利用者:塩ひえ芋
編集ノート
[編集]NYCギャングコレクション
[編集]- J・E・フーヴァーの捜査スタンス
・マフィアに対し摘発・告発などの積極的捜査をすることに極めて消極的だった。マフィアが行っていたような犯罪(組合強請、賭博、強盗、詐欺、殺人など)は州・市当局の管轄であると一貫して主張し、州をまたがる大きな犯罪組織の存在を認めなかった。そんなのを認めれば全米47州の何百もの地方警察から応援依頼が殺到する。世間受けのいい派手な犯罪ケース(誘拐犯、銀行強盗や連続殺人鬼)は率先して捜査するが、組合強請のような地味だが根深い犯罪は警察の要請があっても引き受けない。一方で、マフィアの個々のメンバーに対する監視・情報収集は精力的に行った。マフィアの弱みを握っておく目的の他、政界人脈が多いマフィアを調べることで裏社会に繋がりのある政治家を炙り出すのが目的だった。何かあった時にすぐに犯罪ファイルを出せると「さすがFBIだ」と信任も得られるので一石二鳥。
- フーヴァーの功名心
NYの街中を歩いている時に偶然指名手配犯のバカルターを発見し取り押さえた。バカルターはデューイに捕まるのが嫌だったので何とかFBIに捕まられたかった。間に立ったのはコステロ。フーヴァーとの仲介役に、ラジオパーソナリティでマスコミ界の著名人、両方の共通の知人でもあるW.ウィンチェル。なぜか捕まる現場をウィンチェルがラジオでライブ実況。大物バカルターを捕まえた栄冠はフーヴァーに。この茶番シナリオを作ったのはフーヴァー自身以外ありえないだろう。ワシントンにいるはずのフーヴァーがNYの街を歩いていて潜伏中のバカルターを偶然発見し、追いかけて捕まえたと。武勇伝が新聞に載り、ライバルのデューイを出し抜いた。デューイのいる州検察には渡さないという、バカルターと交わしたとされる密約をフーヴァーは無視。あっさりデューイに引き渡される。フーヴァーは自分が捕まえたという名声を手に入れれば後はどうでもよかった感。本当に密約があったのか?フーヴァーの行動を縛るような重い約束などしていない感。煮るなり焼くなりどうぞ。組合犯罪で懲役30年になってしまったが、これがバカルターが避けたかった「最悪な事態」。結局2年間潜伏して最後はデューイに。これで終わったかにみえたが、本当に最悪の事態はその後誰もが予想しなかった身内から来た。フーヴァー→デューイ→オドワイヤーというこのたらいまわし感。大物犯罪者を捕まえたという実績が喉から手が出るほど欲しい野心的な政治家の慰み物同然。
- J・E・フーヴァーのホモ説
もしフーヴァーとトルソンが本当に愛人同士なら、公衆の前で常に一緒にいることは絶対に避けるはず。実際は公私とも一緒に行動した。もしマフィアがフーヴァーについて何かを握っているならアパラチン以後に山積みされた盗聴テープに何らかの形で残っていておかしくないが一抹の痕跡もないという。ワシントンホテルでフワフワしたドレスで女装しているのを2回見かけたというパーティ参加者の目撃説は眉唾視されている。騒がれると彼女はフーヴァーのような男the man looked like Hooverと言い方を変えたり、それをさらに否定して見せたりグダグダな展開に。パーティに2回参加していたと言いながら目撃証言が結局その女性1人だけだったのも。
- ジェノヴェーゼ収監をコステロらが仕組んだ説
麻薬犯カンテロップスの証言は具体的に過ぎる。一方でジェノヴェーゼのような大物ボスが下っ端の麻薬取引従事者と直接接点を持つのは非現実的で、間にブローカーを何重にも差し挟むはず、という通常の想定を裏切る衝撃の結果だったのか真相不明。麻薬裁判はとんとん拍子で進む。裁判は連邦裁判所でコステロが裁判官や陪審を買収する可能性低い。心情的に、陰謀好きなガンビーノならこの種の事をやりそうだが、時期的に自分のファミリーの後始末で手一杯で他のファミリーの事を考える余裕はなかっただろう。1960年代になって初めてファミリー外交に着手した。ルチアーノがジェノヴェーゼ投獄の陰謀に加わっていたという説が多いが、アメリカに入国できない彼がどれだけ麻薬裁判に食い込めるか疑問がある。ルッケーゼも加担したという説もあるが、もしそうならジェノヴェーゼをはめた同じ麻薬犯が自分のファミリー幹部ビッグ・ジョン・オルメントをジェノヴェーゼと同じく有罪に追い込んでいるのは全く訳が分からない。
- スカリーチェの粛清(マフィアメンバーシップ乱発)
マフィアのメンバーシップを売って金を得ることはシチリアマフィアの間ではご法度だったが、非シチリア系ギャングではメンバーシップの売買はごく普通に行われていたらしい。スカリーチェはシチリア人。賭博やりすぎて金に困っていたのはアナスタシア。キューバに独自の拠点を作ろうとボスの権力で取り仕切る。答えは出ているような気がするが。
- アドニスのジョーズイタリアンキッチン(ユニオンストリート、ブルックリン)
アドニスの初期のキャリアは謎に包まれている。気が付いたらアドニスのレストランには政治家が群がっていた。イェールの部下とか言われたがこの時代にブルックリンでギャング活動をやっていればみんな「イェールの仲間」とレッテルを貼られる。そんなわけがあるはずがない。コニーアイランドにもカモッラの残党がいたし、独立系のギャングが多数いた。レストランは1920年代後半にオープンした。場所はカルファノのゴーワヌスの縄張りのど真ん中。単純に考えるとアドニスはカルファノの部下だった可能性。カルファノはイェールの部下だったのでアドニスもイェールの子分と言い換えてもおかしくはないが、イェールとの距離は遠かっただろう。ヴィンセント・アロの初期キャリアもよくわからないが同じくカルファノの部下だったと指摘する言説がある。アロと懇意で何度も取材を重ねたと言うベガスの元カジノオペレーターは、アロがルチアーノやアドニスと最初から仲間だったように描いているが、そんなわけはない。生のアロに何度も会いながらそんな雑な情報しか手に入れられないのが悲しい。
- ジェノヴェーゼとトンプソンストリート(グリニッジ・ヴィレッジ)
部下に自分の住んでいる町では女を追っかけたりのやんちゃは絶対するなと言っていた。本人はそれを律儀に守った。トンプソンストリートを縄張りにしたがいつも住んでる場所はどこか別の場所だった。父と喧嘩してオゾンパークの家を飛び出したジェノヴェーゼがエボリの親父の店のトラックドライバーになった可能性。エボリの隣に後で離婚する2番目の妻が住んでいた。ストロッロの実家(菓子屋)も2,3軒隣の距離。彼らは青春時代のご近所仲間だったという。腐れ縁か。 ジェノヴェーゼは1950年代初めに夫婦喧嘩で離婚騒動となるが、ギャングの妻が旦那の収入を法廷で洗いざらいぶちまける(養育費の関係で)という、ギャング史上類を見ない事態に。妻によれば賭博の上がりだけで毎週4万ドルを家に持ち帰っていたという。
- モレッティの初期キャリア
トーマス・ハントによれば、1915年モレロ一家2代目ボスのチャールズ・ロモンテが地元のハーレムで襲撃された時、瀕死の彼を病院まで連れて行ったのがモレッティだったという。その時代ならモレッティは確かにイーストハーレム108丁目に住んでいたので場所的にはありえなくもない。病院に連れて行く際彼が持っていた銃を自分のポケットに入れたのが後になって武器隠匿で捕まる羽目になったと。ハントはこのモレッティの関わりだけなぜか出所を秘密にしている。情報の少ない時代は特に、捕まった時の共犯仲間から人間関係を推理するので、警察などの公的記録はすぐ調べられ、知れ渡る。従って警察記録ではない。およそ100年前の出来事を元仲間からの伝聞とするには苦しく、ソースが気になる。更に、ハントはこの暗殺を1915年としたが、1914年の間違いで、信憑性を落としかねないミス。翌年に弟のトーマスが殺されているのでそれと混同しているのか。モレロ一家と繋がりがあったのかそれとも偶然で、単にご近所の顔見知り程度だったのか。その後モレッティはバッファローのマフィアの元へ出稼ぎにいったり、地元ハーレムのテラノヴァ一家とアイルランド系ギャングの抗争の仲裁を務めたとも言われ、活動履歴が異彩を放っている。同じ108丁目で育ったコステロとは、30年代以後の密接な間柄からして確実に顔見知り以上の関係だっただろう。モレッティの娘の1人のゴッドファーザーはコステロだった。
- モレロとルポ
モレロは実直で寡黙、硬派だった。ルポは陽気で軽妙洒脱、よく喋り、軟派だった。性格が正反対な2人は、どこまで意識したのか知らないがボスとフロントボスの関係だったと推測する説もある。モレロはルポの背後で犯罪の諸事を操り目立たなかった。
- モレロのブラックハンド(強請)の手口
金を無心する脅しの手紙を商店主に発送し、商店主が手紙を受け取って中身を読んでいるところに偶然を装って顔をだす。困った顔をした商店主はモレロに何事かと聞かれ、手紙を見せる。正義の仮面をかぶったモレロは、差出人のギャングとかけ合って撤回させてやると商店主に言い、手紙を預かって立ち去る。後日モレロが再び現れ、ギャングの脅迫の全部を取り下げることはできなかったが、かなりの額を負けさせられるかもと言う。商店主はほっとして、ギャングと直接会って交渉したくないのでモレロにすべて後始末をお願いする。モレロは快く引き受け、要求額からかなり割り引いた金を受け取る。脅しの手紙はモレロが持ち去っているから証拠は残らない。実際には報復が怖いので被害者の移民商人が警察に届けることは稀だった。
- ガンビーノとカステラ―ノ
カステラ―ノ一家はガンビーノ含めてサルヴァトーレ・マソットの派閥に属していたという。マソットは1910年代に渡米し、パレルモ派閥のダキーラ派の長老幹部として、一説に同派の最大派閥を率いていたとされる。一度イタリアに戻り、出戻り後はブルックリンに住み、マンガーノ一家のカポになった。カステラ―ノ=ガンビーノは彼の派閥を継いだ。
- サヴィエロ・ポラシアという謎マフィア
シチリアのチェファルー出身のマフィアでNY滞在歴は1904年に遡る。ダキーラの相談役だったが、ダキーラを見捨て、マッセリア派に鞍替えした。1930年11月、マッセリア派のアル・ミネオが会議場所から出たところを暗殺された時、現場にいたとされる。1931年4月のマッセリア殺害時その取り巻きのメンバーに加わっていた疑いで警察の取り調べを受けたが猛然と関与を否定した。もしマッセリアの最後の昼飯に付き合っていたならマフィアの大物を二度裏切ったことになる。1932年、家族を残してシカゴに旅行に出たまま行方不明になった。ジェノヴェーゼがポラシアをシカゴに連れて行ったと信じられている。根拠になっているのはニコラ・ジェンタイルの回想。彼が懇意にしているピッツバーグマフィアが、ジェノヴェーゼがピッツバーグに寄った際にポラシアの始末をシカゴギャングに頼みにいく途中だとジェノヴェーゼに聞かされたことをジェンタイルに漏らしたという。ジェノヴェーゼとポラシアにどんな接点があったのか見当もつかない。マッセリア殺しに加担したレストラン経営者スカルパトは1932年に袋詰めの拷問遺体で発見された。マフィアの指導者がマッセリアの暗殺と自分たちを結びつける個人を除去したと解釈できる。それにしてはスカルパトの拷問のされ方は単なる口封じとも思えない。彼は表の顔はレストラン経営者だが、裏の顔はギャング。1931年2月に殺されたペライノのブックメーキング組織を乗っ取っていたと言われ、カルファノにたかられていた。
- マフィアの豪邸
ジェノヴェーゼは1930年代にNJアトランティックハイランズの見晴らしがいい丘に広大な土地を買い上げてイタリア風大邸宅を建設した。故郷ナポリのベスビオス火山のミニチュアがまだ残っている。今や公立公園になっている(ディープカットガーデンズ)。イタリア逃亡から帰った後手放した。プロファチの豪邸には地下のミサ祭壇と庭に私設飛行場があった。ギャロに仲間を誘拐された時、さっさとマイアミの別荘に飛んで逃げた。逃げるのが早い。コステロはマンハッタン一等地のセントラルパークウエストの7部屋ある超高級マンションに住み、招待されたゲストはインテリアの豪華さに驚嘆。別荘として利用したサンズポイントの家は12部屋ある城のような大豪邸だった。周辺も大豪邸ばかり。アナスタシアのNJフォートリーの大邸宅はマンハッタン対岸が見渡せるハドソン川沿いの小高い丘にあり、真下は崖だった。34部屋と5つの風呂があり、鏡付の大理石テーブル、グランドピアノ、壁にはローマ剣闘士の肖像画。ニューアークの税務捜査官が「何だあの豪邸は?住んでるのは誰だ?住人の税務申告をチェックしろ」となるのは必定。今も高級住宅地。
- マンハッタンの1920年代の秘密トンネル
イーストヴィレッジのセカンドアヴェニューを起点に東西に延びる3丁目通りの下を走り、東にイーストリバーへ通じている。半円形のドーム状のトンネル。密輸ギャングがNY沖合で仕入れた酒をイーストリバーからせっせと運んでいたとみられる。禁酒法が終わり、秘密トンネルは用済みになった。時代が進み、忘れられた。セカンドアヴェニューとイーストリバーの間には無数のビルが建てられ、基礎工事でトンネルの壁が3か所で壊され、NYの地下に情熱を注ぐ探究者が調べた時には、もう通過できなくなっていた。イーストヴィレッジと言えば1920年代前半にマッセリアとヴァレンティが酒の密輸の縄張りを巡って争った場所で、彼らの本拠地でもあった。このトンネルを使えば、郊外などを迂回してトラック輸送しなければならない手間が省けるだけでなく途中のギャングの襲撃にもあわなくて済み、マンハッタンの繁華街にダイレクトに運べる。トンネルの起点だった場所はヴァレンティ一味に襲撃されたマッセリアの自宅に近く、どちらかがこのトンネルを利用していた可能性がある。余りにも儲けているマッセリアにヴァレンティの親分ダキーラが分け前を要求したのが抗争の発端だったとも言われ、マッセリアだったのかもしれない。
- アドニス・クラブの虐殺(1925年、ブルックリン)
この事件は謎だらけ。クリスマスパーティで賑わっていた酒場アドニスクラブで突然照明が消え、何十発もの銃声が鳴った。警官が駆けつけると誰もおらず、3人の死体だけあった。壁に無数の穴。店の隅っこに38口径リボルバー2個を発見。遺体の1つは、アイルランド系ギャングのホワイトハンドのボス、リチャード・ロネガンだった。「こりゃあ、あのロネガンじゃないか」警察の常連だったので警官はすぐにわかった。死んだ他の2人もホワイトハンドのメンバー。ロネガンはメンバー5人とそこで飲んでいた。ロネガンら3人が殺され、1人は怪我、2人は無傷で逃げた。証言では、ある客は銃声が響く間ずっと耳を塞いで耐え、鳴りやむと一目散に逃げた。バーテンはカウンター奥で身を伏せ、銃撃止むと逃げた。他も同じように逃げた。無事だったメンバー2人は、銃撃が起こる少し前に4人組が入ってきて、向かい側のテーブルに座った、メンバーの1人(死んだ)がその4人組に何かを言いに行き、戻りかけた時に突然ライトが消え真っ暗になり銃撃があった、銃撃は多分そいつらの仕業で、酔っ払っていたので顔は覚えてない、などと証言した。店はクリスマス祝いの最中で人の出入りが激しく従業員も他の客も、4人組を覚えていなかった。不思議なのは、暗闇の中で数十発の銃の乱射がありながら、ホワイトハンドの4人以外被弾した者がいなかったこと。警察は現場にいた9人を拘束したが、中に店の従業員や客に混じってアル・カポネがいたことが、この事件が偶発的な乱射事件ではなく仕組まれた暗殺だった可能性を俄然高めた。ロネガンは臨海区周辺のイタリア系ギャングと対立していた。事件を報じた新聞によれば旧ボスのビル・ロベットが組織を去った後、組織を立て直そうとし、ロベット同様多くの敵を作っていたという。この酒場が胡散臭いイタリア系オーナーの店で、イタリア系ギャングの巣窟だったことをロネガンが知らなかったか、知っていても酔っ払った勢いで誰かに連れられてきた可能性。ロネガンは左脇のガンホルダーに銃をフル装填で持ち、殺されたもう一人も後ろポケットに銃を持っていたが、抜いた形跡なし。反撃される可能性を考えると暗殺者は1発で仕留める必要があるが、暗闇では人の急所を狙えない。ロネガンは頭部に2発撃たれていた。暗闇の中で急所を2発正確に撃てる者がいるとすれば、向かいテーブルの4人組ではなくロネガンのテーブルに座っている者つまりロネガンの仲間だろう。銃の乱射は暗殺を隠すための演出だと。4人組など元々いなかったのかも。誰も目撃していないし、何かを言いに近づいたというメンバーは死んでしまい死人に口なし。死んだ3人のうち1人は血痕を転々と残して店の外に倒れていたが、銃痕以外に頭を包丁のようなもので切り開かれた跡があった。これはもう復讐や怨恨を示唆。ホワイトハンドの内輪揉めだった場合、それをイタリアギャングの巣窟のような場所で行う必要があるのかと。全くない。カポネが2人を抱き込んで裏切らせ、殺すために連れてきた可能性。イェールがカポネに頼んで仕組んだという線でギャング抗争の物語が形成されたが、事件当時の報道ではイェールの名は出てこないし、その種の物語では、ロネガンがイェール派をやっつけようと酒場に乗り込み、返り討ちにあったことになっているが、乗り込んでテーブルに座って酒を飲んでいるのはどうみてもおかしい。アドニスクラブがイェールのアジトとされたがオーナーとの繋がりはわからない。イェールのアジトはサンライズクラブかハーバードインだろう。周囲はイタリア人が多く住む場所で、何十発もの銃声音が鳴り響いたのに、上の階のイタリア系住人は店から逃げた者を見ていないどころか、そんな銃声音は全く聞こえなかったと証言。他の住人からも役立つ証言が得られず。マフィア史家はここの住民たちの沈黙の異様さを特筆している。レッドフックの臨海港湾区に近く、カポネが駆け出しの頃バーテンをしていたハーヴァードインからは遠いが、カポネの住み家があったパークスロープからは近い。歩いていける距離で、庭のようなものだっただろう。カポネは放免されシカゴに戻った。3年後に聖バレンタインデーの虐殺。無差別性と電撃作戦という点は似ている。1つは狭い店内の暗闇を利用して、1つは捜査官に偽装して、敵を無防備にさせ、一気に銃殺。
- ジョゼフ・ペライノ
ナポリ系のカルファノとブルックリンの臨海区近辺で地下賭博を仕切っていた。平和会議に出席した帰りの路上で暗殺された。カラブリア系のアナスタシアの子分のフローリノが逮捕されたが(証拠不十分で放免)、シチリア系仲間に粛清されたとの見方も。ペライノはシチリア系の癖に彼らが敵とするカラブリア系ギャングになびいていた。息子の1人も半年後に殺された。アル・ミネオが首謀者だという。もう何が何だか。ペライノのもう一人の息子は生き延びてプロファチ一家に。アナスタシアはペライノの息子をニューヨークから追い出し、ニューヨークに戻ろうとするとまた追い出したという。自ら父の仇であることを認めたようなものだ。1970年代にディープ・スロートというポルノ映画の金字塔を世に送り出した。
- デューイの立身出世
トーマス・デューイのギャング狩りは破壊的。イタリア系ユダヤ系アイルランド系全く関係なく無差別に、捕まえる名目も限りない。超人的なスピードで摘発する。マフィアはマンハッタンから逃亡。摘発のスピードはラガーディアの計らいで市警察が応援したのが大きい。政治権力を増すには大物ギャングの検挙実績が絶対的に必要だった。富豪ギャングを公然と脅せば賄賂も当てにできる。権力を利用した一種の強請行為。マフィアの資金援助で得たNY州知事のポストが権力のピークだった。1950年に大統領の夢が断たれた時、一転無気力な政治OBに成り下がった。キーファーヴァー委員会から組織犯罪調査の協力を要請されたが拒否した。かつての司法界の旗手が犯罪歴真っ黒なランスキーの生活支援で生き延びた。
- アトランティック会議(1929年5月)
伝説では全米から大物密輸ギャングが多数集まり、全米の壮大なシンジケートの立ち上げを話し合ったと言われたが、実際はカポネはじめとするシカゴギャングのこじんまりとした地域的平和会議だった模様。伝説ではルチアーノやコステロらニューヨーク勢が会議を主導し、大勢のギャングのいる前でシカゴのような流血戦争を非難して禁止したと言われた。実際はそのシカゴの当事者がまさに紛争解決の話し合いをしていたのだから笑える。きっかけはNJの密輸を仕切る政治ゴロのナッキー・ジョンソンとアトランティックシティの海沿いを歩いている1枚の写真が新聞に載ったこと。伝説が形成されたのはこの種の出来事が余りにもタイムリーな流れと見られたことが大きい。米国北東部のギャングは密輸繋がりで互いを知りあうようになり、禁酒法施行からほぼ10年経過し、ビジネスの爛熟期だった。方向性が同じ者同士の緩いネットワークと見なせば実際それと近いものが存在した。ニューヨーク勢だけだが1933年にバカルターやランスキー、シーゲルらが集まった会議もこれに類するだろう。たまたまバカルターを尾行していた刑事がいて発覚したが、この時代にこの種の会議は多数開かれていたかも。ランスキーやシーゲルが頻繁に利用したラファイエットストリートのユダヤ料理レストランは1990年代まで営業していた。
- カステランマレーゼ(カステラマレ)派
パレルモマフィアやコルレオーネマフィアとは独自の派閥を形成し、結束力で突出。1920年代前半のパレルモ派とコルレオーネ派の抗争では、劣勢に立たされたコルレオーネ派がカステラマレ派を抱き込んだ。1930年前後の両派対立では劣勢に立たされたパレルモ派がカステラマレ派を抱き込んだ。カステラマレ派は両派に対しバランサーのような役割を任じ、両派のライバル関係を利用してマフィア社会の優位な位置を確保した。
- 革新派マッセリア
メンフィ生まれで地理的にはアグリジェント派閥だが、この派閥と行動を共にした形跡がない。幼い頃に同地を離れ、マフィアの家系ではなかったからか、マフィアの地縁的な党派性と無縁だった。移住先のマルサラもNYのマルサラ出身移民が少なかったせいか有力な派閥たりえず、NYのシチリア社会では孤立した。アグリジェント派はNYではコルレオーネを飛び越えてパレルモ系と近い関係だったらしいが、マッセリアには何の意味もなかった。むしろ地縁的な絆が弱いことがマッセリアに有利に働いた。血縁関係を広げることで勢力を拡大するシチリアスタイルに比べ、マッセリアのやり方は同盟関係を手早く作れ、短期に軍団を組成できる。実際イタリア本土系を多く含む雑多なギャング集団を傘下に取り込み、組織は怒涛の勢いで膨張した。ジェンタイルはカステランマレーゼ戦争を「カステラマレとシャッカ(アグリジェント)の戦い」と表現したが、その表現はマッセリアの行動パターンと相容れない。ルチアーノとの関係からマスタッシュピート(旧世代マフィア)の典型と捉えられたが、実際は旧世代の典型どころかその典型像を破壊しニューウェーブを作った異端児だった。NYのマフィアの長老はカポネと同盟したマッセリアを一斉に非難したが、程なく保守的なマフィアもこのニューウェーブに追随し、ナポリ人やカラブリア人を組織に入れるようになった。
モレロギャング
[編集]- ジュゼッペ・フォンタナ(1860年-1913年)パレルモ近郊ヴィッラベーテ生まれ。地元の”ズッビオ”ネットワークの一員。1893年、地元の銀行家エマニュエレ・ノタルバルトロを殺害し1902年有罪宣告され、控訴して1904年無罪釈放。1905年渡米。モレロギャングに属した。モレロ収監後、テラノヴァ兄弟と仲違いし、ダキーラと提携した。1913年ダキーラとロモンテ間で抗争が勃発。1913年11月4日、ハーレムで2つのファミリー(モレロ一家とミネオ一家)より派遣されたヒットマンに暗殺された。
- チャールズ・フォーチュネート・ロモンテ(1883年-1914年)シチリア島Villafrati 生まれ。1894年渡米。ハーレムの2103 1st Avenue on the junction of E108th stで馬の飼料店を営んだ。高収入ビジネスで飼料の流通を独占したとされる。1909年頃からナポリ系ギャングのジョシュ・ガルッチの賭博組織の用心棒を請け負った。モレロ一家のリーダーの1人で、1911年のジュゼッペ・モレロの収監確定に伴い、モレロ一家の共同ボスに就任した。主としてモレロの妹婿のリマと組んで、ガルッチの違法ビジネスの護衛を請け負った。ブルックリンのダキーラに対抗し、ロウアー・マンハッタンの縄張りの争奪戦を展開した。1914年5月23日、E108thを歩いているときに背中に3発撃たれ、病院で死亡した。警察の問いかけに実行犯の名を出すことを拒否した。ニコラ・ジェンタイルによれば、ヒットマンは、ウンベルト・ヴァレンティとAccursio Diminoで、ダキーラがその権力を排除するために派遣したのだという。ジェンタイルによれば、ロモンテは106th Stの絶対的な支配者だった。モレロ一家の弱体化で一家から離脱したフォンタナを殺害したことへの仕返しともみられるという。弟のトーマスは復讐を誓ったが翌年殺された。
- アンジェロ・ガリアーノ(1878-1954)コルレオーネ生まれ。母がStreva性(Strevaは地元マフィア一家)。1899年渡米し、左官屋を始めた。107丁目に住み、グレコの商売パートナーで、酒場や洗濯屋を開いた。洗濯屋ではレイナやドラグナが働いていた。1910年の紙幣偽造でモレロの弁護のため証言台に。1914年バーネット・バフ殺害に加担。1916年その共謀容疑で逮捕。その後は犯罪から離れ、建設や左官ビジネスの方面で正業を営んだ。
- マルコ・マカルーソ(1875- )コルレオーネ生まれ。1887年渡米。1899年市民権取得。NYのコルレオーネコロニーの最も初期の住民。ハーレム117丁目に住んだ。モレロのIgnatz Florio Associationの役員。アンジェロ・ガリアーノ市民権取得の証人。1930年不動産ブローカー。息子マリアーノはルッケーゼ一家。
- イニャツィオ・ミローネ(1864-1942)コルレオーネ生まれ。ハーレムでビールホールを経営。モレロ仲間で、フォンタナのパートナー。1908年のモレロ絡みの連続殺人(ライバル抹殺)では、モレロやフォンタナと一緒にいるところを何度も目撃された。1909年のペトロジーノ暗殺に関与したとイタリアの警察に見られていた。
- アントニオ・チェカラ(1875-1928)コルレオーネ生まれ。1889年渡米。ルポとともに雑貨屋を経営。保険詐欺で店に放火を繰り返した。のちエリザベスストリートに賭場を開いた。1909年紙幣偽造でモレロらと共に逮捕され15年刑を宣告された。恩赦により1915年出所後、ガリアーノやレイナの組合強請に参加した。1928年、何者かに殺された。ダキーラに近いジュゼッペ・トライナ関与説。フリンにはモレロギャングのNo3と見られていた。1910年のモレロ一家の摘発で監獄行きになったメンバーの多くは、帰国したり犯罪から身を引いたり殺されたりして舞台から一様に姿を消した。ギャング活動を続けたのはモレロやルポ以外ではチェカラぐらいだった。
- イッポーリト・グレコ(1878年-1915年)コルレオーネから1905年渡米。生まれはカステランマレーゼと判明。モレロギャングに属した。アンジェロ・ガリアーノの商売パートナーで彼と107丁目の酒場を経営。1914年バーネットバフ殺害のおぜん立てをした。トム・ロモンテのライバル。1915年10月7日、殺害された。
- ジュゼッペ・ファナロ(1876年-1913年)カリーニ生まれ。1902年渡米。ブルックリンの波止場で働いた(果物貿易商の貨物の運搬)。モレロギャングの武闘派。1903年マドニア殺害の実行犯とされる。モレロ投獄後、ダキーラ陣営と同盟したとされ、1911年、テラノヴァ兄弟と仲違いし、1913年11月25日、モレロ一家とミネオ一家の共謀で殺害された。
- ヴィト・ラドゥカ(?-1908 Vito Laduca)シチリア島カリーニ生まれ。イタリア海軍の従軍経験有。1902年2月渡米。モレロの紙幣偽造に深く関わった。1903年3月ピッツバーグでバレルマーダー関与の疑いで逮捕されたが証拠不十分で放免。ピッツバーグで捕まった他のメンバーの釈放を助けるためベネディット・マドニアが派遣されたが、モレロらはその使命に不満を言ったマドニアを殺害した。その殺害関与で逮捕されたが証拠なく放免。1904年、富裕ビジネスマンの息子アントニオ・マニーノ誘拐容疑で指名手配。1905年10月3日、バルティモアで誘拐容疑で逮捕され、有罪となった。釈放後、シチリアのカリーニに帰郷したが、1908年2月、殺された。
- トンマーゾ・ペット(?-1905)カリーニ生まれ。モレロ一家の殺し屋で、立派な体躯の持ち主。本名ルチアーノ・ペリーニ、あだ名は”Ox”。バレルマーダー関与で捕まったが、1904年1月釈放された。その後ペンシルバニアに移り、自前のブラックハンド組織を結成したが、1905年、自宅の裏庭で何者かに殺された。死体に62個の刺し傷があり、フリンはマドニア殺しの復讐とみた。1903年、モレロと一緒にいたところをNY市警の警官に取り囲まれ抵抗したため、マクラスキー警部に警棒で思い切りたたかれた。紙幣偽造でモレロを追っていたUSSSのフリン捜査官は、証拠も確保せずに逮捕に踏み切ったマクラスキーを非難した。
- ピエトロ・インゼリッロ(1859-?)パレルモ近郊Marineo出身。バレルマーダーで検挙された。警察の調べでマドニアの死体の遺棄に使われた木の樽がインゼリッロのカフェに置かれた樽と一致した。1903年6月釈放後、シチリアに戻った。1908年12月27日、何者かの襲撃で負傷した。その後モレロ一家の紙幣偽造を捜査していたUSSSにニューヨークでモレロギャングと一緒にいるところを目撃されており、ニューヨークに戻っていたと考えられたが、1909年のモレロ一家摘発で捕まらず、その後の消息は途絶えた。一説にイタリアに戻って紙幣偽造活動をつづけたとされる。
- ジオヴァンニ・ザルコーネ(?-1909)パレルモ近郊ヴィッラベート出身。スタントンストリートで肉屋経営。マドニアがモレロらと一緒にいた肉屋。ラドゥカを肉屋で雇った。マドニアの死体遺棄に使用された木の樽を運んだとみられたワゴンの所有者で、モレロらの逮捕より後になって5月8日にブルックリンの自宅で逮捕された。コネチカットに移住し農場を持った。1909年7月28日、ダンベリーで銃殺された。
- イサドロ・クロチェヴェラ(1873-1920)パレルモ生まれ。1903年モレロ一家の紙幣偽造でGiuseppe DePrima, Giuseppe Giallombardo Salvatore Romanoと共に逮捕、4年刑で収監。1905?出所後、ブルックリンの波止場で働く。Giuseppe DiCarloと親交。バッファローに移ったDiCarloに会いに頻繁にバッファロー訪問。1920年8月8日、バッファローの酒場でDicarloの息子といた時、酒密輸の取り分をめぐってヴァッカロVaccaro兄弟と口論し、射殺された。死亡時ブルックリンの港湾作業監督。7人子供がいた。ファナロの親戚。
- アントニオ・パッサナンティ(?-1968)シチリアPartinico生まれ。1902年渡米。ブルックリンのFlushing Avenueで酒屋を経営。モレロ一家に属し強請に従事。脅迫状に特徴があった。爆弾の使い手。1908年12月、ルポと共謀して破産詐欺を行った。1909年のペトロジーノ暗殺時カルロ・コンスタンテノと共にシチリアに飛び、モレロに電報を打ったとされ、暗殺をセットアップした実行犯の1人と目される。1969年自殺。Informerの分布図ではカステラマレ派所属。
NYCギャングコレクション2
[編集]- カルファノのご近所仲間
アンソニー・カルファノはロウアーマンハッタン出身で、マフィア史家の調べで幼い頃オリヴァー・ストリートに住んでいたことが分かっている。1895年生まれ。このストリートを地図で見てみると、リトルイタリーの南方で、すぐ隣にジェームス・ストリートが並行して走っている。ジェームスストリートギャングという若手中心のギャング団が1900年代初期にこの界隈で活動し、ボスのジョニー・トーリオのアジトがあった。同じ通りにフランキー・イェールの実家があり、トーリオとイェールの結びつきは間違いなくジェームス・ストリート。カルファノとイェールは2歳差で、一本道を隔てた近隣同士、幼馴染だったか、あるいは同じ不良グループに属していた可能性も。少なくとも互いに面識があった。トーリオとイェールは1910年までにブルックリンに移住しているが、カルファノも奇しくも同じ時期にブルックリンに引越している。カルファノはブルックリンでイェールのギャング団に入ったとされるが、元々マンハッタン時代からの幼馴染で非常に近い仲間だったのかも。カルファノには兄がおり、1910年代にブルックリンでのギャング抗争に巻きこまれた。カルファノを不良の道に誘ったのは確実に兄だろう。ブルックリンでアル・カポネらのカポネ兄弟と知り合った。トーリオとカポネはその後シカゴに移ったが、イェールとカルファノはブルックリンにとどまった。マンハッタンの密輸王でシチリア系のマッセリアはブルックリンではカルファノを自陣に取り込み、シカゴではカポネと連盟した。ライバルのシチリア勢を倒すためにナポリ系のパワーを極力利用するいうマッセリアの戦略。マッセリアとカポネの結合はシチリア系保守勢力には驚天動地の出来事だったらしい。
- トーリオとネイビーストリートギャング(カモッラ)
1910年代前半から半ばまで、ブルックリンでナポリ系のカモッラギャング、通称ネイビーストリートギャング(NSG)が幅を利かせたが、北部のネイビーストリートをアジトにしていた。一方、ジョニー・トーリオのアジトもネイビーストリートにあったと言われ、もしかするとトーリオはNSGあるいはその上部組織モラノギャングと繋がりがあったか正規メンバーだったのではないかとの疑念。ボスのモラノとトーリオは年齢近く、トーリオが5歳若い。しかしカモッラ軍団とトーリオの関係性に言及している言説は今まで見たことがない。もしトーリオがシカゴに移ったのが1917年ならば、同年にカモッラギャングが一斉摘発で壊滅したので災難を避けてシカゴに逃げたという説明がもっともらしくなる。一応シカゴに移ったのは1915年頃とされているがこれも何か確証があるわけでもない。
- ウェディング・セレモニー
ゴッドファーザーの冒頭シーンが有名だが、マフィアを描く人にとっては最も鮮烈な印象があるものらしい。普段表に出てこない顔と名前が沢山集まるので、一度に多くの絵が取れ、複数のシナリオを作れる。陽気で晴れやかな屋外と暗い部屋で密談する屋内がコントラストになっているゴッドファーザーの演出は、「表」と「裏」を生きるマフィアの生き様を暗示している。有名なのが1956年のボナンノとプロファチの子供同士の結婚式で、マフィアの大物が大勢集まったといわれ、非常に豪勢なものだったらしい。マフィアはマフィア同士でよく結婚するが、マフィアメンバー同士が姻戚関係を結ぶことで情報の漏えいを防ぎ、警察の摘発から身を守る自衛手段の一種だった。招待客リストをかつて見たことがあるが(それが信憑性に足るものか今や思い出せないが)、カルロ・ガンビーノの名前がなかったことだけ記憶にある。ボスのアナスタシアは名前があるのに。1956年時点で、ガンビーノは副ボスかそれに準ずる幹部だった。まだボスになる前のヴィト・ジェノヴェーゼの名もあった。コステロの名がなかったが、監獄にいたからだろう。10年後ボナンノは他のマフィアファミリーから引退を迫られ逃げ回るが、このボナンノ追放の原動力がガンビーノであった。ボナンノは後の1983年の自伝でガンビーノを思いっきり軽蔑し馬鹿にしている。ガンビーノはアナスタシアを葬ってボスになったが、ルチアーノ時代を五大ファミリー創設期と仮定すれば、そこから数えて3代目になる。一方ボナンノは創設期からの古参ボスで初代である。コステロが退き、プロファチが病死した後、ガンビーノにとって先輩格の初代ボスはボナンノだけとなり、目の上のたんこぶ同然だったようだ。結婚式に招待されなかったのでむくれたのか?そういうことを根に持つ、ねちっこい女々しい男にも見える。それともその時点ですでに両者は犬猿の仲だったのか?ボナンノは、アナスタシアに公衆の面前で怒鳴られ卑屈な笑いを浮かべるガンビーノを観察して、ずっと取るに足らない弱い男だと見ていて自伝で言うとおり本当に馬鹿にしていて招待客リストから外したというのもありえる。理髪店で腕をだらんと下ろしてくつろいでいるアナスタシアが2人組の暗殺者に椅子の両側から後頭部、背中、尻、腕を撃ち込まれて殺されたのはボナンノ・プロファチ結婚式の翌年であった。
- モレッティの死
1951年9月のレストランでの暗殺はオメルタを破ったための粛清と一般に受け取られているが、ニュージャージーNJ州の警官犯行説がある。モレッティはNJ州ベルゲン一帯の賭場運営に関わったが、地元警官、警察幹部へ賄賂を運ぶ担当だった。賄賂係だから地元警察の恥部を一番よく知っている。警察のことは私に任せろ、だ。1950年12月キーファーヴァー委員会で証言したが、マフィアの内部事情は暴露していない。しかしマフィアと懇ろの地元警官の存在をにおわす発言を何度かしており、当局のマフィア弾圧をけん制するためだったとみられるが、これが地元の汚職警官グループを慌てさせた。NJ州はNYに比べ賭博規制が緩やかで、違法賭博が比較的おおっぴらに行われた。警官は賄賂をもらって見て見ぬふりをした。しかし1940年代の終わり頃、風紀粛正の気運が高まり、汚職警官が何人も捕まった。モレッティは誰に何を渡したかをすべて知っている。賄賂を届ける運搬人だったから。告発されれば警官の人生はパー。管轄ごとに運命共同体のような強い絆を築いている警官は、芋づる式で告発されると家族も仲間も威信も権力も退職金も何もかも失う。モレッティはほのめかすだけで喋ってはいないが、喋られたらアウトだった。モレッティは地元警官の賭博汚職の件で証人として州の査問委員会に出頭する予定だったが、その前に暗殺された。モレッティの死の2日後にその汚職容疑をかけられていた当の警察幹部が頭部に銃弾のある死体で発見された(ピストル自殺とされた)。モレッティはその警察幹部について証言する予定だった。
暗殺直後は暗殺の理由が不明なことが多い。事情が明るみになるのは数年後ということも多いが、モレッティの場合は暗殺直後から、まるで暗殺が必然だったと言わんばかりに「喋りすぎた男」というタイトルの記事が出ていた。上院キーファーヴァー委員会や州の犯罪委員会でペラペラしゃべったのでマフィア仲間に消されたのだと印象を与える記事。しかしマスコミも警察も自明なことに、証言はシンジケートの核心に触れるような発言は一切なかった。アメリカ生まれで英語がペラペラだったモレッティは口下手な同胞とは違い、ユーモアと諧謔溢れる多弁で質問をかわし、煙に巻いた。これがどんなにすごいことかはその後同じ公聴会の証言者となった、同じくアドリブで対応したコステロと比べればわかる。コステロは、公聴会の証言台に立った全米各地のマフィアが口を滑らすのを恐れて黙秘権を行使しまくっているのを見て、心の底から軽蔑した。田舎議員の誘導尋問など恐れるに足らず、こんなものはアドリブで対応できる、と自信満々に公聴会に出頭した。その1か月前に委員長のキーファーヴァーとニアミスした時は挑発した。しかしいざ公聴会に出頭すると議員の執拗な質問攻撃に、言葉を選び過ぎて、ほぼ黙秘に近い状態になった。だらだら汗をかき、極度の緊張でコップを持つ手が震え、隣の弁護士の顔を見ては返す言葉を探すのが精一杯で、ユーモアを挟む余裕などなかった。モレッティは議員との「楽しくて愉快な応酬」を済ませた後、マスコミを引き連れて道中の質問攻撃をずっとアドリブでこなし、質問をユーモアで返した。この才気煥発な男が梅毒で脳が侵されていたとは誰も信じないだろう。しかし公には病気で脳が侵されたことにされた。マスコミにこの種の情報を与えたのは誰だろう?後年、政府密告者になったバラキは「マーシーキリング」(病気のための慈悲の殺人)だとジェノヴェーゼから聞かされ、数年後、あんな暗殺の仕方は無礼だとするマフィア幹部の会話が盗聴された。世間だけではなくマフィアメンバーですらマフィアによる粛清と信じていた。
- モレッティの死2
ジェノヴェーゼがコステロを孤立させるためにモレッティの粛清を説いて回ったとも一部で言われたが、モレッティがジェノヴェーゼにとって排除すべき脅威だったかは疑問もある。コステロが組織を自由放任に任せ政治家や実業家とゴルフや食事で遊び回っている間、ジェノヴェーゼは一家の縄張りを統率する各地のストリートボスの間をドサ回りして資金援助や子分の面倒の引き受けなどを働きかけ彼らの信頼を勝ち取っていったが、それにはモレッティも含まれただろう。モレッティは上位の幹部ではあるがジェノヴェーゼにとっては格下の部下に過ぎなかったことがバラキの証言でわかる。ジェノヴェーゼはNJの縄張りに親分の風格で登場しては組織の利権に関わる面倒解決をモレッティに指示していた。自分をバックアップしてくれる有力な幹部を殺すわけがない。モレッティはニュージャージーにおけるコステロやアドニスの利権管理者ではあったが、同時にそれらの賭場はファミリーの共有財産でコステロの私有物ではなかったし、多くのメンバーが賭博興行に相乗りしていたと見るのが妥当だろう。ニュージャージーにおけるファミリーの本部もその賭場の1つに置かれた。どんなに権力が強大でも、ボスの一存で動かせるものではない。モレッティ暗殺犯を捜査したのはモレッティと親密だった地元警察で、アナスタシア配下の殺し屋が逮捕されたりした。もしモレッティ殺しが警官の仕業ならば、マフィア仲間の粛清だと世間に思い込ませるにはうってつけの人選で、もみ消しや粛清の偽装工作のために自分たちの管轄テリトリーで暗殺事件を起こす必要があった。自分たちのテリトリーで事件を起こし、活動拠点が全然異なるアナスタシアの配下に罪を着せる。この時点でアナスタシアは10年前に死刑執行人として告発された有名ギャングだった。アナスタシア周辺のブルックリンで騒動が起こってもニュージャージーまで厄災は及ばないという目算で。著名なラスベガス黄金時代が来ようという時に死んだが、もし生きていたらベガスを代表する顔になっていたかも、とも言われた。モレッティの世話係でシャドーマンだった弟のサルヴァトーレ(ソリー・ムーア)が翌年監獄で病死しているが、他殺の疑いが出て死因を再調査された。
- 伝説と神話の人物ルチアーノ
ボスのマッセリアを裏切ってファミリーを継ぎ、ニューヨーク五大ファミリーの中心にいてマフィアの近代化を進めたと世間的に信じられているが、ルチアーノほど神話に満ちた人物はおらず、言い伝えの多くが虚構だった。禁酒法時代、国際的な密輸組織を持ち、巨大密輸シンジケート、ビッグセブンの一角だったと言われたが、にわかには信じがたい。1930年にアイルランド系ギャングのレッグス・ダイアモンドとドイツに船旅をしているが、レッグスはその時点で、殺人事件の容疑をかけられ郊外に潜伏している間にニューヨークの密輸の縄張りを失い、「持たざる者」に転落していた。ニューヨークの密輸商売から締め出され、キャッツキルに都落ちしていた。ドイツ旅行は新たな密輸ルートを開拓するための一か八かの冒険だっただろう。そのダイアモンドに付き添ったダイアモンドギャングの一員で部下のルチアーノが、巨大な密輸組織を持つビッグセブンであるはずがない。レッグスが持たざる者ならルチアーノも同じである。ゴードンやマドゥンのように酒の醸造所を操業したとか、コステロのように密輸船団を擁して密輸した、というような痕跡がない。密輸の武装用心棒や見張り役をやっていた可能性はあるが、独立した密輸商売の可能性は低い。レッグスとのこの船旅は、レッグスがドイツで拘束されて強制送還されたため計画はとん挫した。ルチアーノは密輸の成果を得ることなくむなしくアメリカに戻った。
ルチアーノが禁酒法時代に行っていたのは小物のチンピラがやるような盗難品の転売、保険金詐欺などである。リトルイタリー界隈に倉庫を持っていた。酒、タバコ、衣料など日用品を盗んで蓄え、「安物あり」の看板を掲げて売りさばいた。パートナーはジョン・マンフレディという男。1920年代前半、盗んだ酒をリトルイタリーの交換所で売りさばくなどしていたようで、マッセリアとの交流の発端はこの頃の酒の地下取引とみられる。1923年ユダヤ人の下働きで麻薬で捕まった時は麻薬の在り処を密告して釈放されるなど口も緩かった。リトルイタリーつながりではナポリ系のミケーレ・ミランダやペノッキオとつるんでいたようだが、アジトの事務所を共にしたことが分かっているくらいで活動内容は不明。のちペノッキオの売春ビジネスに関わった可能性も。1926年にレッグスと共に捕まった時はどこかのグループと抗争していたようだが、大騒動にはならなかった。1927年2月マンフレディと共に酒の密輸トラック強盗で拘束された。1928年11月、殺されたロススタインの事務所でトーマス・ウォルシュ(ファティ)やジョージ・ウフナーなど他国系ギャング仲間とうろついていたところを警察に拘束された。何十回も警察に捕まっているが、捕まるごとに仲間の面々は違っていた。警察には自ら賭博師と名乗っていた。彼自身は血統的にマフィアでもなかったし、特定のマフィアの派閥にいた痕跡もない。しかしマフィアとの交流はあり、マッセリアとの酒を通じた関わりは茫漠としていて特定できないが、パレルモ系マフィアとの交流が印象深い。禁酒法以前の1910年代半ば、のちのガンビーノ一家の副ボスのジョー・ビオンドとイースト・ビレッジで一時一緒に住み、周辺でスリを働いていた。1926年銃の不法所持で捕まった時パレルモ系のスカリーチェ兄弟の1人と一緒だった(スカリーチェとはイタリア帰還後も交友関係が続いた)。おそらく色々なギャングと犯罪のアイデアを共有し、シチリア系、イタリア本土系、アイルランド系、ユダヤ系など広く浅く付き合い、金のためなら何でも手を出す「何でも屋」だったが、密輸ではレッグス一派のおこぼれにありつくくらいだったろう。
マッセリアがカステラマレグループと抗争を始めた時、戦闘要員として頼ったのはモレロ傘下のハーレムのイタリア本土系ギャング達で、日頃から得体のしれない仲間たちと何をやっているかわからないルチアーノのようなチンピラ風情には頼らなかっただろう。1930年8月、抗争の真っただ中でのんきに海外旅行をしているルチアーノがマッセリアの側近であるわけもない。マッセリアとの具体的な結びつきは1920年代後半、あるクラブ経営者の送金先リストにマッセリアとともにルチアーノも載っていたことぐらいで、せいぜい、互いに顔見知りだろうと推測するのが精一杯である。1929年10月、正体不明の男らに殴られ背中を刺された有名な事件は、マッセリアとマランツァーノ間の権力闘争に巻き込まれたストーリーに脚色されたが、実際は、レッグスの居場所を聞きたい暴力刑事に体罰を食らっただけだった。当時レッグスはホッツィトッツィクラブで殺人事件を起こして雲隠れしていた。カステランマレーゼ戦争の内部証言で、ルチアーノが等身大のリアルな出で立ちを伴って登場するのはマッセリアが殺された後で、抗争中にはなぜか名前が出てこない。詳細な戦争証言したヴァラキの回想でもルチアーノは戦争中の描写の中で一切登場しない(もっともジェノヴェーゼもコステロも出てこないが。ヴァラキはマッセリアの敵方のガリアーノ&マランツァーノの暗殺チームにおり、ガリアーノ派の個々のメンバーは多く語っているが、当然ながらマッセリア軍団の内情には疎く、顔見知りは自身なじみのあったハーレムギャングの一部メンバーだけだった)。ルチアーノがマッセリアへの造反をマランツァーノと駆け引きしたというジェンタイルの回想があるが、これがウソ臭い(回想ではルチアーノの家を訪問したジェンタイルがたまたまルチアーノがマランツァーノの子分と交渉している場面に遭遇したことになっているが、こういう場面を挿入するから逆にウソがばれる。素直に伝聞としたほうがまだもっともらしい)。マッセリアが殺された時の新聞にルチアーノのルの字も出てこないが、半年後マランツァーノが暗殺された時は誰の名よりも先にルチアーノの名が新聞に挙がっていた。ルチアーノが組織犯罪の有力者になったのがマッセリアの死からマランツァーノの死までの半年間においてだったことを物語る。ヴァラキの回想でもマッセリアが死んだ後のストーリーで初めてルチアーノが生身の人間として登場する。
マッセリアが死んだ後、マッセリア傘下の有力者たちの多くはイタリア本土出身でシチリア出身ではないのでボスになれなかった。誰をボスにするかで頭を悩ました末、自分たちと同世代でシチリア系の---当時大勢いた無名ギャングのルチアーノを急ごしらえのボスに担いだと解釈するのが自然だろう。もとより鉱夫の息子がいきなりファミリーボスになるなど他のファミリーではありえなかった。ファミリーの体裁を崩さずに今まで通り自由に活動するためには、誰でもいいからシチリア系の人間をヘッドに置く必要があったが、シチリア人は大抵どこかの組織や派閥に属しているので人選が難航する。どこの派閥にも属さないもののマフィア人脈だけは豊富で、誰とでも気軽に付き合う無害そうなキャラクターは傀儡ボスにうってつけだっただろう。とっつきにくい性格のレッグスとの仲間関係を5年以上も維持し続けるのはすごい忍耐がいるがルチアーノは平気だった。密輸トラックを襲ったり地下賭場で細々と日銭を稼いだり、マフィアやギャングの下働きをするだけがとりえのソルジャーかそれ以下の末端のチンピラが突然ニューヨーク最大のマフィア組織のボスに担ぎ上げられた。マッセリアの死後2か月たつとすでにボスの風格でふるまっていた。マランツァーノ殺害後すぐに警察が一見何の関係もないルチアーノの名を真っ先に容疑者に挙げた時のソースは暗黒街筋からに違いなく、ボス就任でギャングの間で名が広まっていたことを反映している。マフィアの家系でもない男がいきなり現れてボスになることに、シチリア保守派は顔をしかめたに違いない。保守派はマッセリアの登場に顔をしかめたが、いつの間にかその後釜ボスに収まったルチアーノも胡散臭く見ていたに違いない。マランツァーノに敵意むき出しに警戒されたのもうなずける。しかしその後ルチアーノの神格化はとどまることを知らず、一方的に膨張していった。検察官トーマス・デューイがルチアーノ神話の形成に大きな寄与をしたとするのが多くの史家の見方。裏社会のボスが大物であればあるほどそれを捕まえる立場のデューイの名声は上がり、政界での出世につながるので、ルチアーノがいかに大物であるかを捕まえる前にこれでもかというほど新聞に書かせまくった。
イタリアに強制送還された後、国際的な麻薬コネクションの大物であるかのようなイメージが定着したのも、米国のFBN麻薬捜査局長ハリー・アンスリンガーらが巨大麻薬帝国を牛耳っている支配者こそルチアーノだという根も葉もない推測を新聞に垂れ流しまくっていたことが大きな原因と言われている。FBNの麻薬摘発への情熱は、FBIのようなスタントではなく本気で、潜入スパイまで使って麻薬密輸しているマフィアの動きに迫っていた。しかし麻薬の摘発は散発的で、捕まるマフィアも様々で、具体的な組織のつながりが想定しづらかった。そこでこれら散発的に表れるいたちごっこの摘発の裏に巨大な麻薬シンジケートの存在を仮定する。そしてそのシンジケートを支配している者はアメリカでもっとも有名なカリスマ指導者のルチアーノにとりあえずしておこうという、安直だが無難な仮説を立てた。アンスリンガーのような、現実のマフィアを比較的よく知っている事情通ですら、ルチアーノ神話から逃れられなかった(FBNは五大ファミリーの存在を1940年代半ばに既に把握していた)。実際は麻薬密輸はその表面に表れたとおり本当に散発的で、その時々のタイミングで密輸経験者が集まり機に乗じて麻薬を密輸をしていたというのが現実に近かったと言われている。
イタリアでは警察の厳しい監視下に置かれ、ギャングとはろくに会うこともできず、麻薬どころかお得意の泥棒ですら、たとえやる気があったとしてもできなかっただろう。合法のビジネスに何度も手を出したが、才能がないためかすべて失敗した。コステロやツヴィルマンらアメリカからの資金援助で食いつないでいたが、コステロが一線を退いた1950年代後半から送金が減り始め、ツヴィルマンが死んでその利権がそっくりヴィト・ジェノヴェーゼのものになるに至ってアメリカからの送金は完全に途絶えたとみられ、晩年は貧窮にあえいでいた。ツヴィルマンの死ぬ2か月前にキューバ革命が起こり、大金を注ぎ込んだランスキーのホテル資産は没収された。1600万ドルともいわれる巨大資金が一瞬で無くなった。ランスキーはルチアーノへの資金援助どころか自分の生活すら危うくなった。ルチアーノの葬式にマフィア関係者は1人もいなかったといわれる。完全に過去の人だったが、死んで伝説のベールが剥がれるどころか輪をかけて分厚いベールがさらに重なって、神話キャラ同然の存在になってしまった。
- バグジー・シーゲルとレプケ・バカルター
マーダー・インクの裁判がまだ本格化する前に、関連殺人でシーゲルがロスで先行裁判を受けたとき、証人のエイブ・レルズを見て「こいつはみたこともない、知らない男」だと答えたが、レプケは旧知の仲であることを即答した。「若いころから知ってる」。身の危険がないことを承知で、正直に言ったのかもしれない。2人の若い頃のテリトリーは重なる。しかし、禁酒法時代が始まる1920年シーゲルはまだ14歳でレプケは23歳で収監を繰り返していた。正直シーゲルの少年期の活動は曖昧である。ランスキーと組んで車を盗んでは転売していたのは1920年代前半と考えられる。その前にリヤカー商人相手のカツアゲをやっていたレプケのチームにいたのかもしれない。ランスキーは子供のころブラウンズヴィルにいたので、同じエリアのレルズをたぶん知っていた。1933年11月、すでに裏社会の親玉と見られマークされていたレプケはフランコニア・ホテルでのギャング会議を警察に踏み込まれ、捕まった。会議にはシーゲルのほか後々裏切りを疑われて殺されるハリー・グリーンバーグもいた。
カリフォルニア・マフィア史速記ノート
[編集]1900年代初頭よりシチリアマフィア2グループがロス南部のサンペドロで輸入ビジネスの覇権争い。 パレルモ近郊Monrealルーツのマトランガ一家(ニューオリンズから移住)と、コルレオーネ近郊Piana degli Albanesiルーツのアルディッツォーネ一家。両者の抗争は1910年代半ばに再燃。両者のエスカレートする争いに業を煮やした東海岸の全米LCN(コーサ・ノストラ)が仲裁に割って入った。1919年、ニューオリンズからVito DiGiorgioを、PuebloからRosario DeSimoneをボス・副ボスとして派遣し、ロスに公式のファミリーを作った。DiGiorgioは一説にサルヴァトーレ・ダキーラと緊密で、その支持によりボスの地位を確保したとも。和平ミッションを引っ提げてロスに来た2人はロスの対立する諸勢力間の和平を推進した。DiGiorgioは、1921年同地で襲われて負傷し、1922年5月13日、NY州バッファローで行われたマフィア会議の帰りにシカゴに寄り、訪れたシチリア人街の理髪屋で再び襲われ、殺された。DiGiorgioの支配を快く思わないマフィア勢力があったとみられた。R.DeSimoneはDowneyをベースとして一家を指揮し、ロスに副ボスを置いた。ジョゼフ・アルディッツォーネがR.DeSimoneとジャック・ドラグナの支持を得てロスの副ボスとして台頭した。
時代が前後するが、1914年末にニューヨークからカリフォルニアに逃亡したドラグナは、サルヴァトーレ(サム)・ストリーヴァ(1863年生まれ)のブラックハンドグループに属し、1915年、カリフォルニアで成功したシチリア系牧場経営者に脅迫状(ブラックハンドレター)を送り付け、サムらと共に逮捕、1916年末にはカリフォルニアの刑務所にいた。釈放がいつか不明。このストリーヴァの周囲には同姓同名の2人のサルヴァトーレ・ストリーヴァがおり、互いに縁戚関係にあった。このうち1885年生まれのストリーヴァは1915年のブラックハンドでは捕まっていないが、やはりロスに住み、マフィアのつながりがあった。彼の姪っ子Angelina Oliveriはガエタノ・レイナに嫁いだ。彼のまたいとこがジュゼッペ・モレロの若い頃のコルレオーネ時代の犯罪仲間Paolino Strevaだという。
1929-1930、アルディッツォーネが影響力を広げ、旧マトランガ勢力にも攻勢を仕掛けた。 1931年2月、アルディッツォーネが路上で撃たれ、負傷しR.DeSimoneの家に逃げ込んだ。1931年10月、車を走行中、行方不明になった。以後R.DeSimoneがボス、ドラグナが副ボスとして君臨した。1946年DeSimone死亡後は副ボスのドラグナがボスになった。
NYCギャングコレクション3
[編集]- プロファチ一家のチャーリー・レモン
マフィア指導者の1人アル・ミネオは、1928年マッセリアに請われてダキーラ一家(ガンビーノ一家の源流)の後釜ボスになったが、ミネオが率いていた元々の組織がどこなのか、ミネオは1910年代初めにすでに派閥を率いていたことが証言されているがその派閥がどこなのか長年謎とされてきたが、後年プロファチ一家(現コロンボ一家)となる南ブルックリンのシチリア系ギャングだった説が有力視された。南ブルックリンは1900年代からシチリア系のマフィアサークルが形成され、1920年代のボスはサルヴァトーレ・ディベッラだったが、ミネオが外に抜けた穴埋めにディベッラがボスになったのではないかと言われた。ディベッラはほどなく引退し、1930年代の初頭にプロファチ/ペライノがボスになった(プロファチ一家、現コロンボ一家)。アル・ミネオが抜けた後もミネオ性のサルヴァトーレ・ミネオがプロファチ一家に残っていることも、アル・ミネオが現コロンボ一家の実は初期のリーダー、またはこのファミリーの創設者だった可能性も示唆する。アル・ミネオの史料は多くなく、謎の人物扱いである。1875年(or1880年)パレルモ生まれ、1911年アメリカ移住、本名Alfred Mineo、1922年イタリア旅行、1929年国籍取得、果物の貿易商人で特にレモンの輸入、弟が医師Corrado Mineo、サルヴァトーレ・クレメンテの1912年の証言(アル・ミネオは派閥のリーダー)、1930年暗殺時A.D.L. Holding Corporationの副社長、アメリカの秘密警察USSSの断片的情報くらいである。アル・ミネオが謎なら、プロファチ一家に名を残すサルヴァトーレ・ミネオも謎である。サルヴァトーレ・ミネオは1960年代後半に副ボスを務め、チャーリー・レモンというあだ名だった。1897年生まれという点からアルとは父子の関係ではないかとも思えるが、少なくとも父子の関係はマフィア史家から否定された。なお1971年にコロンボが銃撃され再起不能になった時に短期間ボスを務めたトーマス・ディベッラは、プロファチ前のボスだったサルヴァトーレ・ディベッラの実の息子である。 ここにアマチュアがネットに寄稿したプロフィールがあるので、魚拓代わりに貼っておく(原文:英語)。 サルヴァトーレ・ミネオ(1897年-1977年) パレルモ生まれ。あだ名はCharlie Lemons。コロンボ一家副ボス1967-71。1903年11月ニューヨークに移住。1910年代まで荷役労働者として働く。1932年までCarroll Gardensに住んだ。運転手として働いた。1938年国籍取得。1950年代までブルックリンの725号桟橋で働くが、1953年7月引退。1960年代までにプロファチ一家のメンバーになりハリー・フォンタナの部下。コロンボのボス時代に副ボスに抜擢された(1967年-1971年)。1970年代引退。1978年死亡。
面白い新聞記事がある。ブルックリンデイリーイーグルの1920年6月11日付の記事: Izzy The Fiddler Catches Bartender, Brooklyn Daily Eagle, 1920.6.11--Last night arrested Humbert Ferrandino, of 371 Columbia St. and Charles Mineo, of 18 Coles st., as they emerged from a perfumery shop at 487 Columbia St with suitcases containing 12 gallons of alcohol
・サルヴァトーレ・ミネオのニックネームにあるチャーリーは、チャールズの愛称で、Charles Mineoと自称していた可能性。、 ・「18 Coles st」は サルヴァトーレ・ミネオの住んだとされるCarrolGardenと同じ場所。 ・酒を盗んで店を出たところを逮捕。禁酒法時代は猫も杓子も酒に手を出した。チャーリーも酒の泥棒稼業をやっていたのかもしれない。 ・相棒のHumbert Ferrandinoだが、これと同姓同名の男がこの事件から30年後、同じ南ブルックリンエリアのベイリッジ地区で港湾労働者向けの高利貸しで逮捕されている。同一人物かも。
- 映画「バラキ」
映画バラキは大筋ではマーズの原作バラキペーパーズに準じているが、原作と異なる変更・脚色をかなり大胆に加えている。
・原作では、ヴァラキはマッセリア派のアジト情報を得て、同じアジトのマンションに部屋を借り、住み込んで見張りをする間、偶然マッセリアと同じエレベーターに乗り合わせた(バラキはマッセリアの写真を持っており、本人と分かった)。映画では、この時ルチアーノとジェノヴェーゼがマッセリア派の幹部として一緒に乗り合わせるという設定に変えているが、これは映画の創作である(原作では、2人はエレベーターどころかマッセリア暗殺以前の出来事には一切登場しない)。
・映画では、ヴァラキ仲間のギャップがジェノヴェーゼの妻と不倫したことにしてギャップが粛清されているが、原作では、ジェノヴェーゼはイタリア逃亡中の妻の世話・面倒を賭博パートナーのマイケル・フランゼーゼに託し、イタリア帰国後、妻が自堕落になったのはフランゼーゼの責任として、ヴァラキのレストランに誘い込んで粛清している。ギャップは、コーサ・ノストラ加入をヴァラキに勧めて以来ヴァラキの親友である点などは原作の通りだが、時代が下って麻薬の罪でイタリアに強制送還された後に当局と取引してアメリカに捜査協力員として舞い戻った原作のストーリーは一切破棄されている。ギャップの裏切りはアメリカに戻った時点でマフィアサイドに把握され、ギャップの粛清への協力をトニーベンダーに要請されたヴァラキは、ギャップの属するルッケーゼ一家が処理すべき案件だとして関わりを拒んだ。ヴァラキは、自分のレストランを訪ねてきたギャップに、盗聴器をつけていないかチェックした上で、身の危険が迫っているから逃げるよう警告した。ギャップは聞く耳を持たなかった。ギャップがルッケーゼ一家のガンマン3人に銃殺されたことを後で知ったヴァラキは親友の死を慨嘆した、というのが、原作の筋書きである。「マンハッタンでマランツァーノが殺された当日に、自分をブルックリンに遊びに誘い出したギャップは恐らくマランツァーノが殺られることを事前に知って自分を助けてくれたと今でも信じている」とはヴァラキの回想。
・ヴァラキと同じ暗殺チームにいたシカゴのバスターは原作通り、つまりヴァラキの供述に近い形で再現され、学生風の出で立ちでバイオリンケースにマシンガンを隠して歩き回るという設定である。この人物は、長らく実在の人物かヴァラキが創作した架空の人物か争われ、ミステリアスな伝説的ガンマン扱いだったが、近年の調査で、シカゴ近郊の田舎町よりNYの戦争に参じた実在の人物セバスチャーノ・ドミンゴであることがほぼ特定された。彼のプロファイルはかなり詳細まで明らかにされ、家族を巻き込んだ禁酒法時代の縄張り争いの中で10代の思春期を過ごし、ガンファイトの修羅場を自らの手で経験し、家族の復讐に燃えてNYまでやってきてカステラマレ派の戦いに参加した。ヴァラキの記憶力には舌を巻くが、細かな記憶違いはあるにしてもドミンゴの存在自体は、とにかく嘘を言っていなかった。ヴァラキの告白を信じるなら、モレロやアル・ミネオ、ジョー・カタニアなどマッセリア側の重要人物の暗殺は、ほとんど彼の功績であり、史家の中には、もしドミンゴがいなければ、カステラマレ派の勝利は無かったと評する者もいる。
・史実や原作では、レイナはヴァラキがマランツァーノと会う半年以上前に死んでいるが、映画では、マランツァーノがレイナにヴァラキの世話を命じ、その後レイナがマッセリアに暗殺されるというシナリオに変えている。レイナの部下だったガリアーノがレイナ暗殺をマッセリアの仕業とみて報復の意思を固め、ヴァラキなどを連れてマッセリアと対立するマランツァーノの一派に接近し、報復を開始したというのが史実である。映画ではシナリオを変えているので、当然その下りはカットされている。ヴァラキはガリアーノのボスがレイナであることを、レイナ暗殺後に初めて知った。映画が史実に忠実なのはレイナがボスの1人という点だけである。
・映画では、ジェノヴェーゼがアメリカを脱出する際、マフィアファミリーの面倒をアナスタシアに託しているが、原作ではそのような下りはなく映画の創作である(史実ではジェノヴェーゼとアナスタシアは別のファミリー所属であり、ジェノヴェーゼが出国した当時のアナスタシアはマンガーノ一家の副ボスだった)。