利用者:市川大介/sandbox
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略歴
[編集]1886年(明治19年)の中学校令公布により、公立中学は1府県に1校と定められたが、東京府尋常中學(現・都立日比谷高)は、志願者の増加に対応するため分校の設立を考え、東京府会の内諾を得られる見通しとなった1888年(明治21年)7月に志願者を募集し、600名の応募者の中から約200名の合格を決定した。しかし8月の東京府会で分校の設立は見送られる事となったため、東京府学務課長・元田直、東京府尋常中学校長・丸山淑人、今泉定助教諭、皇典講究所幹事・松野勇雄らにより、東京府尋常中学に欠員が生じた場合に生徒を転入させる学校として9月16日、飯田橋の皇典講究所(國學院大學の前身)敷地内に私立補充中学校を開校した[1]。そして1888年度は12名、1889年度は78名、1890年度は63名が東京府尋常中学へ転学したが、同校の校長交代に伴ってこの制度は断ち切られてしまい、共立中學校と改称した。
1888年(明治21年)、東京府尋常中學(現・都立日比谷高)は、当時の中学校令で公立中学は1府県に1校と定められていた中で分校の設立を考え、東京府会の内諾を得られる見通しとなった7月に志願者を募集し、600名の応募者の中から約200名の合格を決定した。しかし8月の東京府会で分校の設立は見送られる事となったため、東京府学務課長・元田直、東京府尋常中学校長・丸山淑人、今泉定助教諭、皇典講究所幹事・松野勇雄らにより、東京府尋常中学に欠員が生じた場合に生徒を転入させる学校として9月16日、飯田橋の皇典講究所(國學院大學の前身)敷地内に私立補充中学校を開校した[2]。そして1888年度は12名、1889年度は78名、1890年度は63名が東京府尋常中学へ転学したが、同校の校長交代に伴ってこの制度は断ち切られてしまい、共立中學校と改称した。
続く1892年の中学校令改正で郡市町村費による尋常中学の設立が条件付きで認められるようになると、東京参事会・東京府知事宛てに東京市立中学校となる為の請願書を提出している[3]。翌1893年、東京府へ5000円を寄付する事により公立並みの待遇(徴兵猶予や校地に対する免税、卒業生の判任官任用など)が得られる制度が設けられる事となり、まず共立中學(戸山)が、次いで共立學校(現開成中・高)の2校が東京府の管轄下に入り、それぞれ東京府城北中學、東京府開成中學と名を改めた。1900年、文部省が私立を公立として待遇することを廃したため、翌年開成は純粋な私立に戻り、戸山は府立第四中学と名称を改め、現在に至る[4][5][6]。