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利用者:播磨の暇人/下書き

市街電気鉄道の開業

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神戸市における電気鉄道の敷設計画は1892年まで遡る。神戸 - 三田間で馬車鉄道を敷設しようとするも不衛生であることを理由に不認可となったことからこれを電化し、更に路線を三田より舞鶴まで延長した神鶴電気鉄道が、仲喜一郎ほか24人を発起人として1892年2月7日に神戸市へ追願を行ったのである[1]。これが神戸市における電気鉄道敷設のはじまりであるとされている[2]。市内交通に重きを置いた市街電気鉄道は翌1893年9月に池田貫兵衛ほか4人を発起人とする神戸電気鉄道株式会社と、土居利政ほか3人を発起人とする兵神電気鉄道株式会社が路線の敷設を出願したのが始まりとなる[3][4][5][6]。神戸電気鉄道の敷設計画は布引(現在の新神戸オリエンタルシティ付近)より西へ向かい中山手通1丁目、生田神社を経て、北長狭通1丁目で官設鉄道東海道本線の踏切を渡り元町3丁目へ向かい、栄町3丁目、元町6丁目を経て官設鉄道を跨ぐ相生橋を渡り、多聞通、大開通、塚本通、羽坂通を経て山陽鉄道兵庫駅へ至る。更にここから折り返して柳原より北仲町、小物屋町、戸場町、江川町(現在の兵庫区西柳原町、西宮内町、本町、兵庫町、七宮町付近に相当)から湊川へ至り、相生橋を渡って当時の神戸市役所(現在の中央区相生町1丁目)より東へ向かい、栄町より往路と同じ経路を辿って布引へ戻る全長11kmの路線が計画されていた[4][5][7]。これを受けて神戸市では"電気鉄道に関する調査委員会"を設置したものの市では慎重派や反対派が大勢を占めており、1895年7月23日の市会では神戸市に電気鉄道は時期尚早であるという建議案が出されるなど紛糾していた[8][9][5][10]。これを受け神戸電気鉄道側は幾度も敷設計画を変更するなどして時期尚早論を緩和しようとするもそれに至らず、むしろ計画そのものを否決される可能性があったことから市会に審議延期を申込み、神戸市における市街電気鉄道計画は棚上げ状態となった[9][5][10]

1902年7月、神戸電気鉄道は訂正追願に踏み切った[9][5][10]。神戸市はこの訂正追願に対しても否定的であったが、神戸市が発展し市内交通の需要が高まっていたこと、既に京都電気鉄道 (1895年開業)、名古屋電気鉄道 (1898年開業)、大師電気鉄道(1899年開業)など複数都市で電気鉄道が運行されている実績があったことから、条件付きで敷設させることは有益であるとの判断がなされ市側の電気鉄道不要論が融和した[9][11][12]。更に1904年8月には大阪 - 三宮間の路線建設を進めていた阪神電気鉄道が三宮から瀧道加納町5丁目)まで延伸する計画を神戸市へ申請したことで、市街電気鉄道に関する問題は可否から市営とするか民営とするかの議論へと移っていった[9][11][12]

1904年8月4日の市会では"市街電気鉄道敷設調査委員会"を設置することが決議され、同委員会は翌1905年8月15日の市会において市街電気鉄道は市営とすることが適当であるとの報告書を提出した[13]。同市会においては市側が暗に市営反対の立場を取り、決議は次回へ持ち越された[14]。1905年12月18日の市会においては調査委員会へ再調査を命じることとなり[15]、1906年2月7日の市会には市街電気鉄道は民営が適当とする調査委員会の再調査報告書が提出された[16]。調査結果を一転させたこの報告書により市会の議場は大混乱、遂には途中で退席する議員まで出始める始末で結局議論は纏まらず中止となり、この時の様子は1906年2月8日付の神戸新聞の記事に纏められた[17]。そして同年3月3日の市会において漸く民営とすることで決着し、ここに十数年の課題となっていた市街電気鉄道建設問題に終止符が打たれた[18]。なお、同市会においては会社側に以下のような条件を付すことも決定した[19][9][11][20]

  1. 路線は第1期線[注釈 1]、第2期線とし[注釈 2]、第3期線は指定しない。但し、前記に該当しない路線であっても神戸市が必要と認め指定する線路は必ず建設すること。
  2. 第1期線、第2期線に定められていない区間で、会社が必要と認め新たな線路を敷設するときは市会の承認を得ること。
  3. 市は第1期線、第2期線の建設中であっても新たに必要と認められる路線を指定することが出来る。
  4. 鉄道建設に伴い既設の道路・橋梁・上下水道等の改築その他の必要が生じたときは、会社は無償でこれを行うこと。
  5. 鉄道敷設後に上下水道等の公共物を建設するため軌道の変更の必要が生じたときは会社はこれに応じること。但し、変更にかかる費用は市が負担する。
  6. 路線は市内の幹線道路を通り、かつ複線とすること。但し、やむを得ない場合に限っては期間を定めて単線運転の猶予を与える。
  7. 第2期線において運河を渡る2橋梁は旋回式とすること。
  8. 会社が経営できる期間は50年間に限ること。
  9. 工事は起工認可の日から3ヶ月以内に着手すること。
  10. 第1期線工事は2年以内、第2期線工事は4年以内に竣工すること。
  11. 市が必要と認める場合は第2期線竣工期間を短縮することがある。また、これに会社が応じない場合は第2期線建設許可を取り消すことがある。
  12. 電車の運賃は4銭以内の均一制を採用すること。
  13. 純益金のうち10分の1を積立金として控除し、払込株金に対して年率7分の配当をすること。これでも剰余のある場合は剰余金額の2分の1に相当する額を市へ納付すること。
  14. 市が買収を必要とする時は、相当額で譲渡すること。
  15. 50年後には、事業の一切を無償で市へ引き渡すこと。

市による民営方針が決まると各社はにわかに色めき立ち、電気鉄道敷設の出願が相次いだ。以前より出願を行っていた神戸電気鉄道株式会社のほか、調査委員会へ再調査を命じた市会の終了後の1905年12月26日に秋山忠直ほか11人を発起人とする神戸電車鉄道株式会社が出願を行い、続いて翌1906年1月8日には後藤勝造ほか8人を発起人とする神戸市街鉄道株式会社が、同年1月25日に渡辺万寿太郎ほか1人を発起人とする兵神電鉄株式会社、同年2月5日に岩崎虔ほか5人を発起人とする神戸電鉄株式会社の5社が市街電気鉄道の敷設を出願した[21]。このほか阪神電気鉄道も終点瀧道からメリケン波止場へ至る路線の出願を行うなど、市街電車の敷設問題は市会から舞台裏での各社の駆け引きへと様相を一変させた[21][20]。また、市会においても神戸電気鉄道を推す電灯派、神戸電車鉄道の安田派、神戸市街電気鉄道の後藤派、神戸電鉄の小曽根派、兵神電気鉄道の範多派に分裂し混戦となった[22]。しかし、いたずらに電鉄会社を乱立するのは将来を考えると得策とは言えないことから市が仲介しての各社での合資の話し合いが行われ、最終的に最初期から出願を続けていた神戸電気鉄道に一本化することが決定[23][24][20]。1906年5月、神戸電気鉄道は発起人を村野山人ほか68人へ増員、資本金も当初の120万円から600万円に増額して再出願を行った[23][24][20]。遂にこれが認められ、1907年1月17日に神戸電気鉄道は内務大臣より第1期線及び第2期線の特許を受けた[25][23][24][20]

第1期線として特許がなされたのは多聞通2丁目 - 湊町4丁目 - 羽坂通1丁目 - 西柳原町 - 北仲町 - 磯之町 - 島上町 - 西出町 - 相生町5丁目 - 相生町2丁目 - 多聞通2丁目を結ぶ兵庫線、多聞通2丁目 - 相生町1丁目 - 栄町通 - 元町通1丁目 - 磯上通8丁目 - 磯上通1丁目 - 葺合生田町1丁目 - 加納町2丁目 - 加納町3丁目 - 中山手通 - 下山手通3丁目 - 下山手通7丁目 - 下山手通8丁目 - 荒田町2丁目 - 兵庫湊町4丁目を結ぶ栄町山手線、三宮町1丁目 - 加納町4丁目 - 加納町3丁目を結ぶ加納町横断線、三宮町2丁目 - 下山手通3丁目を結ぶ三宮横断線、多聞通2丁目 - 橘通2丁目 - 北長狭通8丁目 - 下山手通8丁目を結ぶ橘通接続線の5路線[23][26][27]。第2期線として特許がなされたのは磯上通1丁目 - 葺合南本町4丁目 - 葺合熊内橋通7丁目 - 葺合生田町1丁目 - 葺合字宮ノ浦を結ぶ第1号線、下山手通7丁目 - 奥平野村字西谷 - 奥平野村字鈴麦 - 荒田町2丁目を結ぶ第2号線、中道通1丁目 - 長田村字糸木前 - 東尻池村井領田 - 東尻池村梅ヶ枝町1丁目 - 明治通2丁目 - 芦原通1丁目 - 松原通1丁目 - 神明町を結ぶ第3号線、西出町 - 東出町1丁目を結ぶ第4号線の4路線である[28][29][30]

特許を受けた神戸電気鉄道は1909年に本社を浜崎通4丁目(兵庫駅の西付近)に置き、第1期第1号線として春日野道 - 兵庫駅前間を結ぶ栄町本線5.808kmの工事に着手した[31][32][33][29][34]。工事は1908年3月より軌道用地の買収が始まり、約1年後に買収が完了、軌道敷設を開始した[33][29][34]。また、これと並行して東尻池村字前ノ浜(現在の長田区浜添通8丁目付近)に1000kW及び500kW発電機それぞれ2機を備え付けた運河発電所、湊町(現在の兵庫区永沢町4丁目付近)と琴緒町(現在の中央区琴ノ緒町2丁目付近)に変電所、葺合車庫(春日野道停留所西側)と兵庫車庫(兵庫駅前停留所西側)など運転に必要な諸施設の建設が行われたほか[35][31][32][33][29][36]、運転手88人、車掌81人、信号手28人などを採用し大阪・京都・名古屋の電気鉄道へ派遣して約1年間の訓練が行われた[29][36]。また、1910年1月28日の市会においては神戸市と神戸電気鉄道の報償契約についての議論が行われ、7人からなる調査委員会が設置された[25]。同調査委員会は同年2月15日の市会に原案の条文を一部修正するのみでよいとする旨の報告書を提出し、異議なく市会を通過し正式に神戸市と神戸電気鉄道の間で契約が結ばれた[37]。なお、この時の契約内容は、1)会社は純利益の100分の5に相当する額を市に納めること。2)神戸電気鉄道が市街電車運行の為に市の管理する道路・橋梁を使用する場合、市は使用料を徴収せず、また市税も免除すること。3)市が同社を買収する必要が生じたときは、同社は即応すること。の3つなどであった[38]

神戸電気鉄道開業日の様子

そして1910年4月5日、"祝開業"と染め抜かれた提灯が吊るされモールをあしらった祝賀アーチに万国旗がはためく中、デコレーションの施された1号電車が満員の乗客を乗せて出発し、栄町本線春日野道 - 兵庫駅前間が開業した[39][31][32][33][40][41]。開業当日は電車を一目見ようと群衆が詰めかけ、当時の新聞において「行ク人 来ル人、電車ニ乗ル人 降リル人、アタリハ人雪崩ヲ打ッテ往来止メノ感アリ、ソノ中ヲ警官ガ声ヲ嗄ラシテ制止スル」と表現されるほどの混雑ぶりで[42][36]、開業2ヶ月後の6月には早くも中尾兀山により神戸電気鉄道を歌った神戸電車唱歌が作られるなど熱烈な歓迎がなされた[43][44]。その一方で騒音や事故に対する不安から市民運動も繰り広げられていたが、それでも開業1ヶ月で輸送人員96万人、3万円の収入を見た[45]。開業当時の車両数はA車50両、停留所数は起終点含め19箇所、運賃は開業3日間は無料、その後は全線を4区に分けTemplate:Rfn、1区2銭と1乗車あたり1銭の通行税が掛かった[39][31][32][33][40][41]

1911年2月27日、市会において第84号議案として「神戸電気鉄道株式会社納付金免除ノ件」が提出された。これは先述した報償契約にある利益の一部を市へ納付する条件を1912年より向こう6年間免除するという内容であった[46]。提出された理由について当時の神戸市長鹿島房次郎は本市会において、特許当時は内務省の鉄道敷設基準により軌道は幅員8間 (15.1m) 以上の道路への敷設が許可されていたものが10間 (18.1m) 以上必要とするように変更されたため、従来の規格で敷設計画を立てていた神戸市及び神戸電気鉄道は計画の見直しを余儀なくされ、神戸市としては早急に計画線の起工へ移りたいものの建設にあたって市が補助金を出すことは財政上困難であるためと説明している[46]。本市会においては賛成派と反対派が真っ二つに割れ議論が纏まらず、結局13人からなる調査委員会を設置して同委員会による報告書の提出を待つこととなった[47]。委員会による報告書は同年7月22日の市会に提出され、議論の末に1911年8月より2年以内に瀧道停留所より加納町4丁目、布引町1丁目、熊内橋通6丁目、同3丁目、同4丁目を経て春日野道出合に至る布引線、有馬道停留所より奥平野天王橋通出合に至る奥平野線、裁判所付近より栄町本線から浜手に分岐し神戸駅、相生町3丁目、西出町通、築島橋、中ノ島、入江橋、切戸町入江通を経て浜崎通2丁目へ至る兵庫線の3線を竣工させることを条件に納付金の免除が決定した[48]

布引線は1912年12月8日に瀧道 - 布引間が開業し全通、また同時に熊内車庫 (現在の神戸芸術センターのある区画 (中央区熊内橋通7丁目)) と西柳原車庫(現在の浜崎通1丁目付近)を新設[49][31][35][50][51][52]。兵庫線は1913年6月7日に楠公前 - 島上町間が部分開業した[31][50][51][52]。しかし、残る兵庫線島上町 - 西柳原間と奥平野線有馬道 - 平野間の開業は前者が築島橋の架橋のため、後者は線路変更許可並びに土地収用のために工事が遅れており、納付金免除の期限である1913年8月までの開通が難しくなった[53]。このため会社側は神戸市に対して完成期限の3ヶ月延長を申請。1913年7月29日の市会においてこれが認められ、兵庫線島上町 - 西柳原間は同年8月12日に、奥平野線は同年9月3日に開通した[31][53][50][51][52]

電気事業への進出

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神戸市における電気電灯事業は1887年10月25日に設立された神戸電燈会社(1893年に神戸電燈株式会社に改称)1社が担っていた[54]。市の商工業の発展と人口の増加と共に電気電燈の需要は拡大し、明治末期には毎期1割以上の配当を出すまでに成長した[55][56][57][58]。一方神戸電気鉄道は電車運転の為に自社で発電所及び変電所を整備しており、神戸電燈の事業の好調ぶりを見て電気事業に進出し自社保有の発変電設備をより有効に活用することを試みた[57][58]。神戸電気鉄道は電車事業と電気事業の兼営を出願し、1911年7月15日に逓信大臣より許可を受けた[55]。電気事業を行うにあたり神戸電気鉄道と市が契約を行うことになり、1912年7月16日の市会に契約に関する議案が提出され、同年9月20日の市会で原案一部修正のもと契約を結ぶことが決定した[59]。神戸電気鉄道は相生橋付近に700平米の用地を確保し電燈課事務所を建設して電気事業の準備を着々と進めた[60][58]

これを受けて競合状態となる老舗の神戸電燈は企業防衛のために需要者の積極的な獲得に奔走し、神戸電気鉄道も事業開始前に新規需要者を獲得するための種々の計画を進めるなど両社の対立は日を増すごとに深まり、繁華街である湊川新開地は決戦場として激しい競争に晒される寸前となった[56][61][58]。しかし、両社の幹部においてもこの激しい競争は電気事業のみならずその他の事業にも悪影響を及ぼすことが懸念されており、またこの事態を憂慮した時の兵庫県知事服部一三加藤敬三郎神戸逓信管理局長、更には神戸商業会議所会頭松方幸次郎までもが両社に仲介に入り両社の合併が進められた[62][63][56][61][58]。これに対し神戸電燈側は株主200人余が提出した建議書において、両社の競争する地域は僅かな区画であり、その発電量の差は大きく、更に神戸電燈の基礎は堅実かつ前途有望であり、競争を行っても神戸電燈の勝算が高い状態であるにも拘らず合併を行う必要性はないとし合併に反対の立場を取った[61][58]。しかし、その一方で神戸市の将来的を考えると、両社の競争は需要者への影響が大きくなり両社の利益にならないことが懸念され、合併も考慮すべきとの意見もあり結論は容易に出せなかった[61][58]。その後調停者や当事者による努力により両社の競争は百害あって一利なしとの論調が大勢を占めるに至り、1912年1月7日に合併の仮調停にこぎつけた[56][61][58]。合併条件についてもかなりの紆余曲折を経ており、最終的に両社の営業設備、機械類、その他権利義務を全て新会社へ引き継ぎ、神戸電気鉄道900万円、神戸電燈585万2000円の資産に応じて新会社の株式を割り当てるなどの条件で纏まった[61][64]

1912年1月24日、両社はそれぞれ株主総会を開催し少数の反対意見はあったものの原案通り可決し、両社の合併が本決まりとなった[56][61][64]。次いで株主総会で選出された村野山人神戸電気鉄道社長、内村直俊神戸電燈社長ら6人からなる合併委員会は合併申請を提出し、1913年2月20日に逓信大臣より、同月26日に総理大臣及び内務大臣よりそれぞれ認可を受け、市会へ合併の承認を求めた[63][56][61][64]。同年3月29日に開催された市会において合併議案が提出され7人からなる委員会へ調査を付託することを決定、同年4月15日の市会に委員会は合併には不同意であるが当事者の説明や諸種に渉る調査の結果として合併承認の判断を下す旨を報告し異議なく承認された[63]。同月27日には新会社の定款及び役員を決める株主総会が開催され、取締役会長に村野山人神戸電気鉄道社長、専務取締役に内村直俊神戸電燈社長と秋山忠直神戸電気鉄道専務を選出した[62][65][56][61][64]。4日後の5月1日、市街電気鉄道事業と電燈・電力事業を兼営する神戸有数の大企業として資本金1485万2000円の神戸電気株式会社が発足した[31][66][62][67][65][56][61][64]

神戸電気鉄道が市と結んでいた報償契約については1913年4月26日に市と元神戸電気鉄道代表者との間で覚書を取り換えており、これに基づき同年7月29日の市会に神戸電気との報償契約が議案として上程された[53]。本市会では7人からなる委員会へ調査を付託することを決定、同委員会は翌1914年6月25日の市会に原案を一部修正した契約案を提出した[68]。この契約は神戸市の重大な利害関係にかかわることであったため、同日の市会では白熱した激しい議論が繰り広げられた[69]。議論は最終的に第8条但書のみ削除しその他は報告書通りとすることで決着し、神戸電気鉄道との報償契約が一部修正のもと神戸電気に継承されることとなった[70][56][61][64]。しかし、この市会における議論の内容は、市会の一部による神戸電気に対する不信感が現れたものとなった[70]。このことが後の神戸市による神戸電気買収の底流をなすこととなる[71]

神戸市電の誕生

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神戸市における二大事業を引き受けることとなった神戸電気の経営は極めて順調に推移し、決算を重ねるごとに利益配当金が増えていった[72][73][56][74][75]。しかしその一方で軌道の建設は1913年9月3日に開通した奥平野線を最後に、開業はおろか計画を神戸市へ申請することすら行われなくなった[73]。奥平野線開業時点で、当初計画されていた第1期線、第2期線のうち開業したのは第1期線全線(第2号線の一部を除く)のみ、路線延長は計画のほぼ半分の12.270kmという有様であった[74][75]。このことは神戸市との特許契約条件に違反していたため神戸市は同社に事業を継続させることに不安を感じ[73][74]、また阪神電気鉄道が1912年11月1日に神戸駅(現在の阪神神戸三宮駅の前身)から瀧道駅まで延伸開業し瀧道駅で栄町本線と接続、西側では兵庫電気軌道(現:山陽電気鉄道)が1910年3月15日に兵庫駅 (後の電鉄兵庫駅、廃止) - 須磨駅(現:山陽須磨駅)間を開業させ兵庫駅で栄町本線と接続したことで市外[注釈 3]へのアクセスが向上したにも拘らず市内の移動が不便な状況が続いたことから、市民からも早期の第1期2号線延伸と第2期線の開業が望まれた[56]

1916年2月1日、神戸新聞に「神戶電氣市營問題」との見出しで、神戸電気の市営の絶好機会であると鹿嶋房次郎神戸市長、坪田十郎神戸市会議長など神戸市内有力者の意見が一致したという記事が掲載される[72]。また、1916年は第一次世界大戦による大戦景気のために空前の好景気となっており、買収に必要な市債の発行も行いやすいことから同年4月頃より鹿嶋市長は幹部を動員して綿密な買収計画の立案に着手、同年7月20日に成案を市参議会へ提出し賛同を得た[72][76][77][78][79][73][80][74][75]。これにより同月22日より鹿嶋市長は非公式に内村直俊神戸電気専務取締役に市に買収案を提示し予備交渉に入った[79][73]。提示された買収案は全19条からなり、会社の事業・営業設備・物件の全てとその他営業に伴う一切の権利義務(株主に対する権利義務及び金銭、有価證券、社債、借入金並びに買収前日までに発生した営業上の収益を除く)を1913年上半期より1915年下半期に至る満3ヶ年間の利益配当金額の平均年額の20倍で、ほかに貯蔵品は買収当日の時価により買収し、貯蔵品以外の買収の対価として年6分利付きの市公債証書額面1700万3600円を交付するという内容であった[76][78][81][73][82][80][83][84]。これを受けた神戸電気は幾度も重役会を開催し協議を行ったが、会社の存続にかかわる重大案件であったためになかなか結論が出ず、ただいたずらに時間が過ぎていくのみであった[76][85][81][86][87][88]

このままでは買収の機を逸すると考えた鹿嶋市長は1916年9月8日に市区改正調査会第四部会に電気事業市営案を提示して承認を求め、更に同案を緊急案件として市会へ提出する態度を取った[89]。そして同月11日の市会において鹿嶋市長は本会議を中断して協議会を開催し非公式交渉の経緯を詳細に報告し買収案を説明、神戸電気側から買収案を提示された際に直ちに応ずることが出来るように7人の買収交渉委員を選出し、本会議再開後にはその冒頭で第52号議案「神戸電気株式会社ノ事業及ビ物件買収ノ件」が上程され満場一致で可決された[73]。これに対し神戸電気も同日に重役会を開催し5人の委員を選出した[76][85][90]。翌12日には両者の委員を市役所へ招集して最初の委員会が開催され、ここで市は神戸電気の希望を聴取した[91]。この後複数回にわたって市と神戸電気は交換文書での交渉を重ねたが、買収に当たって市の譲歩を求める神戸電気側とこれを断固拒否する市側の隔たりは大きく買収交渉は全くと言っていいほど進展を見せず、果ては神戸電気が買収自体を暗に拒否する態度に出るなど泥沼化した[92]。協議による解決は不可能と見た鹿嶋市長は、軌道事業に対する内務大臣の特許状及び電気・電燈事業に対する逓信大臣の命令書の趣旨により主務大臣へ申請書を提出してその判断を仰ぐこととし、1916年10月21日の市会でこの旨に関する議案を提出。また同時に当該申請書が県知事を経由し各主務大臣に届く頃合いを見て各大臣ら政府関係者に陳情を行うため上京陳情委員として市長・議長ほか数名を選出した[93]。同月24日に市は協議委員会を開き申請書案について会議を行い即日進達の手続きを行い、かつ市と神戸電気の交渉の顛末を公表した[94]。兵庫県知事清野長太郎はこの申請書を受け取ると共に、同月26日に鹿嶋市長と内村専務取締役、秋山専務取締役の3人を県庁に招集し懇談の末、以下の覚書を示した[94][95]

過般電氣買收問題發生せし以來、予は其交渉の圓滿に進展せむことを希望し、其成行の推移に注意を怠らざりしが、不幸にして同問題に關し市と會社と意見を異にし、遂に交渉斷絕し、市は内務遞信兩大臣に對し特許命令に由り相當の措置あらんことを禀請するの書面予の許に達せり。由て一昨日來及本日御來訪を願ひて、諸君の周密なる說明及意見を拜承し、茲に第三者の位置に立てる予が極めて冷靜なる判斷を以て熟考するに、市と會社との間に締結せられし、報償契約に對する當事者雙方の意見は契約を絕對有効なるものとせらるゝに於て、何等意見の扞格を見ず、又市當局者たる市長及會社重役諸君に於て、本問題の解決に關し、角立ちたる法律問題として徒らに爭議せらるゝを好まざる旨を拜承せり。豫て諸君の名望人格に於て爾あるべきを信ぜしが、其果して予の想像に違はざりしを親しく見聞し、市及會社の爲め本懐の至りに堪へざるなり。旣に報償契約に關する大體の見解相一致せる以上は、今一段諸君に於て御再考せらるゝこと、雙方の利益にあらずやと思はる、旣に契約の神聖を尊重せらるゝ意思に於て、市及會社の間に彼是輕重なしとせば、只解釋の點に關し相互の扞格を來せしものと言はざるを得ず。申すまでもなく、實地の問題に當り、契約の解釋上疑義を生ずることあるべきは已むを得ずと雖も、其契約を解釋するに、英國流の常識條理を標準とし、虛心冷靜に解釋を試むるの誠意ある以上は、如何なる契約と雖も、必ずしも解釋を下すに困難絕望なりと信ずる能はず、本件に關しては、瀧川會頭は先日來頻りに相互の苦心焦慮、事件の圓滿に結了せむことを希望せられ居るを承知し居れり。諸君は一昨日來予に述べられたる通り、報償契約の神聖を尊重し、又事件の圓滿に解決せらるゝを熱望せらるゝとせば、此際更に虛心坦懐、商業會議所會頭の地位に對し、十分なる敬意を表せられ、同君の斡旋を介して本問題の圓滿に解決せらるゝ方向に向つて、更に十分の御努力を請ひたし、何れ夫々御協議になるべき關係者あることゝ信ずるを以て、予の微意の存する處を、幸に諸君に於て關係者に徹底せられむことを熱望す。[96]

上記の調停の結果翌27日に神戸商業会議所会頭瀧川儀作より本件につき然るべき仲裁者(渋沢栄一)を選定し、これに仲裁を一任する場合その選定を清野知事及び同氏に委嘱する旨の申し出があり、最終的に仲裁は瀧川会頭に一任することで市と神戸電気は一致し、市は同年11月13日に市は瀧川会頭へその旨の覚書を交付した[97][98]。これを受けて瀧川会頭は調査成案を急ぎ、同月20日に商業会議所へ鹿嶋市長と内村専務取締役、秋山専務取締役の3人を招いて仲裁裁定事項及び20条に渡る契約書を提示した[99][97][100][101]。裁定内容は、1913年11月1日より1917年10月31日に至る満3ヶ年の利益配当金平均年額(但し1917年10月31日の配当金を年9分の割合とする)の20倍並びに同期間に社債借入金に支払った利子の平均年額(但し7分に限定する)の20倍を併算した額を事業・営業設備・物件(営業に使用する物件を除く)の買値として市は年6利付の公債証書において支払いを行うものとし、売買契約の約款は別に定めて契約の履行は1918年3月1日に行うというものであった[102][103][104][101][105][106]。これにより計算を行うと利益配当金平均年額の20倍が1812万3611円、利子の平均年額の20倍が368万9767円の合計から1917年10月末日時点での貯蔵品代46万4892円を差し引いた2164万8486円20銭が買収額となり、当初の1700万3600円より約465万円の増額となった[72][107][108]

この裁定案を受け市長は同年11月21日に市参議会にこれを提出、買収金額の増額に不満を持つ市会議員が少数居たものの、長期的な観点から致し方ないとして意見がまとまり同年12月1日に契約書へ調印を行った[102][109][101]。一方の神戸電気においては12月26日の臨時株主総会において裁定案を附議するも総会は大荒れに大荒れ、重役においても意見を異にし退陣する者まで現れる始末で、結局総会は流会し意見はまとまらなかった[102][103][110][107][108]。その後会社は大株主の説得に努め、翌1918年2月8日の臨時株主総会において退陣した重役を再選し、相互の主張の緩和に努めた結果漸く意見が一致した[102][110][107][108]。しかし、このために契約書の内容通りに事業引き継ぎを1918年3月1日に行うことが不可能となったため、契約書の内容を、事業引継ぎを1918年3月1日から譲渡許可の月より第3月目の第1日とすること、事業及び物件買収対価として会社へ交付する市公債金1134万8400円中188万5928円は買収の月から1ヶ月以内に現金で交付することに一部変更。この内容で神戸電気は同年3月23日の株主総会で、市は翌24日の買収委員会及び同月30日の市会でこれを決議しそれぞれ買収契約書が承認された[102][111][110][107][108]

1918年4月2日、市は事業引継ぎのために市役所に"電気事業市営準備係"を設置、電気事業運営に必要な条例、規則、予算案などの作成を進めるとともに、同日買収の財源に充てる公債発行のため起債許可申請を内務大臣と大蔵大臣宛てに、また同年4月7日には神戸電気代表者との連名で事業譲受許可申請を内閣総理大臣、内務大臣、逓信大臣宛てにそれぞれ提出した[112][113][114][115][116]。また市長、助役、庶務課長など役員が再三にわたって上京し許可指令の促進を陳情、同年6月30日付を以って各主務大臣の許可指令を受け取った[112][77][117][114][115][118]。これにより、事業の引き渡し日は契約書の内容より許可を受けた6月より3月目の8月1日と決定した[119][77][120][121][118]。これを受け市は7月7日の市会で電気軌道乗車料金条例、電気条例、副収入役設置条例など軌道・電気事業の経営に必要な諸条例を上程し15人の委員に調査を付託、同月11日の市会に報告書が提出されそれぞれ異議なく承認された[119][122][120][123][121][118]。その後同月16日に引継ぎ物件の調査及び検査を鉄道院技師4人に嘱託、21日に引継委員会として4人を任命、27日に前者に7人、翌28日に後者に7人を追加し補助を行うよう命令した[120]。また、27日には事業及び物件の引継ぎに関する手続きを定め、内村専務に対してこれを通知した[120]

神戸電気は契約書通り1918年7月31日を以って解散、同日に鹿嶋市長は神戸市告示甲第6号で業務引継先となる神戸市電気局を湊町1丁目294番地4の神戸電気本社に設置し、8月1日より業務を開始することを告示した[124][125][121][118]。翌8月1日午前9時より事業引継式が市電気局庁舎にて開催、市からは鹿嶋市長、乾長次郎神戸市電気局長が、神戸電気からは内村専務、曾根正命取締役、物集伴次郎監査役が出席し、引き渡し証書を交換して滞りなく事業及び財産の引継ぎが完了した[125][121][118]。また、神戸市電気局の発足を祝い1両あたり1300円をかけて装飾された5両の花電車が8月1日から5日間にわたって運行され、電車回数券を購入した乗客には3枚組の記念絵葉書が贈られるなど、華やかに記念イベントが行われた[126][127][121][118]。なお、神戸電気の従業員1215人は契約書の内容に基づき全員が市職員として神戸市電気局に引き継がれた[128][127][121][118]。最終的な買収金額は設備物件費2167万4267円24銭、貯蔵物品費94万4060円86銭のしめて2261万8328円10銭で、うち2040万6500円を市債券で、残りは現金で支払われた[119][121][118]

市電としての出発

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神戸市電気局としいて新たに出発した電車事業の大きな課題は、買収の発端となった開業遅延の第2期線の早期開業であった[129][130]。しかし、電気電燈と電車の2大事業を抱えた電気局が最初に直面したのは、大戦景気による猛烈なインフレーションによる建材、人件費、発電燃料炭などの価格高騰による財政難と供給電力不足による停電の頻発であった[131][132][133]。当時近隣の大阪や京都では火力発電と水力発電の併用により電気事業を行っていたのに対し、神戸市電気局は付近に水力発電所を設けることに適した河川が無く火力発電に頼らざるを得なかった状況であったところに、第一次世界大戦により石炭の多くが船舶用に消費されるようになったことによる石炭不足及び価格の高騰が重くのしかかった形となった[134][135]。このため電気局は電気及び電車の料金値上げを試み、1918年2月6日の市会で電気事業費歳入出予算議案に附帯して電気使用条例と電車乗車料金条例の改正議案を提出した[136]。同市会では15人の委員に調査を付託することが決定した[137]。また、議論の中では午後5、6時ごろになると電車が激しく混雑し女性や子供が乗車できないことが多々あるが電車が足りないのかという質問が出、これに対し電車ではなく乗務員などの人員が足りないとの返答が出るなど当時の市電の混雑ぶりが伺える一幕もあった[138]

脚注

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注釈

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  1. ^ 1.阪神電気鉄道神戸駅 (瀧道駅) - 加納町 - 元町通1丁目 - 西町通 - 栄町通 - 市役所前 - 相生橋 - 多聞通 - 山陽鉄道柳原踏切を結ぶ路線。
    2.柳原踏切 - 神明町 - 磯之町 - 船大工町 - 築島橋西詰 - 旧湊川 - 官設鉄道神戸駅 - 相生町2丁目 - 多聞通を結ぶ路線。
    3.多聞通の裁判所前 - 裁判所門前 - 橘通1丁目 - 北長狭通8丁目 - 宇治川 - 再度筋 - 下山手通7丁目 - 下山手通2丁目 - 中山手通2丁目 - 中山手通1丁目 - 加納町4丁目 - 官設鉄道踏切を結ぶ路線。
  2. ^ 1.旧湊川南端 - 湊山小学校東側 - 第1期線に合流 - 海員俱樂部前で分岐 - 有馬道 - 旧湊川に沿って北進する線路に合流する路線。
    2.中道通1丁目東端で旧湊川筋の線路より分岐 - 長田村 - 新湊川東岸 - 林田村駒栄橋東端 - 吉田新田 - 神明町 - 第1期線に合流する路線。
    3.加納町4丁目 - 加納町1丁目 - 熊内橋 - 高等商業学校前 - 脇浜 - 北本町4丁目 - 南本町5丁目 - 磯上通 - 第1期線に合流する路線。
  3. ^ 当時須磨は神戸市須磨区となる前で武庫郡須磨町であった。

出典

[編集]
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  9. ^ a b c d e f 百年史 2020, p. 9.
  10. ^ a b c 六十年史 1981, p. 13.
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  13. ^ 市会史1巻 1968, p. 689-692.
  14. ^ 市会史1巻 1968, p. 692.
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  35. ^ a b 買収顛末 1918, p. 付図:神戸市電氣事業設備位置圖.
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参考文献

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  • 兵庫県救済協会『昭和十三年兵庫県水害誌』兵庫県救済協会、1940年。 
  • 神戸鉄道大好き会編, 神戸市交通局・神戸市広報課協力『神戸の市電と街並み』トンボ出版、2001年。ISBN 4-88716-127-1 
  • 小山敏夫『全盛期の神戸市電 (上)』ネコ・パブリッシング、2005年。ISBN 4-7770-5128-5 
  • 小西滋男・宮武浩二『全盛期の神戸市電 (下)』ネコ・パブリッシング、2005年。ISBN 4-7770-5129-3 
  • 神戸新聞社『神戸市電物語 復刻版』神戸新聞総合出版センター、2009年。ISBN 978-4-343-00538-0 
  • 奥田英夫『神戸市電と花電車』神戸新聞総合出版センター、2010年。ISBN 978-4-343-00608-0 

外部リンク

[編集]
営業成績表[注釈 1][注釈 2]
年度 営業キロ程 年間運転キロ程 年間乗車人員 年間収入 支出金 収支差引 収支差引前年差
運輸 その他 合計
1910年 3.54哩 1,382,257哩 11,664,117人 359,996円 10,702円 370,698円 182,266円 188,433円
1911年 3.67哩 1,649,831哩 12,776,551人 398,884円 38,067円 436,951円 205,067円 231,884円 43,451円
1912年 6.64哩 2,118,582哩 14,501,160人 446,219円 134,392円 580,611円 219,211円 361,390円 129,506円
1913年 7.35哩 2,453,129哩 18,830,599人 305,283円 684,932円 990,215円 572,373円 417,842円 56,452円
1914年 7.48哩 2,482,905哩 22,590,678人 702,100円 1,555,944円 2,258,044円 1,357,337円 900,707円 482,865円
1915年 7.50哩 2,389,766哩 24,581,830人 745,222円 1,776,573円 2,521,795円 1,250,379円 1,271,416円 370,709円
1916年 7.62哩 2,388,555哩 29,576,604人 900,518円 2,150,983円 3,051,501円 1,462,852円 1,588,649円 317,233円
1917年
~7/31
7.62哩 641,619哩 8,503,284人
(平均より概算)
258,060円
(平均より概算)
市営化
1917年
8/1~
12.262km 2,598,642km 27,645,771人 845,379円 1,699,938円 2,545,317円 1,520,051円 1,025,266円
1918年 12.262km 3,928,742km 51,284,411人 1,499,300円 3,566,041円 5,065,371円 3,534,514円 1,530,857円 505,591円
1919年 12.960km 4,354,230km 52,386,816人 1,872,107円 4,636,986円 6,509,093円 5,008,766円 1,500,327円 ▲30,530円
1920年 12.968km 5,545,270km 57,313,414人 2,805,173円 3,375,632円 1,875,305円
1921年 17.713km 7,734,140km 64,108,981人 3,259,336円 8,756,147円 12,015,483円 5,019,648円 6,995,835円 3,620,203円
1922年 19.734km 9,861,070km 73,791,111人 3,764,105円 9,012,187円 12,776,292円 6,170,649円 6,605,643円 ▲390,192円
1923年 21.458km 10,757,064km 80,679,672人 3,973,738円 10,516,987円 14,490,725円 6,225,266円 8,265,459円 1,659,816円
1924年 24.541km 12,039,220km 87,376,615人 4,301,364円 11,017,327円 15,318,691円 6,437,776円 8,880,915円 615,456円
1925年 27.353km 13,569,958km 91,243,582人 4,567,973円 10,115,036円 14,683,009円 6,652,808円 8,030,201円 ▲850,714円
1926年 29.274km 16,568,781km 101,681,548人 5,136,087円 11,266,768円 16,402,855円 7,372,621円 9,030,234円 1,000,033円
1927年 29.274km 17,016,035km 108,985,701人 5,538,018円 11,922,120円 17,460,138円 8,525,485円 8,934,653円 ▲95,581円
1928年 30.313km 16,651,073km 110,755,718人 5,764,290円 13,028,362円 18,792,652円 8,948,226円 9,844,426円 909,773円
1929年 30.261km 17,044,338km 103,579,295人 6,108,390円 10,716,983円 16,825,373円 9,637,347円 7,188,026円 ▲2,656,400円
1930年 30.261km 17,180,281km 94,161,025人 5,497,435円 14,562,987円 20,060,422円 11,884,962円 8,175,460円 987,434円
1931年 30.241km 17,528,015km 83,359,149人 4,702,445円 465,716円 5,168,161円 2,759,922円 2,408,239円 ▲5,767,221円
1932年 30.752km 17,093,394km 80,420,103人 4,464,132円 220,999円 4,685,131円 2,685,073円 2,000,058円 ▲408,181円
1933年 31.842km 16,717,167km 85,442,384人 4,727,663円 169,584円 4,897,247円 4,535,774円 361,473円 ▲1,638,585円
1934年 31.350km 17,040,663km 87,631,889人 4,819,037円 157,416円 4,976,453円 4,538,344円 438,109円 76,636円
1935年 31.391km 17,338,433km 88,824,009人 4,879,855円 197,713円 5,077,568円 5,258,440円 ▲180,872円 ▲618,981円
1936年 31.391km 17,673,857km 88,670,894人 4,864,467円 130,185円 4,994,652円 3,256,344円 1,738,308円 1,919,180円
1937年 32.578km 16,966,796km 90,734,346人 4,941,658円 194,820円 5,136,478円 4,220,074円 916,404円 ▲821,904円
1938年 32.578km 15,642,409km 93,167,947人 5,068,150円 196,007円 5,264,157円 4,359,177円 904,980円 ▲11,424円
1939年 32.578km 15,938,244km 106,202,044人 5,766,949円 195,969円 5,962,918円 4,384,841円 1,578,077円 673,097円
1940年 33.343km 16,140,936km 124,025,639人 6,730,079円 206,278円 6,936,537円 4,493,388円 2,443,149円 865,072円
1941年 33.343km 16,819,251km 144,321,713人 7,810,225円 379,236円 8,189,461円 5,120,696円 3,068,765円 625,616円
1942年 33.343km 16,093,176km 161,946,475人 8,716,367円 7,241,692円 15,958,059円 8,140,816円 7,817,243円 4,748,478円
1943年 33.343km 15,607,472km 177,070,872人 12,256,902円 8,481,188円 20,738,090円 7,732,136円 13,005,954円 5,188,711円
1944年 34.569km 10,282,845km 159,751,238人 11,377,762円 7,721,087円 19,098,849円 9,606,128円 9,492,721円 ▲3,513,233円
1945年 31.866km 3,903,709km 74,605,695人 5,530,826円 10,913,598円 16,444,424円 15,192,378円 1,252,046円 ▲8,240,675円
1946年 34.314km 5,900,845km 109,182,103人 29,846,926円 6,675,568円 36,524,494円 45,582,875円 ▲9,058,381円 ▲10,310,427円
1947年 34.314km 5,925,091km 124,803,999人 143,405,826円 10,540,546円 153,946,372円 139,239,618円 14,706,754円 23,765,135円
1948年 34.314km 7,353,100km 114,298,392人 448,120,750円 24,473,079円 472,593,829円 359,206,277円 113,387,552円 98,680,798円
1949年 34.953km 8,506,930km 111,359,226人 713,192,324円 50,067,613円 763,259,937円 596,047,311円 167,212,626円 53,825,074円
1950年 34.953km 8,749,302km 110,527,480人 763,261,170円 101,226,249円 864,487,419円 747,722,039円 116,765,380円 ▲50,447,246円
1951年 34.953km 9,168,126km 118,786,156人 870,346,930円 122,159,534円 992,506,464円 924,709,355円 67,797,109円 ▲48,968,271円
1952年 34.873km 9,787,289km 124,528,312人 1,089,447,155円 73,743,149円 1,163,190,304円 1,116,894,033円 46,296,271円 ▲21,500,838円
1953年 35.543km 10,239,224km 126,347,025人 1,269,615,460円 83,385,659円 1,353,001,119円 1,199,692,037円 153,309,082円 107,012,811円
1954年 35.543km 10,686,525km 119,472,276人 1,241,213,821円 88,049,434円 1,329,263,255円 1,292,432,968円 36,830,287円 ▲116,478,795円
1955年 35.543km 11,028,693km 119,849,408人 1,243,726,172円 96,013,442円 1,339,739,614円 1,333,044,099円 6,695,515円 ▲30,134,772円
1956年 35.543km 11,052,104km 126,164,378人 1,305,197,926円 122,495,552円 1,427,693,478円 1,390,781,868円 36,911,610円 30,216,095円
1957年 35.543km 11,432,221km 134,273,660人 1,382,837,790円 138,799,383円 1,521,637,173円 1,515,425,961円 6,211,212円 ▲30,700,398円
1958年 35.543km 11,553,188km 134,291,729人 1,376,263,775円 159,758,237円 1,536,022,012円 1,540,058,376円 ▲4,036,364円 ▲10,247,576円
1959年 35.632km 11,458,171km 136,652,950人 1,397,022,984円 166,389,660円 1,563,412,644円 1,561,877,241円 1,535,403円 5,571,767円
1960年 35.606km 11,405,644km 141,808,363人 1,452,558,607円 150,877,507円 1,603,436,114円 1,683,178,284円 ▲79,742,170円 ▲81,277,573円
1961年 35.606km 10,937,802km 146,386,741人 1,499,802,427円 140,605,956円 1,640,408,383円 1,916,552,957円 ▲276,144,574円 ▲196,402,404円
1962年 35.583km 10,559,794km 140,063,171人 1,594,649,872円 160,325,855円 1,754,975,727円 2,057,265,121円 ▲302,289,394円 ▲26,144,820円
1963年 35.527km 10,545,371km 136,576,619人 1,641,900,890円 256,088,932円 1,897,989,822円 2,237,402,946円 ▲339,413,124円 ▲37,123,730円
1964年 35.537km 10,138,371km 133,181,919人 1,595,677,856円 195,311,730円 1,790,989,586円 2,322,395,658円 ▲531,406,072円 ▲191,992,948円
1965年 35.537km 9,900,033km 129,496,151人 1,543,709,830円 351,586,581円 1,895,296,411円 2,680,744,769円 ▲785,448,358円 ▲254,042,286円
1966年 34.916km 9,272,902km 119,374,049人 1,678,354,715円 366,490,847円 2,044,845,562円 2,875,490,705円 ▲830,645,143円 ▲45,196,785円
1967年 34.920km 8,618,840km 106,654,867人 1,805,021,587円 493,964,674円 2,298,986,261円 3,348,317,474円 ▲1,049,331,213円 ▲218,686,070円
1968年 20.105km 6,676,127km 71,392,763人 1,423,896,541円 519,648,012円 1,943,544,553円 3,280,345,915円 ▲1,336,801,362円 ▲287,470,149円
1969年 10.644km 3,765,499km 39,390,732人 786,432,868円 362,000,071円 1,148,432,939円 2,317,964,382円 ▲1,169,531,443円 167,269,919円
1970年 10.644km 1,446,287km 14,600,559人 292,460,242円 606,407,863円 898,860,105円 1,783,322,667円 ▲884,462,562円 285,068,881円
市電被災状況[30]
路線別被災状況
路線 区間 キロ程 浸水時刻 浸水高 減水時刻 最高土砂堆積高
8時頃 9時頃 10時頃 11時頃
布引線 上筒井 - 熊内1丁目付近 0.300km 2.226km 5日8時頃 8寸 2尺 3尺 - 5日15時30分頃 2尺
熊内4丁目 - 布引付近 0.300km 5日8時頃 1尺2寸 2尺5寸 3尺5寸 - 5日20時30分頃 3尺
布引付近 - 生田町専用軌道西端付近 0.250km 5日8時頃 5寸 1尺 2尺 - 5日12時55分 1尺
加納町2丁目付近 - 加納町3丁目付近 0.753km 5日8時頃 5寸 8寸 6尺 8尺 11日18時頃 15尺
加納町3丁目付近 - 加納町5丁目付近 0.463km 5日8時頃 5寸 8寸 6尺 7尺 11日18時頃 8尺
加納町5丁目付近 - 瀧道付近 0.200km 5日8時頃 5寸 8寸 5尺 6尺 11日18時頃 4尺
税関線 瀧道付近 - 税関前付近 0.476km 5日8時頃 5寸 8寸 3尺5寸 4尺 11日18時頃 3尺
山手・上沢線 加納町3丁目付近 - 中山手3丁目付近 1.030km 3.188km 5日8時頃 1尺 2尺 3尺 4尺 6日21時頃 2尺
下山手8丁目の楠橋付近 0.130km 5日10時頃 - - 1尺 - 5日正午頃 5寸
荒田町1丁目付近 0.388km 5日8時頃 6寸 1尺 2尺5寸 4尺 6日20時頃 3尺
湊川公園トンネル東入口付近 0.140km 5日8時頃 8寸 1尺5寸 3尺5寸 4尺 6日20時頃 3尺
湊川公園付近 - 上沢4丁目付近 0.691km 5日8時頃 1尺 2尺 3尺 4尺 6日8時頃 3尺
五番町4丁目付近 - 北町付近 0.809km 5日8時頃 1尺5寸 2尺 2尺5寸 3尺 5日15時頃 1尺5寸
須磨線 東尻池2丁目付近 - 大橋付近 0.540km 2.594km 5日8時頃 1尺 1尺5寸 2尺 2尺5寸 5日15時頃 1尺
大橋2丁目付近 0.545km 5日8時頃 1尺 1尺5寸 2尺 2尺5寸 5日14時30分頃 1尺
大橋9丁目付近 0.130km 5日8時頃 1尺 1尺5寸 2尺5寸 3尺 5日15時30分頃 1尺5寸
大橋9丁目付近 - 本庄町4丁目付近 0.100km 5日8時頃 1尺 1尺5寸 2尺5寸 - 5日16時頃 1尺5寸
鷹取2丁目付近 0.159km 5日8時頃 5寸 8寸 1尺2寸 - 5日15時頃 8寸
妙法寺付近 - 若宮町4丁目付近 0.503km 5日7時頃 1尺 1尺5寸 2尺5寸 - 5日8時頃 1尺5寸
衣掛町付近 - 離宮道付近 0.241km 5日7時頃 1尺 1尺5寸 2尺5寸 - 5日17時頃 1尺
千森川付近 - 須磨駅前付近 0.376km 5日7時頃 1尺 2尺 2尺5寸 - 5日16時頃 1尺
板宿線 大橋9丁目付近 - 板宿付近 1.115km 5日8時頃 1尺5寸 2尺 3尺 3尺5寸 7日7時頃 2尺
東部国道線 脇浜3丁目付近 - 春日野付近 0.740km 1.734km 5日7時頃 8寸 1尺5寸 2尺 - 5日17時 1尺
吾妻通4丁目付近 - 小野柄通5丁目付近 0.738km 5日8時頃 1尺5寸 2尺5寸 3尺5寸 4尺5寸 5日18時頃 3尺
三宮駅前停留場付近 0.256km 5日8時頃 5寸 8寸 4尺 5尺 6日6時頃 4尺
栄町本線 三宮町1丁目付近 0.241km 2.694km 5日8時頃 8寸 1尺5寸 2尺5寸 3尺 6日22時頃 1尺8寸
三宮神社前付近 0.252km 5日8時頃 8寸 1尺5寸 2尺 3尺 6日14時頃 2尺
元町1丁目付近 - 栄町5丁目付近 1.110km 5日8時頃 5寸 1尺 2尺 2尺5寸 5日22時頃 1尺5寸
元町6丁目付近 - 湊川神社前付近 0.541km 5日8時頃 1尺8寸 2尺 4尺 5尺 6日22時頃 4尺
多聞通6丁目付近 0.150km 5日8時頃 5寸 1尺 2尺 - 5日18時頃 1尺
多聞通8丁目付近 0.200km 5日8時頃 5寸 1尺 2尺 3尺 6日18時頃 1尺5寸
兵庫付近 - 柳原付近 0.200km 5日8時頃 8寸 1尺 1尺2寸 - 5日18時頃 7寸
楠公東門線 大倉山 - 湊川神社 0.438km 浸水被害なし
平野線 平野付近 - 五郎池付近 0.870km 5日8時頃 3寸 8寸 1尺8寸 - 5日19時頃 1尺
兵庫線 神戸駅前付近 0.220km 0.946km 5日8時頃 1尺 2尺 3尺 4尺 5日21時頃 2尺
相生町専用軌道 0.250km 5日8時頃 5寸 1尺 1尺5寸 2尺 5日20時頃 1尺2寸
相生町4丁目付近 0.092km 5日8時頃 2寸 8寸 1尺5寸 2尺 5日19時頃 8寸
柳原専用軌道付近 - 大佛筋付近 0.384km 5日8時頃 5寸 8寸 1尺2寸 - 5日17時頃 5寸
尻池線 北町付近 - 省線高架下付近 0.500km 2.744km 5日8時頃 2尺 2尺5寸 3尺 3尺5寸 5日17時30分頃 2尺
東尻池2丁目付近 0.112km 5日8時頃 1尺 2尺 2尺5寸 3尺 5日17時頃 1尺5寸
松原4丁目付近 - 松原6丁目付近 2.132km 5日9時頃 - 2寸 5寸 8寸 5日14時頃 5寸
和田線 笠松7丁目付近 0.697km 5日9時頃 - 5寸 1尺 - 5日14時頃 5寸
高松線 東尻池8丁目付近 0.710km 5日8時30分頃 - 8寸 1尺2寸 - 5日15時頃 5寸
諸施設被災状況
施設名 被災状況
長田工場 新湊川氾濫により構内が浸水するも防水・排水が行われた結果電気機器の浸水には至らず。建物への被害無し。
須磨車庫 表道路より浸水するも防水が行われた結果2寸程度の浸水に留まる。車両・建物への被害無し。
布引車庫 浸水せず車両・建物への被害無し。
春日野車庫 東道路より少量の浸水があるも車両・建物への被害無し。
車両被災状況
車両形式 被災車両車番 被災/保有車両数 合計被災/保有両数
G車 204号、207号、208号、210号、212号、216号 6両/20両 115両/285両
H車 222号、223号、224号、226号、230号、233号、235号、236号、237号、240号 10両/20両
300形 301号、302号、304号、306号、312号、319号、320号、321号、323号、324号、326号、328号、331号、333号、337号、338号、341号、342号、343号、344号、345号、347号、350号、351号、355号、356号、358号、360号、361号、363号、366号、368号、369号、370号、373号、375号、378号 37両/80両
400形 404号、408号、419号、420号、421号、427号、430号、431号、437号、442号、446号、451号、452号、456号 14両/58両
J車 551号、552号、555号、556号、558号、559号、561号、562号 8両/12両
K車 563号、565号、566号、567号、568号、569号、570号、571号、572号、573号、574号、575号、576号、579号、581号、582号、584号、585号、587号 19両/23両
L車 590号、592号、593号、595号 4両/10両
600形 601号 1両/10両
700形 704号、706号、707号、711号、716号、717号、718号、721号、723号、725号、726号、730号、731号、732号 14両/33両
800形 805号、808号 2両/10両
出願路線一覧[31][32][33][34]
号線 区間 キロ程 開通日 路線名
第1期 第1号線 春日野 - 羽坂通1丁目 5.808km 1910年4月5日 栄町本線 (春日野 - 瀧道間は後に磯上線となる)
羽坂通1丁目 - 兵庫駅前 羽坂延長線 (後の栄町本線)
第2号線 瀧道 - 熊内通1丁目 2.999km 1912年12月28日 布引線
熊内通1丁目 - 上筒井 1919年4月15日 熊内延長線(後の布引線)
第3号線 楠公前 - 島上町 2.687km 1913年6月7日 兵庫線
島上町 - 西柳原 1913年8月12日
第4号線 有馬道 - 平野 1.403km 1913年9月3日 平野線
第2期 第1号線 加納町3丁目 - 大倉山 5.358km 1921年8月25日 山手・上沢線
大倉山 - 楠町6丁目 1921年10月25日
楠町6丁目 - 上沢通7丁目 1921年12月26日
上沢通7丁目 - 五番町2丁目 1922年1月7日
五番町2丁目 - 四番町7丁目 1922年4月10日
第2号線 大倉山 - 楠公前 0.626km 1922年12月3日 楠公東門線
第3号線 湊川公園 - 新開地 0.503km 1922年7月12日 湊川線
第4号線 長田交差点 - 菅原通5丁目 2.992km 1922年7月12日 尻池線
菅原通5丁目 - 東尻池交差点 1923年4月5日
東尻池交差点 - 松原通1丁目 1923年12月25日
松原通1丁目 - 築島 1924年7月20日
第5号線 中之島 - 今出在家2丁目 2.341km 1925年3月7日 和田線
今出在家2丁目 - 笠松町7丁目 1924年8月5日
笠松町7丁目 - 高松 1924年4月1日
第3期 第1号線 東尻池交差点 - 苅藻通1丁目 4.859km 1925年12月1日 須磨線
苅藻通1丁目 - 鷹取町 1926年3月4日
鷹取町 - 離宮道 1926年6月26日
離宮道 - 須磨浦4丁目 1927年3月1日
須磨浦4丁目 - 須磨浦5丁目 1937年1月28日
第2号線 東尻池2丁目 - 東尻池6丁目 1.000km 1928年4月1日 高松線
東尻池6丁目 - 東尻池7丁目 1928年8月14日
東尻池7丁目 - 高松町 1928年11月19日
第3号線 駒ヶ林町6丁目 - 大橋町9丁目 0.371km 特許未成線 板宿線
大橋町9丁目 - 板宿 1.128km 1937年4月1日
平田町2丁目 (板宿) - 前池町3丁目 0.287km 特許未成線
第4号線 下山手通7丁目 - 平野祇園町 - 石井町5丁目 - 菊水町6丁目 - 上沢1丁目 3.249km 特許未成線 夢野平野線 (仮称)
第5号線 敏馬 - 脇浜町2丁目 2.249km 1933年9月21日 東部国道線
脇浜町2丁目 - 三宮駅前 1935年1月1日
第6号線 瀧道 - 税関前 0.500km 1933年1月1日 (単線開通) 税関線
1934年9月7日 (複線開通)
第4期 第1号線 税関前 - 相生町 2.884km 特許未成線 海岸線 (仮称)
第2号線 海岸通1丁目 - 生田区西町35番地 0.244km 特許未成線 宇治川線 (仮称)
第3号線 生田区弁天町25番地 - 相生町1丁目 0.215km 特許未成線 鯉川線 (仮称)
第4号線 上筒井 - 原田 3.431km 1941年9月1日 石屋川線
原田 - 将軍通 1944年6月1日
将軍通 - 六甲口 1949年7月25日
六甲口 - 石屋川 1953年10月1日
第5期 第1号線 西出町 - 松原通6丁目 1.172km 出願取下


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  1. ^ 兵庫県『兵庫県統計書 明治43年 第1編』兵庫県、1912年、1023-1025頁。 
  2. ^ 兵庫県『兵庫県統計書 明治44年 第1編』兵庫県、1913年、677-679頁。 
  3. ^ 兵庫県『兵庫県統計書 明治45年・大正元年 第1編』兵庫県、1914年、655-657頁。 
  4. ^ 兵庫県『兵庫県統計書 大正2年 第1編』兵庫県、1915年、670-672頁。 
  5. ^ 兵庫県『兵庫県統計書 大正2年 第1編』兵庫県、1915年、670-672頁。 
  6. ^ 兵庫県『兵庫県統計書 大正3年 第1編』兵庫県、1916年、678-680頁。 
  7. ^ 兵庫県『兵庫県統計書 大正4年 第1編』兵庫県、1917年、897-899頁。 
  8. ^ 兵庫県『兵庫県統計書 大正5年 第1編』兵庫県、1918年、940-941頁。 
  9. ^ 兵庫県『兵庫県統計書 大正6年 第1編』兵庫県、1919年、903-904頁。 
  10. ^ 兵庫県『兵庫県統計書 大正7年 第1編』兵庫県、1920年、884-885頁。 
  11. ^ 兵庫県『兵庫県統計書 大正8年 第1編』兵庫県、1921年、896-897頁。 
  12. ^ 兵庫県『兵庫県統計書 大正9年 第13・14編』兵庫県、1922年、34-37,76-77頁。 
  13. ^ 兵庫県『兵庫県統計書 大正10年 第13・14編』兵庫県、1924年、34-37頁。 
  14. ^ 兵庫県『兵庫県統計書 大正11年 第13・14編』兵庫県、1924年、34-37頁。 
  15. ^ 兵庫県『兵庫県統計書 大正12年 第13・14編』兵庫県、1925年、32-35頁。 
  16. ^ 兵庫県『兵庫県統計書 大正13年 第13・14編』兵庫県、1926年、34-37頁。 
  17. ^ 兵庫県『兵庫県統計書 大正14年 第6編』兵庫県、1927年、36-39頁。 
  18. ^ 兵庫県内務部統計課『兵庫県統計書 大正15年・昭和元年 第6編 交通・土木・議會・官公吏・文書』兵庫県内務部統計課、1927年、43-44頁。 
  19. ^ 兵庫県内務部統計課『兵庫県統計書 昭和2年 第6編 交通、土木、議會、官公吏、文書』兵庫県内務部統計課、1928年、43-44頁。 
  20. ^ 兵庫県内務部統計課『兵庫県統計書 昭和3年 第6編』兵庫県内務部統計課、1929年、48-49頁。 
  21. ^ 兵庫県内務部統計課『兵庫県統計書 昭和4年 上巻』兵庫県内務部統計課、1931年、48-49頁。 
  22. ^ 兵庫県内務部統計課『兵庫県統計書 昭和5年 上巻』兵庫県内務部統計課、1932年、48-49頁。 
  23. ^ 兵庫県内務部統計課『兵庫県統計書 昭和6年 上巻』兵庫県内務部統計課、1932年、34-35頁。 
  24. ^ 兵庫県内務部統計課『兵庫県統計書 昭和7年 上巻』兵庫県内務部統計課、1933年、38-39頁。 
  25. ^ さよなら神戸市電 1971, p. 163.
  26. ^ 百年史 2020, p. 330-334.
  27. ^ 八十年史 2001, p. 672-676.
  28. ^ 六十年史 1981, p. 610-613,618.
  29. ^ 沿革小史 1929, p. 135-136,141-142.
  30. ^ 神戸水害誌 1939, p. 398-404.
  31. ^ 六十年史 1981, p. 32, 74, 78, 105, 106, 235.
  32. ^ 八十年史 2001, p. 91.
  33. ^ 市会史2巻 1970, p. 48.
  34. ^ 市会史3巻 1973, p. 1006.