利用者:大西泰弘/ジョン・ハートフォード
John Hartford | |
---|---|
出生名 | John Cowan Harford |
出身地 | St. Louis, Missouri |
ジャンル | Bluegrass, country, folk, old-time |
職業 | Singer-songwriter, instrumentalist, dancer, towboat and steamboat pilot |
担当楽器 | Banjo, fiddle, guitar, mandolin, vocals |
活動期間 | 1953–2001 |
レーベル | RCA, Warner Bros., Flying Fish, Rounder, Small Dog a'Barkin' |
共同作業者 | Glen Campbell, The Dillards, Jamie Hartford, Down from the Mountain, John Hartford String Band |
公式サイト |
www |
ジョン・コーワン・ハートフォード (英語:John Cowan Hartford、1937年12月30日-2001年6月4日)は、アメリカのフォーク 、カントリー 、ブルーグラスの作曲家でありミュージシャン。 フィドルやバンジョーの巧みな演奏、機知に富んだ歌詞、ユニークなボーカルスタイルのほか、 ミシシッピ川に関する豊富な知識でも知られている。 彼の最もヒットした曲は「ジェントル・オン・マイ・マインド(Gentle on My Mind)」で、3つのグラミー賞を受賞し、「BMI's Top 100 Songs of the Century」に掲載された。 [1] [2] キャリアを通じてさまざまなアンサンブルで演奏することもあったが、ギター、バンジョー、フィドルを持ち替えて歌うソロ演奏が最もよく知られている。 [3] シャッフルするような独自のタップダンスを考案し、タップボードの上でタップを踏み、楽器を演奏しながら歌った。
来歴
[編集]ハーフォード( チェット・アトキンスの提案で後に彼の名前をハートフォードに変更) [4]は、1937年12月30日、ニューヨークで、両親カールとメアリー・ハーフォードの間に生まれた。 彼はミズーリ州セントルイスで幼少期を過ごし、ミシシッピ川は彼のキャリアと音楽の形成に大きな影響を与えた。 16歳のとき彼はそこで初めての仕事を得たが、その頃からハートフォードはミシシッピ川のことを歌っていた。
彼はグランド・オール・オープリー(Grand Ole Opry)の放送から音楽的影響を受けた。そこにはブルーグラススタイル・バンジョーのスリーフィンガー奏法発明者といわれているアール・スクラッグス(Earl Scruggs)ががいた。 ここで初めてアール・スクラッグスが弾くバンジョーを聞いたことが私の人生を変えたと、ハートフォードはしばしば言っている。 ハートフォードは13歳で既に、熟練したオールドタイム・フィドラーであり、バンジョー奏者であった。彼はすぐにギターとマンドリンも演奏するようになり、地元の私立高校であるジョン・バロース・スクール(John Burroughs School)に通っている間に最初のブルーグラスバンドを結成した。
高校卒業後、セントルイスにあるワシントン大学に入学し4年間の商業芸術プログラムを修了したが、音楽に専念するために中退した。ただし、1960年に学位を取得している。 彼は地元の音楽シーンに没頭し、DJとして働き、バンドで演奏し、時には地元のレーベルにシングルを録音した。 1965年、カントリーミュージック業界の中心地であるテネシー州のナッシュビルに移った。 1966年、RCAビクターと契約し、同年に最初のアルバム「ルック・アット・ライフ(Looks at Life) 」を制作した。 [5]
1967年、セカンドアルバム「アースワード・アンド・ミュージック(Earthwords&Music)」は、最初のメジャーソング・ライティング・ヒットとなった「 ジェントル・オン・マイ・マインド(Gentle on My Mind )」を生み出した。 彼のレコーディングは小さな成功に過ぎなかったが、 グレン・キャンベルによる録音バージョンは広く注目されるものとなった。 1968年のグラミー賞で 、この歌は4つの賞を獲得し、そのうち2つの賞がハートフォードに贈られた。 これは史上最も広く録音されたカントリーソングの1つとなり、それがもたらしたロイヤリティによりハートフォードは経済的に独立できた。ハートフォードは後に、この歌により私は自由を得ることができたのだと言っている。 [6]
人気が高まったころ彼は西海岸に移り、そこでスマザーズ・ブラザーズ・コメディ・アワー(Smothers Brothers Comedy Hour)のレギュラーになった。他のテレビへの出演も続き、いくつかの有名カントリーアーティストとの共演も実現した。 ハートフォードはバンジョーを演奏し、ガスリー・トーマスの歌「アイル・ビー・ラッキー(I'll be Lucky)」でボーカルのハーモニーを歌った。 また彼らのアルバム「ロデオの恋人(Sweetheart of the Rodeo」でザ・バーズと共演した。
スマザーズ・ブラザーズの番組での彼の成功は、ハートフォードにTV探偵シリーズの主役を提供されるほどであったが、彼はナッシュビルに戻り音楽に専念するためにこれを断った。 また彼は、グレンキャンベル・グッドタイム・アワー(The Glen Campbell Goodtime Hour [4] (観客席から立ち上がってテーマ音楽を演奏するバンジョーピッカーの役))とジョニーキャッシュ・ショー(The Johnny Cash Show)のレギュラーでもあった。
ライブパフォーマンスでは、ジョンハートフォードは正にワンマンバンドだった。彼は、いくつかの弦楽器と、フラットフットダンス用のベニヤ板や砂や砂利を敷いたボードなど、さまざまな小道具を使った。
ニューグラス
[編集]ハートフォードは1968年から1970年までにRCAから「ラブ・アルバム(The Love Album)」, 「ハウジング・プロジェクト(Housing Project)」,「ジョン・ハートフォード(John Hartford)」,「アイアン・マウンテン・デポット(Iron Mountain Depot)」の4枚のアルバムを録音した。 1971年、彼はワーナーブラザーズ・レコードに移った。そこで彼は ヴァッサー・クレメンツ(Vassar Clements) 、 タット・テイラー(Tut Taylor) 、ノーマン・ブレイク(Norman Blake)と共に組んだ先進的なバンドで、伝統的スタイルにはなかった彼独自のスタイルの曲をレコーディングした。 「エアロプレイン(Aereo-Plain)」や「モーニングビーグル(Morning Bugle)」など、後のキャリアを方向づけるいくつかのアルバムを録音した。 サム・ブッシュ(Sam Bush)は、「 エアロプレイン(および、エアロプレイン・バンド(Aereo-Plain band))がなければ、ニューグラスは生まれなかっただろう」と語った。 [6]
彼は数年後にフライングフィッシュ(Flying Fish)レーベルに移り、伝統的スタイルにはなかったカントリースタイルとブルーグラススタイルにチャレンジし続けた。 彼の録音には、1977年と1980年にディラーズ(The Dillards)のダグ(Doug)とロドニー・ディラード(Rodney Dillard)、サム・ブッシュ(Sam Bush)がバックミュージシャンとして参加した2枚のアルバムがあり、「 ブギー・オン・レゲエ・ウーマン(Boogie On Reggae Woman)」と「ヤケティ・ヤック(Yakety Yak)」を含む多様な曲がフィーチャーされている。 [7] ハートフォードがグラミー賞を受賞した「マークトゥウェイン(Mark Twang)」は、ハートフォードがフィドル、ギター、バンジョーをソロを演奏し、タップを踏みながら演奏するライブ・ソロパフォーマンスを連想させる。 この頃、1970年代半ばから死の直前までツアーで行ったさまざまなスタイルのステージ・ショーを生み出した。 [4]
ハートフォードは、彼の経歴の中でにさらに数回、レコード・レーベルを移った。 1991年、彼は自身のスモール・ドッグ・ア・バーキン(Small Dog a Barkin)レーベルを開設したが、1990年代後半、彼は再びラウンダー・レコード(Rounder Records)に移った 。 彼はラウンダーにいくつかの風変わりなレコードを録音したが、その多くは以前のスタイルのフォークやカントリーミュージックを思い出すものである。 その中には、 マイク・シーガー(Mike Seeger)とデヴィッド・グリスマン(David Grisman)と共に録音した1999年のアルバム「レトログラス(Retrograss)」があり、ブルーグラス版のドッグ・オブ・ザ・ベイ((Sittin 'on)the Dock of the Bay)、メイベリン(Maybellene)、ウェン・アイム・シックスティフォア(When I'm Sixty-Four)、マギーズファーム(Maggie's Farm)がある 。
彼は、映画オーブラザー(O Brother、Where Art Thou)のサウンドトラック用にいくつかの曲を録音し、彼のパフォーマンスでグラミー賞を受賞した。 2001年、その映画とそれに付随するアルバムから生まれたダウン・フロム・ザ・マウンテン(Down from the Mountain)で最後のツアーを行った。 4月のテキサスでの演奏では、非ホジキンリンパ腫(non-Hodgkin Lymphoma)のため、もはや手を思うように手を動かせなくなっていて、その二ヶ月後に彼は亡くなった。
彼は、ニューグラス・ムーヴメントの共同創設者と考えられているが、伝統音楽にも深く関わっている。 彼の最後のバンドと最後の数枚のアルバムは、ブルーグラス以前の昔の音楽に対する彼の愛を反映している。
蒸気船
[編集]ミシシッピ川とその蒸気船の文化は、若い時期から彼を魅了した。 彼はこれこそが自身のライフワークだと言った、「でも音楽は邪魔になった」ので、可能な限り音楽に織り込んだのだ、と。 70年代、ハートフォードは蒸気船のパイロットの免許を取得した。長年、彼は夏の間、 蒸気船ジュリア・ベル・スウェイン(steamboat Julia Belle Swain)のパイロットとして働いていた。 また、 ミシシッピ川 、 イリノイ川、 テネシー川でも牽引船のパイロットとして働いていた。
晩年、彼は毎年夏に川に戻ってきた。 「パイロットとして働くことは愛の労働だ」と彼は言った。「しばらくすると、それは多くの事柄の比喩になり、私は何らかの不思議な理由で、それと接触し続けると、物事はうまくいくように見えることに気づいた」。 テネシー州マディソンにある彼の家は、カンバーランド川の曲がり角にあり、蒸気船のデッキからの眺めをシミュレートするために建てられた。 彼は、はしけが川に沿って進むとき、船長と無線で話している。 「ハートフォード・ベンド」または「ジョン・ハートフォード・ポイント」 [8]として知られるカンバーランド川のその曲がりは、「ジョン・ハートフォード・ライト」と公式航海図に示されている。 [9]
熟練したバイオリン奏者でありバンジョー奏者でもあるハートフォードは、カントリーシーンにおける革新的な代弁者であり、消えた時代を思い起こさせる。 「ロング・ホット・サマー・デイズ(Long Hot Summer Days)」や「ケンタッキー・プール(Kentucky Pool)」などの彼自身の作曲とともに、ハートフォードは、古い川の歌、呼び声、物語の貯蔵庫だった。 彼は、 オハイオ川の蒸気船ザ・バージニアとトウモロコシ畑のあるその浜辺の実話を詳しく書いた子供向けの本である「トウモロコシ畑の蒸気船」(Steamboat in a Cornfield)の著者でもある。
最期と残したもの
[編集]1980年代以降、ハートフォードには非ホジキンリンパ腫(Non-Hodgkin lymphoma)に罹っていた。 2001年6月4日、テネシー州ナッシュビルのセンテニアル医療センターで63歳でこの病気で死亡した。 [10] 彼とブランドン・レイ・カークは盲目のバイオリン奏者エド・ヘイリー( Ed Haley)の伝記を共同執筆した。 ハートフォードのアルバム、ザ・スピード・オブ・ザ・オールド・ロングボウ(The Speed of the Old Longbow)は、ヘイリーの曲のコレクションである。 作家兼芸術管理者のアート・メニウス(Art Menius)は、アカデミアのジャーナル記事「ジョン・ハートフォード・アズ・アイ・ノウ・ヒム(John Hartford as I Knew Him)」でハートフォードをこのように紹介している。「ジョンは、言葉を音楽に、ナッシュビルの昔を現在に、伝統は革新に、ニューグラスからブルーグラスからオールドタイムまで、テレビからラジオ、川から海岸、老いたミュージシャンからヒッピーまでをつなげた。 ゲーテは知る価値のあるすべてを知った最後の人物だったかもしれないが、ジョン・ハートフォードはこれを試みた。」 [11] 彼は、 ケンバーンズのドキュメンタリーシリーズ「ベースボール」(Baseball) [12]と「ザ・シビル・ウォー (The Civil War)」 [13]にもナレーションを提供した。
セントルイス・ウォーク・オブ・フェイム(St. Louis Walk of Fame) [14]は彼の作品に敬意を表して、ハートフォードに星章を授与した。 また、2005年9月、死後にアメリカーナ・ミュージック・アソシエーション(Americana Music Association)から 大統領賞を与えられた。[15] 毎年恒例のジョン・ハートフォード・メモリアルフェスティバル[16]は、インディアナ州ビーンブロッサム近くのビルモンロー・ミュージックパーク&キャンプグラウンド[17]で開催されている。
作品
[編集]ハートフォードは、彼が初期にRCAで録音したトラディッショナル・カントリーから、新しくて実験的な初期のニューグラスのサウンドや、晩年の彼がしばしば立ち返ったトラディッショナル・フォーク・スタイルまで、幅広いスタイルに及ぶ30を超えるアルバムを録音した。 そしてアルバムのスタイルも大きく異なる。風格あるアニュアル・ワルツから、彼のその後のアルバムの多くを代表するラフに録音されたものまで。
エアロ・プレイン(Aereo-Plain)とモーニング・ビーグル(Morning Bugle)は、ハートフォードの最も影響力のある作品と見なされることが多く、ハートフォードやサムブッシュ率いるニューグラスリバイバル( New Grass Revival,)などのアーティストがいた頃の初期のように、 カントリーミュージック のバックグラウンドと他の多くのソースからの影響を融合させ、新しいスタイルのカントリーミュージックをつくった。 彼の晩年には、多くのライブアルバムと、オールドタイム・フォークミュージックのレパートリーを集めた録音がある。 彼はキャリア中期アルバムのカバーアートをスケッチし、両手で同時に描いた。
大衆文化において
[編集]1968年のアルバム「ラブ・アルバム(The Love Album)」における「This Eve of Parting」は、2017年の映画「レディ・バード(Lady Bird)」で取り上げられた。
ディスコグラフィー
[編集]参照資料
[編集]- ^ “BMI Announces Top 100 Songs of the Century”. bmi.com. Broadcast Music. February 9, 2017閲覧。
- ^ “'Gentle on My Mind' Writer John Hartford Dies”. MTV. February 9, 2017閲覧。
- ^ Piazza (November 11, 2001). “Music; At the End, Fiddling His Way Back To His Beginnings”. The New York Times. April 21, 2019閲覧。
- ^ a b c Manheim. “Biography of John Hartford”. AllMusic Guide. September 20, 2009閲覧。
- ^ Samuelson, Dave (2012). McCall, Michael; Rumble, John; Kingsbury, Paul. eds. The Encyclopedia of Country Music. New York: Oxford University Press. p. 215. ISBN 978-0195395631
- ^ a b Hartford's biography Archived February 6, 2006, at the Wayback Machine. from his official site.
- ^ Dillard/Hartford/Dillard: Glitter Grass/Permanent Wave, Rounder Records.
- ^ Dansby, Andrew. June 5, 2001. John Hartford Dead After Cancer Battle. Rolling Stone.
- ^ US Army Corps of Engineers. 2013. Cumberland River navigation charts: Smithland, Kentucky to Celina, Tennessee. Chart No. 27.
- ^ Strauss, Neil (June 6, 2001). “John Hartford, Composer Of Country Hits, Dies at 63”. The New York Times
- ^ https://www.academia.edu/21657849/John_Hartford_As_I_Knew_Him
- ^ “Baseball. Film Credits – PBS”. June 11, 2016閲覧。
- ^ “Series and Website Credits – The Civil War – PBS”. June 11, 2016閲覧。
- ^ St. Louis Walk of Fame. “St. Louis Walk of Fame Inductees”. stlouiswalkoffame.org. February 2, 2013時点のオリジナルよりアーカイブ。April 25, 2013閲覧。
- ^ Americana Music awards page. Archived October 12, 2007, at the Wayback Machine. Retrieved October 2009.
- ^ John Hartford Memorial Festival Retrieved May 2015.
- ^ Bill Monroe Music Park & Campground Retrieved May 2015.
外部リンク
[編集]- URLが見つかりません。ここでURLを指定するかウィキデータに追加してください。
- www.johnhartford.org –ファンサイト
- 大西泰弘/ジョン・ハートフォード - Discogs
- John Hartford
- 大西泰弘/ジョン・ハートフォード - Find a Grave
受賞 | ||
---|---|---|
先代 {{{before}}} |
{{{title}}} | 次代 {{{after}}} |
[[Category:アメリカ合衆国の男性シンガーソングライター]] [[Category:アメリカ合衆国のマンドリン奏者]] [[Category:グラミー賞受賞者]] [[Category:アメリカ合衆国のフォークシンガー]] [[Category:2001年没]] [[Category:1937年生]]