利用者:慈姑鑑真/下書き6
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メモ
[編集]女形の発展
[編集]歌舞伎の発展過程においては、元禄期には戯曲的演目の増加とともに役柄の分化が起き、女形はおおむね
- 傾城(遊女)
- 娘形(姫も含む)
- 世話女房(世話場に出る女房役)
- 女武道
- 悪婆
のように類型化した。この時期、役柄の類型化とともに役者の分業が起き、例えば傾城役を演じる役者は様々な演目でも傾城役ばかりを演じるような傾向ができた[1]。すなわち、作品が違えど、ある程度類型化した役柄によって類型化した芸が追及され、新たな作品もそのような類型に沿って役柄の創出が行われてきた。ここではあくまで様式美の発展に即し、登場人物の環境からくる人間性に迫る演技の発展によるものではない[1]。
演劇評論家の戸板康二は、「歌舞伎は創始期においては、若い年齢の女性に対して、ほとんど作者も、俳優も、芸術的な努力を向けていない」「『赤姫』という言葉があるが、びらびらした簪のついたかつらに、赤地にぬいのある衣装を着たお姫様という役は、舞台で、豪華な蘭虫金魚(らんちゅうきんぎょ)のように黙って坐っている以外、何のしごともなかった。」と厳しく指摘している[2] そのうえで戸板は、そうした歌舞伎の姫の役をより人間的な生気のある表現へと作り替えた分水嶺が鶴屋南北の「桜姫東文章」の桜姫であるとする。桜姫は上臈から遊女まで身を落とす流転の役であるが、このように「無性格な姫を人間らしくしようとする傾向」が時代を逐って出てきた(戸板)中で登場したのが「三姫」のような主体的な女主人公としての姫である[2]。『本朝廿四孝』『鎌倉三代記』『祇園祭礼信仰記』はいずれも人形浄瑠璃を初演として歌舞伎に翻案された「義太夫狂言(丸本歌舞伎)」である。