コンテンツにスキップ

利用者:宗純/sandbox

詩法』(しほう、: Art poétique; Développement de l'Eglise)は、文学理論について論じたフランス劇作家詩人外交官ポール・クローデルの著作。1900年、1903年、1904年になった小論の総称。1907年に出版された。

概要

[編集]

成立

[編集]
  1. 1900年、4月-7月、フランスにて「寺院の発展」
  2. 1903年、8月12日、クーリヤンにて「時間の認識」
  3. 1904年、フー・チェウ(福州)にて「世界への共同・共生とおのれ自身に関する論説」

巻頭言

[編集]
  • 創造者と同じく支配者もまた然り。之を要するにあらゆる世紀の美しさは・・・・名状し難き楽人の大いなる歌のごとし。聖アウグスティヌス『書簡』Ⅴマルセリヌス宛

「寺院の発展」

[編集]

樹木は、ひとの祈りを守護し、水をたたえています。芽生え、育っていく樹木は、証においての「期待」の表現です。ひとはその陰にすわり、ひざまずき、教会は神秘の森をとりこんで、その並木道を、その合唱を、ひとの聖い集いへと内面的に適合させたのです。

あらゆる関係は、たとえ絶対者までもそこに含めようとも、あるやりとりにたどりつきます。だからこそ、神秘の代わりに秘跡が置かれたのであり、教会堂は市場が変形したスタイルを取ったのです。屋根があり、隠れ場を作りました。とき 夕べに およびて 日も早や暮れなんとす(ルカ24-29)とき、弟子たちが主を強いてひきとめたあのエマオの町のほのぐらい街道のような、公共の往来を、また四つ辻を、人々は閉ざし、囲います。

その内側には幾本かの円柱が、その間隔の釣り合いによって、それらの配置を規整したリズムにすべての歩みをしたがわせるように見えます。柱はすべてを導き入れ、証し、ともに歌うのです。暗闇の遊歩道、恩寵を待つのに恰好の、静けさにみちた並木道となります。

このようにして、古い町々では、大伽藍が家々から完全に切り離されて聳え立つようなことは全くなく、あたかも家々にとりこにされているようです。

「時間の認識」

[編集]

序言 「時を同じくする諸々の事物がわれらの周囲に形成する宇宙と形象との解釈。」

原因について 「連続の観念による定義。原因という観念の分析。主体と手段の一対。例証と分類。三段論法の、大前提と小前提という一対との比較。主体は手段を含まずまたそれを命じない。諸法則にあらずして、諸形態。森羅万象の永遠の新しさ。万物の反復は、あたかも永遠の語彙集に収録されたもろもろの単語にも似て、「造物主」がそれらのものに授け給うた神聖かつ至高なる重要性を示している。それぞれの事物に欠くべからざるものはただその実存だけである。「メカニスム:機械論」の議論、それ自体以外に目的なき永久運動の不条理なること。要約――主体は独力では予定表をもたず、手段から授けられる或る種の結果への決定によってしか、それを見出さない。多産なる差異。」

時間について 「空間、もしくは完了せるデッサン。時間、もしくは普遍的運動(これすなわち時間である)において描かれつつあるデッサン。宇宙は時を示す機械である。人間の時計との比較、すなわち、運動、調整、記録。原始の運動はつねに「・・・・・・から」であり「・・・・・・のほうへ」ではない。あらゆる運動の二重の時間、外的推進力、復帰の傾向。太陽の脱走。運動の起源は、物質が、それと異なる実在、「精神」と接触して起こす戦慄、すなわち、神への畏怖である。運動である一切のものは時間であり、かつ時間を示すに役立つ。運動の連続、もしくは持続として考えられた時間。時間の方式と過程。持続における経過と進行。過去は、未来の諸情況の不断に増加する加法であり、したがって未来は、つねに新しくかつ未発表である。」

時刻について 「単に時間においてのみならず、また持続において、わたくしが指し示し、かつわたくしが現に在るところの、わたくしの裡なる時刻。或る心臓におけるこの運動そのもの。その周囲に展開される遠近法的視界は、この心臓を中心とする同心円の、転写と翻訳にほかならぬ。全体のデッサンにおけるわたくしの志向。これについてわたくしの有する認識。もろもろの事物とわたくしとの関係。ならびに、事物の同時性という一点から見た事物の相互関係の認識。「調和的原因」もしくは持続の或る瞬間における諸存在の集合を規制する運動。それが「詩法」L'Art poétiqueだ。隠喩を表現手段とする、新しい「論理」。あらゆる事物は、その固有の実在以外に、またその事物が他のあらゆる事物と結んでいる無限の関係という事実以外に、持続の、われわれがたどりついた或る瞬間の、標識としての価値をもつ。」

結論 「「時間」は死への招待であり、万物をして、おのが「創造者」の胸におけるおのが虚無を、息を引き取りつつ是認することを可能ならしめる手段である。」

  • 次の最後の疑問だけが解消され得ない。要するに、われわれが時間と称んでいる生命の意義、そのsensとは、はたして、何か。
  • すべての運動はすでに述べたように、或る点から、であって、或る点を目ざして、ではない。或る点から、足跡が出発するのだ。その点にこそ、時間によってくり拡げられる生命のすべてがつながれているのだ。それは、楽弓がその上に始まってその道程をおえる、絃だ。
  • 時間は、いずれもはや存在しなくなるために存在するであろうあらゆるものに、提供された手段である。それは死ぬることへの招待であり、あらゆる楽章が、解明的かつ全体的な和音の中に分解することへの、Sigèすなわち「深淵」の耳に崇拝の言葉を使い果たすことへの、勧誘である。

「世界への共同・共生とおのれ自身に関する論説」

[編集]

序言:naîtreとconnaîtreとの血族関係。認識の3つの種類。

第1章:無生物の認識

第2章:生命ある諸存在における認識について

第3章:知的認識について

第4章:意識について

第5章:死後における人間の認識について

  • すべての運動は、それを停止させ、その証として一つの形態を与えるところの終結をもつ。一つの存在におけるこの証の持続は、その存在が証明する事実の持続に比例する。しかし人間は、或る固定した一点に対するもろもろの事物の永続性と変化との証人である。人間は永続的なものを言葉によって立証する。言葉は主体の一変形にすぎないゆえに、もろもろの事物を永続的なものとして立証するためには、おのれ自身が不滅である必要がある。
  • 人間の滅ぶべき諸器官は、単にもろもろの事物からおのが運動のさまざまの修正を借り受けるためにつくられているのであって、この運動の修正が事物を認識することに役立つのである。
  • 人間の最期は永続的なるがゆえに、人間はその天賦の全体において、というのはつまりその霊魂とその肉体との結合において、当然不滅なものであり、霊と肉との分離は凶暴な一状態である。分離されて個人的な諸器官を失った霊魂が認識し得るもの、すなわちそのもろもろの差異。その神との差異。霊魂は或る特殊な志向の表現であるが、その特殊な志向による一つの霊魂と他のもろもろの霊魂との差異。われらの固有の名。おのれ自身の義務の連帯責任者としての、他のもろもろの霊魂の認識。
  • 分離された霊魂の認識の道具はその本質的な振動に与えられた形成作用である。霊魂はおのれの志向の充実を認識し、その結果として、おのれにとって完全に理解し得るものとなる過去の記憶を守る。霊魂はもろもろの可感な事物を認識する。というのも霊魂は、事物の至高の原因において、事物とconnaîtreすることをやめないからである。永劫の形成。

日本語訳

[編集]
  • 「詩法」斎藤磯雄訳、世界文学大系51クローデル・ヴァレリー篇所収、筑摩書房、1960年、pp.161-215

教理要論1906年3月9日:アンドレ・ジッドあて、フランシス・ジャム、アルチュール・フォンテーヌ、ジャック・リヴィエールも与えられた(河上徹太郎訳)

[編集]
  • 神は完全なる存在である。その中にあってすべての力は行為である我等の感覚では近寄りがたい行為であり、ただ在るとかないとかいふことによってしかその存在を証明し得ない。
  • 我等は眼で見えない活き物を如何にして認識するか?そのものがひき起す運動を通じて。土の中の土竜、垣の中の兎、指の下の魂。然るに我等は全宇宙が動いていることを知っている。この世にあるものすべては行動であり、被造物の聖なる活動を証明し、常に創造の過程にあって、それ自身によっては存在することが不可能で、不動の〈造物主〉の前では、存続することの出来ないものである。すべて溢れ出ようとしても出来ないものばかりである。
  • 信仰は、神聖なる生理学の神秘の中に進む力を与へ、三つの関係、又は機能、役割、人格を知ることを得させる。〈父〉は産み、〈子〉又は〈言〉、〈理智〉は常に存在しながら永遠に〈父〉に向ひ、彼の〈存在〉を主張する。〈聖霊〉、又は〈放射〉、〈愛〉は、一つのものから他のものへの〈行列〉であり、呼吸の〈気息〉である。
  • 神は全能なるが故に、善きものしか創らなかった。善きものとは、善いペン、善い馬などの如く、その用途に完全に叶ふものをいふ。その適応の度合に応じて善いものである。神は、非常に善いものしか創らなかった。それは、秩序に従って完全に適合し、神の明かな証明を与へ、又神を照らすものである。仕事の不完全さは、職人の意に反した、異常な障害物の結果によってしか起らない。
  • 然るに現実は、実際諸々のものは、非常に善いとはいへない。つまり創造者に明かな証明を与へることが出来る様に完全に適合しているとは、私達の眼に映らないのである。私達には、その語る言葉がもはや通じない。私達は自分達を見て何といふべきであらう? ――要するに我々は無秩序の状態に生きてゐるのである。始源的な秩序、事物に出現を命じる命令に不純なものが発生し、あらゆる装置に摩擦が起るやうな、運動の不備が生じたのである。
  • 定義によるこの無秩序は、〈創造主〉の創ったものとはいへないのである。何故なら、彼の作品であるといふただ一つの事実によって、すべてのものは善であるからである。それ故に自由な被造物の仕事でしか有り得ないのである。終りなき神の代りに、自分自身を最終目的とする自由のなした業でしか有り得ないのである。差異と選択。この不正な選択が原罪と呼ばれる罪である。そしてそれは、存在が共にあって満足し、愉しむ所の、神と共にあることとの始源的な差異が、その原因である。
  • 原罪の結果は、存在の終ったものが自らその終りを選択することであって、それは〈終り〉又は死、又は離別である。反逆した天使の離別は永遠に人生と相容れないものであり、人間の死は、肉体の喪失であり、或ひは彼がその中で愉しんでいる所の、本質的な差異である。
  • 罪によって人間は肉体と肉体の奉仕とを神から奪ひ去った(肉体はすべての自然が固く結び付くものである)。彼は神に相応しいものであることを止める。無垢の時盗み取ったものは、罪人としてもはや返すことは出来ない。神のみが神(又は神の仕事)を神に返すことが出来る。それは一種の再創造、再生によってである。――汝の意の如く成れかし、と〈子〉は答へる。
  • 罪を犯した後では男は、自らの根源と盗品を女の腹に埋蔵して、隠し、告白し、再び探し出す。神は幾多の時代を周って再び原罪なきマリアより生れ出でた。
  • 罪によって人間は終、死、限界、別離を受け入れるに至った。人の〈子〉は十字架によって終り、死又は限界と別離の破壊を受け入れた。
  • 我等の主なるキリストとの全体により、可見の教会との一致により、信者の肉体は神に対して復活する。
  • キリストと相交はらなければいけない。頭脳で交はるためには、肉体を持たねばならない。我等は形式、つまり正統の司祭に恭順することにより、又生命への参加、つまり生命の運河であるところの秘蹟に参じることによって、教会の実体となるのである。
  • キリストは我等と共に在る。彼は彼の教会に絶えずゐる。法王又は他の階級の聖職による医師として、悔悛の秘蹟による医師として、聖体による糧として存在するのである。
  • かくして永遠の歓びは我等から遠いところにあるのではない。それは夢でも病的な貪欲でもなく、最も本質的且つ我等の天性にとって、有機的で正当な欲求なのである。〈天の王国は我等の中にある〉。それは我等の自由な意思、我等を促す聖寵への協讃の中に存在するのである。王国、承認された〈秩序〉への服従。被造物が造物主に服従することによって再建された秩序の中に存する。そしてそこで被造物は生命に参与する。〈汝の意の如く成れかし〉。
  • それ故にカトリックの〈真理〉は最もよく学ばしめるものである。教理を頭で聴くだけでなく、その正しい秩序の裡に我等の全人格を置くことによって、恰もその場所におかれた言葉の如く、傾斜に於ける方位方向の決定によって、団体の中に於ける奉仕によってなされるのである。[1]

書簡1907年5月25日:ジャック・リヴィエールあて(木村太郎訳)

[編集]
  • 真に存在するものについては人は賛嘆の念に打たれるが、単に外面的に輝く虚しきものについては人は驚嘆するばかりである。 聖グレゴリオ
  • 読むべき書物。何よりもまず、われわれフランス人にとって「異邦人のための」真の使徒であるパスカル。
  • 多くのミスティックの本、すなわち、アンジェール・ド・フォリニョ、リュスブロック、聖テレジヤ、いかにまずく書いてあっても聖人伝。
  • わが主の生涯に関するアンナ・カタリナ・エンメリックの嘆賞すべき啓示。
  • ボスュエの『玄義についての黙想』と『福音書についての黙想』。
  • ダンテ。
  • ニューマンのもので見いだされるもののすべて。
  • 旧約聖書。
  • ゲランジェーの『典礼の一年』。
  • 聖トマス。
  • なんじらは静かに流るるシロエの水を捨てしかば。なんじはみ民にたとえがたきことをしめし、人をよろめかす酒を我らに飲ましめ給えり。主よみそなわし給え。われ賤しくなりたれば、顧み給え。禍いなるかな、なんじ益なきことを図る者。かの時にはわが知らるるが如くに知るべし。われなんじのうちより、なんじを焼き尽くすべき火を引き出さん。なんじは彼らにとりて、甘く快き声もて唱わるる節面白き歌の如し、彼らなんじのことばを聞けどもこれを行わず。われはわが父の名に由りてきたれるに、なんじらはわれを承けず、もしほかに己の名によりてきたる人あらば、これをば承くるならん。これ彼らが救わるるよう、真理の愛を受けざりし故なり。されば神その中に惑いを働かしめ給いて、彼らは偽りを信じるに至らん。天主はいずこにましますや、彼はわれを造り、夜のうちに歌を賜いし者。なんじのみ栄え現れん時、われ満ち足るべし。風を気にする者は播くを得ず、雲を観る者は決して刈るを得じ。父よ、願わくばわれに賜いし人々も、わが居る処にわれと共ならんことを。われ在り、すなわちエホバ、神の名。娘シオンよ、ほめ歌唱いて喜び楽しめ、そは見よ、われきたりてなんじの中に住まわんとすればなり。エルサレムは、垣を設けずして住むに至るべし。われこの胸一つに秘めおかん、われこの胸一つに秘めおかん。不敬なる者めぐり歩くなり。われらの魂は塵に伏し、われらの腹は地につきたり。そは地、鳩の怒りと、主のはげしきおん怒りとによりて、荒野となりたればなり。けだし神が裁きを行い給うときは、罪と罰とは彼らにとりて別個のものに非ずして、各自の罪彼らのうちに留まるなり。陰その陰を覆う。わがブドウ畑はわが前にあり。信、望、愛。主よ、われ信ず、きたりてわが弱き信を助け給え。彼われを殺し給うとも、われ彼をたのみたてまつらん。主よ、おんみを愛するようわれに強い給え。

ポオル・クロオデル「ランボオ」1912年

[編集]
  • アルチユル、ランボオは野生に於ける一神秘、飽和された土より湧き出でた人知らぬ泉であつた。彼の生涯は誤算に終始し、遂に余儀なく切斷された兩脚を以てマルセーユの病院の寢薹に自得するに至るまで、彼を促し彼を狩り立てしかも彼自身認識しようとはしない聲よりの無益の脱走の企畫であつた。
  • 「幸福よ!絶え入るばかり柔しきその齒は我身の雞の歌に――朝、再來する基督に――またいともほの冥き街々へと誘ひぬ。」「我等はや世に在らず。」「心靈によりて人は神に達す。……童貞の幻影の我に來りしはこの目醒の時なりき。……若し我この一時を去るべくより目醒まされてまりしならば。」(そして賞讃すべき「地獄の一季節」の旅程。)「傷ましき悲運よ。[2]

ジャック・リヴィエール「ランボオ」1914年

[編集]
  • ポオル・クロオデルはランボオのことを「野人狀態の神祕家」だと書いてゐる。卽ち、いかなる敎義によつても支持されてはゐない神祕家だといふ意味である。それ故に彼の視覺は、それを有してゐる間、彼はそれが何處から來たものであるか知らない。そして一度びそれが消え失せると、もうそれへの信賴を繋ぐに足るやうなものを何にも有してゐない。彼は空つぽに復つたのだ。生起した事に就いてもう何にも理解しない。そこで錯亂とでも自白する以外に策があるまい。そんな彼を信じていいものだらうか?
  • 神はランボオの實践を出來るだけ純粹なものに止らせて、彼を出來るだけ龜鑑的なものにしようとし給ふたのだとも云へるだらう。彼にその完成を以て超自然界の辨證法の一瞬間を表現することを委ね給ふたのである。そしてわれわれがこの瞬間に於ける精神作用をより深く記憶に刻みつけておくやうに、彼をただ一人引離して示し給ふたのだ。彼の後を逐ひ、彼を補ふやうな一切のものを抹殺し給ふた。彼を沈默と昏迷とで以て裹み給ふた。科學者が或る器官を切斷してその機能を研究するやうに、神はランボオを用ひて、極めて明確にして且つ意味深い實驗を示されたのである。この實驗に引續いた抛棄は、神の明證に與るものであつたのだ。
  • ランボオは基督教への傑れた誘導者である。彼は自ら意圖せずして、準備工作を引受けてゐる。われらのあらゆる自然的聯關を破壊し、われわれの裡に新しい關係への欲求を起させる。爾今われわれは他物に依據しなければならなくなるに至るのだ。私はこの書物に歩み入つたが、出口はあらゆる方角に開いてゐる。私はもう受け取つたもののみに止つてゐることは出來ない。いかにしてもそこから出なければならぬ。私は、永い間この書に附き纒つて來た。私がこの書に抱いてゐる愛著は、『悪の華』に對するやうな、友情や同情ではない。ただ私はこれを、私の馴染んだ危險として思ひ出すのだ。私のすぐ傍に、低い忍び口のやうなものがある。この書を取り上げる度每に、私は以前よりやや先きへ進み、その途中で、いつか、突然、そつと現れて、頑張り、持ち耐へるやうな障碍には一度も出會つたことがない。どこ迄進んでも際限がない。私は度を過しまでした。それがために、時々、そこから離れ去つてしまふやうな懼れが私を襲つた。が、その時、これらすべては終端であるより發端であるにすぎないことを悟り、眞の結末を索ね始めた。われわれのまはりに開いた空虚を、ランボオは無論知りもせず、またそれが何によつて埋められ得るものかといふことを知らうとは考へてもみなかつたらう。しかし彼の蔑視した補足作業が、私の裡で續けられた。私は彼が私の認識力中に齎した傷口を治癒しないで放つておくわけにはゆかない。この傷口を愼重に感じ、考へてみる。そして、これは恐らく、加特利の敎義によつてしか閉され得はすまい[3]

石川淳「ポオル・クロオデルの立場」1923年

[編集]
  • アンドレ・シュアレスに依ると、モリエルの偉さは「自由」である。それは時代に囚はれない不朽の心である。「神曲」の詩人が今日に至つて亡びないのも亦、何れの世の人の心をも打つ純情の輝きがあるからであらう。人類の歴史に「自由」の跡を絶つことは旣に久しい。しかし、之を以て直ちに人類の堕落となすことは出來ないであらう。われわれは、文明と共に擴がつて行く雜音の爲めに、本念の聲を聞き洩らすことが多いのである。此の意味に於て、護謨林の栽培に努める英國人と菩提樹の陰に眠る印度人と孰れが幸福なるやを知らない。しかし、現代の悲壯劇は、英國人の活躍でもなければ、印度人の昏睡でもない。それは、われわれの内にある太古のまゝに直ぐなる自然の心とわれわれの外にある當世の社會組織とが戞然と相打つて發する光である。旣に一八九一年に於て、人は此の光の閃きを認めた。それは、クロオデルの「黄金頭」が世に現はれた年である。此の作に於て、無名の靑年作家は、數世紀に亙つて人の見ることがなかつた溌溂たる力の片鱗を示した。評家がクロオデルを以てダンテ以後の詩人となすのを所緣のないことではない。
  • 此時、二十三歳のクロオデルは、其の官界の生活に於ても、第一歩を踏み出したに過ぎなかった。しかし、文人としての彼の態度は旣に定まつて居た。彼の作品の底を一貫して流れるものは、今に至る迄渝らないカトリックの精神である。そして、カトリックの精神が彼を詩人として成長させたのである。ピエル・ラセェルの言葉に從へば、「信仰への復帰と詩想の眼ざめとが一致した」のである。
  • 此の詩人が、天地の間に身を置いて、如何に萬物の相を眺めるかを知ろうとするには、「作詩論」の一巻を開くがよい。此は「東方所觀」と時を同じくして書かれたクロオデル一家の哲學書である。
  • 「われわれは單獨に生を享くるものではない。萬物の生るる(naître)は共に生るる(co-naître)のである。生(naissance)、卽ち共生(connaissance)である。」彼の「共生論」は此の一句に始る。
  • 全體が部分より成る必然性、此の部分(人が此の部分を自ら形成する自由)、及(己の形成するものを知らんとする)反射――此の三者から「共生」が成立する。手と壁上の影、三角の一角と他の二角、自然と山川、人體の各部等の如く物皆相據つて存在するのである。そして、萬物の間に走つて相互の均衡を保つ一條の金線を「運動」(mouvement)とする。己と物との間の「共生」の理を悟れば、その物の「因縁」(cause)に依つて「複共生」(reconnaissance)の理に達する。かくて、物の性の廣狭に從ひ、その物を母體として、「共生」の理を擴げて行くのである。
  • また、論者の最も意を注ぐものに、「言語」がある。人は、「言語」と共に言語の現はすものの主となるのである。言語には心理がある。人は論者と共に此の心理を感得しなければならない。「共生」の意義、「因縁」の意義を説く論者の心を以て、讀者は己の心としなければならないのである。論者は、一點に依つて流轉の理を悟る例として、漢字の「水」の頭に點を打つて「永」とすることを擧げて居る。これは詩人の繊細な言語感である。二三子の以て言語の遊戯となすことがなければ、幸である。
  • クロオデルの文は世に難解の評がある。しかし、其の格調は必ずしも晦澁ではない。彼は珠玉の如く文字を注ぐ。此の珠玉を見て瓦礫となす者には、永久に詩人を解することが出來ないであらう。
  • 今、私の前に一葉の冩眞がある。外濠の景色である。松の疎な堤の下に寒の水が漣を打ち寄せて居る。その水際にひよつこりと一個の山高帽が浮き出て居る。冠つて居る人の體は見えない。が、それはクロオデルなのである。こゝに「水を聽く」詩人が居る。苔蒸した石垣の紺碧の水とを前にして、此の山高帽の内には「東京景物詩」の想が徂徠して居るのであらう。此の山高帽こそféeである。féeは「運命」ださうである。天地間の物象は、悉く此の黑い小山の上に影を投ずるのかも知れない。晝のうちはかく濠端に佇むクロオデルも、夜になると、時あつてはわれわれ靑年の會合に姿を現はし、時あつては官の宴席に列するのである。だが、無名の靑衿に圍まれた彼のうちにこそ、詩人が生きて居る。彼にあつては、貴顕縉紳を見る事なほ街頭の枯木を眺るが如きものがあらう。
  • 人は、彼を求めて、巴里に南米に東京に轉々する要はない。彼は、「鐡道停車場に、工場に、秣小屋に、稻打場に、酒窖に」神と共に遍在する。彼は信仰の明るみの中に居る。彼のわれわれに投げかけるものは、光である。その光に縋る者は救はれるであらう。光の外は闇である。ジャツク・リヸエエルの言葉を借りれば、「クロオデルの基督敎の信仰に從はなければ、最早虚無に走るより外爲方がない」。これを逆に云へば、虚無に立つ者はクロオデルの信仰に從ふことが出來ないであらう。此の闇に向つて炬火をかざして居るのがクロオデルの姿である。彼の立場は此處に盡きる。
  • クロオデルか虚無か。――これがわれわれに殘された問題である[4]

ヴィゴツキー『芸術心理学』1925年

[編集]
  • イザヤの古歌の効果。捕囚の歌の意味。予兆カラス。
  • 奇蹟への期待と内的矛盾について。

  ナンセンスなものの現実化、描写と企図の不一致、底にある対立する感情=矛盾感情、反比例的相互依存関係

  • 福音書とハムレット
  • 音の情緒的な表現力

  音のもつ情緒的なニュアンスはそれが参加している場面の意味に依存する。

  • 目的論的志向

  どんな芸術手法にしても、文献的事実は説明できても、美学的事実は説明できないし、

  因果関係的な説明よりも、手法の目的論的志向、それが果たしている心理的機能からの方が遙かに多くのことがわかる。

ヴィゴツキー『思考と言語』1934年

[編集]
  • 「私は、私が言おうとしていたコトバを忘れてしまった。すると、具体化されなかった思想は、陰の世界に帰っていってしまう。」
  • 「意識は、太陽が水の小さな一滴にも反映されるように、コトバのなかで自己を表現する。コトバは、小世界が大世界に、生きた細胞が生体に、原子が宇宙に関係するのと同じしかたで、意識に関係する。コトバは、意識の小世界である。意味づけられたコトバは、人間の意識の小宇宙である。」

高田博厚の証言「日本の若き世代へ」1948年

[編集]
  • ベルグソンの思想が久しい以前から――特に「Deux Sources――二つの源泉」を書いて以来――メタフイジツクの世界に進み(そして四十年の間科學者のブロやベルトロと論争が續けられた)、やがては彼自身云つた様に「積極的メタフイジツク」をもとめてゐた事は知れてゐたが、彼の此の「積極的」なる言葉は、今から我々が考へると、彼自身が「科学的」に展開させて來た「思想」の彼自身に於ての實感の要求を示したやうに思へる。そして其處で彼は宗敎的になり、神祕を求めた。「純粋の神祕主義は極めて稀なものであり」「プロテスタント逹は私にその神祕主義を示さうと努力したが、私はそれを見出すことに成功しなかった。」そして此の神祕をカトリシズムに感じ出したが、然も尚最後まで彷徨したやうである。一九四〇年、パリがドイツ軍に占領されて間もなく、いよいよ臨終の時、彼は病床に僧侶を招いた。僧は此の世紀的な哲學者をカトリツクに歸依させることに熱心であつた。「まだ確信がつきませんか?」「哲學的には持てません……しかし…人間的には」これがベルグソンの最後の言葉であつた。僕はこの言葉に非常に感動する。そして僕には、これが彼の哲學の放棄ではなくて、むしろ彼のイデヱと彼自體の融和の神祕が此處に感じられるのではないかと思ふ。(ベルグソンの死後、未亡人が遺書を發表したが、その中に「私の反省は益々私をカトリシズムに導いて來た。其處に私は猶太敎の完成を見る。此の數年來恐ろしき反猶太主義の波が世界を襲はうとしているのを見なかつたならば、私はカトリツクに歸依するであらう。私は恐らく明日迫害され殺されるであらう猶太人の中に止まつてゐたかつた。併し私は私の葬儀にカトリツクの僧が列席して祈禱をあげることを希望する。」とあつた。そしてその死後カトリツク教會はベルグソンを信者の列に入れた。「神は此の魂を得たり!」――ベルグソンの著書は全部、カトリツクの禁書であつたが――。僕は此處でベルグソンが彼自身の「思想」の中で終つたと思ふ[5]


『感想』は、1958年(昭和33年)開始の小林秀雄による論考。個としての人間の精神に内在する不確定要素における人間相互間に共有される「なにものか」の働きの原因と機能とを追究した雑誌『新潮』への掲載論文。筆者自身の判断により未完のまま終了した。筆者によるベルクソン論であると評価されることがある。

小林:確率論というものも素人ふうに考えると妙な考えですねえ。永遠回帰というものを考えないとそういうものが考えられないなんて妙なことです。

湯川:永遠回帰でなくてもいいことはないですか。

小林:そういうものを極限概念として考えなければ……。

湯川:それは考えてもいい。私とあなたと時間というものの考え方が違うかもしれないけれども、何もこの現実世界の中で永遠回帰しなくてもいいと思うのですがね。それはしてもいいのですが、もっと別の世界をもっと広い世界を考えてもかまわない。極限にするという仕方が、何もこの世界が無限に続いて永遠回帰すると考えなくてもいいので、この世界はいつ亡びてもいい。世界が始まって世界が亡びる。その中では有限回しかいろんなことが起らない。しかしそれと同じようなものをいくらでも考えればいい。これをただ一つと限る必要はない[6]

吉田健一「ランボオの詩」1971年

[編集]
  • 既に書くべきものを凡て書き、さうすることで人間に見ることを許される一切を見た後も人間は生きて行かなければならない。これは詩、或は文学との訣別といふ種類の解釈を許さないもので書くことがないから書かなくなるのは止めるのと違つてゐる。又人間が書いたものはその人間から離れて行く他なくても書くことで得たものはその人間に根を降し、それがその人間になると言ふのも誇張ではない[7]

吉田健一「ランボオ」1972年

[編集]
  • ランボオの詩の上での業績に就て語る積りはない。それはこれまでに既に文献の山をなして行われていてこれからも繰り返してなされるに違いないことでランボオの詩には確かにそれだけの魅力がある。併し却ってその為にか注意を惹かないのがランボオが詩を書かなくなったのが十九歳の時でそれから更に三十七まで生きていて人間の幼年期がこういう場合に勘定に入らないものならばランボオがその生涯の大半を他のことをして過したということである。
  • ランボオの詩ならば誰でも知っている。そういう詩をランボオが十九で書かなくなったのは書いた詩が残っていてその後があったのになくなったのではないのであるからその方面で別に損失にならないと同時にランボオが十九で他のことを思い立ったことはランボオという人間の性格を一挙に我々に近づける。それは詩とか詩人とかいうものに就て何故か今日の我々が陥り易い錯覚を払いのけてくれるものでもあって詩は言葉の使い方を知っている人間、或はその能力に見舞われたものならば誰にも書けるのであり、それを書いた人間にそのこと自体が何も付け加えるものでない。これがその人間の形成に与ることになるのは詩を書く仕事がどういう意味ででもの努力の対象になる時であるが努力の対象になるのかならないかは詩の方で決めることではなくて詩を書く能力を完全に所有している為にそれを書くことから人間である上で少しも得る所がないという場合も生じ得る。ランボオがそうだった。
  • 詩を書かない詩人というのが詩人の定義を混乱させるだけのことであるのならばランボオは十九歳以後は詩人でなかった。併し詩を書く能力が言葉に生命を与えてこれを用いることにある時にその能力はどういう目的にでも言葉を用いることを許してランボオがその家族に宛てた手紙のみならずアフリカで過した十何年かに書いた事務上の手紙や探検の報告は的確にその目的を達している点でただ見事と言う他ない。
  • これはスタアキイの指摘であるがランボオがキプロス島に向けて立つまではそれまでの放浪ということもあってイザベルは殆どその兄に就て何も知らず、それが殊にアフリカから頻繁に手紙が来るようになってイザベルが兄に完全に魅せられることになったのだという推定は恐らく当っている。ランボオは病院でイザベルに対して本当に優しかったらしい。その優しさはランボオの詩の優しさでもあり、又ハラアルで白人の居留民達を喜ばせた皮肉はランボオの詩の辛辣な面でもあった。併しそういうことよりもやはりここには一人の人間がいて我々の心も離さずにいる。

敷島の大和心を人問はば

[編集]

吉田健一「櫻の木」1977年

[編集]
  • 染井吉野は葉に先立つて花が咲く。或る一日雨が降り續いた後に翌日は晴れて三上が見るとその木は一面に花だつた。それ程柔かな淡い色の雲にその木が包まれたことはまだなかつたやうでその雲の向うに擴る空がそれだけ靑を增した。これは三上にはただ眼の前にあるものでそれに就てどういふ言葉も役に立たないものだつた。ただ櫻の木がそこにあつて誇らしげだつた。併しそれも餘計な付け足しだと思つて三上は又櫻の木の方を見た。何も言ふことはなかつた[8]

河上徹太郎・小林秀雄対談「歴史について」1979年7月23日、於福田屋

[編集]

小林:ランボオの偉さつてものをねえ、本當にやつたのは吉田だなあ。

河上:あゝさうだ。うん[9]

wikipedia項目修正の方針

[編集]

1985-1986

『モオツァルト』 一次資料

  • 「あれでいちばん書きたかったことは自由という問題だつた」。堀内達夫「小林秀雄年譜」『文芸読本 小林秀雄』河出書房新社、1983年 p.265
  • 「この前、『モオツァルト』について書いた時も、全く同じ窮境に立った。動機は、やはり言うに言われぬ感動が教えた一種の独断にあったのである。あれを書く四年前のある五月の朝、僕は友人の家で、ひとりでレコードをかけ、D調クインテット(K.593)を聞いていた。夜来の豪雨はあがっていたが、空には黒い雲が走り、灰色の海は一面に三角波を作って泡立っていた。新緑に覆われた半島は、昨夜の雨滴を満載し、大きく呼吸しているように見え、海の方から間断なくやってくる白い雲の断片に肌を撫でられ、海に向かって徐々に動くように見えた。僕は、その時、モオツァルトの音楽の精巧明晰な形式でいっぱいになった精神で、このほとんど無定形な自然を見つめていたに相違ない。突然、感動が来た。もはや音楽はレコードからやって来るのではなかった。海の方から、山の方からやって来た。そしてそこに、音楽史的時間とはなんの関係もない、聴覚的宇宙が実存するのをまざまざと見るように感じ、同時におよそ音楽美学というものの観念上の限界が突破されたように感じた。僕は、このどうしても偶然とは思われない心理的経験が、モオツァルトに関する客観的知識の蒐集と整理のうちに保証されることを烈しく希ったのであるが、そういうことを企てるのには、僕にはやはり悪条件が出揃っているという始末であった。久しい間なにやかややっているうちに、読者の眼にはいちおうモオツァルト論めいてみえるものが書きあがったわけだが、僕にしてみれば、それは何事かを決定的にやっつけたことであった。評論でも書こうという男だから、元来考え事は嫌いな方ではなかったが、生来我が強く短気なおかげで、人生に生きる智慧の最上の部分は、何かをやっつけることのなかに隠れていると、早くから経験によって知った。しかし、人生の評論化を全く断念するのは、長い間の奇妙に手間のかかる仕事であった。」「ゴッホの手紙(序)」『ゴッホの手紙』角川文庫、1957年 pp.7-8

『ドストエフスキイの生活』 二次資料(河上徹太郎)

  • 「この作者ドストエフスキーが、小林のいふ創造の魔神に憑かれた人物であり、實をいへば小林が描きたいのはこの人物なのであるが、これはそれを直接の對象として眺めると、結局實體のない一精神に他ならず、片方に作品中の人物、他の片方に實在のドストエフスキーをひつさげて、この兩者の靈媒のやうな役をしてゐるものなのである。」「解説」『ドストエフスキイの生活』創元文庫、1951年 p.228

『ゴッホの手紙』、『近代絵画』の中の「ゴッホ」 一次資料

  • 「僕が今度ゴッホで書きたいほんとうのテーマはそれだよ。ゴッホという人はキリストという芸術家にあこがれた人なんだ。最後にあすこなんだよ。キリストが芸術家に見えたのだ。それで最後はあんなすごい人はないと思っちゃったんだ。だから絵の中に美があるだとかそういうものが文化というものかもしれないさ、だけどもしもそんなものがつまらなくなれば、自分自身が高貴になればいいんだよ、絵なんか要らない。一挙手一投足が表現であり、芸術じゃないか、そういうふうなひどいところにゴッホは陥ったので、自殺した、と僕は勝手に判断している。僕はそれが書きたいと思っている。でなければ、何もゴッホを取り上げる理由はないんだよ。」「形を見る眼」青山二郎、小林対談『ゴッホの手紙』角川文庫、1957年 p.190

『感想』 一次資料

  • 「ベルグソンがアインシュタインと衝突したことがあるのですが」
  • 「その衝突には興味をもちました。ベルグソンに『持続と同時性』というアインシュタイン論があるのです。アインシュタインの学説というものは、そのころフランスでも、もちろん専門的な学者だけが関心をもっていたもので、ああいう物理学的な世界のイメージがどういう意味をもつかということは、だれも考えてはいなかった。はじめてベルグソンがそれに、はっきりと目をつけたわけです。」
  • 「それで批評したのですが、誤解したのですね。物理学者としてのアインシュタインの表現を誤解した。そこでこんどは逆に科学者から反対がおこりまして、ベルグソンさん、ここは違うんじゃないかといわれた。ベルグソンはその本を死ぬときに絶版にしたのです。」
  • 「私の素人考えを申しますと、ベルグソンという人は、時間というものを一生懸命考えた思想家なんですよ。けっきょくベルグソンの考えていた時間は、ぼくたちが生きる時間なんです。自分が生きてわかる時間なんです。そういうものがほんとうの時間だとあの人は考えていたわけです。」
  • 「アインシュタインは四次元の世界で考えていますから、時間の観念が違うでしょう。根本はその食い違いです。」
  • 「ベルグソンの、時間についての考えの根柢はあなた(岡潔)のおっしゃる感情にあるのです。」
  • 「どうしてアインシュタインと衝突したかというと、これは、私に理解できた限りを申しあげるので、間違っているかも知れませんが、ベルグソンという人は、もともと哲学畑の人ではないのです。数学から心理学、生理学と進んだ人で、科学の仕事を非常に尊重していた人です。形而上学と科学との関係という問題は、彼の念頭を去ったことはないのです。アインシュタインの世界観という問題に先ずたいへん鋭敏に反応したということは当然のことと思えるのです。ベルグソンは、アインシュタインの一般相対性原理を十分に認めている。彼の天才の十分な表現だと言っている。しかしベルグソンの信じているのは、もっぱら特殊相対性原理なのです。というのは、、ベルグソンの考えによれば、アインシュタインは、その発想において、たしかに現実の具体的な運動あるいは時間と新しい方法で格闘している。このベルグソンの直観は、私は正しく立派なものと思っています。しかし、アインシュタインにしてみれば、客観的時間の完全な計量性というものだけが問題なのですからね。言ってみれば、ベルグソンは、強引にアインシュタインを自分の世界に引込もうとしたのです。それで第四次元としての時間というフィクションを学説の上で作ってしまったと主張するのです。」
  • 「書きましたが、失敗しました。力尽きて、やめてしまった。無学を乗りきることが出来なかったからです。大体の見当はついたのですが、見当がついただけでは物は書けません。」
  • 「(岡潔が)おっしゃる情緒というものにふれるということも、記憶を通じてではないかと考えるのです。本当の記憶は頭の記憶より広大だという仏説があるとおっしゃったが、その考えを綿密に調べた本がベルグソンにあります。『物質と記憶』という本ですが、これは立派なおもしろい本です。脳と精神との関係の研究なんです。記憶というのは精神の異名なのです。物質というのは脳細胞のことです。その関係を書いたものです。あなたがお読みになれば、これはたとえば、リーマンをお読みになるようなものではないかと思います。今の学説からは遅れているかも知れない、が、実に豊かな可能性を孕んでいる。これは心身のパラレリスム、精神は脳機能の随伴現象だという、簡単だがどうにもならない仮説を徹底的に批判したものです。彼は失語症の研究を四年もやりまして、失語症というものは記憶の障害でしょう、その記憶の障害と脳の機構の障害はどう関係するか、それをしらべた。すると、両者の関係は密接だが決してパラレルではないということが実証できた。」
  • 「それをどういうことからベルグソンがやったかといいますと、一方、精神の現象を極度に単純化して、単語の記憶、もっと単純化して音の記憶を得る。一方、物質のほうは極度に微妙な細胞をとる。そして両者の接触を観察する。そのために失語症の病理学を利用したわけです。それで失語症の種類を全部綿密に調べていくんです。そうすると脳というものは、たとえばオーケストラのタクトみたいなものだということがわかってくるのです。記憶というオーケストラは鳴っているんですが、タクトは細胞が振るのです。脳がつかさどるものはただ運動です。いままでの失語症の臨床では記憶自体がそこなわれると考えたのですが、ベルグソンの証明で、タクトの運動が不可能になるのです。記憶は健全にあるのです。失語症とは記憶を運動にする機構の障害、それは物質的障害であって精神的障害ではないのです。そうすると記憶と脳との関係は、パラレルではなくなるのです。そういう証明です。」
  • 「実証的な部分は、ほんの半分で、後の半分はメタフィジックになるのですが、サイエンスとメタフィジックがどうしても結びつかないと、全体的な考えというものはないという見事な実例とも思えます。その点でも予言的な本とも思われます。」岡潔、小林秀雄「人間の建設」第4次小林秀雄全集 別巻Ⅰ、1979年 pp.201-289

二次資料(大岡昇平)

  • 1928年(昭和3年)に、大岡は、小林から、「ベルグソン『物質と記憶』、ポアンカレ『科學と方法』、デュボア・レモン『自然認識の限界について』など、科学に関する本についても敎わった。」
  • 「これは記憶が腦髄内に蓄積されるという假說の不可能を、失語症の硏究によって實證したものである。ベルグソンは常に自分を二元論者と言っていたし、小林さんも、小説という二元論的文學形式――身體と心理の交互叙述――を對象とする文學批評を行う以上、同じ立場に立たざるを得ない。しかし逆圓錐形の雄大なる底邊(むしろ頂邊というべきか)に蓄積される記憶は、人間の身體の生死と關係なく生き續けるというパラドックスに逢着する。」「解説」第4次小林秀雄全集 別巻Ⅰ、1979年

大きな項目:戦後は柳田國男が1つの要素。
小さな項目:第4次全集の、『本居宣長』解説を中村光夫が、『別巻Ⅰ』を大岡昇平が担当したが、双方、反対側の解説に相当するものを他の二次資料として保持している。また、中村が「祈る対象」に言及(A)、大岡が「ユニテ」に言及(B)しているが、批評の批評がなされていない。
参照項目:『吉田健一』のポオ『覚書』翻訳以前の、既得の文学論が、後年本人の没後の時代にいたるまで、河上、小林の批評手法に「助言」を提出している。従って、素養の背景を補記する必要がのこされている。

(A)と(B)とは両立するか。


≪1≫
林・小林論争の中で、林の提案は、小林に届いたか。

「開店休業の必要」は、当初どこに掲載されたのか。発行誌のすべてを読むことができない、「ソヴェート友の会」発行あるいは「唯物論研究会」発行のパンフレット等があると、今後も発見できない可能性が高い。とくに林の証言している、唯物論研究会における中間読物は、どこにあるのか?

一方で、相手に読めない場所に林が掲載するとも思えない。相手が読むことのできる場所であったら、どこか?

あるいは、掲載予定が、とりやめになってしまったという取り扱いか。

また、戦後、1946年刊行の『歴史の暮方』には明らかに掲載している。

そして、内容は お だ や か な も の なのではないか。高橋論は、その価値判断はせず、淡々と記述している。

≪2≫
河上は、吉田が自分のキャディーをやりながら、どんどん立派なものになった、と語っている。

ところが、吉田による小林論の根柢にあるものは、おそらく河上と出会って以降の獲得物ではない。

若い時分に獲得していたものなのではないか。

吉田についても初期原稿の中に『文學界』や『文藝春秋』の埋め草原稿があると、無署名ならば、全く把捉できない。 初期のフランス文壇紹介は、おそらく自前の語学力でこなしている。アテネ・フランセ以降のものですらないかも知れない。

≪1≫・≪2≫による問題提起あるいは提案あるいは助言は、結局既得の常識論を基礎としている。 したがって、これに基づく再考がないと、欠落が欠落のままで終わってしまう。


(A)と(B)とは両立するか。の問いにも、≪1≫・≪2≫が関与している。 プリミティブな世界に行きっぱなしで良いのか?

ここまでが教育学の世界。あとは文学の世界。


戦中の小林と教育科学研究会

第二回全國敎育科學研究協議會(1940年8月4日から9日まで於法政大學)の「文學と敎養」講座講師として、「交渉中」表記で、小林が挙げられている。『敎育科學硏究』1940年5月号 p.134

「近衛内閣と新國民組織の構想」座談會(1940年8月6日実施、『文藝春秋』1940年9月号所収)
城戸幡太郎、関口泰、平貞藏、林廣吉、本位田祥男、三輪壽壯、大渡順二

「文化政策と社會敎育の確立」座談會(1940年9月2日実施、『文藝春秋』1940年10月号所収)
小田成就、城戸幡太郎、桐原葆見、小林秀雄、志村義雄、杉野忠夫、鈴木舜一、留岡清男
丁々発止。


戦後の柳田國男

柳田・桑原対談(1952年 於京都)
桑原:「明治になってからの学者のうち、内藤湖南、狩野直喜、西田幾多郎らの世代までの人とそれ以後の学者との間には何か大きな断絶があり、前者には素朴だがつよいところがあるのに反し、後者は知識あるいは教養はずっと深くこまかくなったにもかかわらず、どこか弱い感じがするのはなぜか」
柳田:「孝行という考えがなくなったからです」
桑原:「どういう訳ですか」
柳田:「明治初期に生まれた学者は、忠義はともかく、孝行ということだけは疑わなかった。自分なども『孝経』は今でも暗誦できる。東京へ出て勉強していても、故郷に学問成就を待ちわびている父母のことは夢にも忘れることができなかった。人間には誰しも怠け心があり、酒をのみに行きたい、女と遊びたいという気も必ずおこるのだが、そのとき眼頭にうかぶのが自分の学資をつむぎ出そうとする老いたる母の糸車で、それは現実的な、生きた『もの』である。ところが、私たち以後の人々は、儒教を知的には理解していても、もはやそれを心そのものとはしていない。学問は何のためにするのか、××博士などは恐らく、真理のため、世界文化のため、あるいは国家のため、などというだろうが、それらは要するに『もの』ではなくて、宙にういた観念にすぎない。観念では学問的情熱を支えることができにくい。平穏無事な時勢は、それでも間に合うように見えるけれども、一たび嵐が吹きあれると、そんなハイカラな観念など吹きとばされてしまう。その上わるいことに日本人は自分の身のまわりの物を見て、そこから考えることを怠って、やたらに本を読むくせがついた。本の中には真理が入れてあり、それを手でつかめばよいかのように。だから日本のことは、歴史のことも身のまわりのことも何も知らなくても、西洋の本に書いてあることを知っておれば、けっこう学者として通用するようになった。学者が弱々しい感じをあたえるというのはあたり前のことです。」
桑原:「儒教がいかに明治学者の学的情熱をささえたにもせよ、これを復活させることには絶対に反対で、学問は柳田国男のいわゆる「常民」の総和の増進ということを目標としなければいけないと思う。」
柳田:「それには賛成。もはや儒教の復活などできるところではない。」
以上、桑原武夫「学問を支えるもの」『雲の中を歩んではならない』文藝春秋新社、1955年 pp.64-67の抄録を、花田清輝がリライト。花田清輝「柳田国男について」『近代の超克』未來社、1959年、講談社文芸文庫、1993年 pp.254-256

飯島衛の紹介により、花田は一度だけ一人で柳田に会いに行っている。それから2、3日たったあと、柳田は「じつによく勉強しているね。読むべき本は東西古今にわたりみんな読んでいる」「あれはまことに景気のよい男だな」と評した。以上、飯島衛「柳田国男と花田清輝」『草木鳥獣・人』みすず書房、1981年 pp.237-238


小林・大岡対談「文学の四十年」(中央公論社版・日本の文学『小林秀雄』月報 1965年7月)
「柳田さんが亡くなる前、向うから呼ばれて三度ほど録音機を持って行ってるよ。」
「つまりあの人は、なにか晩年気になったことがあったらしい。」
「というのは道徳問題だよ。」
「日本人の道徳観、それを言い残しておきたかったんだよね。」
「筆記をとってくれというので行ったけれど、結局それは駄目だったな。」
「話がみんな横にそれちゃって、中心問題からはずれてぐるぐる回ってしまってね。」
「あの人の研究の話をして、面倒な、辛い話になり、愚痴みたいなことになってしまった。」
「日本の将来の思想問題が心配だったということだと俺は思ったね。」

脚注

[編集]

注釈

[編集]

出典

[編集]
  1. ^ クローデル、ジッド『愛と信仰について』河上徹太郎、吉田健一共訳、pp.25-28
  2. ^ 大岡昇平訳、パテルヌ・ベリション版『ランボオ作品集』序文、1912年、『白痴群』第1號、河上徹太郎、1929年、p.6
  3. ^ N.R.F1914年7・8月號 辻野久憲訳、山本書店、1939年、p.120、pp.161-162、pp.170-171
  4. ^ 『日本詩人』1923年5月號
  5. ^ 「日本の若き世代へ」1948年1月28日付、片山敏彥あて書簡 『世界文學』第21號、世界文學社、1948年、p.60
  6. ^ 「人間の進歩について」『新潮』1953年8月号
  7. ^ 『ユリイカ』臨時増刊号第3巻第5号、青土社、1971年、pp.106-107
  8. ^ 『すばる』1977年10月号、集英社、p.14
  9. ^ 『考える人』2013年春号、新潮社、特別付録CDトラック5