転任し、名古屋の居酒屋で出会った紳士、池ノ上氏と再会する。池ノ上氏は、周産期という日本語を作り
出した人物で日本を代表する産婦人科医であり、鹿児島市立病院周産期センターを立ち上げた人物であった。
名古屋に戻った後、しばらくして母校、愛知医科大学に当時周産期センターがないことを疑問に感じていた武藤ひめは、母校、愛知医科大学病院周産期
母子医療センターの立ち上げに参加し、以後、10年以上、同センターで勤務医をおこなったが、新任教授と方針の違いから対立。
以前より性自認が女性であったが、そのころ、男性を演じていたが、男性として頑張っても仕方がないと、新任教授と対立が始まった頃から考えるように
なった。亡くなっていく患者さんや重い障害を残しながら
も必死に生きている患者さんやその家族と接しているうちに、自分に正直に生きなければならないと考え、女性として生活をしていくことを決めた。そのこと
が原因となり、新任教授からの圧力が大きくなり長年勤めた愛知医科大学病院を退職。
退職後、新たに医師としての仕事を探すが、トランスジェンダーが原因となって医師免許があって医師不足であっても、医師としての就職先はなかった。医師不足のため、何食わぬ顔で医師として採用したが
勤務前日になって男性の服装で来るように伝えてきた医療機関もあった。もちろん武藤ひめは、この医療機関とは即刻契約解除しているが、このころ就職が決まらなかった原因は、まだまだ女性としては周囲が
女性として違和感を感じるのも仕方がないくらいの中途半端な時期であり、仕方がなかったことで、このころの経験がなければ完全に反対の性別として生きる重要性や幸福感を得ることはなかったと考えている。
しかし、一方で医師としての職をほぼ失ったことは、生活の困窮を意味し、何とかトランスジェンダーとして生活し収入を得るためと、医師として様々なトランスジェンダーに出会い、その実態を知りたいと思いも
あり、ニューハーフの夜の接客業に就いた。
世間のトランスジェンダーへの理解も始まり、前任の久屋クリニックにて医師して就職し、ようやく医師として再始動した。
それから凡そ1年半、HIME CLINICを介護医療系ホールディングスのH&Nホールディングスからバックアップを受けて開設。HIME CLINIC院長に就任。