コンテンツにスキップ

利用者:嘉平金之助/sandbox

自分史(269)

[編集]

私の生き方、考え方&意見(322)

[編集]

発想$感想(2137)

[編集]

北海道&建機(16)

[編集]

カワサキワールド(281)

[編集]

202105024 カワサキ・ノスリス

[編集]

2021-05-24 06:16:05 | カワサキワールド

★久しぶりのカワサキ二輪の話だが、  それが二輪車ではなくて三輪車で、電動車なのである。

 昨年の9月にはTwitterに『noslisu(ノスリス)公式アカウント』が登場している。

 ノスリス公式ツイッターはこちらです。  https://twitter.com/noslisu

   今年の1月には、キヨさんと吉田純ちゃんが登場したりしているのだが、


 ごく最近、二輪車新聞にこんな記事が出たので、  オモシロそうなので、私なりにちょっと調べてみたのである。


★ このプロジェクトは川崎重工の「ビジネスアイディアチャレンジ」の約100件のアイディアの中から第1号案件として選ばれたという。 これは社内に眠っている事業アイデアの発掘・活用を目的としたものである。

この5月12日に アシストタイプが27万円、 フル電動タイプが32万円で発表され


 5月12日からのテスト販売開始を  Makuakeのクラウドファンデイングサイトを使ったことに大拍手である。  


 それが即日完売の大成功 なのである。


 商品もカワサキらしくなくてユニークだが、  その販売方法が『クラウドファンデイング』とはこれもカワサキらしくない。  商品に盛り込まれたコンセプトも新しいが、  何よりも販売方法がユニークなのがいい。  新しいカワサキのイメージ創造に繋がると思う。

   カワサキらしくないユニークな製品で  カワサキらしくないMakuakeのクラウドファンデイングでの試験販売  だったのがいい。   ★これも二輪車新聞の記事からだが、   今回の販売はコレで終わりで一般販売は来年度のようだが、

 是非、本番の販売方法も『従来の販売方法』に捉われない  ユニークで新しい形のものであって欲しい。

 この秋にはカワサキの二輪事業も独立会社で新しくスタートするのだが、  このプロジェクトは是非『新しいカワサキの目玉』になって欲しいと思っているが、  果たしてどんな展開になるのだろうか?

20210529 5月・泉州水茄子・株忍者の伊藤彰さん

[編集]

2021-05-29 06:39:39 | カワサキワールド

★ 毎年5月の今頃、泉州の水茄子が送られてくる。

  もうずっとずっと前、私が現役の大阪時代にお付き合いのあった

  株忍者の伊藤彰さんからである。

  昭和46年当時、まだ西暦など世の中では使わなかった1971年の頃だから

  もう50年も昔のお付き合いなのである。

  カワサキが業界に先駆けて二輪の専門販売店網を敷こうと

  『カワサキ共栄会』なる組織を作った当時の中心メンバーなのである。

  ただ、その時代だけのお付き合いだったのだが、

  50年経った今も、何のお役にも立っていないのに、

  毎年ご丁寧にいろいろと気を遣って頂けるのである。

  『想い出を共有する人』を『仲間』という。

  伊藤さんとも当時の『共有する想い出』だけはいっぱいなのである。

  そういう意味では『仲間』の中でも最右翼の仲間かも知れない。

   こんな懐かしい写真があるが、

  右の最初のお店も、左の当時新しくしたお店も 

  その当時は、私も密接に関係はあった。

  店名も株・忍者ではなく、『伊藤モータース』だったのである。

  看板がテントだったのは、当時でも伊藤さんのお店だけである。

  ご覧のような昔のお店で『看板』が掛けられなかったのだが、

  カワサキはテント屋とは関係なかったので、

  このテント屋さんは伊藤さんがご自身で見つけてきた

  これは伊藤さんがそのように記述しているのである。


 今のお店も場所は同じだが、こんなに立派に様変わりなのである。


 このお店は写真だけで、私は行ったこともないのだが、

 50年経つと本当に立派になるものである。

 現役時代、国内の二輪の販売網関係を担当したお蔭で、

 全国に『想い出を共有する仲間の販売店』が数多くあるのが

 私の財産なのかも知れない。

★ ところで泉州の水茄子、ご存知ですか?

  これは昨年の写真ですが、


 これが昨日送られてきたものです。


 『食通が求める究極の一品』とあるが、

 このように丹精込めてつくられたものなのである。


 現役時代は、実は知らなかったのだが、

 退職後、伊藤さんに贈って頂くようになってから『知った味』なのである。

 伊藤さん、ありがとうございました。

 彼ももう幾つになられたのだろう?

 株・忍者のホームページの冒頭の写真だが、


 多分、伊藤彰さん、ご本人に違いないのである。

 今でもバイクに乗って、全国をかけ巡ってるようである。

20210612 カワサキワールド 15周年

[編集]

2021-06-12 06:28:53 | カワサキワールド

★カワサキワールドが15周年だそうである。  社内報『カワサキ』の表紙を飾っている。

 この『社内報』はカワサキワールドから我が家に送られてきた。


 カワサキワールドは2006年5月のスタートだが、   この構想を起案し実現したのは当時の川重社長田崎雅元さん個人なのである。  田崎さんの話によるとひょんなことからこの話は実現に至ったらしい。    そんなカワサキワールドが毎年行っている『ミニSLフェスタ』はもう何年になるのだろう?

 川重会長だった田崎さんに『ミニSLフェスタ構想』を持ち込んだのは、実は私なのである。

 元々は鉄道マニアでもある福井昇くんのアイデイァなのだが、  田崎さんは即動いてくれて、翌日に二人で神戸市にこの構想を持ち込んで、 メリケンパークの借用が実現したのである。


 そんなこともあって、このイベントのスタートの頃は、  毎年参加していたし、田崎さんと一緒にミニSLに乗ったりしている。


 そのほかにも KAWASAKI Z1 FAN CLUB のメンバーが春には  カワサキワールドで集まる催しをやっていて  これは2019年の春だが、田崎さんも山本隆も平井稔男さんほか  結構、二輪業界の有名人たちが顔を揃えているのである。


 これはその日にカワサキワールドを語っている田崎さんだが、


 その日のことこんなブログにアップしている。

https://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/preview20?eid=1cd3db24a8fa9604ede5c0e9c9d90a4d

『カワサキの二輪事業と私  田崎雅元さん』 http://www.thegoodtimes.jp/2016/08/2297/

川崎重工業社長時代に、彼でないとできなかったことがあるとすれば、 それは神戸の『カワサキワールドを創ったこと』だろう。

私自身も何故かいろいろとカワサキワールドにはご縁があって、 この1.2年はコロナで行っていないのだが、

来年はZ1 50周年に当たるので、 KAWASAKI Z1 FAN CLUB は出来れば『カワサキワールド』で記念行事を行いたいと言っているのだが、果たしてどうなることだろう?   大槻幸雄・稲村暁一・田崎雅元さんなど当時のカワサキ単車事業本部の仲間たちも是非参加して欲しいと思っている。

20210618 カワサキのOB会・慶睦会

[編集]

2021-06-18 06:57:55 | カワサキワールド

★『慶睦会』とはカワサキの二輪事業の国内のOB会である。  現在は関西と関東にそれぞれ存在している。

この『慶睦会』のスタートは多分1993年だと思うが、 OBであった前社長の田中誠さんに頼まれて、 当時国内販社を担当していた私自身が起案したものである。

カワサキの国内の二輪事業はカワサキオートバイ販売(現在のKMJ)が担当していたのだが、 そのメンバーたちは旧メイハツやメグロの人たちも多かったし、 カワサキオートバイ販売の定期採用者も川崎重工からの出向者もいて、 非常に複雑だったのである。

それで私が立案した『カワサキOB会』への入会の権利は、 『1日でも会社に在籍した人は権利あり』としたのである。 これは30年前の時代では非常にユニークだったと思う。

★『慶睦会』もご多分に漏れず、昨年と今年はコロナで中止だが、  先日送られてきた『慶睦会の名簿』の会員は関西で80名ほどいるのだが、 この会社で『定年退職』した人よりは、『途中退職』した人の方が多いのである。 私自身がこの会社は川重から2度出向して『延べ20年』ほど勤めているが、 定年退職した時は川崎重工に戻っていたのである。

ただ、このコンセプトについては『現役諸君がどの程度理解して運営しているのか?』 ちょっと疑問なのである。 というのはメンバーに『女子が1人』だけしかいないのである。 その女子を登録しているのは私が国内を担当していた当時なのである。

このOB会に『女子会員』がもっと増えると、会はより楽しくなるのではと思うのである。

この写真は関西ではなく関東の『2017年の慶睦会』なのだが、 こちらの方は私が立案した『1日でも在籍したら権利あり』というコンセプトが守られていて、 2列目の真ん中にいる3人の女性たちは『旧メイハツ』に在籍していたそうで、 私の右の方もメイハツ当時の在籍で90歳を超えておられて、 どちらも初対面だったのである。


★スタート当時は、『各地に幾つあってもいい』ということで 博多にも仙台にもあったのだが、今は東京と明石だけになってしまった。

ネットで『慶睦会・雑感日記』と画像検索するとこんな写真がずらりと並ぶ。 懐かしい人いっぱいだし、 Facebookで毎日お会いしている吉田純ちゃんも関初太郎さんも載っている。 みんな定年退職者ではなくて『途中退社』なのである。


★ 普通一般に企業のOB / OG会は、定年退職者の親睦会として大手企業を中心に運営されているのが普通だが、 昨今では定年退職者だけでなく中途退職者も対象とするOB / OG会が増加しているようである。

慶睦会は30年前のスタート時点で既に『中途退職者も対象』にしていたので、 そういう意味では『先見の明』があったと言えるのかも知れない。

現役の諸君で若しこのブログをお読みになったら、 『慶睦会』は『1日でも在籍したら権利あり』という当初のコンセプトを思い起こして、 女子社員がいっぱい出席する楽しい会にして欲しいと思うのである。

20210628 福井昇くん と さくらんぼ

[編集]

2021-06-28 06:42:20 | カワサキワールド

★ 福井昇くんがやってきて、  こんな立派な本場山形の『さくらんぼ』を頂いた。


    

 

 こんなに立派な、綺麗な『さくらんぼ』である。    


  福井くん 『ありがとうございました』   『さくらんぼ』など昨今滅多に口にすることはない。


   ★ところで、1985年当時の話だからもう40年も前の話だが、  Jet Ski はカワサキの単車事業部の商品ではなくて、  発動機事業部がエンジンを開発・生産し、  アメリカのリンカーン工場で生産し、KMCが販売をしていたのである。

 それを何とか単車事業本部の正規商品にしようと当時の単車事業部の企画室にいた私と武本一郎さんとで動きかけたのだが、  当時の単車事業本部にはジェットスキーに乗れる人も、乗ったことがある人もいなかったのである。  そんな時代に国内で、ジェットスキーのレースに出場していたのが発動機事業本部にいた福井昇くんなのである。  その福井昇くんを発動機から単車に貰い受けて、欧州市場などの開拓をスタートしたそんなご縁なのである。

 さらに国内市場でのJS専門販売店を創るべく、  福井昇くんが川重を退社して『JS Plaza 明石』を設立し、  カワサキJS専門店第1号となってくれたのである。    現役時代は販売網に関してはいろいろと密接に絡み、私の専門分野でもあったのだが、  JS販売網については、国内でも欧州でも最初のスタートだったので、特に当時の想い出は懐かしいものがある。


★ その後福井くんとは、ソウルのオリンピック開会式当日のソウルの漢江でのデモンストレーションの時も一緒だったし、


      


 

退職後立ち上げたNPO 法人The Good Times でも理事で参画してくれたのである。

  



めちゃ多趣味で、ミニSLなども自宅に線路が敷いてあったりする。 これは福井くんと一緒にカワサキワールドに提言して実現した カワサキワールド主催の『ミニ鉄道フェスタ in 神戸メリケンパーク』での福井昇くんなのである。


            


★ ところで我が家にも『さくらんぼの樹』はあるのだが、   実が付かないのである。


   


  閑に任せて『福井昇くんのFacebook』を眺めていたら、   こんな立派な『さくらんぼの樹』をお持ちなのである。  我が家の『さくらんぼ』と違って実がいっぱいである。  


           調べてみたら『さくらんぼ』は『1本では実が付かない』というので、  早速、園芸店でもう1本買ってきて鉢植えにした。     来年の春の話だが、一応は樹が2本になったので、  我が家の『さくらんぼ』も来年は実が見られるかも知れないのである。 


    


 これも、福井昇くんから『さくらんぼ』を頂いて、  そのお宅の『さくらんぼの写真』を見て  そんな気になったのである。

 そういう意味でも『本当に福井昇くんありがとうございました。』


=== ==KAZE の 仮説と仕組み   雑感== ===  2021-06-30 07:14:12 | カワサキワールド

★ KAZEの機関誌・276号が送られてきた。  私はいまも 現役のKAZE会員 なのである。   Kawasaki Amusing Zone for Everybody その頭文字をとってKAZEという。

当時の各社のユーザークラブはHART も YESS もそうだったし カワサキの正規特約店をARK (Authorized & Reliable shop of Kawasaki) と言ったりしていた。 そんな言い方が流行った時代だったのだろう。


 KAZE もARK も私が国内担当時代のスタートだが、  それは1988年のことだから33年も前のことなのである。 


      


今月送られてきたKAZEの機関誌は、 若い頃・仙台で東北6県を担当してた頃の『三陸の海岸』や『蔵王の山々』などの想い出いっぱいの記事が載ってたので、 何となく現役時代を思い出したのである。




 特に蔵王は山形県側でモトクロスがあって、  山本・歳森・岡部・梅津・星野たちと この蔵王の道を走ったので、  本当に懐かしいのである。



★33年経つとKAZEの機関誌も立派になるものである。  今は全てのページがカラーになった。

 1988年の一番最初は、こんな立派な機関誌ではなくて、  寄せ集めのバラバラの記事を封筒に入れて当時の特約店ARKに送ったのが最初なのである。

 当時はHART やYESSなど各社にユーザークラブもあったのだが、  いま残っているのはKAZEだけなのである。    なぜ、KAZEだけが残ったのか?

 『年会費3000円を頂く会員カードは、JCBカードとの提携にしよう』という私自身の発案が寄与しているのは間違いない。

 なぜ、そんなことを考えたのか? 『常に仮説と仕組み』で物事を考える私の発想によるものだが、

それはどんな仮説だったのか?

 

 当時、ホンダさんのHARTは、公称10万人の会員と言われていたのだが、『そんなにいるはずはない』と私は思っていた。

 年会費を取る限り、1年後には必ず期限が来る。 10万人も会員がいたら1ヶ月に1万人近い会員の期限が来るのだから、 その月に1万人を集めない限り10万人は維持できないはずである。 そんなことは如何にホンダさんと言えども無理だ と思ったのである。

 後でお聞きしたらHARTの会員の『延べ人数』だったのである。

 KAZEの会員カードをJCBカードにしたら 『止め難いはずだ』という仮説でJCBと提携をしたので、  カッコよさもあったが、実質的な会員確保対策だったのである。


その後の実績は、期限が来ても止める人は10%で、90%は自動更新だったから、実質的に最高55000人まで増え続けたのである。


       


★ 私の物事に対する取り組みは常に『仮説』からスタートして  『仕組みで仕上げる』ようにしている。    33年前のユーザークラブKAZEの発想もそんな仮説と仕組みで成り立っている。  今は何人の会員さんがいるのだろう?  その機関誌も立派にはなったが、基本的な仕組みは33年前と一緒で、 『新しい機能』が入っていないのは残念である。


 このスピードあふれる『ネットの時代』に  現在の二輪の販売網も、販売方法も、KAZEの機能にも、  もう少し『ネットの力』を利用することが出来ないのだろうか?

 KAZEの会員さんは『for Everybody』で『for Kawasaki』でもないし、  別に二輪車を持っていなくてもいいのである。  だから『88歳の私』でも現役会員になれているのである。

 『ネットの力』を利用したら、  よりオモシロい二輪業界になるのにといつも思っているのである。

カワサキ単車の昔話(247)

[編集]

001 20061014 二輪車と私

[編集]

2006-10-14 08:26:42 | カワサキ単車の昔話 現役のときの仕事は二輪車関係だった。

一般のサラリーマンでは、到底経験できない最高の面白い体験を数多く持っている。

二輪車ということで、若い人たちとの出会いが多く、若々しく人生を過ごせたと思っている。 レース、ツーリング、ジャンボリー、など二輪車関連はその販売と同時に、それを使っての遊びの分野が面白い。 遊びを中心としたソフト会社の経営も面白かった。

中でも、若い頃から担当したレース関連は、幾つもの想い出を残してくれた。

あの有名な星野一義君が未だ16歳のころ、彼がはじめてファクトリーチームの一員として所属したのは、わがチームであった。 世界の二輪レースでトップライダーとして活躍した,金谷秀夫君も鈴鹿で初デビューをカワサキで飾った。

タレントもレースに関心のあったひとは多く,岩城洸一や島田しんすけなど有名人とも交流した。

サーキットを造り、はじめて一般の人たちに市販車でのサーキット走行を開放したりもした。 二輪に関連するユーザークラブをつくり、5万人近くの会員を集め、年中いろんなイベントをユーザーとともに楽しんだ。

当時各メーカーが競って、注力したこれらユーザークラブも、今残っているのは、われわれのKAZEだけである。

こんな楽しい想い出と体験が、引退した後の今の生活の中でも生きている。 面白く楽しい想い出もいっぱいある。

今後、そんなひとつひとつの想い出を、ブログの中でご紹介できるのを楽しみにしている。

002 20061021 カワサキの二輪事業

[編集]

2006-10-21 10:24:28 | カワサキ単車の昔話

1960年(昭和35年)ごろ、日本には100社を越す二輪メーカーが乱立していた。

三菱重工業、富士重工業、トーハツ、ブリジストンなど大企業もその中に名を連ねていた。

大企業を含む100を越す企業が、浜松出身のホンダ、スズキ、ヤマハとの競争について行けずに事業から撤退し、最後まで残ったのはカワサキだけで、今の四社体制になったのである。

何故、カワサキ一社だけが浜松勢とともに、生き残れたのか。 その理由はいろいろあると思うが、私なりに次の二つが大きかったと思う。

一つは、運が良かった。天が味方してくれたと思う。

1963年に出した、B-8が何となく売れ出して、ひょっとしたら脈があるかもと、日本能率協会に調査を依頼し、事業再建の見込み調査を始めた。

この年、兵庫県の青野ヶ原でモトクロスレースがあり、B-8の改造モトクロサーで出場した。 このレースで、優勝はもとより上位を独占したのである。

この結果で、事業部内は大いに盛り上がった。 能率協会の報告書の中でも、事業部内のやる気に触れ,再建を提言する大きな要素になったのである。

このレースで、なぜ初出場のカワサキが圧勝出来たのか。 マシンもライダーも、そんなに大したものではなかった筈である。

後になって、山本隆君(元日本モトクロスチャンピオン)に聞いた話だが、彼も当日ヤマハで出場していたが、当日は大雨のあとの水溜りばかりで、所謂高性能のレーサーは、水をかぶってみんな止まってしまったという。 カワサキは市販車に近かったから雨のなかも止まらずに完走したというのである。

まさしく、天が味方をしてくれたのである。


もう一つは、第一線の販売を川崎航空機の人がやらなかったことだと思っている。

若し川崎航空機の人がやっていたら、間違いなくギブアップしていたと思う。 第一線の雰囲気や発想は、そのスピードと共に、とてもメーカーの人たちには考えられない種類のものだった。

当時、国内の販売は、明発やメグロからきた人たちが担当してくれていた。 海外では、責任者はともかく、第一線はアメリカ人や現地の人たちであった。

社内の進級試験の論文にそんなことを書いたら、えらく怒られたが、今でもそれは正しかったと思っている。

第一線を自ら担当した他の大メーカーは次々に競争から脱落した。

逆に、ホンダ、スズキ、ヤマハの浜松勢はそれほど競争意識が強かったとも言える。 競争は激しかったが、面白かった。

そんな競争を経験できたことを誇りに思っているし、自信にもなっている。

003 20061112 小野田滋郎さんのこと

[編集]

2006-11-12 11:23:34 | カワサキ単車の昔話

小野田滋郎さん。 カワサキのレースの創生期にライダー関係で三橋実を引っ張り、カワサキコンバットを事実上作った人だと、私は思っている。

あのフィリッピンから帰国した小野田寛郎中尉の弟さんである。

ブログを書く資料として日記をめくっていたら、1972年10月22日の日記にこんなことを書いている。

(私が39歳、もうレースを離れ、東北での始めての営業経験をして後、大阪にいて、近畿、中部、と東京都という大市場を担当していた。 張り切ってはいたが、背伸びもしていた時代のことである。)

原文のまま、ご紹介する。


「フィリッピンのルパング島で、生き残りの日本兵が島民と銃撃戦、一人が死亡した。一人はジャングルに逃亡。その生き延びた一人は小野田寛郎、和歌山出身、その母の書いた文章をみて、ひょっとしたら小野田滋郎さんのーーと思った。テレビを見ていると小野田さんが出てきた。」


とここまで書いて、あと補遺とある。

小野田さんは、もうその時はカワサキには居なかった。 補遺も少し長いが、原文のままご紹介する。


「小野田滋郎。この人が自分に与えた影響は大きい。

思想的にも、今仕事をしている実務的なやり方も、それに対する態度も。小野田さんは自分がサラリーマン社会に入って以来、この人にはとてもかなわぬと思った数少ない人の一人である。

陸士出身、文学を愛し、酒を好み、人間味あふれる人柄、わるく言う人もいるが、自分は小野田滋郎の物事に向かうときの純朴さと一徹さを見習いたい。

小野田さんの兄さんなら、最も親しかったという兄さんなら、一徹にただ一筋にこの27年,銃を磨き,弾の手入れをし、最後の一人になっても戦う気持ちを失わなかったであろう、と思う。

陸軍中野学校出身のこの秀才の生き方は、その思想の善悪はともかくとして、一筋にひたむきなところに共感を覚える。

箸袋 寛郎と今も 還らぬ子 

小野田さんのおふくろさんが、正月に詠んだという句。このお母さんの話も、小野田さんの話によく出てきた。

その滋郎さんも10月24日、現地に調査と呼びかけに出発した。 新聞に笑う小野田さんの笑顔、人をひきつけずにおかぬ笑顔である。

人生には、いろいろ影響を受ける時期もあり、また人もいる。 自分の39年の人生を振り返ってみて、野球部の先輩の山本治さん、小野田滋郎さん、岩手の久保社長、宮川部長などは、現在の自分の生き方を支えている。

小野田滋郎さんが、あの温かみのある笑顔を更にくしゃくしゃにして、兄とともにタラップを降りて、日本の地を踏まれることを祈るものである。(10月24日夜)」


本当に、小野田さんには影響を受けた、戦略論の基本も教わった。 今も、お元気である。 毎年頂く年賀状の文章は、逆立ちしても真似の出来ない素晴らしいもので、いつも楽しみにしている。

いつまで経っても、そんな文学青年みたいな小野田さんが、また魅力である。

004 20061114 カワサキワールドでであった仲間

[編集]

2006-11-14 16:34:47 | カワサキ単車の昔話 今朝、神戸のメリケンパークに今年の5月にオープンした「カワサキワールド」を訪ねた。

カワサキワールドは、Kawasaki Good Times World として、神戸市の関連団体が既に開設していた海洋博物館の中に併設された。

神戸港とともに歩んできた川崎重工業の創業以来の歴史から、製品紹介まで、見て、聞いて、体験する、大人から子供までが楽しめる企業博物館である。

約600坪の展示場には、新幹線やヘリコプター、モーターサイクルの実物が展示されていて、開館以来、関西のマスコミにもしきりに採り上げられた、神戸の新しい人気スポットである。

10月4日には10万人目の入場者を記録した。 海洋博物館との相乗効果だと思う。このような「神戸」をKEYにしたヨコの連携や広がりは、今後の方向を示しているのだろう。

実は、私は今日がはじめての訪問である。 現役の一時期、広報を担当した、関心もある、一番先に行くのが当然なのに、何となく行く機会を失っていた。

つい先日、田崎さん(現川重会長)と電話で話した時も、是非一度と言われていたので、今朝出かけた次第である。


ほんのちょっとしか見れなかったが、想像した以上に立派な展示であったような気がする。?


入り口で、案内のお嬢さんから、「緑のジャンパーを着ている方は、ボランテアで説明員をしている川重OBの人です。」という説明を受けて中に入った。

入った途端に、お客さんに説明している途中の田中さんに会った。「今、オートバイのところに吉田義正君がいます。」 お客で来ているのだと思って、急いで行ってみると、彼もまた説明員の緑色のジャンパーを着ていた。

彼は私がレース担当時代のモトクロスチームのメカニックである。久しぶりだった。

彼は直ぐ私を、カワサキが始めてモトクロスに出場し、優勝はもとより上位を独占した青野ヶ原のレースの記念写真が、大きく飾られているところに案内してくれた。

このブログでも何度か触れたが、青野ヶ原のレースがカワサキの二輪事業への再スタートを切らしたきっかけと言っていい。

その写真には、懐かしい顔がいっぱいあった。

私は青野ヶ原には直接関係していないが、当時の上司の営業部長小野助治さんに言われて、こっそりほんの少しではあったが、このチームに資金提供だけはした。

写真には、中村治道、高橋鉄郎,川合寿一さんをはじめ、メカニックに多賀井、藤井、藤森君。ライダーは秋原、加藤、飯原、えびす谷の4人。B-8のモトクロスレーサーとともに写っていた。

実は、青野ヶ原を走ったライダーが誰だったのか知らなかった。 この写真の中の、人たちはえびす谷くん以外は、本当によく知っている仲間である。その後もいろんなところで関係があった。

私にとって、この写真が見れただけでも訪れた価値は充分あった。


案内をしてくれた吉田君とは、昔話がはずんだ。 事務所でコーヒーでもと中に入った。

「責任者の三浪を紹介します。」出てきた三浪さんを一目みて私は「三浪正さんの息子さん?」 私がお世話になった、おやじさんに生き写しである。 まだ小学生の頃、お宅で何度も見ている。

「田中さんも呼びましょうか。」 田中さんは川重の労組中央執行委員長を務めた人である。 単車工場の労組の出身でもあり、私や田崎さんが、労組の明石工場常任幹事であった時代からのお付き合いで、よく知っている仲である。


思いもかけず,旧い話の通じる仲間に会ったお陰で、昼過ぎまで尽きぬ昔話に熱中した。

お陰で、展示物のほうは、青野ヶ原の写真以外は見なかった。 展示の感想など言えるレベルでないので、もう一度機会を見つけて訪ねてみたい。

ボランテアのOBは、今45名いて田中さんが纏めているそうである。 月に2~3回のことのようだが、こんなに私がよく知っている人2名の担当の日に当たったのも、何かの縁である。


吉田君からは帰りに「また、レースのOB会やりましょう。」と言われて別れた。

005 20061116 昔話のコンセプト 昔話ー1

[編集]

2006-11-16 09:47:28 | カワサキ単車の昔話 つい2~3日前,カワサキワールドを訪ねたら、田中さんや吉田君など懐かしい昔話に熱中して、肝心の展示も観ずに帰ってしまったことは、ブログにも書いた。

昔話は、その輪に入れる人たちにとっては、時間も忘れる楽しさがあるものだ。

ブログを始めて2ヶ月、約70通の発信となっているが、読者の中心はどうもモーターサイクルに関心のある方が多く、カワサキと関係のあった人もいらっしゃるようなので、気楽な昔話でも始められたらいいなと思った。

おそるおそる始めたブログだが、ようやくどのようなものか、解りかけてきた。

トラックバックやコメントも実際に、どんなものか実感できた。 双方向の情報発信であるから、やろうと思えば昔の仲間を中心に、昔話を展開することも出来るのである。

今まで約70通のブログを書いたが、テーマを決めて一つ一つを書いているので、どうしてもまとも過ぎる文章にもなるし、書いている本人も気楽さがない。 私の本性とは若干ズレテいる。

今までのようなブログとともに「カワサキ昔話」というカテゴリーを新設し、「カワサキ単車の昔話」と銘打って、NOを付しスタートすることにする。


「カワサキ単車の昔話」のおおまかなコンセプトを次のようなものにした。

1.面白かった、苦しかった、喜んだなど、とにかく、雑談に類する気楽なものとする。 2.時系列に並べることにはこだわらないが、出来るかぎり年月日が解れば、明示する。 3.読者の対象はカワサキに関係のあった人たちと意識して記述する。 4.従って、登場人物も読んだ人は当然分かる昔話なので、詳しい紹介は敢えてしない。 5.カワサキに関係のあった人、ブログなどへのコメント参加など、大歓迎とする。 6.一般の人も、少しは興味が湧くような配慮も当然する。


それでは、スタートする。

何故、「単車の」としたか。 一番事業が苦しかった時代、懐かしい時代の事業部の呼び名は「単車事業部」だった。 その後、ジェットスキーやATVが入って単車が合わなくなり、コンシューマー、プロダクトの「C,P事業本部」とか、エンジンも入って「汎用機事業本部」などと変遷を重ねているが、一番想い出のある昔話に似合うのは「単車」という言葉だと思うのである。

私の記憶が正しければ、1960年ごろ「単車準備室」なるものが造られ、単車事業への本格参入が検討されはじめたと思う。三浪さんなどがおられた。

私が単車に関係したのは、1962年1月,営業部の単車係である。 この頃から、単車に関係した人は、意外に少ないはずである。まだイセキのモペットもあり、所謂単車はカワサキ自販の元メイハツやメグロの人が営業全般をやってくれていた。輸出など多分なかったから、国内が全事業であった。

その当時、「単車」という名称が使われていた。

「単車」とはオートバイ、二輪車のことだが、何故単車と言ったのか、そもそも「単車」とはなぜ「二輪車」を単車と呼ぶのか。 長い間、私の疑問であったが、あるとき「それはな。側車に対して単車、側車免許に対するものだ。」 私の中学の先輩で、山田さんとも同期の岡田さんに、教えて頂いたが、本当にそうなのか確かめたことはない。

岡田さんは、技術屋さんには、めちゃめちゃ厳しかった。特に説明での言葉の使い方には、少しの間違いも許されない厳しさがあった。 反面、事務屋にはやさしかったような気がする。

そんな岡田さんの説明だったので、信じきって確かめる気にもならなかった。

そんな懐かしい昔話もあって、「カワサキ単車の昔話」とした。

006 20061117 新人営業マン 昔話ー2

[編集]

2006-11-17 09:48:38 | カワサキ単車の昔話 1962年1月営業の単車係に配属された。30才まだ、独身の頃である。

単車のスタート以来の総生産台数が1万台に達するかどうかという、まさに創生期のころである。

配属された営業で、単車を担当していたのは、次長小野助さん、壱岐係長、女子も入れて全部で5人しかいなかった。

「君、物品税を担当してくれ。」小野さんに最初に言われた。

物品税は今はもうないが、贅沢品に掛けられる税金である。 何のことか始めは解らなかったが、毎日、毎日物品税との格闘が始まった。

税金を払うのは簡単だが、戻してもらうのは大変なのである。 物品税の戻入手続きをするのが、私の仕事であった。

ニューエースという、名前はすごくいいB-7の前に出した車のフレームの欠陥で、毎日、毎日返品が続いていた。

1月16日にあった、単車連絡会議で議長の土崎専務が前月の生産台数がマイナスになっているのを見て、「君らは、1ヶ月かかって単車を壊したのか?」 本気か冗談か解らなかったが、生産台数より返却台数のほうが多かったのである。

そんな状況であったから、私の仕事も無茶苦茶忙しかった。生産サイドの秋原君と毎日、税務署の人の立会い検査に付き合った。


加えて、1月13日から国税局の物品税の監査があり、ここでも悪戦苦闘した。 管理が悪く台数が合わないのである。

更に、物品税は、売上時点の計上ではなく、工場を出荷した時点、工場に戻った時点での計上が正しいのだが、当時売上先のカワサキ自販の事務所が工場内にあったことも原因して、一部は売上時点での間違った計上になっており、ひどく怒られた。

着任2週間目の新人には説明のしようもなく、ウロがくる始末で、「知りませんでした。」と言ったら「君が知らなくても、会社が知らんと言うことは通らない.申告税だから罰則はきつい。体刑もある。」とおどかされた。


新人営業マンの営業とは程遠い1ヶ月目の経験であった。

007 20061118 実用車のカワサキ 昔話ー3

[編集]

2006-11-18 09:18:18 | カワサキ単車の昔話 「実用車のカワサキ」  カワサキにもそんな時代もあった。

1960年代の前半、まだアメリカ市場の開拓時代で、国内市場中心のころである。 当時の国内市場はカブ全盛期、モペット中心であった。 カワサキもモペットはあるにはあったが、もう一つぱっとしなかった。

125ccのB8,B1が主力で、製品(当時はまだ商品というよりは製品という感じが強かったが)の特徴は、抜群の登坂力など、山坂につよく耐久性があることなどが、セールスポイントの時代であった。市場の中心は山坂の多い九州や東北だった。

単車事業は何度も撤退の危機があったが、62年に発売したB8が予想以上に堅調で、更に63年には青野ヶ原のレースで運よく圧勝しムードも上がり、日本能率協会の大掛かりな調査も、幾つかの条件はあったが「再建可能」の結論を出したのである。

そして、64年1月、単車再建が全社的に決定され、それこそ再スタートが切られた。

日本能率協会の出した条件の中に、広告宣伝の専門部門設置の条件があり、本社は年1億円もの予算を開発費としてセットしてくれた。 広告宣伝部門ができ、何の知識もないまま、その担当をすることになった。

初年度は確か、1億2千万の予算だったが、私の年収が50万円に届かない時代だったから、一生懸命使った積りだがウロウロしているうちに、7千万円ぐらいしか使いきれず、本社の長久さんに「君らは金をやってもよう使わん。」と怒られた。 レースの運営費、ライダー契約費などもこの中から支出されていた。

翌年は予算1億円に減らされたが、まだまだ使いではあった。

65年のはじめ、新聞の全頁広告掲載を企画した。 東京、大阪などの大都会は出来るだけ避けて、地方に集中して広告する必要があった。実用車の主力の市場は地方であった。

朝日、毎日、読売などの全国紙はどうしても大都会中心である。これを避けて、地方紙に集中した。

世の中の広告は、全国紙の広告を中心に、幾らかを地方紙で補足するのが常識である。 全国の地方紙、殆ど全てに全頁広告を展開し、東京、大阪などは避けるという広告は例がなく、当時の広告業界で話題となった。

地方紙を全て使うのは、費用的にも全国紙を使うよりだいぶ高くつくのである。 高城丈二を使っての広告だったが、記憶が正しければ、600万円位掛かったと思う。

こんな実用車中心の時代は、アメリカ市場でA1やマッハが売れ出す、60年後半まで続いた。


「実用車のカワサキ」 の時代の 「ウソみたいな、本当の話」である。

008 20061121 ㈱忍者 伊藤彰さんのこと

[編集]

2006-11-21 11:03:09 | カワサキ単車の昔話 http://jns.ixla.jp/users/ninjajhp385/

大阪の所長をしていた頃、万博のあった年(1970年)、はじめて伊藤さんに出会った。

まだ伊藤モータースという名前で弟さんと二人、中古車を中心にした小さな店だった。

今は、堺の㈱忍者の社長、大成功である。 今までに店の名も何度も変えたし、経営形態も時代とともに変遷を重ねた。 時代をよむ変わり身の早さは、まさに忍者のようである。

口は悪く、河内弁というのであろう早口である。話す中味は鋭く本音以外のことは言わぬ。 私とは親しくして頂いたが、今まで話をした時間の半分は、伊藤さんの文句を聞く時間であった。然し、彼の話は、殆どが正論である。 流石に最近は私も仕事を離れたので、話の内容も至極おだやかだが、それでも時々昔のクセが出る。

普通一般の営業マンにとっては極めてヤッカイナ存在であるが、彼に認めて貰える営業マンは本物であると思う。 その伊藤さんが頭の上がらぬ営業マンも中にはいる。竹内優さんがその筆頭であろう。

先日夜遅く、突然酒場から電話があった。 「細谷君と飲んでるんです。」今のカワサキの担当者である。多分,気に入って貰っているのだと思う。 突然、電話をかけてくるところなどは、如何にも伊藤さんらしい。昔のままである。

伊藤さんの仲間は、先日も少し触れたが、船場モータースの岡田博さん、彼は仲間と言うより伊藤さんが尊敬する先輩である。 鈴鹿ツインサーキットの経営もやっている、ミスターバイクの斉藤さん、モトクロスで有名な吉村太一さん。もう故人になられたが吉永さん、野崎さん。 みんな夫々個性はあるが、誠意のある,真っ直ぐな人ばかりである。

カワサキの販売店は、伊藤さんに代表されるような「奇人、変人」が多い。 私はいいことだと思っている。

昨日「求む。奇人、変人」という高槻市の樋渡市長公室長の文章に触れたのは、「奇人、変人」を推奨する方に出会えて、その考え方を紹介しておくほうが、伊藤さんのことなども書きやすくなると思ったからである。

1971年、カワサキは特約店制度を実施しようとしていた。 大阪の600店もあった取引先の販売店を、担保、保証金などという厳しい条件ではあったが、主旨に賛同する販売店との共栄を目標に、20数店に絞るドラスチックな改革であった。

それが推進できたのは、船場モータースの岡田さんや、伊藤さんの力や協力があったからだと思う。 当時の人たちはみな仲間だと思っている。 須川さん、大本さん、吉永さんの息子さんなど、今も尚、変らぬお付き合いが続いている。

これからもずっと、仲間としての付き合いが続けばいい。

今の㈱忍者の店は、非常に立派なものだが、 「いつかもっともっと立派な店を持ちたい。」という夢を伊藤さんは持っているようだ。 気持ちはまだまだ若いのである。

若し、そんな時が来たら,「開店祝いのパーテイには必ず寄せて貰って、ご挨拶をさして頂ける」ことになっている。

そんな風になればいいなと思っている。

009 20061122 代理店 昔話ー4

[編集]

2006-11-22 12:56:33 | カワサキ単車の昔話 「実用車のカワサキ」であった時代、県毎に代理店があった。

カワサキでも「鹿児島の金谷さん」、「新潟の鍋谷さん」、などの呼び名で呼ばれ、「こわい、うるさい」代理店の代表として有名であった。

今この話をしても、通じる人は居なくなってしまったと思うが、このような自前の代理店との関係があった時代の経験は、私にとっては大きな財産である。

現在のように、メーカーの100%資本系列で販売チャンネルが形成されていると、それはそれで、メーカーの思いが直接反映できて合理的ではあるのだが、「上から下へ」の流ればかり、指示伝達が主になって、「下から上へ」の意見が通り難くなりがちである。

仮に「下からの意見」を述べるにしても、聞くにしても、「上が恐れおののくような」種類のものには決してならないのである。

そんな率直な意見なり、文句を聞けた時代を短期間ではあったが経験出来たことは非常によかったと思っている。

レースを担当して後、仙台で代理店制の東北を4年間担当した。 このような流れを汲む、東北6県の代理店の社長さんとのやりとりは、今となっては懐かしい思い出である。

福島の中西さん、宮城の門伝さん、岩手の久保さん、秋田の佐藤さんなど、教えて貰ったことは多い。

この人たちの意見は、痛烈であった。 こんな人たちに鍛えられたお陰で、次の大阪で、船場の岡田さんや、堺の伊藤さんといった「ウルサイが真っ直ぐな人たち」とも、問題なく対応できたのだと思っている。

社内の上司で「ウルサイこわい」と言われていた方たちも、自前の代理店の社長さんに比べたら、随分とやさしく紳士であったと、私には思えた。

その後、メーカーの系列化の度合いに比例して、同じ方の意見も徐々に本音は消えて、やさしくなっていった。本音の意見は聞けない時代になった。

そんな経験から、率直でストレートな意見が聞けない環境にある今、「上の立場にいる」人たちの判断は、ある意味むつかしいのかも知れない。

懐かしい、もう経験できない時代の話である。

010 20061124 船場モータース岡田博さんの思い出

[編集]

2006-11-24 06:45:41 | カワサキ単車の昔話 1970年ごろ、カワサキは、時代を先取りする販売網を模索していた。

カワサキが企図した特約店制度の推進でお世話になった販売店と言えば、躊躇なく「船場さん」と岡田博さんの名前を挙げるだろう。

みんな、その頃岡田さんではなく「船場さん」と呼んでいた。大阪の老舗船場モータースの社長岡田博さんのことである。

丁度、大型スポーツ車に移行しようとする時代で、カワサキではマッハやW1のブレーキ、チェンジが左右入れ替わったころである。

販売網も今までの小型実用車向けのものから、時代を先取りした大型スポーツ車の販売にマッチするものに、ドラスチックな転換を図ろうとしていた。

所謂、カワサキの特約店制度を目指していたのだが、それ以前の大阪のカワサキ共栄会を組織するころから、お世話になった。

当時の共栄会の会員は20数名であったが、若しこの会員で大阪の販売の60%を売って頂いたら、当時600店ぐらいとの取引であったが、この600店を共栄会の会員20数店に絞ると約束して、お互い頑張ったのである。

当時の、売れさえすればどこにでも売るという、メーカーの政策では、高度な技術サービスを必要とする大型車の販売に合わないし、店自体の力もつかない、ツーリングや遊びなど、実用車とは違った乗り方をするユーザーのニーズに対応出来ないと考えたのである。

事実、当時の販売網の殆どは自転車屋さんだった。 大型のスポーツ車を主力に販売しようという店は、そんなに多くはなかったのだが、600店を20数店に絞るのもまた勇気のいる決断ではあった。

社内の意思統一も大変だったが、何ヶ月も掛けてようやく近畿、中部地区の気持ちが一つになっていった。

販売店サイドも、このコンセプトに共感して集まってくれた人たちとの協力で、カワサキの特約店制度は、大阪、京都、名古屋で産声を上げたのである。

1973年1月30日、新阪急ホテルで大阪特約店の発会式があった。

近畿や中部地区は前後して、すべての地区で特約店制度に移行し、Z2の発売もあったりして、特約店自体も順調に推移したのだが、全国展開にはいろいろと苦労した。

船場さんには各地の特約店説明会に同行して頂き、特約店の立場からの説得スピーチをお願いしたが、これがカワサキの特約店制度の推進、実現の大きな要因になったと言っていい。

私には、カワサキが「船場さんと一緒に造った特約店制度」という想いが強い。

カワサキの販売網政策は、「特約店」から「ARK]そして現在の「正規取扱店」へ名前は変遷するが、

Kawasaki Let the Good Times Roll 

カワサキに出会う人たちすべてが(ユーザーも、販売店も、道行く人たちも )ハッピーにという、基本コンセプトだけは変わらず受け継がれて、現在に至っている。

特約店制度は、この基本コンセプト実現のために、当初は大きなリスクを覚悟して踏み切ったのだが、これに共感して協力して頂いた船場さんをはじめとする、販売店の仲間たちに感謝したい。

そして、当時の未だ若かったが、勇気をもって改革に立ち向かったカワサキの仲間たちにも感謝したい。

仲間は沢山いるのだが、「船場さん」の思い出は強烈に残っている。

011 20061127 赤タンクのカワサキ 昔話ー5

[編集]

2006-11-27 06:06:28 | カワサキ単車の昔話 「赤タンクのカワサキ」

カワサキのレースカラーは、「ライムグリーン」である。

「グリーンモンスター」とか「チームグリーン」とか、マシンやチームの名前にも使われ、既に一般に浸透しきっているカラーである。

レース場では「ライムグリーン」は特に映え、見た目にも美しいし目立つ色であると思う。

カワサキがモトクロス界にデビューした頃、そのタンクに塗られた色は赤だった。 誰言うとなく、「赤タンクのカワサキ」と呼ばれていた。

当時、レース以外では他メーカーに勝てるものは何一つなかったので、モトクロスレースは販売促進の手段として代理店の人たちに人気があった。 地方回りに特に力を入れていた関係もあって、地方での「赤タンク」の人気は相当なものだった。

F21Mがデビューした頃はまだ「赤タンク」であった。


「ライムグリーン」はその頃アメリカのロードレースに進出した際に新たに使われたカラーではないかと思う。

ぼんやりとした記憶だが、当時ホンダはモトクロスには出場していなかったが、ロードレースのマシンのタンクのカラーは赤ではなかったかと思う。

そんなことで、アメリカで「ライムグリーン」を使い、いい色だったので、すべてのレースマシンに使われ、カワサキのレースカラーになったのではないかと、推測している。

カワサキがレースを始めた青野ヶ原のモトクロスのころから関係されていた、中村治道さんか川崎芳夫さんならその経緯もご存知ではないかと思うが。

どなたか、経緯をよくご存知の方が居られたら教えて欲しい。

ずっとそんなことを思っていたが、確かめぬまま現在に至っている。

012 20061128 高橋鉄郎さん 昔話ー6

[編集]

2006-11-28 06:59:00 | カワサキ単車の昔話 「カワサキ単車の昔話」に登場させたい方は、沢山いるのだが、それに一番似合う人は、やはり高橋鉄郎さんだろう。

私の個人の日記帳にも他を圧倒して登場する数が多い。 それだけ一緒に仕事をした機会も多く、お世話になった期間も長い、単車の大先輩である。

私に限らず、高橋さんと関係のあった人は多いのである。 それは高橋さんが歩かれた部門が多岐にわたっているからだと思う。

単車には、航空機のJET部門から単車再建の時期に移ってきた人が多いのだが、高橋さんもそうだった。

まず製造部門,そして販社出向、技術開発部門、CKD市場開発、営業部門、海外販社出向、企画部門とメーカーの殆ど全部門を歩かれた。 このような経験をされた方は珍しい。皆無と言ってもいい。

その人柄から、特に下の人たち、(一番末端の人たちにも)優しかったし気軽に話しをされたので、高橋さんにまつわる昔話も多いのである。 末端の人、ユーザーやライダー、販売店の人たちと話をする機会も多かったし、何よりもそれを好まれた。


本来、技術屋さんで、営業に出向されるまでは、ご自分でも認めておられるが大の「営業不信」で通っていた。

私のような営業屋は大いに困惑していたのである。 それがほんの2~3年の販売会社出向ではあったが、高橋さんの営業への態度は、180度変わって、「マーケット指向」が高橋さんの信条になったのである。

市場開発室長や販社社長を兼務されマーケット、コンシューマーへの目線は更に「ホンモノ」になっていかれたと言っていい。

このことは単に高橋さんが変わったというだけに止まらず、特に単車の技術屋さんに与えた影響は大きかった。 どちらかと言えば、所謂メーカー体質であったカワサキの単車事業が「マーケット指向」への転換をするきっかけになり、月日を経ると共に、常にマーケットを意識する体質になって行ったと思う。

高橋さんの個別の昔話は、今後沢山登場すると思う。

乞うご期待である。

013 20061129 平井稔男さんのこと 昔話ー7

[編集]

2006-11-29 06:26:49 | カワサキ単車の昔話 「平井稔男さんのこと」

カワサキの赤タンクのことを書いたら、#142ハラさんから、いろいろタンクのこと教えて頂いた。 詳しい人がいるものである。#142ハラさん有難うございました。

そのコメントの最後に、「メイハツ~Team Greenの平井稔男さんはお元気なのでしょうか?」とあったので平井さんを思い出しながら、昔話をと思う。


平井さんとは、この1~2年お会いしたことはないが、今でも兵庫県の二輪関係の何かを手伝って居られて、お元気とお聞きしている。

私と同い年である。 メイハツにいて、その事務所が明石工場の4研にあったころからのお付き合いである。 永いカワサキの勤めではあったが、その殆どを兵庫で過ごしたと思う。

レース関係でも、カワサキの国内ジュニア以下の面倒をよくみてくれた。 モトクロスの竹沢君が名古屋から明石に来ていた頃である。 Team Greenもそのころスタートしたのかな、と思う。

竹沢君と言えば、彼の結婚式の司会を平井さんが務めていた。 仲人は百合草さんだったかと思う。 同じ会場で、私は北村君のの仲人を引き受けていたのだが、それが終わったあと、竹沢君の結婚式が始まりかけていた。

「入れ入れ」と、突如誘われて、竹沢君の結婚式に飛び入りで出席したのを思い出す。 吉村太一君も来ていて、いいスピーチをした。 平井さんの司会、抜群と当時の日記に書いている。(1973-2-11)


平井さんと言えば、勇ましいイメージが強いのだが、別の一面を二つ、ご紹介する。

安全運転を担当していた時期がある。 暴走族が華やかな時代、暴走族=大型バイク=カワサキと言われ、安全運動活動に注力した時代である。

この時期、平井さんの二輪車の運転技術は、ものすごく進歩した。 淡路でのツーリングで「こけた」というのが平井さんのレベルと思っていたから、その進歩は驚きであった。

安全運転の担当期間、彼は自分の四輪を売ってしまった。 若し持っていたら、ひょっとして酒を飲んで乗るかもしれないからと,言っていたのが印象に残っている。


もう一つ、ずっと後の話だが、「お客様相談室」を新設した。 本当に、信頼される「お客様相談室」にすべく、車も技術も営業も歴史も、カワサキのすべてをを知り尽くした、平井さんが担当した。

苦情が殆どで、その対応が仕事であったが、難しい神経をすり減らすような仕事も、彼がやると楽しそうに見えるから不思議である。

カワサキのお客様相談室は、平井さんの時代、日本一だったかも知れない。 苦情を言ってきた人たちから、感謝されて、お中元が届いたり、チケットが贈られたりした。


カワサキの名物男、平井さんの一面である。

尊敬できる、仲間であった。

014 20061130 私のサラリーマン生活の故郷

[編集]

2006-11-30 06:55:53 | カワサキ単車の昔話 永いカワサキでのサラリーマン生活であったが、面白く過ごさせて頂いた。

その殆どの期間が二輪車に関係したのだが、カワサキの単車事業スタート直後からの担当であり、上司や先輩に経験者がいなかったこともあって、仕事を教えて貰った記憶は殆どない。

自分で試行錯誤しながら、何とかこなしていった。

IBM機械化(昭和33年)、広告宣伝、レース関係、仙台事務所設立、特約店制度、CKD市場開発、販社再建、KAZE、ソフト会社、国内ジェットスキー販売、JJSBA、サーキット開発、二輪専門自動車学校設立などカワサキにとってははじめての仕事ばかりが多かった。

若い頃から、旗振りの役が多かったのだが、これらの仕事を一緒に造り上げていってくれた人たち、そんな仲間がいなければ実現しなかった。 私にとってこれらの人たちは、会社の同僚、後輩というよりは、一緒の仕事をやり遂げた仲間という意識が強い。

これは、何も私だけの特別なことではなく、カワサキの同じ時代を生きた人たちは、同じようにはじめての経験を沢山持っていると思う。

単車事業がカワサキにとってはじめての事業であったこともあるのだが、ホンダ、スズキ、ヤマハの競合他社、特にホンダさんがどんどん走ったので、それらを追っかけるだけでも大変だったのである。 遅れないように必死に走った、走り続けたように思う。

二輪業界は、世界の市場を対象に単なる輸出ではなく、現地に事業を展開する方向であったので、それをはじめて自分で体験する仕事が普通であった。

自分の判断で「何をやるべきかを決定し」それに向かって邁進するスタイルが多かった。 決して成功ばかりではなく、その逆も多かったのだが、その経験やノウハウは蓄積され後々の力になっていったと思う。

同時に、少々のことには物怖じしない、厚かましい「奇人、変人」を沢山造っていった。

単車事業部は、「奇人変人の故郷」と言ってもいい、そんな「何か」があった。 勿論、数の上では「一般、普通人」が圧倒的ではあるが、「奇人、変人」が潜在化せずにすむ、自由な雰囲気があったと思う。 

それが楽しかった。 少なくとも、川崎重工業の中では異色の存在であった。

先日、樋渡啓祐さん(現、武雄市長)の「奇人、変人」のほうが仕事ができる。 「求む。奇人、変人」とのコメントを見て、「我が意を得た」のである。


人生いろいろな生き方がある。

「何になりたいか」 「何をやりたいか」

目標の立て方としては、後者のほうが断然面白い人生が歩めると思う。


常に、「何をやりたいか」を模索し挑戦出来た、「そんなサラリーマン生活」に感謝したい。


今年も残り少ない。やりたいことの幾つかは出来たと思う。

今後も、「やりたいことに向かって進む」、そんな人生を歩みたいと思う。

015 20061202 大槻さんとの想い出

[編集]

2006-12-02 06:30:39 | カワサキ単車の昔話 大槻幸雄さん。

カワサキの名車Z1の開発チーフエンジニアとして知られているが、カワサキがジュニア6H耐久レースでスズカに登場した時の監督でもある。  今もZ1会のゴルフコンペで年3~4回お会いしている。

私と大槻さんとの出会いは、この頃のレースを通じてのものであった。 レース関係では1965年、66年の2年にも満たないお付き合いであったが、本当に沢山の忘れられない想い出がある。

レースでのいろいろな話はまたの機会に譲って、ひょっとしたら大槻さんも忘れておられるかも知れない、東北での想い出を書いてみたい。


レースや広報を担当した後、1967年1月から新しく仙台事務所を開設し、東北6県の営業を担当することになった。

まだ「実用車のカワサキ」の時代で、カワサキにとって東北は九州と並んで最重要市場であった。 各県に代理店があり、温泉地などでサブ店(販売店)を集めての会合が、その年の営業の幕開けという習わしになっていたようだ。

2月21日、宮城県の作並温泉を皮切りに会合が開かれた。

私もはじめての経験だったが、各県の代理店の主催だから、その社長の挨拶の後、メーカー側としての祝辞と挨拶、方針説明、開発方針、技術説明などが予定され、その後は座敷での宴会という昔のスタイルである。

大槻さんには開発関係、技術説明をお願いし、23日秋田市、25日岩手県花巻温泉、26日八戸市の会合と、約1週間に亘って援けて頂いた。


そのときの日記を読み返してみると面白い。忘れてしまっていることも多いのである。

覚えているのは、 レースの想い出話に花を咲かせたこと。 大きな馬力の、ごっつい車を造る計画を持っていること。この話の大槻さんは熱っぽかった。 これが多分、後のZ1のことだと思う。 この話は、はっきり覚えている。


すっかり忘れてしまっていること。(日記記載のまま)

22日、見習う点多い。大槻さん、歴史に興味と造詣の深いのに驚く。意外だった。

26日、夜、八戸のまちをぶらつく。27日夕方、課長任用のSSCのため帰られた。お世話になった。

28日、青森の会合で。大槻さんが帰られたので、技術説明を代わりにやる。 何度も聞いたので、不慣れではあったが、自分ではよく出来たと思う。


人間の記憶力というのは、当てにならないものである。 日記に書いているのだから、その時には間違いなく関心事であった筈である。それなのに、全然覚えていない。

「歴史に造詣が深いには意外」と書いているが、今思えば勉強家の大槻さんだから当然とも思える。 多分その頃の大槻さんのイメージは、レースでめちゃめちゃ厳しかったから、勉強家というイメージが湧かなかったのだと思う。 それ位厳しかった。

技術オンチで通っている私が「技術説明をした」というのは、いい心臓を通り越している。 それも「よく出来たと思うという感想」は、厚かましい限りである。


このときの一連の会合は、私の就任披露でもあり緊張していた。 そんな私にとって大事な1週間を、援けて頂いたということは本当に有難かった。

懐かしい東北での想い出である。


(先日、大槻さんより「船場モータース岡田博さんの思い出」にコメントを頂いて、「大槻さんとの想い出」を書いているのですが、山本隆君も大槻さんのコメントを読んで、またコメントをくれました。)

016 20061203 日活とのタイアップ 昔話ー8

[編集]

2006-12-03 06:40:09 | カワサキ単車の昔話 「日活とのタイアップ」

1964,5年ごろ広告宣伝の専門部門が出来て、いろんなところから、いろんなアプローチがあった。

その中の一つに、日活から映画のタイアップの話があった。 当時のスター浜田光夫や舟木一夫の主演する青春映画に使うオートバイを提供しないかという話である。

広報の価値として本当にどうかと言えば、難しいところだが、当時はそんな冷静な判断をする余裕もなく、カワサキが映画に登場することで、十分価値あるとの判断で、幾つかの映画で付き合った。

そんなことで、日活とは結構親しい関係にあった時代のことである。

64年7月10日、明石日活に「風と樹と空と」に主演した浜田光夫が挨拶に来ていると聞いて、ダメモトで「工場まで来ませんか」と誘ってみたら「伺います」ということになった。

人気絶頂期の浜田光夫である。 折角来るなら、オートバイにも乗せよう、インタビューもしようと準備をした。

オートバイも「テストコースで乗るか」と言うと「乗りたい」と言う。 そして乗るには乗ったのだが、その前に予想もしない大変なことが起こった。

誰が言ったのか、浜田光夫が来るという話が、発動機の小型エンジンラインの女性たちに伝わり、一斉に飛び出してきてラインが止まってしまった。そんなとんでもないハプニングが起こったのである。 「ちゃんと言っておいて貰わないと」と発動機の偉いさんに文句を言われたが、そんなことが起こるとは夢にも思わなかった出来事であった。

その後の塚本さんとのインタビューでは、レコーダーの準備が間に合わず、スタートしてしまったが、3分程遅れてレコーダーが届くと浜田光夫は当然のごとく、自然に最初の挨拶からもう一度繰り返してくれた。 塚本さんのほうが、びっくりされた様子であった。

そんな1時間ちょっとの工場訪問であったが、こんなこともあった、広報担当初期の出来事であった。

017 20061204 初期のモトクロス戦略ー1 昔話ー9

[編集]

2006-12-04 06:32:36 | カワサキ単車の昔話 「初期のモトクロス戦略」-1

青野ヶ原でのモトクロスの優勝と上位独占、これがカワサキのレースの歴史のスタートと言っていい。 残念ながら、私には1963年のことというだけで正確な日時は解らない。

当日は雨の水溜りの中を走るレースになり、他メーカーのマシンはみんな止まってしまった中、B8改造のカワサキだけが走り続けて、運よく好成績に繋がったというのである。

このレースにヤマハで出場した山本隆君に先日確かめたので間違いないだろう。

カワサキのライダーとして出場したのは、加藤,飯原君などの社内のテストライダーたちであったことは、先日カワサキワールドの展示写真を見てはじめて知った。


このレースの結果、事業部の士気は上がり、単車再建への決断の大きな要素になるのである。 そしてモトクロスは重要施策と位置づけられた。

神戸木の実から、山本、歳森。 カワサキコンバットから三橋、梅津、岡部、加藤などのライダーを集めてレース活動を開始した。

当時のカワサキは、他のメーカーに勝てるものは何にもなかったので、例えどんなレースでも「勝つこと」が求められたし、勝つことによって地方の代理店も工場サイドも士気が大いに上がったのである。

この目標達成のために、地方のどんな草レースにも、ライダーを分けて派遣した。 殆ど毎週のように、日本各地の勝てそうなレースに出場した。 結果は、連戦連勝で会社の掲示板にも、代理店へのニュースにも派手に宣伝された。

レースに対する知識も少なかったし、みんなが本当に強いのだと信じて疑わなかったと思う。


翌年の春、相馬が原で行われたMFJ第1回全日本モトクロスを前に、当時のレース担当の川合さんが「今度は、城北も来るし困ったな」と言っていたのを思い出す。 何のことか解らなかったが、全日本の結果は入賞はおろか、5位までにも入れなかったのである。

未だ、本当の実力はなかったのである。 ここまでが、レース初期の第1期と言えるだろう。


この相馬が原の結果を踏まえて、マシン開発もライダー育成も、本格的なレース活動へ取り組むことになっていくのである。

然し、今思っても「モトクロス初期、第1期」の広報戦略は、間違っていなかったと思う。 少なくとも代理店を含め身内の人たちの、モトクロスに対する関心は盛り上がったものになった。

連戦連勝のイメージばかりが残って、相馬が原のことなど知らない人が殆どであった。

そして、「モトクロス初期、第2期」へと入っていくのである。

018 20061206 岩城良三さんの思い出 昔話ー10

[編集]

2006-12-06 06:33:38 | カワサキ単車の昔話 「岩城良三さんの思い出」

「隣国の兵は大なり、その武器は豊かなり、その武勇は優れたり、然れども指揮の一点譲るべからず。」

当時のカワサキにとってホンダ、スズキ、ヤマハはまさに大国であった。 訓示の最初に必ずこの言葉から入られた、岩城さん。 常にに強烈なリーダーシップを発揮された。

岩城常務が自ら単車本部長に就任された1965年4月、単車事業本部制がスタートし本格的な単車再建がスタートしたと言っていい。

この時点から販売促進部門はカワサキ自販に全員が出向となった。 広告宣伝とレースを担当していた私もその一員として参加した。

岩城さんはこの年の10月には、カワサキ自販の社長も兼務され、社名もカワサキオートバイ販売となった。

レースや広告宣伝にも非常に関心を示され、具体的な指示も直接受ける機会が多かった。 怒られたことも多かったが怒り方がすっきりしていて、気持ち良かった。

レース運営委員会を設置され、本格的なレース運営が可能になった。

当時の委員会のメンバーは、守田、山田、苧野、堀江、中村、高橋、渡部、大槻、安藤と事業部の主力が顔を揃えた強力なものだった。 事務局を担当したが、下部組織の小委員会には、田崎、水町などのイキのいい若手がいた。

カワ販の社長も兼務された岩城さんは、直ぐ各地の現場を回られ、東北では現地の社長連から仙台に事務所の新設を提案され、「即答をされた」とその時お付で出張していた八木君に聞いた。

「それは、えらいことだな。誰が行くことになるのか。」と彼と雑談していたが、まさか私にお鉢が回って来るとは、思いもしなかった。

その後この話が具体化して決まったとき、岩城さんはわざわざ私の席まで来られて「ご苦労だが」と仰って頂いて本当に恐縮したのを想い出す。

「指揮の一点、譲るべからず。」の教えは、ずっと守ってきた積りである。

019 20061208 初期モトクロス戦略ー2 昔話ー11

[編集]

2006-12-08 06:31:09 | カワサキ単車の昔話 「初期のモトクロス戦略」-2

相馬が原のMFJ第1回全日本モトクロスでは、5位にも入れない散々な成績であった。 マシンもライダーも根本的な強化が求められた。

マシンは技術部門で専門的に対応できたが、ライダーの育成強化は、社外に頼らざるを得なかった。

即戦力としては新たに安良岡健を補強した。 これでジュニアクラスは、山本、歳森、三橋、安良岡、梅津、岡部、と一応の即戦力の頭数は揃った。

若手のライダー育成をカワサキコンバットの三橋、安良岡君に一任することにし、コンバットと別契約を結んだ。 当時としては思い切った内容であったと思う。

月額20万円の運営費で、若手ライダーの人数、選択、宿舎、生活、練習、運搬車など育成費用の一切をコンバットに委託した。 当時のサラリーマンの年収が50万円に満たない時代であったから、月額20万円は相当な額であったと思う。 少々甘かったかも知れぬが、全国からモトクロスを目指す有能なライダーが多数集まった。

三橋の若手に対する指導やしつけは、結構厳しかった。 何人居たのか明確に把握していないが、厚木にアパートの部屋を借りて、多いときは10人に近かったのではないかと思う。

この中のメンバーから星野、栗山、金子などが育ち、木村、西や増田などの更に若手のライダーへと繋がっていくきっかけとなったのである。

ライダーについては、質、量ともに他を圧倒することを目指し、最盛期のレースでは、専用車で運ぶマシンの数は50台にもなったと思う。

契約ライダーは広告宣伝課嘱託とし、レースは販売促進活動と位置づけた。 ライダー契約金は当時の水準以上の十分に優遇されたものであった。

カワサキとしては、「他メーカーに勝てるもの」は、この時期モトクロス以外にはなかったのである。

当時、本社からの開発費で広告宣伝費として特別対策予算が出ていたが、その中から優先し集中してレースに予算を投じていた。 このような特別対策は、250ccのF21Mがデビューし、カワサキのレースが確固として世に認められるまで続いた。

レース初期、最も豊かにレース活動をした時代の「レース戦略」であった。

モトクロスでは 山本隆、星野一義、歳森康師、岡部能夫、梅津。 ロードでは 三橋実、安良岡健、金谷秀夫。 若手として 清原明彦、従野孝司、増田耕治、木村夏也、西。 など次のスターも育った。

懐かしく思い出される。みんな若かった、いい時代であった。

020 20061214 ものを金に変えるー1 昔話ー12

[編集]

2006-12-14 06:29:44 | カワサキ単車の昔話

「ものを金にかえる」-1

1960年代後半、東北の代理店営業を担当していた。 そのころの話だが、営業とはものを売るのが仕事だと思っていたが、「営業とはものを金に変えるのが仕事だ。」と当時、福島にいた蓬田さんが教えてくれた。

二輪車のような商品は、売ることだけならそんなに難しいことではない。 その当時売ってもなかなか、お金に変わらなかったのである。

メーカーー販社ー代理店ー小売店ーユーザーとものは売られて、その逆の流れでお金の回収がなされるのは至極当然で当たり前のことなのだが、それが上手くいかずに立ち往生することが、当時は多かったのである。

特に、代理店以降が難しかった。 当時の販売店は殆どが自転車屋さんで資金力が無かったので、商品の委託販売であった。 商品が店頭に運ばれても売上はたたず、ユーザーに売れた時点でやっと売れたということになる。

東北でのユーザーの支払いは、当時盆払いとか、秋に米が獲れたらとか、直ぐにキャッシュでということではなかった。 販売店からの手形を貰っても、平均サイトが半年というようなものが多く、自宅払いとかいう銀行には持っていけないようなものまであって、商品がなかなか金に変わらないのである。

こんな状況の中で、代理店が沢山ものを売るということは、即多くの資金を寝かすということになるのである。 メーカーは当然量を売ることを望むので、メーカーの意をたいして量を売った代理店は資金繰りに窮し、メーカーの資金援助を受けているうちに自然に系列化の方向を歩むことになったのである。

当時の金利は、日歩2銭とか2銭5厘といった今でいえば高利だから、代理店経営は営業内はクロでも、営業外で赤字になるそんな体質であった。

こんな状況を、身をもって体験したことが、その後同じような状況で販社やメーカー自体が苦境にたったとき役にたったと思っている。

量産事業は数が増えることでのいろいろなメリットが生じるのは事実である。 量が増えるとコストも下がり、売上も利益も増えるのだが、要する資金もリスクも同時に増える。

簡単な理屈だが、なかなか解りにくい面もあって、長い年月遠回りもし苦労もした。

「ものを金に変える大きな仕組みが体質になって」はじめて事業が安定したと思っている。

そんな意味で、旧い時代の旧い体験も無意味ではなかったと思っている。

021 20061215 カワサキフアン&Pit Crew

[編集]

2006-12-15 06:38:53 | カワサキ単車の昔話 http://www.pitcrew.jp/

有難いことだと思うが、昔から熱烈なカワサキフアンは多い。

ブログをやりだしてからも、そんな方に何人も出合った。 一関工業の学生さんと思うが、大島俊さんもそんな一人である。 面識があるわけではない、パソコンの画面の上でお会いしただけである。

「カワサキのバイクが一番です」というツーリングクラブ「FAST RAY]の団長で、そのホームページには1961年のB-7から1985年のGPZ400Rまで懐かしい車を詳しく紹介してくれている。 画面を見ただけで熱烈なカワサキフアンだと直ぐ解る。

生まれは宮城県気仙沼とあった。 気仙沼といえば40年も昔の話だが小野寺さんというカワサキフアンのバイク屋さんがあったなあと、思い出したりした。

そんな大島さんのホームページのお奨めリンクに、「カワサキマニア必見」と題して「Pit Crew」の名があったのでアクセスして見た。


千葉の渡会さんの「Pit Crew]である。

カワサキの販売店には、本当にカワサキが、バイクが、好きな方の経営する店が多いのだが、マニア必見と言うだけあって、ピットクルーのホームページはカワサキで満ち溢れていた。

全てを観た訳ではないが、PDIと称するPre Delivery Inspectionは渡会さんのバイクに対する真面目さだと思うし、カワサキのモトクロスサポートチーム「K-ryz」の活動記録など見ていて楽しかった。

「何故カワサキが好きなのか」という渡会さんのコメントの中に、 井関のタフ50に乗っていたこと(タフ50は昔々カワサキが生産していた井関農機のバイクです) モトクロスをKX80で始めたこと、 もっと昔の川崎航空機の5式戦闘機(キ100)のことなど、私もはじめて知った。

最後に、「極限すればピットクルー自体がカワサキの熱烈なフアンなのです」とあり感激した。

渡会さんには、現役のころからお世話になり面識もあったので、ご挨拶のメールを打ったら、直ぐ返事が来た。 突然のことでさぞ驚かれたと思う。

ピットクルーの3店舗はいずれもブログをやっておられる。 毎日沢山のコメントなどが入っている。 こんなところにも末端のユーザーとのふれあいを大事にしようとするコンセプトが感じられ好感が持てた。

ブログは双方向の情報発信というが、本当にそうだと実感している今日この頃である。

022 20061217 ものを金に変えるー2 昔話ー13

[編集]

2006-12-17 06:35:05 | カワサキ単車の昔話 「ものを金に変える」-2

1976年5月、東南アジアのCKD事業のための調査団を結成し、約1ヶ月インドネシア、イラン,タイ、マレーシア、台湾などの市場調査を行った。

高橋鉄郎さんを団長に、企画、開発、生産、営業、販売の各分野からのメンバーで構成された。 現地の経営のやり方や、市場、販売ネット、取引条件、ユーザーなどの主としてマーケッテングの分野を担当したが、商売のやり方はいろいろあるものだと思った。

一番印象に残っているのは、どの国も資金と回収が大きな要素で、そのためにはどのようなシステムが適切かという観点で考えられていた。

金を出資しているオーナーと、事業を展開している番頭さんとの関係も面白かった。

基本的には、ユーザーに対しては現金売りで利益率は3~5%と低いが,回転で稼いでしまうか、田舎のようにユーザーがそこから離れる恐れの無い場合は分割もするが、アドオンの高い金利で利ざやを稼ぐという両極端であった。 どちらも商売としては、極めて合理的であった。

イランでの話 アラブの商人である。 価格が決まってからその後支払いを考えるのではなく、まず最初にどんな支払い条件かというところから、商売の話はスタートする。

とにかく、「ものをどのように金に変えるか」ということだけに熱心なのである。

修理サービスなどは、殆ど考えておらず「ものが金に変わった後のこと」は専門の修理業者に任すというドライな考えであった。


タイでの話 タイのオーナーは所謂華僑で、二輪のほかにも沢山のビジネスを持っており、それぞれのビジネスに番頭さんがいて商売を仕切っていた。

資料のようなものもデーターも殆どない、そんな状況であった。 番頭さんを相手にいろいろと細かいことを聞いても、もう一つ辻褄のあう答えが出てこない。 そんなデーターを繋ぎ合わせて日本人独特の損益計算をやると、どうも儲かっていないという答えになる。

番頭さんに、商売は儲かっていないのではと聞くと、「そんなことはない。よく儲かっていると思う。」という答え。 「何故?」

曰く、「オーナーから貰う金よりも、オーナーに渡す金のほうが随分と多いから。」 従業員の給料、販促費、その他必要な金は、オーナーから貰う。資料も報告も不要である。使い方もその額も番頭さんの思いのままという。必要と言えばオーナーはくれるそうである。

ただし、ものを売って、それが「現金になったらその時点で、全てオーナーに渡す」仕組みだという。その中からは1円も使うことは出来ない。 現金にならぬ前の状況、例えば手形の段階では未だ番頭の責任範囲で、現金化されるとオーナーに渡すのだという。

このような単純な仕組みだから、幾つビジネスを持っていても番頭に任せて、渡す金よりも受け取る金が多い、儲かる商売はどれかということだけをオーナーは見ていればいいということのようだった。

いずれも「ものを金に変える」商売の本筋と感心した。


ただ、こんなお国柄のところで近代的な生産も伴うCKDビジネスを合弁で展開するのは大変なことであった。

新しいCKDビジネスは殆どの場合、先進国の大学に留学した息子や娘たちを相手に展開されていったのである。


どの国でも、「ものを金に変える」という商売の基本には見事なまでに忠実で徹底していた。

023 20061218 Kawasaki GTO

[編集]

  2006-12-18 06:27:37 | カワサキ単車の昔話 先週末、カンサイオトキさんからコメントが届いた。

山本隆君のショップに遊びに行ってきたとか。 来春のヴィンテージモトクロスには山本君も行くようなので、是非遊びに来てくださいとのお誘いである。 会場のアネックス三木は直ぐ近くだし、是非お伺いしたいと思っている。

コメントの後のほうに、「前の日曜日にエンジン設計の松本氏、デザインの栗島、山内氏と大阪マッハクラブの方と食事会があっていろいろ話をする機会があった。、当時の話、特にB-8のできるくだりは最高でした。」とあった。


松本博之さん。 カワサキで「2ストロークのエンジン設計は松本」と言われていたエンジニアである。 松本さんの名前が出たので、私自身思い出深い、開発コード740、GTOの話をしてみたい。

1978年、東南アジアのCKD新市場進出のため市場開発室を組織して、高橋鉄郎さんを長として、タイで合弁会社をスタートさせるなど、解らぬなりにいろいろ努力していた時代であった。 営業としては、どうしてもCKD市場にあった「専用の機種」の開発を要望していた。

78年2月3日の日記の記述そのまま。 「夕方から技術部の会議に呼ばれる。大槻部長以下課長以上全員が揃っていた。 方針が明確でない限り、技術部としては開発はやらないと大槻さんにまくしたてられたが、大槻さんとはレース時代からのお付き合いで気心もよく解っていたので、営業代表としてねばって言い分を通してもらった。」と書いてある。

このときのことは、本当によく覚えているのだが、 いろいろとねばったのは事実だが、営業の言い分を通して貰ったのではなく、営業の要望事項を入れて何とか開発をやってみようと「助け舟」を出してくれたのが、松本さんだった。

カワサキにとって始めての「CKD専用機種、開発コード740」,110ccGTOは、CKD専用車であるために一般には余りよく知られていないが、歴史に残る大ヒット商品であった。

この機種でカワサキのCKD事業は軌道に乗ったと言っていい。

当時、タイでの販売台数6400台/年であったものを、11000台、20000台と一挙に引き上げ、インドネシアでも好調に売れてCKD進出を軌道に乗せた。

タイでは台数だけでなく、委託販売であった取引条件を仕切り販売に換え、更にデーラーは車を確保したさに前金を積むところまで現れ、合弁会社の利益も資金繰りも一挙に改善できたのである。

この隠れた大ヒット商品のエンジン開発者が松本さんであり、私としては一度もお礼を言っていないので、この機会に是非お礼申し上げたい気持ちである。


大槻さんは勿論、松本さんも、栗島さんもゴルフコンペZ-1会のメンバーである。 年4回、楽しいゴルフをさして頂いている。 来春が待ち遠しい。

024 20061219 ものを金に変えるー3 昔話ー14

[編集]

2006-12-19 06:45:16 | カワサキ単車の昔話 「ものを金に変える」-3

同じ表題で東北とCKD東南アジアのことを書いた。 シリーズの三番目にメーカーと海外販社の昔話を。

カワサキの単車事業は、1965年ごろからアメリカ市場に進出を試み1968年KMCを設立し本格的に参入を図った。 アメリカ市場向けの大型高性能車など積極的な商品開発を続け、1972年にはZ1の投入で大いに活気づき、事業の業容も発展の一途をたどった。

1974年にはどこよりも早く、リンカーンに工場進出を果たし、75年からは現地生産を開始し、ジェットスキーの生産も開始した。

この流れは、1982年頃まで続き、明石の生産台数も55万台に達するのだが、この間の事業部としての損益は、黒字、赤字を繰り返したが、どちらかと言えば苦しい時代のほうが多かった。

ダンピング問題やリンカーン工場でのUAW労働問題、市場での過剰在庫問題などで、83年にはカワサキの単車事業は存亡の危機に直面したのである。


この危機の原因は、単純に言えば、「ものがお金に変わらなかった」仮にお金に変わっても「お金に変わる期間が掛かりすぎた」のがその理由である。

「ものをお金に変える戦略的な仕組みが無かった」のが原因だったと思う。

二輪車は図体は四輪などに比べて小さいが、一台100万円前後、一台あたりの粗利は10万円以上になる。 細いから在庫スペースは取らない上に、販売店の数は多い。 在庫をばら撒くまでは意外に簡単なのである。

販売はメーカーー販社ー販売店ーユーザーと流れ、その一つ一つの段階で、売上も利益も発生する。 然し本当に売れたのは、ユーザーに渡った1回だけであとは単なる車の移動なのだが、売上、特に粗利も発生するので、つい多く造り、多く売り上げたいと思ってしまうのである。

仮に1台あたりの粗利10万円ということは、1000台で1億円、1万台で10億円である。 1万台の在庫をばら撒くのは,そんなに難しくはないのである。 本社とかTOPが利益確保に頑張れと言えば、簡単に頑張れるのである。

一方、1台100万円の商品が1000台在庫になれば10億円の資金が、1万台だと100億円の資金が寝てしまい、それに金利がかかる計算になる。 それも当時のアメリカの金利は年利20%の高金利だったから金利負担が大変であった。

そんな簡単な理屈が解るまでに20年も掛かったということである。 在庫投資をしたときは、事業部も販社も大幅な黒字になり、在庫調整の時期は赤字になるそんな繰り返しであった。

83年にやっと本社の財務も調査団を出し、ユーザンスをつけ、事業部も末端消化や在庫に最大の関心を持ち、販社を専門で担当する関連事業部を造った。 「ものを金に変える戦略的な大きな仕組み造り」が完成して以来、安定して川重の経営を支える存在になっている。

バブル崩壊後、いろんな企業や行政でも多くの問題や破綻が見られた。これらは全てお金が寝てしまったことが原因である。 解るまでに20年もかかったが、バブルでは何の影響も受けなかった。

「ものを金に変える戦略」は事業の如何、大小を問わず、基本的なことだと思っている。

025 20061222 ものを金に変えるー4 昔話ー15

[編集]

2006-12-22 06:53:49 | カワサキ単車の昔話 「ものを金に変える」-4

「ものを金に変えること」の難しさを書いてきたが、「ものが簡単に金に変わること」も現実には多くの例がある。

物を売る商売に於いては、商品力がそれを左右する。 カワサキでの永い営業経験の中で、幾つもの優位性のある商品を持って営業をした時期がある。

国内市場に限って、そのベスト3を挙げるなら、 Z-2,Z400FX,そしてZEPHYRだろう。

Z-2はカワサキがはじめて胸を張ってNO1バイクと言い切れた、そんな商品であった。 Z-2で国内の新しい販売網、特約店制度が出来たと言っていい。

Z400FXは、破綻寸前にまで追い込まれた販売会社を1年で復活させたと言ってもいい、そんな記念すべき大ヒット商品だった。

ZEPHYRは、まだ記憶に新しいが、予想もしなかった大ヒットで、他の商品の販売にまでも好影響を与え、カワサキが国内ではじめて7万台の販売を達成した。

いずれの時期も、バックオーダーは2年にも及び、金の回収に頭を悩ますことは全然なかった。 いずれの時期も、その営業を担当できた幸運に感謝したい。 ZEPHYRの時期は、国内の販社の銀行借入金はゼロ、所謂無借金の超健全経営であった。


このようなことから見ても,如何に商品力が事業を左右するか、技術開発がこの事業の最優先課題であるかが解る。

然し、商品力は競争相手の商品との比較において評価されるので二輪業界のように厳しい競争が絶えず展開される中で、常にベストの商品をもって戦うことは難しいと言わざるを得ない。 超ヒット商品をもたぬ時期にでも、自然に「ものが金に変わる仕組み」を構築し、体質化することが必要である。


「ものを金に変える」のは難しいのだが、「金をものに変える」のは至極簡単なのである。要注意である。

026 20061228 創生期 昔話ー16

[編集]

2006-12-28 06:34:57 | カワサキ単車の昔話 今年も後余すところ4日になった。 今年ではなく、永くお世話になった単車事業について40年間を振り返ってみることにした。

自分勝手に1960年代、70年代、80年代、90年代の4期に分けて昔話として気軽に書くことにする。 同じ時期を一緒に過ごされた方も多いのだが、そんなこともあったと昔を懐かしんで頂けたら幸いである。

1960年代 創生期 1970年代 成長期 1980年代 苦難&激動期 1990年代 安定成長期  解りやすくする為に、ざっと4期に分け、何回かに分けて書いてみたい。


「1960年代 創生期」

私が単車の営業に配属になったのは、1961年12月である。 既に単車事業はスタートしていたが、まだB7や井関のタフ50などの時代で、この頃から単車に居られた人は少ない、そんな時代であった。

アメリカの販売会社KMCの設立が68年、3社合併で新しい川崎重工業がスタートしたのが69年だから、ほぼそれまでの10年間である。

国内市場だけで、一時は事業中止と思われる時期もあったのだが、B8が何となく売れて、青野ヶ原のモトクロスで運よく勝って、日本能率協会の調査の結果脈ありと判断されて、単車再建が決定された。

事務屋は本社や勤労などから、技術屋は主としてJET部門から集められた。 岩城常務も単車事業部本部長に着任された。

事務屋では、  塚本、矢野、浜脇、北村、種子島、前田、岩崎、藤田さんなど。 技術屋では、  高橋、桑畑、田村、石原、田崎、大前さんなど。

元から単車の人は技術部を中心に    山田、堀江、中村、井出、渡辺、大槻、安藤、高橋(宏),川崎、稲村、百合草、野田、井川、大西さんなど。

国内販社関係では、    田中、苧野、清水屋、加茂、松田、池田、永田、内田、小竹、平井、大井、石塚,宇田川、岡島、富永、さんなど。

レースメカニック、ライダー関係では 水町、松尾、福田、藤原、榎本、加藤,飯原、清原さんなど。(社内) 三橋、安良岡、金谷、山本、歳森、梅津,岡部、星野さんなど。


抜けている方も当然多いと思うが、その後もずっと永く単車に関係した人や私の印象に残っている方を、勝手に挙げさせて頂いた。 名前を並べただけで当時が思い出せるから不思議である。

この時期は、国内、海外の第一線に初めて出た人も多い。 国内には、矢野、野田、井川、岩崎、藤田さんや私。 海外には、浜脇、安藤、田崎、種子島、内田、野田さんなど。 みんな若かったが無茶苦茶頑張ったその頃の経験が、その後本当に役に立ったと思う。

苦労も多かったが、 国内、海外とも、レースチームが活躍したこと。 国内だけでなくアメリカ市場への進出し希望が見えて来たこと。 W1,A1、H1など話題のの大型スポーツ車が発売され、「スポーツのカワサキのイメージ」の基盤が出来たなど、明るい話題もまた多かった。

60年代前半には、未だ三菱重工業、富士重工業、新明和工業、トーハツ、ブリジストンなどの大企業をはじめ多くの企業がこの業界にいたのだが、 この厳しい競争の中でカワサキだけが生き残れたのは、 大型スポーツ、海外市場をメーンと位置づけた基本戦略が間違っていなかった結果だと思う。

将来ホンダ、スズキ、ヤマハに伍して、二輪業界の一翼を担うことに繋がったことは、この大きなコンセプトを確立された先人たちのお陰であり、敬意を表したい。

個人的に関係の深かった人は、 苧野さんは直接の上司として、山田さんはレース関係で、高橋さんとはレースと国内の販社でお世話になった。 一緒に仕事をした仲間と呼べる人たちは、レースで大槻、安藤さん、メカニックやライダーたち、田崎さんとは、組合の常任幹事、TVの源平芸能合戦出場、レースなど。東北時代の宇田川、石塚さんなど、ずっと後までのお付き合いだった。

66年にはカワサキオートバイ販売への社名変更、68年にはアメリカKMCの設立、そして、69年には川重、川車,川航の3社合併があった。 まだまだスタートしたばかりの単車事業であったが、将来の基盤は築かれた、そんな時代であった。

私自身は、単車営業、広告宣伝、レース、東北営業を担当の時代であった。

この時代を一緒に苦労した人たちの「仲間意識」が、「単車事業部独特のいい雰囲気」のベースになっている。

027 20061229 1970年代、成長期 昔話ー17

[編集]

2006-12-29 06:29:32 | カワサキ単車の昔話 「1970年代 成長期」

1970年代は、カワサキの単車事業にとって、アメリカ市場を基盤とした成長期であった。

68年に設立したKawasaki Motors Corporation(KMC)をベースに、全米に事業を展開し業容の拡大を一途に目指した時期と言えるだろう。

商品としては世界の名車と言われたZ1が72年に、ジェットスキーが73年に発売され、販売の拡大に世界的に拍車がかかった。

74年には、現地に生産会社KMMを設立し、ホンダやトヨタさんよりもずっと早く、75年にリンカーンで現地生産を開始した。

カワサキの事業展開の基本コンセプトとして、今もなお全世界で受け継がれている

「Kawasaki Let The Good Times Roll」

カワサキに出会うすべての人たちにGood Timesを、すべての人たちにHappyをという「Good Timesコンセプト」は73年に造られ、全米に拍手をもって受け容れられた。

このようなアメリカでの事業展開は浜脇洋二さんをリーダーとする当時30代前後の若い人たちと現地マセック副社長以下のアメリカの人たちで成し遂げられ、単車事業のあらゆる分野の牽引力となった。

特に、アメリカと呼応して技術開発力の強化は特筆できるものでであったと思う。 Z1,Z2を筆頭に、H2,KHシリーズ、Z1100,1300,Z400FX、400LTDなど70年代後半にかけて続々ヒット商品を世に送り出したのである。 レースでも、デイトナでのH1Rや後半KR250のGPなど素晴らしい活躍の時代であった。

この時期の技術部は高橋鉄郎さん以下、渡辺、大槻、稲村、百合草さんなどその後の技術部門を引っ張った人たちで構成され、ある意味では技術部門が一番元気があり、うるさかった時期かも知れない。

他の部門、例えば部品部門も自動供給システムの大規模なものを造り上げたし、実験研究部門、サービス部門も見違えるほど立派になった。 桑畑、田崎、北村と続いた部品、実験の糠谷、サービスの田村さんとみんなユニークな侍ばかりが居たように思う。

後半は塚本本部長の時代で、人事もようやく全社的な見地で行われ、青野、堀川,酒井、佐野,永友、佐藤、森田さんなどが加わった。

堀川さんを長とした企画室は、高橋(宏)坂口、田崎,田付、武本、森田,佐藤、繁治さんなど、後の川重や単車を支えたメンバーで構成されていた。

欧州市場への進出も図られ、イギリス、ドイツに販社が設置された。

このように成長を続けた事業部も、70年代の終わり頃には、陰りも見え始め新しい市場を探すべく、CKDの市場開発室が高橋さんを長に設置され活動を開始した。藤浦,石井、佐伯さんなどがいた。

この間、私は前半5年は国内でZ2で、はじめてバックオーダーが2年も続く営業を経験し、新しい販売網、特約店制度の確立に没頭した。 後半5年は、約10年の出向から戻り、企画室の後、市場開発室で初めて海外を経験した。

みんな、まだまだ若かったし、一番面白かった10年であったかも知れない。

028 20061230 1980年代前半 昔話ー18

[編集]

2006-12-30 06:30:19 | カワサキ単車の昔話 「1980年代 苦難と激動期」-(1)80年代前半

1970年代は各メーカーとも積極的な海外進出と新車投入により、業容の拡大を実現し世界の二輪産業を席捲する成長を遂げた。

1980年代に入る頃から、急激な成長のひずみが見られるようになり、この対策が大きな課題となったのである。

1.ハーレー社のダンピング訴訟問題 2.HY戦争による影響

そしてカワサキだけの問題であったが、 3.UAWの労働問題

ダンピング問題は、アメリカ市場での価格が国内価格に比し低過ぎるためにハーレー社が損害を受けた、と提訴したのである。 カワサキでは、当時の国内販社の「赤字や経費率」がダンピング問題に直結して解決を要する問題として浮上したのである。

これに対しては、国内販社の再編成、構造改革を行い赤字体質の脱却を図った。 部品会社の分離も経費対策の一環であった。 幸い、Z400FX、400LTD,250FTなどのヒット商品の投入もあってこの問題は意外にスムースに解決をしたのだが。

このあと続いて、国内の50ccのシェア競争に端を発した「HY戦争」は、アメリカ市場にまで飛び火し、全メーカーに影響を与えることになった。 過剰在庫になり値引き競争は激化した。 83年にはアメリカ政府はハーレー社を守るために700cc以上の輸入関税の増額を決定するなど輸入規制の措置を講じたりした。

これに関連して、在庫圧縮のためのKMMの生産調整が、UAWの労働問題になり大問題となった。

更に、当時アメリカ全体で問題となっていた、PL問題も経営の足を引っ張るものであった。

これらの問題が一挙に出て、81年頃から事業部もアメリカ側も苦境に追い込まれるのである。

これらの問題は、財務、資金、法規の要素が多かったため、この解決のため本社専門スタッフによるプロジェクトチームが編成され、アメリカ側、事業部とともにドラスチックな対策が打たれた。100億円の桁の大掛かりな対策であった。

この対策の効果は直ぐに現れ、カワサキの単車事業存亡の危機を救ったのだが、財務対策などが中心であったので余り広くは知られていない。 私は、たまたま前半国内販社、プロジェクトチーム発足と前後して企画担当となったので、その経緯を知っているのである。

UAW問題は、その後も尾を引くがこれは主としてKMMの佐伯さん以下の努力で乗り切ることが出来た。

この時期、これら問題に対応された人たちの名前を、思い出す範囲で、順不同で。

本社サイド     大西、堀川、松本、児玉、砂野、横山、田中、武内、佐藤、小川,松岡,中間、原田さんなど

アメリカサイド    田崎、高田、佐伯、野田、奥寺、富永さんなど

事業部サイド    青野、高橋、内田、五百井、前田さんなど

この問題の解決は、事業部だけの力ではとても解決できる種類のものでなかった。 このような大きなプロジェクトを、本社と現場の協力で成し得たことは、その後の単車事業に非常にいい影響を与えたと思う。 本社のスタッフも若い人たちが多かったし、このプロジェクトのお陰で単車への理解も深まったし、単車フアンも出来た。

こんな激動期を乗り越えて更に進むのだが、いろいろと激動の時期はまだ続くのである。


「ダンピングやHY戦争を調べていて「二輪車産業に関する私的考察」に出会いました。二輪車産業に関心のある方にお奨めです。 ダンピング以下の件、参考にさして頂きました。」

029 20070103 速遅速遅密疎密疎

[編集]

2007-01-03 07:20:27 | カワサキ単車の昔話 1月2日、年末にちょっと触れた二輪車産業に関する私的考察ー速遅速遅密疎密疎をもう一度読み直した。

この論文の作者のFUKAI,REIさんに感想を送ったら、ご丁寧に返事を頂いた。 業界に関係のない一般の方で、学生時代に纏めたものに手を加えたものとか、 てっきり業界に関係のあった方だと思い込んでいたので、二度吃驚であった。

GPZ750Rに乗っておられたこともあると聞いて、また親しみを覚えた。

二輪に関係のあった方、興味のある方にはお奨めの論文である。

旧い時代の話も面白い。 メグロや浅間火山レース、小型自動車工業会、所謂「小自工」などの記述も懐かしい。

最後のまとめで、「温室のなかの競争」と言われた四輪車産業と違って、 「陽だまりの産業」であった二輪車産業は、自ら「陽だまりの外、海外」へ飛び出して行って、僅か15年ほどで世界一の地位を築いたというくだりも共感できた。

「流通やマーケッテング面からの考察」が抜けていると書いておられる。 流通やマーケッテング面を主として、同じ時期経験したのだが、とてもこのレベルでの記述は不可能である。 そんな高いレベルで纏められている。

是非、ご一読をお奨めしたい。


アメリカの孫たちから、昨日のTom&Loveの写真の出来映えについて、「Good job」とお褒めのコメントが入る。

世界も狭くなったものである。

030 20070105 Kawasaki let the good times roll

[編集]

2007-01-05 06:38:22 | カワサキ単車の昔話 1973年アメリカ市場。Z1やジェットスキーが登場し、華々しく市場が拡大していた頃、

「kawasaki let the good times roll」

カワサキの基本コンセプト 「Good Timeコンセプト」 は造られ発表された。

軽快なテーマソングと共に、全米で拍手をもって受け容れられ話題となった。 今なお受け継がれ、全世界で展開されている。

アメリカで発想され、英語で造られているので、正式な日本語の訳はないのだが、

「カワサキはグッドタイムをどんどん転がしてゆく」

カワサキに出会う人はみんなハッピーになるような、そんな企業活動を展開していこう、というコンセプトである。

カワサキに出会う人、それは カワサキに乗るユーザーは勿論、カワサキを取り扱う販売店、カワサキの従業員、業界の人たちや モーターサイクルやジェットスキーで一緒に集い遊ぶ仲間たちも、みんなGood Timeに過ごせるようにと願い,

道行く人たちにも、せめて迷惑を掛けないという心遣いをしよう、 企業の社会的責任を全うしようという、そんな想いを托しているのである。


非常にいいコンセプトで、「Kawasaki」に限らず、そこに「何が入っても」世のためになると思っている。 「私自身」もそう在りたいと願っているし、「雑感日記」もそうあって欲しいと願いつつ毎日発信している。

世の中、殺伐として余りほのぼのとした話題の少ない昨今だが、 今年こそ、「Good Times」 が沢山転がっていくような展開になって欲しいと願いたい。


また、世に堂々と 「Good Timesコンセプト」 を発表しているカワサキの皆さんは、 新年に、心新たにコンセプトに違わぬ企業活動の展開を期して欲しいと思うものである。

031 200701061980年激動期 昔話ー19

[編集]

2007-01-06 06:42:47 | カワサキ単車の昔話 「1980年代苦難&激動期」-大庭本部長時代

1980年代前半の二輪車業界の混乱は、ある意味では業界各社みんなが頑張り過ぎたのだと思う。 背伸びが過当競争になり、ダンピング訴訟などから大問題になったのである。

カワサキもその渦の中に巻き込まれ存亡の危機に見舞われたが、本社も一体となった構造的な対策によって何とか危機を脱することが出来た。

82年後半、海外販社の管理を一元的に見る専門部門を新設し、KMC対策、ヨーロッパ販社の対策など主として海外販社対策を重点的に行って、事業部運営を含めたトータルの仕組み造りに取り組んだのである。


83年7月からの3年間、大庭単車事業本部長の時代はいろいろ大変なことも多かったが、力もついた時代であったと思う。

84年度はGPZ900,750のNinjyaシリーズ、ジェットスキー550・440の好調もあって,全販売会社が揃って黒字転換し、KMCも累損消去の目途が立ち新社屋建設の計画も具体化するまでに順調な回復を見せた。

単車に係る世界中の全事業が黒字になったのは、単車事業始まって以来の快挙であった。

順調に推移した事業展開であったが、85年半ばからの円高傾向で、またまた大変な時代に突入した。 85年7月239円だったものが、11月に200円、86年2月には190円、7月には155円と1年間で80円もの円高で、単純計算するとカワサキのレベルでも500億円以上の損失額になる規模のものであった。

事業部側の単年度の損益は悪化したが、販社が値上げにも耐えることが出来たのと、全社的な対策で切り抜けることが出来たのだが、この時期は円高だけでなく、アメリカのPL対策やポリスバイク対策など、激動期と言える時代であった。

86年には国内KMJ及びKMCの新社屋も落成し気分一新し、、6月には大庭さんは副社長に、高橋さんが本部長に就任されることになった。


大庭さんにはいろんな思い出も多いのだが、 就任2ヶ月目の83年9月に本社部長を集めた会議で

「単車は思ったより確りしている。川重の中で将来性のある事業である。」 といって頂いたのが一番心に残っている。

それまで本当に長い間、川重という受注生産体質の企業の中で、特異な単車事業を理解してもらうのは本当に難しいことだったのである。 大庭さんは副社長で本社に戻られる頃には、単車事業に対して熱烈な愛情を抱かれるまでになっていた。

この大庭さんの3年間、高橋(企画)、酒井(生産)、安藤(技術)、田崎(KMC)さんらと共に私は企画を担当して大庭さんに仕えたが、会社生活で一番思い出多い充実した時代であったと思う。

大庭さんは無茶苦茶怖いところもあったが、 私にとっては、ずっと本音で話が出来た。本音で話せば通ずる気持ちのいい上司であった。 こう言っても信じて貰えないかも知れないが、事実である。

その大庭さんも故人になられた。 一緒に頑張った安藤さんも、武本、岩崎さんも、寂しい限りである。

032 20070108 SEMBAさん60周年

[編集]

2007-01-08 06:34:22 | カワサキ単車の昔話 夕方、二輪車新聞の衛藤誠さんから電話があった。

「私のブログをどうすれば読めるのか」という質問の電話である。 衛藤さんは、本当にずっと昔、1960年頃からお世話になっている敏腕記者である。今もなお現役である。 だが、残念ながらパソコンが駄目なようで。

衛藤さんと話しても埒が明かないので、奥さんに代わって頂いて用件は完了した。

今でも家に二輪車新聞を送って頂いている。私の貴重な情報源である。 昨日届いた新聞の記事に、「SEMBA創業60周年の記念活動」の見出しの記事があった。 衛藤さんでなければ書けない、詳細な記事で、66年大阪カワサキ共栄会結成時の岡田博社長のことにも触れてあった。

本当に懐かしく思い出され、60周年のお祝いのメールをお打ちしたら、早速次男の康さんから返信が来て、その中にこんな昔のコメントがあった。

[世界のホンダ、日本のヤマハ,明石のカワサキの話はよく聞きますが、もうとっくに世界のカワサキになったなあと話をしています。」 70年11月私が大阪に就任直後の話で、まだ全然駄目だったころ、船場さんに言われた懐かしい話である。

今は息子さん二人がご活躍のようだが、「帳簿はまだ父がやっていて困っています。」ともあった。 お元気で何よりである。

息子さんたちも多分ご存知ないと思うが、 どちらかの息子さんあてに岡崎のある販売店からオートバイのDMが届いた。 船場さんに頼まれて文句を言いに行った。 日記によると75年7月24日のことである。 ) DMを出したのは,ヤマハオートーセンター(現レッドバロンの)杉浦斎さんだった。  今多分、日本で一番大きい販売店になっていると思うが、その頃は未だ、岡崎の1店舗だけだった。

「こんな田舎で客が少ない中、努力して売ろうとしている。DMを出して何が悪い。」と反撃された。 当時,認証工場の資格を取り、安全運転コースをもつ経営姿勢は立派だと思った。初めての出会いであった。

お陰で、杉浦さんとも仲良くなった。仕事上ではお互いに譲らず喧々諤々やりあったが、何となく性があった。 家には杉浦さんから贈って頂いた立派な額などがある。見るたびに懐かしい。

私と杉浦さんを取り持ってくれたのは、船場さんに届いた1通のDMであった。

衛藤さん、岡田さん、杉浦さん、みんな一流である。 益々のご活躍を祈りたい。

033 20070109 衛藤誠さんのこと

[編集]

2007-01-09 06:35:16 | カワサキ単車の昔話 昨日、衛藤誠さんのことに少し触れたが、本当に永い間のお付き合いである。

オートバイ誌や二輪車新聞の大阪支社の記者をやって居られるのだが、関西のメーカーはカワサキ1社のためカワサキ専門のような立場でのお付き合いが続いた。

上司の小野助治さんに衛藤さんを紹介して貰ったのは1962年のはじめ頃だから、もう50年にもなる。

勿論、取材を通じてのお付き合いなのだが、商売柄とはいえ、兎に角上手に文章を纏められるのである。 「ややこしく纏めにくい話は衛藤さんにして、その新聞記事を読んだほうが、部下に頼むよりずっといい。」などと矢野昭典さんなんかよく言っていた。

広報を離れてからもいろいろお世話になったし、ここぞという時には援けて頂いた。 大阪での特約店実施構想については、72年9月1日の二輪車新聞トップ記事で大々的に採り上げて頂いた。 本社からは文句を言われたが、退路を断って取り組まねば出来ない、難しく大きな仕事だと思ったので、そんな覚悟で衛藤さんに敢えて話をしたことを覚えている。

あの記事を見て大阪の販売店も 「特約店制に懸けるカワサキの本気」 を信じてくれたと思う。

それからも何度か、難しく大きな仕事は衛藤さんの記事に援けて貰った事が多い。


話は変わるが、 今も事業部の取材を続けておられるようだが、衛藤さんにも弱点があって横文字、カタカナは日本語と違ってどうも苦手のようである。

今も新春恒例で何十年も続いているカワサキの本年度基本方針が連載されているが、この頃はトップ層もどんどん若くなって話の中の横文字も昔に比べると多くなっているのだろう。

解らない単語の翻訳を時々H君に頼んでいるとか。 その時直接聞けばと思うが、なかなか聞くのも難しいのかも知れない。

衛藤さんにとっては位に関係なく昔の人、例えば小野、苧野、高橋、大庭、田崎、矢野、北村、岩崎さんなどのほうが付き合った期間も永く話し易かったのかとも思う。

人間、誰でも若い頃を知らない人については、随分と偉く近づき難く見えてしまうものである。 私なども、そんな経験が多く成りかけている。 年をとったということか。

昨日の衛藤さんとの電話の雑談で、そんなことを感じた。

034 20070110 1980年代後半 昔話ー20

[編集]

2007-01-10 06:29:04 | カワサキ単車の昔話 「1980年代後半 苦難&激動期」-高橋本部長時代

1986年6月、高橋さんが新しく本部長に就任された。 永い苦難の年月を経て、はじめて生え抜きのメンバーたちで構成された事業部であった。

80年前半の苦難に満ちた激動の時代もようやく安定はの兆しが見え始めた。 翌年には単車、発動機が合併してCP事業本部がスタートし、川重は大庭社長の新体制を迎えた。

川崎重工業も単車事業部も新しい時代がスタートしたと言っていい。 事業部にとって80年代後半は、将来の安定的な対策を講じた時代と言えよう。

円高の影響もあり、特に業績が安定して良かったという訳ではないが、中長期の観点から将来の布石、事業展開の基盤を構築しようという気運になる余裕が生じたのだと思う。


国内市場をアメリカと共に最重点市場としての拡販対策。

安定的な基盤を確立するためアメリカKMCの内部体制の強化、累積損失の消去。

コストのドル化対策として、発動機のエンジン工場のアメリカ、メアリービルへの移転計画。

ジェットスキーの国内ならびにヨーロッパへの本格的な拡販など。

トッピックスとしては、SPA直入の建設計画、ソウルオリンピックのジェットスキーデモンストレーションなども計画実施に移された。


この時期、KMCは田崎さんから百合草さんへ社長交代があり、CP事業本部の企画室長には柏木さんが担当された。 私は、企画から営業に移り、KMC対策、ジェットスキー拡販、SPA直入などを担当した。


1990年代に入ると、この事業で育った若手諸君がいろんな分野で、積極的な活動を展開し、単に事業部の経営だけでなく川崎重工業を支える中枢の事業に発展して行くのである。。

035 20070110 1990年代 昔話ー21

[編集]

2007-01-10 07:00:54 | カワサキ単車の昔話 1990年代はカワサキの単車事業は安定、発展期に入ったと言っていいだろう。

発動機エンジンのメアリービル工場移転や欧州販社の統合など構造的な対策が行われたが、20数年続いた苦難の時期を乗り越えた自信に満ちた落ち着いた展開であったと思う。

高橋本部長から、更に田崎本部長へと単車のスタート時点から苦労を共にした人たちが、貴重な体験に基づいたオーソドックスな施策を展開して事業を万全なものに仕上げていった時期だと言えよう。


私自身はこの時期、高橋鉄郎社長の下、カワサキモータースジャパン(KMJ)で古巣の国内の市場対策に専念した。

ゼファーの大ヒット、ジェットスキーの大飛躍などもあって、販売台数7万台の目標を達成し、特に90年代前半はKMCとともに事業部の経営に大いに貢献できた。

80年ごろの国内販社再建、84年ごろのKMC再建に色濃く関係したものとして、その感慨はひとしおであった。


90年代の国内対策は、単に販売の拡大、経営内容の改善強化だけでなく、 ソフト対策として、

「Good Timeコンセプト」の確立。 「カワサキのイメージ向上」対策。 「ダイレクトコミユニケーション」を企図したユーザー対策。 が特徴的である。

遊び半分では真の遊びは出来ないと 「ソフトの事業化」 にチャレンジしてソフト会社 「Kスポーツシステム」 を設立し専門的に各種イベントなどの展開を幅広く行った。 最盛期にはユーザークラブKAZEの会員は5万人にも達した。

具体的な対策として

一般のライダーが気楽に走れるサーキットSPA直入の開設。

ユーザークラブ「KAZE」による末端ユーザー及び周辺対策。

チームグリーンを核とした、サテライトチームによる二輪レース活動の展開。 BEET, 月木レーシング、 阪神ライデングスクールなど。

JJSBAによるジェットスキーレース活動の展開。

また、新販売網「ARK]を対象に受注、仕切り販売など先駆けて実施し取引の正常化を図り業界をリードした。


90年後半は、企業の社会的責任としての環境整備を業界と協力して、 二輪のユーザー、販売店、メーカーを含めた組織、NMCA日本二輪車協会の設立への協力、 パーソナル、ウオータークラフト(PW)の安全運転活動として、PW安全協会の設立への協力二輪車専門自動車学校立など、二輪ならびにPW業界の周辺分野の整備に注力した。

これらはカワサキの基本コンセプト「Good Timeコンセプト」に基づいた活動であり、更に充実した活動が今も続けられている。

私のサラリーマン生活で最も充実し、楽しく面白かった時期である。 この時期を一緒に築いてくれた、幾つもの想いでを共有する若い仲間たちに、心から感謝したい。

036 20070119 ZEPHYRの話

[編集]

2007-01-19 06:25:32 | カワサキ単車の昔話

昨日、ブログを見ていて,名文で綴られた弁天小僧さんのカワサキゼファーの終焉にたまたま出会った。 懐かしく、コメントなどさして頂いた。是非ご覧下さい。

89年5月発売された今までにないコンセプトのバイクZEPHYRは、予測を大幅に上回った売れ行きを示した。

従来のレーサーレプリカのような馬力も、特に誇れる技術的な長所も無く、ただ何となく独特の雰囲気が感じられる人の感性に訴える車だったのだが、もっと気軽に乗れる車は時代の要請だったのだろうか。

文字通り「西からの風」となって全国のモーターサイクルファンを魅了したのである。 ZEPHYRというネーミングがいいという人たちと、やはりKawasakiが欲しいという熱烈なカワサキシンパがいてオプションで別にプレートを用意したりした。

この車を開発した、新しいコンセプトを造り上げた開発スタッフに本当に敬意を表したいと思う。 営業の第一線にいたのだが、正直これほど売れるとは思ってもみなかった。2年を超えてバックオーダーが続いたのである。

1991年6月1日、11時55分、年間移動値で目標の70000台を達成した。事務所で大きな拍手が起こったのを覚えている。

カワサキにとって、はじめて7万台の壁を破った一瞬であった。 当時のZEPHYRに関係した全員の誇れる勲章であった。

それはZEPHYRをこよなく可愛がって頂いたユーザーを中心に、数多くのカワサキファンによってもたらされたものである。

1100,750が生産中止になる話は知らなかった。 もう15年以上もも経つのかと感慨もひとしおである。

W1,Z2,400FX,GPZ400,など幾つものいい思い出がある。 近い将来、また新しいヒット商品が出ることをユーザーとともに期待したい。

037 20070128 ブログとコメントとカワサキ屋

[編集]

2007-01-28 06:23:14 | カワサキ単車の昔話

カワサキ屋。名古屋の名西カワサキのインターネットショップである。 名西カワサキの名前は現役時代からよく承知していた。

もうだいぶ昔の話だが、別府へ行くフエリーのなかで、 何となくそんな気がして「SPA直入に行くのですか」と声をかけたら、びっくりした顔で「そうです。」と答えてくれた若いライダーが名西カワサキのお客さんだった。


つい最近、「W650とタカミーのブログ」に出会って,名西カワサキ主催の苺がりツーリングに行く記事に「楽しそうですね」とコメントしたのがはじまりである。

このなかで、カワサキ屋店長公認ブログにも名西カワサキにも、インターネットショップーカワサキ屋にも出会ったのである。 ネット社会の現在、カワサキ屋も面白いと思ったし、公認ブログカワサキ屋はもっと面白いと思った。

フエリーのなかで出会ったように、偶然の出会いであった。

起点はタカミーさんなのである。

どんどん繋がるものだと自分でも感心している。繋がるだけでなく会って言葉を交わしたような親密感が残るのがいい。

「名西カワサキさんにもよろしく」とコメントし「店長よろこんでました」と戻るだけで、そんな感じになるのである。

タカミーさんのブログには、W650に関連するブログやHP,KMJ,名西カワサキ、カワサキ屋など沢山のリンクが貼られている。今回「雑感日記」も加えて頂いた。


自然に出来上がっていくネットワーク、そんな感じである。 意識的にネットワークは造れるが,機能させるのはなかなか難しい。

そんなことを解決できるのではないかというヒントを、ブログと「そのコメント」に見つけたような気がする。


ブログを立ち上げている、販売店も幾つか出来だした。 世の中、まさにSNS(ソーシャル、ネットワーキング、システム)の時代である。

カワサキ屋を取り巻くこのネットワークも「より楽しいモーターサイクルの世界」を造って欲しいと思っている。

038 20070130 受注と量産事業の常識 昔話ー25

[編集]

2007-01-30 06:42:31 | カワサキ単車の昔話 受注事業と量産事業の常識

1982,3年頃はまだ赤字事業部で本社の理解も乏しかった。

単車以外は、全て受注生産という会社の中では、受注事業の常識が主流になるのは至極当然のことである。 そんな中で量産事業そのものがどんなものかを理解をしてもらうのに骨が折れた。


今ならホントに笑い話の範疇であろうが,本社企画との間で真面目な話で論議された。

ニューモデルの開発時点で、試作車を何台も作り走行テストなどいろんなテストを行う。 新たな部品も使ったりするので、試作車は結構高く付くのが常識である。 開発費の話のときにこれが話題になった。

「そんなオモチャみたいな高いものを何台も造るのか。」と吃驚する。 「そんなことをしているから赤字になるのでは」と言わんばかりの議論になるのである。

確かに考えてみれば、船も鉄道車両も橋梁も、ぶっつけ本番で製造され試作などないのが当たり前で、それが受注事業の常識なのである。

こんな、お互いに持っている常識が全然異なっている人たちが、お互いを理解することはなかなか難しかったのである。


大庭さんが本部長に来られてからも、 棚卸しで「ラインを止めてビスやナットの数を数える」「そんな無駄なことは止められないのか」と言われたりした。 受注事業では棚卸しの概念がないのである。

決算時に部品在庫のうち、動かない部品を廃却する。 その金額はトータルすると億になったりするので、本当に捨ててしまうのかと驚かれて決済を躊躇されたことがある。 大前太さんと二人で「ちょっと印お借りします」と言って沢山あった書類に勝手に捺印させて頂いた。

確かに、注文さえあれば使える部品、不良品でもないものを捨ててしまうのは勿体ないのだが。 廃却という概念がないのである。これも事業形態の差であろう。


大庭さんは、 怖かったが一端理解して頂くと「自分もずっと以前からそう思っていた」というようなすっきりとした態度で支持して頂けたので、本当に説得甲斐もあったし気持ちが良かった。

本部長時代の懐かしい大庭さんの思い出である。

039 20070201 部品補給

[編集]

2007-02-01 06:30:00 | カワサキ単車の昔話 二輪車という商品は部品補給の頻度は非常に多い。これが悪いと即サービスが悪いということになる。

全国各県に営業所などの出先があった時代、 1970年代の部品管理、部品補給のポリシーは各出先の部品庫に出来る限り効率的に、且つ大量に部品を確保し顧客の要望に応えるという漠然としたものだった。

何万点もある部品を、動きの多いものを中心に人間のカンで在庫として揃えるという作業は、容易なことではなかった。

持たぬと揃わない、持ちすぎると不良在庫になる。 更に、1機種で大量に売れたヒット商品が少ない時代、部品は常に経営の足を引っ張っていた。

そんな時代、大阪の浜寺モータースの親父さんに「9点部品を注文しているのに6点しか届いていない。6点の請求書だけは来た。9点揃わぬと修理は出来ないのだ。」とこっぴどく怒られた。

これがヒントで、大掛かりな部品補給システムの大改革に取り組んだ。

1.出先は部品倉庫も部品も一切持たない。 2.根元に大規模な部品倉庫を一つだけ持つ。 3.そこから出先までの発送を出来る限り早く送る方法を考える。

今では、殆どの企業がこのような仕組みを持っているが、当時そんな発想は画期的だったと思う。 社内で反対するところが続出したが、そんなところは、放っておいて賛成する拠点だけ順番に実施した。

結果は大成功で、悪い悪いと言われていたカワサキの部品補給は一挙に改善されたのである。 専門の部品会社の経営を苧野豊秋さんがどんどん改良されて、全国殆どのところが注文の翌日には部品が届く状況になった。

10年後、同じ発想でヨーロッパの部品をオランダに集めて、そこから各国のデーラーに直送するシステムを組んだ。

あれほど、経営の足を引っ張っていた部品が、今、多分経営を維持する基盤の一つになっていると思う。


部品を必要とするのは新車ばかりではない、むしろ中古車に部品は絶対に必要である。


東京にINT-MURASIMAという部品専門のお店がある。全国どこにでも、部品発送をしてくれている。 開店以来のお付き合いだが、つい先日メールを頂いた。

村島さんの感覚は素晴らしものを持っている。是非今後も頑張って欲しいと思う。

040 20070202 苧野豊秋さんのこと 昔話ー26

[編集]

2007-02-02 06:46:46 | カワサキ単車の昔話 苧野豊秋さんのこと


単車に配属された1962年から直接の上司として、永くお世話になった。

特に、広報やレースを担当していた頃は直接の指示を仰いだし、その後東北や大阪の頃は専務という大局的な見地からの指導も頂いた。

高橋さんと市場開発プロジェクトを立ち上げたときには、営業部隊の現地実戦メンバーとして耕森君や久後君を派遣して頂いて大いに助かったのも、懐かしい想い出である。

その後、私が国内の販社を担当して後は部品会社の社長として末端へのダイレクト発送システムを完成させるなど援けて頂いた。

往年になっても、新しいことにチャレンジされてジェットスキーの国内販売網や西武自動車と国内のJSレースの創生期から尽力された。

JJSBAの設立のためアメリカにご一緒した。 その時アメリカ側で協力してくれたのが田崎さん(現川重会長)である。私も田崎さんもかって苧野さんの部下だったので終始和やかなムードのアメリカ出張であった。

苧野さんはJJSBA初代会長でもある。

若い頃の苧野さんは、迫力もあり怖かったが、技術屋さんらしからぬ営業センスがあって末端がお好きだった。 晩年、JJSBAの若いライダーたちとも気軽に付き合われて人気があった。

ソウルオリンピック開会式と同時に行われた、ジェットスキーのデモンストレーションにも世界のライダーたちと共に、ご一緒したのもいい想い出でである。

もともと、高橋さんや田崎さんと同じJET部門の出身で、お会いした当初は、カタカナ横文字の連発で理解できずに苦労した。「拙速」の発音がどうしても英語に聞こえて辞書で探し回った、笑い話のようなこともあった。

そんな、懐かしい苧野さんも亡くなられてもう2年以上にもなる。

心から、ご冥福をお祈りしたい。

041 20070204 人事の話 昔話ー27

[編集]

2007-02-04 06:29:20 | カワサキ単車の昔話 人事の話

サラリーマンにとって人事は最大の関心事である。

1981、2年頃HY戦争の余波もあって二輪車業界が大変になった時期がある。 カワサキもアメリカのKMCを中心に存亡の危機と全社的に問題になっていた。

81年にKMCに高橋、田崎さんが行かれた。KMCが大変だったのである。 82年4月には山田専務が全社的見地で単車を担当することになった。

いろいろ話はあったのだが、5月末になって、「富永君をKMCの企画に出して欲しい」いう具体的な話が、KMCの高橋さんから正式にあって時期は年末ということで、基本的に了解をした。

富永君は販社籍だから、例外的な人事であった。メーカーサイドには本当に販売の解る人が少なかったのである。4月に東京の責任者で異動したばかりであったが、「お家の一大事」と言うことで、年末という時期で了解をした。


7月1日の早朝、山田専務から自宅に電話があり本社に出頭せよとの指示があった。

事業部の企画に戻れという話である。これは大変なことだと思った。

山田さんは中学の先輩でもあり、レースで一緒だったこともあって話し易かったからだとは思うが、自分の異動に条件をつけたのは、この時だけである。

今回は事業全体の危機である。そしてKMCをはじめ販社に問題がある。 原因はトータルの仕組みの問題で、その対策にはある程度自信はあったが、旗を振るには力が無いと思った。

「KMCの高橋さんに戻って頂けませんか」「技術の解る人を一人」山田さんは、その日は即答はされなかった。

それから3ヶ月、いろいろあったのだが、 10月1日、高橋さんは企画室長で戻られ、大前さんが技術、特に生産関係を援けてくれることになった。 技術オンチの私は生産関係は任せて、世界の販社関係、特に田崎さんが担当したKMCの応援に専念できる体制になった。

全軍に旗を振る高橋さんが居られて、はじめて機能した体制だったと思う。


富永君には日野君もつけて、10月KMCに出向となった。 その後、二人はKMCで大いに活躍した。 マーケテングや販売管理面に精通したプロだったので、話が通じやすく助かった。

人事というのは、運みたいなものがある。

3月ごろ、高橋さんからの話ではじまった富永君の人事だったが、その時私が了解したので一緒にまた仕事をすることになり、高橋さんはアメリカから日本へ戻られた。 田崎さんはKMCの重責をひとりで背負うこととなった。

いろんなことがあったが結果が上手くいったので、本当に良かったと思っている。

042 20070207 岩崎茂樹君のこと 昔話ー28

[編集]

2007-02-07 06:24:53 | カワサキ単車の昔話

岩崎茂樹君のこと

先日、haradaさんなる方から、「川重の岩崎さん(故人)には非常に感謝しています。人生の分岐点に本音のアドバイスを頂いたのが懐かしく感じます。」というコメントを頂いた。

いつか必ず登場して貰わねばならぬ、カワサキ単車の歴史を背負ったような人で、若い頃から亡くなる直前まで、お付き合い頂いた。

何故俺を早く登場させないのかと、冥土から督促されたような気もする。 少し,長くなるかも知れぬが、故人の供養と思ってお付き合い願いたい。


好奇心のかたまりのような人だった。 そして、それに詳しくならぬとおれぬ性格で、兎に角何でも知っていた。

兵庫県の生野高校野球部の出身で、当時全国的な強豪チームだったオール生野のメンバーに明石のOBが数多くいて、その人たちに高校時代コーチを受けたとか。 明石野球部OB関連の話は、明石野球部OBの私よりも数段詳しく、いつも私は聞き役だった。

渓流つり、狩猟、カワサキが本格的に単車をやる前から、ハーレーダビットソンに乗るなど多趣味でもあった。

彼とのはじめての出会いは、1962年まだ単車に本格的に参入していなかった時期、彼は本社の監査室にいて、構内運搬車関係の監査を受けたときである。

学習院を出た、「くろやなぎ君」という面白いのがいて、半年で20台位しか販売していないのに二重売上などがあったりして、どうしても台数や在庫が合わないのである。 直接、関係なかったのだが、引っ張り出されてボール紙を切って、20枚ほど作り車体NOを記入し、どこへ売ったここへ行ったと終日やったのが最初である。


その後、単車再建が決まり、本社からも人が集められたとき販売促進部に来て、単車でのお付き合いが始まった。私が広告宣伝、レースを担当していた頃である。

ハーレーに永年乗っていたこともあり、単車には詳しくレースの造詣も深かった。 兎に角、何でも知っていた。 私が東北に異動したあと、広告とレースを引き継いでくれた。

その後、矢野さんと九州の代理店営業を担当し、当時日本一ウルサイといわれていた鹿児島の金谷さんなど代理店と上手に付き合ったりされていたようだ。

直営部にもどり、生産から販売部門に出向された高橋さん(元川重副社長)の販売面での指南役みたいな感じで、一緒に走り回っていたようだ。 今の大阪営業所の土地、これは間違いなく高橋さんと岩崎君が残されたものである。

私が東北から大阪に戻ったとき、新しい営業所がその土地の上に建っていた。 丁度、大阪万博のあった年である。

当時私は、カワサキ共栄会などを作って大阪の販売網整備に専念していたのだが、 船場モータースの岡田さんとの間を、昔ハーレーのお客だった岩崎君が上手に取り持ってくれりした。


そんなカワサキオートバイ販売時代を経て、事業部の企画に戻るのだが、 ここでは田崎さん(現川重会長)と組んで、当時自動車業界で唯一のアメリカ工場であったリンカーン工場関係を担当していた。 事務屋であったが技術や生産でも器用にこなし、元来監査出身なのでそうは見えなかったが、数字にも強かった。

そして、高橋さんが市場開発プロジェクト室を立ち上げられたとき、私などと一緒にCKDビジネスを担当した。

みんな、はじめて経験する仕事だったが、彼が長で鶴谷君(現川重商事社長)と一番ややこしかったイランを担当し現地駐在もやっている。その頃の面白い話もいっぱいあるのだが。

その後、営業に戻って広報を担当しニューモデルの試乗発表会など世界を駆け巡り、内外の記者諸氏と関係があったので、ご存知の方も多いだろう。


彼と一緒に仕事をするようになったのは、私が企画から営業に移った1988年からである。

いろいろあったが、SPA直入の建設は特に想い出が多い。 サーキット建設、全くの未経験の分野だった。

建設業者もレースコースーの設計については何のノウハウもなかった。 コースのカーブの数、S字の形状、のぼり、下り勾配、パドックとの関係など、所謂コース設計のコンセプトは当方から建設会社に細かく指示をした。

サーキットの建設で、コースそのものよりも、動かす土量、水処理の費用のほうがはるかに金がかかるということもよく解った。 こんなことを踏まえながら、現地の形状などを見て、詳細な仕様を岩崎君と二人で決めた。

その知識を得るために、あちこちのレース場を観に走り歩いた。

本社の阿仁さんと岩崎君が居なかったらSPA直入は実現しなかったと思う。 阿仁さんは、こんな無謀とも思える計画の本社サイドへの説得を一手に引き受けてくれて、現場調査にも同行してくれた。

そして、直入が完成して「SPA直入」のネーミング。 この名付け親は岩崎君である。

SPA直入のSPAは温泉と思っている方が殆どだが、ベルギーの有名なサーキット「スパ、フランコルシェン」のSPAを70%意識して名づけられている。 そんなサーキットが有名であることなど知らなかったが、後年「あのSPAはフランコルシェンのSPAですか」と聞いてくれた人がいる。

好感企業の時代という本を書かれた、中央大学の中江剛毅教授である。4輪の国内A級ライセンスを持っておられた。 感性の領域で好きと感じる、そんな好き嫌いの時代になる、と今後の世の方向を予測されていた。 直入をご案内したときの質問で、流石と思った。


晩年、彼はKMJで、物流関係を担当し手伝ってくれた。 その頃も、スズカのレースのたびに一緒に車で,鈴鹿への道を二人で走った。

その頃の話をもう一つ、スズカでテストをしていたとき、星野インパルも来ていた。 私と岩崎が来ていると聞いて、星野一義君が挨拶に来てくれた。 星野がカワサキにいた20才前後のころ、二人がレース担当だったからである。

周囲の連中が星野のサインを欲しがって貰っていた時、 「星野もいいが、右京のほうが」と言っていた。 まだ片山右京が星野のチームにいて、私などは右京が何人か、全然知らなかった。 そんな風に何でも知っていたのである。

退職してからも、狩猟の犬の散歩、散歩と言っても訓練だが、そのために三木近郊の山に来て、そのたびに家に訪ねてくれた。


そんな彼だったが、突然逝ってしまった。いい奴だったのに。ご冥福を祈りたい。


少々長くなりましたが、最後まで付き合って頂いて有難うございました。

043 20070212 SEAZ COMPANYのtoyamaさん

[編集]

2007-02-12 06:22:08 | カワサキ単車の昔話 岩崎茂樹君(故人)のことを思い出して書いたブログに「岩崎さんのこと書いて頂いて有難うございました」というコメントを頂いた。

以前から、店の名前やHPは承知していた。

旅行かばんとモーターサイクルが目に入る、所謂インターネットショップのホームページだが、アクセス数250000件、家の直ぐ近くだということ位が印象として残っていた。

直接お会いして、帰ってもう一度ホームページをじっくり見せて頂いて、これは改めてどうしてもご紹介しようと思ったのである。


もともと三木の出身だが、神戸にいて三木に戻ったこと、オートバイ屋もやったとか、Z1には特別の想いをもっておられるのは、直ぐ解った。

岩崎君とのいろいろな話、Z1が好きで好きでたまらないドイツ人Micky Hesseの話、 彼とKiyoさんの店を訪ねたこと、部品はマイスターの森田君のところから仕入れているとか、彼から私のことを聞いたとか、 Z1に関するKHIの人たちの懐かしい名前や写真がいっぱいあって楽しい会話が続いた。

途中からは、陸運局に出すZ2の資料を求めて、わざわざ堺から訪ねてきたお客さんも話しに加わって、いろんな懐かしい名前がどんどん飛び出す会話になった。

肝心のZ2の資料は沢山の資料から探しても見つからず、KMJのお客様相談室の能地君に直接電話したら、「資料はないがコピーなら証明して送れる」ということで解決した。 私もお役に立てて。ほっとした。


帰りに,Micky Hesseのサイン入りの「Z1KAWASAKI]と「900Z1」の夫々200ページ以上のZ1の写真と記事にあふれた、立派な本をお借りして家に戻った。

改めて、HPの中の「あるZ1の物語」を見て、是非ご紹介しようと思った。


「イタリヤ、アルプスの麓から1台のZ1が25年ぶりに祖国日本に戻り、toyamaさんの手元から、さらに生まれ故郷の明石に戻って、今、Kawasakiの資料館で他の仲間たちと一緒に、工場を訪れるカワサキファンとお会いできる日を楽しみにしている。」という感動の物語である。

そして、この物語は「何よりそれが私がこの店を始めた理由そのものですから。」と結ばれて終わっている。


ドイツ語と英語だけで書かれているこの本の見開きのページに 「温故知新」という日本語があり、「on ko chi shin]と書かれている。

Micky HesseがZ1の本を作ろうと計画したがなかなか上手くいかず困っていた時に、偶然出会ったのが岩崎茂樹君だったそうである。

「カワサキは、新しいバイクの販促には熱心だが、Z1のような旧いバイクには関心がないのか」というHesseの質問に対して、 岩崎君は箸袋に「温故知新」と書きその意味を説明したのだという。

それに感激をしたMicky Hesseが、この本のサブネームとして「温故知新」を採り入れているという。

岩崎君を知っている人ならみな、「岩崎らしいな」と思ういい話である。 haradaさんのコメントから書き出した「岩崎茂樹君(故人)のこと」は思わぬ展開を見せたが、いい話が出来て、故人の供養になったと思っている。


カワサキファン、Zを愛する方たちは勿論、バイクを愛する方どなたも。 是非ご一読をお奨めする。

044 20070213カワサキの販売経験者 昔話ー29

[編集]

2007-02-13 06:15:49 | カワサキ単車の昔話 カワサキの販売経験者

カワサキの二輪事業において、販売の経験者、マーケッテングの解る人、これが極端に少ないのが特徴である。

これを解決するのは難しいが、課題ではあると思う。 昔話ではあるが、今の話なのかも知れない。

これは、事業展開が国内だけに絞られていた1960年代前半、販売に関係した人は、全てメイハツとメグロの人たちだったことから始まっている。 そのシステムは、ある意味、今でも続いている。

私はたまたまその頃(25才頃)営業に配属されたが、販売関係で上の人は全てメイハツ、メグロの人たちだった。 そんな平社員の頃の販売の経験は、私の体質となって非常に役に立ったと思っっている。

「若し仮に、カワサキ航空機の人たちで販売をやっていたら、多分、三菱や富士重やBSなどのように、この業界からの撤退を余儀なくされたであろう。 カワサキが生き残ったのは、国内ではメイハツ、メグロの人たち、アメリカではアメリカ人が販売を担当してくれたお陰だと思う。」

045 20070215 話のレベル  昔話ー30

[編集]

2007-02-15 06:28:13 | カワサキ単車の昔話 話のレベル

私は技術や生産関連のことは、あまり詳しくない。技術屋さん同志の会話にはレベルが高すぎてついていけないことが多かった。

レースでも広報でも財務のはなしでも、仲間内では、基礎的なこと、常識になっていることなどは、当然解っているものとして、その上のレベルの会話になる。 そこに素人が入ると説明が必要になる。

何が言いたいのかと言うと、 川重の事業部内で販売の話をする時に「殆どが、説明のレベルでそれ以上のレベルで話をした記憶がない。」 ましてや、本社の人たちには、通常のレベルでの話は通用しないのである。

販売が解る人が、本当に少ないのである。 確かに、鶴谷君のように「ツーカー」で話が出来る人は居た。 然し、そのレベルの話は会議では通用しないのである。 解って貰うためには説明が必要で殆ど議論ではなく説明をしていたと思う。

逆に、技術や生産の話で白熱すると私などとてもついていけなかった。 これは、まさしくプロの領域であったことを認める。

事業部も、KMCも大変であった1983年当時、私は企画にいたのだが、 KMCに国内販社から富永君と日野君が逆出向で行ってくれて、本当に助かった。 主として販売に関する数値的な管理、事業計画が主で販売そのものではなかったのだが、あるレベル以上での会話が出来た。

富永君の人事は、先日も触れたが、当時KMCの会長だった高橋鉄郎さんの要望で実現したものである。 高橋さん独特の表現、「匂いが解る奴」が必要なのである。 匂いをかぎ分けることは、本を読んでも駄目である。

販売などは、学問ではないのでそんなに難しい分野ではないが、「匂いを嗅ぎ分ける」レベルになるのは,意外に難しいのである。 単に、販売を永く経験したから身に付くわけでもない。

説明のしようがない難しさが、販売やマーケッテングにはあると思う。 一言で言うと「それに向いている人」なら大丈夫と思う。 と社内の昇格論文に書いて怒られたが、今でも正しいと信じている。

海外市場の開拓期その中心となったのは、 ヨーロッパ、イギリスはメグロ出身の内田道夫君(故人)だった。彼はイギリスの後、カナダも担当した。 東南アジアの販売は、当時のカワサキオートバイの耕守正昭君や久後淳一郎君が担当し耕森君はその後ずっと東南アジアを担当し、エキスパートとして認められている。 先日も触れたが、アメリカのKMCの対策の一つとして富永邦彦君、日野勉君が逆出向をした。

この人たちはみな、入社当時からの販売経験者である。

川重籍で販売が解る人が、少なくなってきていることが心配である。 確かに、海外や国内の経験のある人はいるにはいるが、本当に若い時代から一線に近いところにいた人が少ないのである。

「管理職としての販売の経験ではなかなか本当のことは解らない」ということは、 北海道川重建機で二輪車と違う建設機械を経験してみてよく解った。

解ったような気がするだけである。 「そう思ってくれるといいのだが、本当に解ったと錯覚するのがこわい。」

少し楽観的なことをいうと、バイクが売れるのは「販売力ではない」圧倒的に「商品力」である。 Z,FX,ゼファーなどホンダさんと対抗できるほどよく売れたのは間違いなく商品力である。


確かに、難しそうな課題ではあるが、 基本的に「末端への視点」があり、本当に「末端を知ろうという心」があれば、経験などなくても解決するのかも知れない。

046 20070218 嬉しい招待状

[編集]

2007-02-18 05:59:53 | カワサキ単車の昔話 仙台の服部君から突然の電話、声を聞くのは10年振りである。

電話の声は、10年の空白からか最初は非常に硬く緊張したものだった。 こちらが、むかしの通りの対応をしたので、直ぐむかしのままの服部君に戻った。

「3月6日に開店30周年の記念パーテイをやるので、出席して頂けないか」というご招待である。 「喜んで出席します。」と即答した。

服部謙治君。東北を担当した仙台時代にいろんな思い出がある。 宮城カワサキの工場長で特に4サイクルのエンジンの技術があって、当時はまだメグロの白バイが主力の時代だったから、白バイのメンテナンスを一手に引き受けていた。 もう一つ、モトクロスが好きで、且つ早かったし職場に大沢,柄沢という同僚も居てチームとしてやっていた。

私がレース担当直後だったこともあり、ファクトリーにまだ顔も効いたし、レースそのものが好きだったのでいろいろと面倒をみてあげた。

彼が今の店を開くとき、故郷岩手の遠野に戻ってと言うのを「それは仙台でなければ」と無理やり仙台を薦めたのはよく覚えているのだが、それから30年というのがどうしても私の計算と合わないのである。


今朝、こちらからもう一度電話を掛けて確かめた。

開店は昭和52年3月6日、間違いなく30周年である。その時、私はメーカーの方に戻っていた。 服部君曰く、「出来たら東京、仙台は絶対、遠野は駄目」と確かに言ったという。 どこで、どんなときに言ったのだろうか。一度、日記を引っくり返して調べてみよう。

人間の記憶は、ホントに断片的で頼りないものだと思う。

言った内容は合っているのだが、時期については自分の思いと約7年も開きがある。不思議なものである。

あれから30年、立派な店になった。 年齢は抜き去ることが出来ないので、私などは偉そうに「服部君」などと呼んでいるが、営業の連中にしたら「ホントにエライ服部さん」の筈である。

私が東北にきてはじめて営業を経験した40年ほど前、代理店の社長さんはみな「エライ人」だった。


開店30周年記念にご招待を受けて、本当に感謝している。

047 20070219 堀川運平さんのこと 昔話ー31

[編集]

2007-02-19 06:13:39 | カワサキ単車の昔話 堀川運平さんのこと

川重の本社から来られて、2年ほど単車事業部の企画室長を務められた。

丁度その頃、販社から企画に戻ってお世話になった。

高橋宏さんが部長で、課長クラスは私や田崎、田付、種子島、係長クラスに武本、岩崎、佐藤、森田,今城、繁治さんなど、後々単車や川重を支えた人たちがいた。

堀川さんは、後、企画室長のほかに営業も生産も見られるようになるのだが、「私は生産など解りませんから、人を決めてその人に乗るのですわ」と広言されていた。 「生産は安藤さん(故人)に乗るんです」と言われていた。


堀川さんはもともと財務、資金のご専門で、量産の単車事業などは初めての経験であったのだが、その発想は非常にユニークで、非常に先輩に失礼だが間違いなく、武雄市の樋渡市長のいう「奇人、変人」の範疇に入る素晴らしい方だと思う。

私自身、本当にお世話になった。 堀川さんが本社に戻られてからのことだが、「国内販社の今後の方針」の本社決済をお願いしたとき、その計画の内容は本社スタッフの案とは全然異なる反対の方向であったのだが、「君がそのように考えたのなら、それでいきましょう」と言って頂いた。

今、カワサキモータースジャパンがあるのは、その一言のお陰と思っている。


1983年、単車存亡の危機のとき、本社で会議の直ぐ後立ち話ではあったが、「事業部は50億まではいいですよ」とささやかれた。

「単車の赤字は50億ぐらいまでは、船やその他で何とかする。その代わり販社のほうは、ちゃんとやれ。」ということだと解釈した。

事業部の赤字は、他の事業部で埋められても、販社の決算は連結で直接本体に影響するのである。

「その販社のほうは、財務対策はできても本社に販社経営のノウハウはなく本社でコントロール出来ない、そこのところをちゃんと頼む。」と言われたと解釈して、事業部の企画担当で事業部損益管理責任はあったのだが、むしろ海外販社の損益改善中心にに全力を傾注した。

この堀川さんの二言は大きな影響があったし、その判断は非常に的確であったと思っている。

一度機会があれば、真意をお聞きしてみたいと思う。覚えておられるだろうか。

048 20070220 仙台事務所 昔話ー32

[編集]

2007-02-20 06:22:49 | カワサキ単車の昔話 仙台事務所のスタートの思い出

広報やレース担当の後、1967年1月から約4年間仙台で東北6県を担当した。

「仙台に事務所を作って東北6県を上手くやれ」そんな曖昧な指示だけだった。

引継ぎなど一切なかった。 自分にとってはじめての転勤であったが、どこを事務所にするのか、自分の住む家をどこにするか、など一切白紙の状況で全て自分で決めなければならなかった。

今思えば無茶な話だが、余り苦にもならなかった。 入社10年目であったが、それまでも会社ではじめてで、上の人が経験のない仕事ばかり担当してきたので慣れていて、そんなものかと思っていた。

自分の住む家をまず決めてスタートした。 もう少し慣れてからにと言ってくれたが家族ははじめから連れて行った。

川重の仙台事務所はどうかと言って頂いたが、どうも単車には馴染めそうにもないのでお断りし, 取り敢えず、宮城カワサキに机を一つ借りて一人でスタートした。

一人というのが一番困った。 女子を雇えというので、新聞に小さな広告を出したら応募があった。 一人目の面接をして即座に採用を決めた。 ぐずぐずしていて後が来るかどうか心配だったし、兎に角早く、一人から開放されたかった。

菊池さんというお嬢さんだったが、結果的にめっちゃ良かったと思っている。 神様がいい人を選んでくれたんだと思った。

宇田川、海老沢君、森谷君と田中さんがそのうち加わり、 石塚君が当初出張ベースで来ていて7人体制でスタートしたのだが、 私自身が未経験、宇田川君もサービスはベテランだが営業初めて、海老ちゃんも営業見習い程度、森谷君は単車の経験なし、石塚君は当時は堅いばっかりの経理やさんで、まともなのはサービスの田中さんだけだった。

こんな素人集団からの出発だったが、東北の4年間はこのメンバー全てにいい成果といい思い出を残してくれたと思っている。 「代理店の経営指導を含んだ営業」を素人集団がやるという常識を超えた責務であったがみんなが背伸びしながらの活動で、ホントにそれぞれ背が伸びたような気がする。

2月半ばからは連日の代理店会に出席のため東北6県を回ったりもしたが

6月までの半年間は、MFJの全日本をはじめ4回もモトクロスレースがあった。 ファクトリのメンバーを招聘したり、当時秋田にいた金子豊君(現星野インパル社長)と彼の空冷パブリカのスポーツカーで走り回ったりしていたが、そんなレースに関係する活動が直接営業に繋がるほど東北はレースが盛んであったのは助かった。

レースに関しては、代理店の社長さんよりも誰よりも詳しく、またレース界に顔が効いたので、一目も二目も置いて頂いた。前職のレースがこれほど役にたつとは思わなかった。

この間ずっと宮城カワサキにお世話になったが、5月には新事務所の土地候補地も決まり、だんだんと営業らしい活動に入っていくのである。

そんな思い出の仙台で、3月6日宮城カワサキにいた服部君が独立開業30周年の記念パーテイがある。 ご招待頂いているので喜んで出席したい。懐かしい限りである。

049 20070223 小野田滋郎さんと加藤純三さん

[編集]

2007-02-23 06:08:25 | カワサキ単車の昔話 最近また、小野田滋郎さんをよく思い出す。フィリッピンの小野田中尉の弟さんである。

ずっと年賀状のやり取りをしてきたのに、今年は来なかった。どうされたのか心配である。

何より考え方や発想が素晴らしく、無茶苦茶厳しかったが、それでいて文学青年みたいな一面もあって酒が入れば古文や和歌がどんどん飛び出す、人を惹きつけてやまぬ人間っぽいところが魅力だった。

私の前の広告宣伝課長で、これを最後にカワサキを辞められたのだが、 送別会のとき、「雑音に耳を貸すな」と言われたのが残っていて、ずっと守ってきた。 雑音に耳を貸さずに突っ走るのは簡単なようでそれなりの覚悟が要るものだ。

最近は、ホントに独りで行動をしているが、会社の中と違って雑音が一切聞こえないのは気持ちがいい。 仮に雑音があったとしても、何の関係もないのがいい。

小野田さんには、そのほかにもいろんなことを教えて頂いた。 曰く「戦場へ着くまでの行進は縦列,戦闘状態はヨコ展開」   「ちゃんと理解しているのか。図示説明してみろ。図示できないのはちゃんと理解できていないのだ。」

確かにちゃんと理解できていないと、図に描いて示すのは難しいのである。


単車事業育成のために広告宣伝費1億2千万円を開発費として本社が計上してくれた。 私の年収が50万円にも満たない時代であったから、この金額は広告代理店にとって相当の魅力であったのだろう。 電通、博報堂、大広をはじめ各社の本社スタッフが連日訪れた。

小野田さんと二人でその選考に当たったのだが、当方の出した幾つかの設問の中に 「貴社の広報企画力を図示説明してください」というのがあった。

そのとき、加藤純三さんに出会ったのである。 大広チームは役員、部長など10数人のチームで来たのだが、このチームを実質的に引っ張っていたのは、ヒラの加藤さんであった。 私より少し若かったが、広告理論も、説得力も迫力も群を抜いて素晴らしかった。

実際に大広とお付き合いをして後も、彼から吸収したものは本当に大きかった。 私が広報やレースを離れ仙台に異動するとき、どうしても送別会をすると言って、はじめて彼と夜、飯を食い酒を飲んだ。 3年間、仕事一途、喧々諤々のお付き合いだった。

42年間の会社生活で「この人にはどうしても、太刀打ち出来ないと思った二人」 それは、小野田滋郎さんと加藤純三さんである。

私も30才前後の若さだったが、そんな時代に逢えて本当に良かったと思っている。

加藤さんは芦屋の辺りにおられるとか、加藤さんも小野田滋郎さんも、お元気なことを祈っている。

050 20070225 関初太郎君のこと 昔話ー33

[編集]

2007-02-25 06:16:46 | カワサキ単車の昔話 関初太郎君のこと

以前、苧野豊秋さんのことを書いたとき、「Hさんに聞きました」というKshopさんのコメントを頂いたが、 どなたのことか解らなかった。

昨日、「反町ジャパンの反町くん」に高1、中1の息子さんたちがサッカーに熱中しているとのコメントを頂いた。

そのあとまたコメントがあって、Hさんとは平井さんのことだとか、 今回はKshopをクリックすると、モトボックスセキのホームページが現れた。


関君だったのか。読んでいてくれてたのだ。

関初太郎君、彼がまだ独身時代の若い頃、 京都の営業所が新幹線の高架下で狭くてみすぼらしい頃だったが、 藤田孝明君率いるこの営業所は、久後淳一郎、関初太郎、吉ケン(吉川君),藤田みーちゃん、田中さんなど、ユニークなのが揃っていた。

特約店制をトップを切って実施したのだが、こんなに徹底して実施したところは他にない。 私の知る限り、カワサキの歴史の中で最も充実した内容の営業所であったと思う。

売上高や台数がやかましく言われたあの時代に、総資本利益率10%の途方もなく充実した内容だったのだが、若しかしたら久後君や関君はこんな数値はご存知ないかも知れない。

そんなことを意識せずに、そんな実績を残したところがすごい。 その頃の、関君たちは口やかましかったが、猪突猛進にやることをやっていた。


その後、大阪や東京などの営業を担当し山口の所長から独立開業の道を進むのだが(間違っているかも知れぬが)、ずっと持ち続けた純で、新しいことにチャレンジする彼に共感を覚えたものである。 関君とは会社にいるころよりは、独立してからのほうがいろいろと関係もあったし、お世話にもなった。

また、新宿のショールームで新しい形のショップなど、一緒に仕事もした仲間でもある。 販売店というよりは、ずっと仲間という意識のほうが強かった。

私の最後の勤めの北海道の頃も、 南,五島,関、佐々木の懐かしいメンバーでわざわざ札幌まで遊びに来てくれた。

それ以来、お会いしていないが、五ちゃんも元気にしているのだろうか。 私にとって、会社生活でのいろんな「想い出を共有する仲間たち」は、むしろ社外に沢山いるのだが、

それは [私の人生の宝物] である。

そんな仲間たちの一人の関君が、毎日「雑感日記」を読んでくれているのが解って、また励みになる。

051 20070228 CKD事業 昔話ー34

[編集]

2007-02-28 11:09:22 | カワサキ単車の昔話 CKD事業&小池博信君のこと

昨年5月、小池博信君から「豪華川崎GTO青春物語」と題する自分史第1部が送られてきた。

この冊子に詳しく述べられているが、彼は1966年4月輸出部に転籍している。 国内だけの販売から海外へ本格的に動き出したのはこの頃なのだろう。

その動きは二つの流れがあって、 一つは浜脇さんが旗を振ったアメリカ市場でこれは、自ら現地に事業を展開する方向でスタートした。 そして、その後のカワサキの二輪事業を支えたのである。

もう一つが中南米やアジア、中東市場だったが、この地域はアメリカ市場のように順調に推移したとは言えなかった。1975年頃まで苦しい時代が続いている。 これは営業の問題よりもこの地域に合う商品がなかったことが、一番大きかったのだと思う。


アメリカ市場も陰りの見え始めた1976年5月に、 東南アジア調査団による市場調査が行われ、11月には高橋鉄郎さんを長とする市場開発室が新たに組織され、CKD事業への本格的な参入がスタートするのである。

このプロジェクトには、私も企画担当として参画し調査団にも加わり、いろんな経緯はあったようだが、結果は市場開発室にも参加することとなったのである。

市場開発室では、企画と具体的な市場担当としてタイプロジェクトを小池君たちと担当することとなった。 私にとっては、初めての海外であったし英語を喋らなければならぬのも、勿論はじめての経験であった。

この頃の話は、本当にいろいろあって面白いのだが、とても1回や2回では、書きれない。


大型車の、スポーツ車のカワサキばかりが世に紹介されて一般的であるが、 小池君の冊子のネーミングが 「豪華川崎GTO物語」 となっているように、本当にビックリするような展開になるのである。

そんな時代、何の知識もなかったのだが、ただ一心に小池君たちと、日商岩井さんの協力も得て、 はじめてカワサキがCKDの合弁会社をタイに立ち上げることが出来たのである。

そして、小池君の言う「豪華GTO」の時代が訪れるのである。

個々の話はまた別の機会に。

052 20070301 タイプロジェクトー1 昔話ー35

[編集]

2007-03-01 06:12:33 | カワサキ単車の昔話 タイプロジェクト-1

小池君から折角詳しく纏めて頂いた「豪華川崎GTO青春物語」でタイプロジェクトのことが書かれているので、抜粋しながら触れてみたい。

市場開発室が出来て、イランとタイのプロジェクトが直ぐスタートし、少し遅れてインドネシアプロジェクトがそれに続いた。

私はタイをメインにネシヤも手伝うことになった。

タイについては、現地の馬ファミリーとの合弁会社設立を最終目標に小池君らとスタートしたのだが、 当初は話し合いをしても全然かみ合わず進展のないまま時間が過ぎるばかりだった。

ベースにある永年のカワサキに対する不信感を払拭するまでに相当の時間を必要としたのである。 約1ヶ月の出張期間中、会社設立などの具体的な話はせずに、マーケッテングや会社経営の管理手法など基本的なことばかりを馬さんの長男のチャンチャイと話し合って過ごした。

日本へ帰国する直前に馬さんも出席したミーテングが行われた。 それまでは私はまだ英語がちゃんと喋れなかったので小池君がすべて通訳をしてくれていたのだが、このときは私が意見を述べた。 述べたといっても上手く喋れる訳はないので、下手な英語のほかに黒板に次の漢字を書いた。    「正直、誠実、勤勉」 「信頼,互譲、協力」

これは川崎航空機の社是と執務態度である。 馬ファミリーの息子たちは理解できなかったと思うが、オーナーの馬さんと番頭さんのチャンさんは漢字が読めたしその意味も十分理解できた。

このミーーテングが一つの転機になりプロジェクトは、少しずつではあるが動きだすのである。

人の気持ちを動かすのに、多くの言葉は要らないとこのとき思った。声の響きなどで、気持ちは伝わるものである。 高橋さんがよく言われた、海軍の「on the same boat」も馬さんの息子たちにはよく伝わったと思う。


馬ファミリー100%出資の販社GKM,生産会社TKMの試行期間の合意ができたのはその2ヶ月後の1977年2月、正式にスタートしたのは5月だった。

この時から、小池君のほかに耕守君も加わり具体的な経営やCKDの生産も開始された。 そして、馬ファミリー、川崎重工、日商岩井の三社の合弁会社  Glory Kawasaki Motors Co,Ltd が新たなスタートを切るのである。

市場開発プロジェクト室スタート後、丁度2年が経っていた。

小池君の言う「豪華川崎GTO青春物語」の幕開けであった。

053 20070303 タイプロジェくクトー2 昔話ー36

[編集]

2007-03-03 06:08:42 | カワサキ単車の昔話 タイプロジェクト-2

新GKMがスタートした後も、順調に推移したわけではなっかった。

その頃現地の小池君が本部の私宛にレポートを送り援助を要請してきている。 その内容は 1.競争力のある新車種の開発 2.現行車種のマイナーチェンジ 3.販売促進費の支援 4.クレーム対策と部品体制   などで、 それに対し 「合弁とは親会社に甘えるだけ甘えることではない。車種開発関係を除いては現地で解決されたい。以上」という返事だった。たった1枚の短いもので、三行半とも思えるショッキングなものだった。 とか、全然覚えていないが、書いた気持ちは今でも解る気がする。

当時タイの市場でカワサキは田舎にはそこそこだったが、最大市場のバンコックでは皆目駄目だった。 都会向きの機種がなかったのである。

バンコックを開拓するためにも、合弁会社の経営を安定させるためにも新規車種の開発はMUST条件だと信じていた。 長い単車での経験だが、ニューモデルの開発に特に自分で具体的に言及したのはこの時だけである。

大型スポーツ車のコンセプトなど、バイクに実際に乗っていないのでとても言えなかったが、 この機種については機種の細部よりも市場開拓との関連、新しいカワサキのイメージの創造などからの観点でのコンセプトを主張した。

小池君の記述の中に「弱者の戦略」という項目がある。 そのベースにあるランチェスター戦略理論とか戦略、戦術論、差別化などタイ市場の展開のために、日々議論を交わしたあの頃が懐かしい。

ホンダ、スズキ、ヤマハという競合各社との競争の中で、 カワサキが当時取り得た基本的な戦略は「弱者の戦略」であり、「差別化」が基本であった。

カワサキが余り得意ではない小型車の分野であるCKDに敢えて挑戦したのは、

1.市場の拡大が予想されたことが一番だが、 2.開発途上国でのいろいろな制限、機種数の制限、ワーキングパーミットの人数、生産部品点数などの制限など先発各社との差が無茶苦茶に開かない、後発の弱者にとってある意味、何とかなる条件があったことだと思っている。

然し、制限される投入機種は優位性のあるものでなければならない。

こんなコンセプトで開発されたGTOがタイでベールを脱いだのは、1979年9月である。 その頃、私は既に異動していて、国内の販社再建に奔走していた。

小池君のいう「豪華川崎GTO」の恩恵を直には受けなかったが、思い出多い車ではあった。 どのくらい豪華であったかは、小池君の物語に詳しく出ているので次回にでも抜粋してご紹介しよう。

054 20070304 タイプロジェクトー3 昔話ー37

[編集]

2007-03-04 06:30:25 | カワサキ単車の昔話 タイプロジェクト-3

豪華川崎GTO青春物語と題する小池君の自分史だが、その中心は1979年9月に発表され10月に全国一斉に発売された、

「Kawasaki GTO Luxurious Sports」 (2ストローク、110cc、15ps/8500rpm、5速)である。

豪華川崎とは、社名Glory Kawasaki~の中国語表示であることは、はじめて知った。 GTOはその名に恥じぬ、名車としてタイの市場を席捲し、今までカワサキを見ることの無かったバンコックでも大人気となるのである。 それまで年間6400台であったものが、79年には11,200台、80年以降は20,000台ベースとなった。

台数だけでなく、委託販売が買い取り方式に変わり、前金が入るなど信じられないことが起こり、資金ショート気味であった経営が営業外でプラスになるなど、合弁事業そのものを確固としたものにした。

こんな点がGTOがもたらした最大の効果であったろう。 更に、インドネシアでも好評を博しCKD事業そのものを支えたのである。 CKDで完成車として先進国では販売されなかったために一般に知られていないが、カワサキの中でも屈指のヒット商品であった。

販売とは「モノを金に変える」ということと、当時ずっと言い続けてきた見本みたいな快挙であった。

小池君が自分史を「豪華川崎GTO物語」と名づける気持ちはよく解る。


こんなCKDビジネスの初期、いろんなことで苦労を共にした仲間たちも、いろんなこともあって今はカワサキと繋がっていない人も多いが、想い出だけは昔のままの形で残っている。

小池君の自分史を読んでいても、それがはっきりと読み取れる。

私自身も、バンコックなど延べ2ヶ月以上の滞在になるのだが、有名な寺も朝市もあの運河さえも知らない。 ホントに何をしていたのか、仕事に熱中していたのは事実だが、観光に行くそんな余裕が、あの頃は無かったのかも知れない。

何年か後オーストラリアからの帰りに、一度だけバンコックを訪れて、馬さんたちと旧交を温めた時はじめて大きな川の横に立つホテルに泊まって、「川があったのだ」と不思議な想いをしたのをよく覚えている。

055 20070307 30周年記念パーテイの祝辞

[編集]

2007-03-07 06:23:36 | カワサキ単車の昔話 昨日、仙台の服部カワサキの服部社長に招待されて、仙台国際ホテルで盛大に開かれた30周年記念のパーテイに出席した。

服部君とも、奥様とも本当に10数年ぶりの再開である。

3、40年も前に一緒に仕事をした仲間たち、海老沢君、岩手の山本君,遠野の浅沼さん、仙台の竹中君などとも出会えて話は尽きなかった。

30年前に小さな1店舗でスタートしたのだが、今、こんなに立派になって、 30周年を迎えるこの機会に、息子さんに社長を譲って 「新しい時代に対応」 しようとしている。

服部君にとって感慨ひとしおであったのだと思う。 冒頭のご挨拶にその思いは満ち溢れていた。

直接、お会いできてお祝いも言えたし昔話もできた。 お互い心底、感動した

また、KMJの清水支店長以下カワサキの現役の後輩たち古田君、市原君、山北君、藤吉君、桜井君、山岸君、藤沢さんの息子さんの藤沢君などとも、直接会っていろんな話や意見交換も出来た。

対面しての直接会話は、人のぬくもりを伝え、信頼感を醸成する。 これは電話やメールでは味わえない、何ものにも変え難い素晴らしいものである。


主賓の清水支店長の挨拶の後に、来賓としてのご挨拶を求められた。

最近感じていることを率直に、次のようなご挨拶をした。

40年前の東北での思い出、その後カワサキが企図した特約店制度、のれんわけ制度などの根底にあったカワサキの想いをお話し、それに共感して独立開業しカワサキ一筋に共に歩いてくれた服部カワサキへの感謝など一通りを述べた後、

ところで、今、カワサキは、 販売店に 「対面販売を推奨する」レベルを越えて、 「義務付ける」 ような方針のようである。

直接、対面して対応するよさは、前述の通り素晴らしいものを持っている。 その意味で「対面販売」は推奨するに足るものであるとは思うが、それでなければならぬ「MUST条件」 として強要するのは如何なものか。

何故、このようなシステムを販社が選定したのか、私も素人ではないのでその背景など十分推定できるし理解もできる。

然しユーザーの価値観が多様化し、今後さまざまな変化が予想される流通の分野で、 世の中の流れ、特にネット社会の凄まじい進行発展と逆行するような施策には無理があると思う。

むしろ修理サービスの分野では、客への技術の伝達指導を含めて、 「対面サービス」 は意味を持つかもしれない。と想いを述べた。


KMJの清水君以下には少々悪かったが、このような率直な意見を述べることが、

「新しくスタートする服部カワサキの後押しにもなり、KMJの今後の流通対策の真の支援にもなる」 と信じたからである。 「対面販売の良さが生きる方向に」 少しだけでいい、修正を柔軟にお願いしたいものである。


いついかなる時も、 販社の方針は、時代を見抜き、 販売店を世の中の正しい流れの方向にリードする先見性が求められるのである。

「流通業とは自分の仮説を問うビジネスである。消費者の変化の本質をつかみ、変化を如何に自己の対策に置き換えるかが問われている。」   

服部吉伸先生の1990年代の言葉を贈ります。

056 20070308 あの当時と今

[編集]

2007-03-08 06:26:23 | カワサキ単車の昔話 今から40年も前1970年頃のことだが、 当時、東北はカワサキにとって最大の市場で岩手カワサキは毎年日本で一番の実績を挙げていた。

ただ私が本当に残念に思ったのは、当時メーカーの方針に協力し台数を売ったデーラーほど逆に経営は苦しかったのである。 メーカーの系列化政策もあって、当時お世話になった久保さん、門伝さん、斉藤さん、中西さんなどデーラー関係の方たちは業界を去って行かれたのである。

東北のあと、大阪で販売店の人たちとのお付き合いが始まった。 販売店は自転車屋さんが殆どで、取引店数は店数を増やせという従来のメーカー方針もあって500とも600とも、はっきり数も解らぬ状況だった。

世はA1,W1など大型スポーツ車のはしりで、これらスポーツ車に見合う新しい販売網が特にカワサキには求められた。

東北のデーラーのように、「消えて無くならない販売網」をと本当にそう思った。

育てる対象は誰なのか、明確に意識して500店の中から20数店を選んで特約店の前身その名も「共栄会」は大阪でスタートしたのである。

従来の店だけでなく、カワサキの従業員のなかから新しく店をやりたい人を援助する「のれんわけ制度」もスタートした。業界に新しい流れが出来たと思う。

現在、二輪車の主力店は新しい志で素人からこの業界に入った人が圧倒的に多いのである。 先日、30周年を迎えた服部カワサキもこの流れで独立開業を決心している。


今、二輪業界は新しい時代を迎えようとしていると思う。

ユーザーは二輪に何を求めているのだろうか。 それに応えることが、二輪というモノを売る前に考えないといけないのではないか。

昔のように社名に「販売」の文字はないのに、昔のように「販売台数」ばかりがアタマにあり過ぎるのではないか。 その販売も世の中の形態はどんどん変化しているのである。

メーカーが作った物を単に売る、そんな簡単な機能だけでは流通を専門に担当する部門として、専門家としての存在価値が問われると思うのだが。

今、日本ではハーレーが4銘柄を抑えてトップだとか、 あんなに高価なクルマが何故そんなに売れるのか。


世の中全て、ハードよりソフトの時代である。 ユーザーの真に求めているもの、それに対応しない限り成功はないと思う。

別に、二輪業界の話ではなく世の中一般の常識と思うのである。

057 20070310 私の宝物  昔話ー38

[編集]

2007-03-10 06:53:50 | カワサキ単車の昔話 私の宝物ーゴルフ優勝カップ

家の飾り棚に、真っ黒な純銀製のゴルフの優勝カップが飾られている。

昭和50年から55年までの5年間に13回開催されたゴルフコンペで、当時企画室長、営業総括部長を兼務された堀川運平さんが主宰された「企営会の優勝カップ」である。

この時期、単車事業部が大きく動いた乱世の時期であった。 中、長期の計画や、議論が盛んに行われ組織も大きく動いた。 この間私など、企画、市場開発室、単車事業部管理、カワ販と4回も異動している。 田崎さんも最後の取り切り戦の頃は、アメリカだったと思う。

このコンペで思い出すこともいろいろあるのだが、 1回から13回まで、優勝者13人が名前を連ねている。 別に二度優勝は権利なしというようなルールがあった訳ではない。 自然にそんなことになったのである。

その優勝者の名前を並べてみると、カワサキの関係者なら名前を見るだけで当時のことが思い出せるに違いない。 職位は当時のものの積りだが、まあ間違いないと思う。


第1回   50-12-20 田崎雅元  (企画部、課長) 当時も、まあ上手かったかな。 第2回   51-4-24  田中誠   (カワ販社長) ゴルフ暦、運、ハンデイ? 第3回   51-10-20 橋本賢   (資材、部長)  同上 第4回   51-12-4  宮田敬三  (IKS社長)  同上 第5回   52-3-19  那波義治  (営業課長) 若手実力者を自認の頃。 第6回   52-6-18  土井榮三  (資材、課長) このコンペの最大功労者です。 第7回   52ー9ー17  古谷錬太郎 (市場開発室、課長) やり始めた頃でハンデイ26~28? 第8回   52-12-3  堀川運平  (企画室長) 流石、カップ提供者の実力。 第9回   53-3-18  苧野豊秋  (カワ販専務) 長いお付き合いだが、始めの終わり? 第10回  53-7-15  野田浩志  (管理、課長) アメリカ帰りの実力? 第11回  54-3-17  若山禎一郎 (IKS部長) 川重係長の頃です。 第12回  54-7-14  酒井勉    (企画室長) 自他共に認めた実力者時代。 第13回  55-5-13  前田佑作  (新カワ販、部長) 川重係長の頃。 第14回  取り切り戦   古谷錬太郎 (新カワ販、常務) 川重課長の頃,ハンデイもまだ20幾つ?

最後のほうはカップを出された堀川さんは本社財務に戻られていた。

第1回のコンペには私は出場していない。 田崎さんが優勝しているが、実はこの日は大変な日だったのである。

この頃、単車事業部を統括されていた吉田専務が12月20日の休みを返上して長計の検討をしようという指示があったのに、このコンペがありますからと堀川さんが電話で断られたのである。

吉田さんからは 「若い奴でもいいから、須磨の翠山荘に出て来い」 ということで、私やまだ係長だった森田進一君たちが大専務との検討会に出て終日議論をさせて頂いたのである。 結構楽しかったし、吉田さんも若手との話が新鮮だったのか、ご機嫌であったのを覚えている。

そんなことで第1回のコンペに出られなかったので、 神様が想い出と共に私に下さった宝物のような気がするのである。 事実、純銀製の立派なカップは、幾つかのカップの中で群を抜いた貫禄で飾り棚に鎮座している。

私の宝物 「企営会優勝カップ」 である。

058 20070311 ハーレーダビッドソンジャパン

[編集]

2007-03-11 06:10:31 | カワサキ単車の昔話 手元に「アメリカ車はなぜ日本で売れないのか」と題する奥井俊史著の1冊の本がある。

奥井さんは、いま二輪の大型車で快走を続けているハーレージャパンの社長さんである。

トヨタ自動車で輸出や北京事務所長などを歴任された後、ハーレーという二輪の世界に移られている。

ハーレーと言えば、一時期アメリカで不振にあえぎ、日本メーカーに対するダンピング訴訟などで話題になった。 新しい経営陣に変わってから、徐々にハーレーらしさを取り戻しいまは確固たる地位を築いているが、とりわけ日本での躍進は華々しい。

751cc以上の分野で2000年以降、ホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキの日本勢を抑えてNO,1の座を維持し続けていることは賞賛に値すると思う。

本の前半では主として四輪について、 そして最後の方で二輪の日本でのマーケッテングについて述べておられるが、 その中で 「世界一難しい日本の消費者」 という表現がある。 本当にそうだと思うし、とりわけ二輪の消費者は難しいと思うのである。

四輪とはまた違った独特の難しさがある。 逆に言えば、商品もさることながら、マーケッテングそのものの影響が大きい面白い分野だと思っている。

この本の中から数値をお借りすると、(251以上の登録台数)

      1990年1991年 1992年 2000年 2005年 ハーレー  3093  3496  3738  9534 12422台 ホンダ  30455 29422 44965 21753 21109台 カワサキ 34591 39260 39485 16852  9665台 ヤマハ  17891 16238 18420 18292 14352台 スズキ  13768 13349 16697 10308 11198台

奥井さんが四輪から二輪の世界に移られた90,91年当時、 たまたまカワサキは最盛期でトップを走っていた。その頃が本当に懐かしい。 多分、カワサキとの関係も深くハーレーの老舗である、大阪の船場モータースの岡田さんのご紹介だろうと思うが、奥井さんもカワサキに興味を持たれたようである。

その後、ハーレーは一度も前年実績を下げることなく、右肩上がりの躍進を遂げている。 当時、カワサキが採っていた政策の方向を更に進化されたCSの世界が、ハーレーのマーケッテングには展開されていると思うのである。

顧客の満足をCSと言うのだが、「顧客とは誰のことか」。 二輪業界に限らず、「真の顧客の満足のために」、人は働くべきだと思っている。


つい先日、KMJの東京支店長の清水君にお会いした時、彼がこの本を持っていたので改めて思い出したのである。

059 20070312 宇田川勇くんのこと

[編集]

2007-03-12 06:06:51 | カワサキ単車の昔話 先日服部カワサキの記念パーテイに元岩手カワサキの山本昌三郎君が出席していて、宇田川君や石塚君などの昔話に花が咲いた。

メイハツ工業に入社してからカワサキへ、私が40年前、仙台で会った時まではベテランのサービスだったのだが、私同様その時から営業に転進した。

岩手、青森、秋田の営業を担当した。 厳しかった宮川部長の下で慣れぬ経理や経営数値をお互い懸命に勉強した。

岩手の久保さん、秋田の斉藤雄幸さんなど、本来なら難しい営業のお付き合いを本当に上手くこなしていた。 流石、永年サービスでユーザーのクレームなどに対応してきた実績と、営業新人の私など大いに見習うところが多かった。

会社の職位などというのは、運不運もあって必ずしもその人の実力に見合うものではないと思う。 偉くならなかった訳ではないが、宇田川君などその最たる例だろう。

本当に難しい仕事を期待通りにこなす実力を持っていた数少ない人材だったと思っている。

ジェットスキーの国内展開の難しい時期に西武やヤナセの人たちと上手に付き合ったし、二輪でもあの難しいと言われたヤマハオートセンターの杉浦さんが一目も二目もおいていた。

これは彼の特技みたいな人を納得させる話術と経験、人柄のなせる業だろう。 今でも西武関連のジェットスキー関係者とはお付き合いがあるとか。

江戸っ子でさっぱりしていたが、無茶苦茶きれい好きだった。 私は少々雑然としていても気にならない方だったが、仙台で宇田川君と出会って、会社ではこんな人もいるのだから、事務所などの整理はそんな人の基準に合わすべきだと思うようになった。

晩年、全国の事務所やショウルームを水準以上にきれいにしたのは、彼から受けた影響と思っている。

本当に一度会ってみたいなあと思う人、宇田川君はそんな男である。 先日、山本君などもしきりにそんなことを言っていた。

一緒に苦労をした人たち、それはみんな懐かしいのである。

先日の会合に出た人たち、服部、海老沢、山本、山本夫人、浅沼、竹中君。 昔話に名前が出た人たち、宇田川、石塚,石塚夫人、守谷、宮川、門伝、斉藤雄幸,蓬田、稲垣、小林,連保、柄沢、中村君など。

当日、北見の奥山さんが亡くなったと聞いた。 95歳とか、カワサキの代理店時代から唯一残っておられた方である。 北海道川重建機のころ一度ご挨拶したのだが。 ご冥福を祈りたい。

060 20070315 海外販社再建方針 昔話ー39

[編集]

2007-03-15 06:04:22 | カワサキ単車の昔話 海外販社の再建方針と前田祐作君

1982年9月1日、本社が出した標記計画書が手元に残っている。 陽の目をみることはなかったのだが、当時の難しい状況の中でいろいろ考えられた案の有力なものの一つではあった。

もう25年も前の話だが、こんな話があったということを知っている人も、覚えている人も本当に極々僅かだと思う。

内容は、信じられないようなビックリするようなものである。 財務対策として考えられているのだが、

KMC以下の海外販社を順次カワ販の子会社にするというドラスチックな案である。 その数値と実行手順が時系列に纏められているが、82年83年度中に実行しようと計画されたのである。

当時の単車事業部はダンピング訴訟、HY戦争などの影響でアメリカ市場の在庫過多からKMCの経営危機など、事業部全体ひいては川重全体に影響を及ぼす事態になっていた。

たまたま、カワ販を担当していたし、計画の中枢にカワ販があったのでこの計画の存在をよく知っているのである。

この計画は実行されずに終わるのだが、それは計画の実行段階で無理があって難しいとカワ販側が指摘したからである。 財務の難しい手続きなど私には皆目解らなかったが、当時カワ販の総務部長をしていた前田祐作君がこれを見つけたのである。

前田君とは若い頃から、ずっと一緒に仕事をする機会が多かったが、私にとってはずっと援けて貰った仕事仲間である。 私とは性格的には全然違っていて、総務、財務などに詳しくこれらの基本計画を殆ど担当してくれた。

この後、私が事業部へ戻り企画を担当してからも、最大の課題であった海外販社を担当する関連事業部長として援けてくれた。

その前田君がこの計画のカワ販の増資過程に無理があり、計画期間内での実行が難しいのではないかと指摘したことにより、計画は見直されたのである。


若し、この通りの計画で進んでいたら、事業部もいまのKMJも又違った形になっていたであろう。

あまり誰にも知られていない、昔のお話である。

20070319 ㈱忍者40周年

[編集]

2007-03-19 05:55:41 | カワサキ単車の昔話 家に送られてきた二輪車新聞に「忍者創業40周年」の記事が載っている。

伊藤さんのところ40周年だったのだ。先日仙台の服部君のお店の30周年記念に出席したが更に10年早かったのだと思った。

大阪ではじめて伊藤さんと会ったのは1970年の末だから37年ほど前である。 カワサキとお付き合いをするまでに何年か過ぎていたのだ。 70年に伊藤さんとお会いした経緯を、衛藤さん(二輪車新聞記者)らしく、私のことも記事に書かれている。

「たまたまこの地を通りかかった」とあるが、同乗していた竹内優君が「面白い店があるのだがちょっと寄りますか」ということでお寄りしたのである。 確かに小さい店だったが弟さんと二人で、今とおんなじ早口の河内弁が印象に残っている。

40周年で今回も立派な新店舗に改装されて、その写真も載っていたが本当に立派な店に成長されたものである。 両親から受け継いだ店だから、新築の方が費用も安いのにあくまでも改築にこだわったというのが伊藤さんらしい。

最初の店から何度も改装を繰り返し、 店の名前も「伊藤モータース」から幾度も変遷を経て「忍者」まで、 カワサキも共栄会、特約店、ARK,などその時々の時代を経て今、正規取扱店まで一筋に続いている。

新店舗での営業を3月2日から開始したと載っているのだが、 実はつい最近、伊藤さんから「昆布」を送って頂いた。毎年泉州の「水ナス」を送って頂いているのだが、少々シーズンに早いなと思っていたのだが今思うと、新店舗関連だったのだと思う。

包み紙に書いてあったのか、若しそうなら見落としてしまっておりお礼状にもその旨は触れていないので、このブログ、お詫びとお祝いの気持ちで書いている。

記事には息子さん仁君(伊藤仁専務)と一緒の写真も載っている。 服部君のところもそうだったが、いい跡取りがおられて楽しみである。仁君には2年ほど前三宮で飯を食った後、わざわざ三木の自宅までクルマで送って頂いた。 30年以上も経つと世代が変っていくのである。

たまたまとは思うが「3月2日」は私の誕生日である。これも何かのご縁と思う。 「新しい忍者」のますますのご発展を祈りたい。


20070324 WITH太田さんとの出会い

[編集]

2007-03-24 06:00:23 | カワサキ単車の昔話 ブログをやっていて、「いろんな出会い」にそれこそ「出会う」のである。

今回も、二輪車新聞の衛藤さんの「忍者創業40周年」という記事を読んでブログを更新したら、「NINJYAファンならぬ忍者ファン」という忍者の伊藤さんのファンと称する方から丁寧なコメントを頂いた。

クリックしてみると福岡県福津市の「WITH」というカワサキの正規取扱店のホームページが現れた。 立派なホームページである。 カワサキのお店の方なら「何回もミーテングなどでお会いしている」と書かれてあったが、なるほどと思った。

最近、ブログで「SPA直入物語」を5回ほどの連載で更新をしたのだが、当方でSPA直入に関するブログを探して幾つかコメントを差し上げたりした。


そんな1週間だったが、「WITHの太田」さんからメールが届いて、ブログにリンクしたい旨お申し出があった。 「是非お願いします」とご返事してからもう一度「WITHのホームページ」をじっくり見直した。

私にとっては面白い記事を沢山見つけた。 まず、SPA直入がいっぱいである。直入建設の基本コンセプトであった一般ユーザーの方の走行イベントがいっぱいで感激した。 写真もいっぱいで懐かしかった。

このように利用して頂くと造った甲斐がある。 SPA直入を一緒に造った岩崎茂樹君(故人)もさぞ喜んでくれているだろう。

そのほかにサーキット関連は、オートポリスや岡山のT.Iや、ミスターバイクの斉藤さんの鈴鹿ツインサーキットなどもあって、そこには忍者の伊藤さんの写真が出てくるなど興味が尽きなかった。

おまけに、SPA直入関係で出会ったブログ「へっぱくおやじのウダウダ」が載っていた。これは太田さんのブログだったのだ。

お店のホームページはいろいろ見せて頂いているが、「WITHのホームページ」はなかなか面白い。 「ユーザーへの視点」や太田さんの「お店経営のコンセプト」が明確でそれが上手に表現されている。

WITHを訪れるバイクを愛するみなさんの「いいバイクライフ」を祈りたい。


20070408 東京&大阪モーターショー

[編集]

2007-04-08 06:31:27 | カワサキ単車の昔話 昨日自宅に送られてきた二輪車新聞に東京と大阪で続いて行われたモーターショーの特集記事が載っている。

「シーズン開幕!春の二大ショー」 「両会場とも来場者増加」 と見出しも華々しく、カラー写真がいっぱいでショーの賑やかな感じがよく解る。

ブログの中のバイク関係の記事にも「ショーに行ってきました」と書いてあるのが多かったので改めてじっくり読んでみた。

東京が34回、大阪が23回目、現役時代から特に大阪は個人的にも関係の深かった行事である。

現代は、趣味も遊びも多様化して、若者はバイク一筋と言う時代ではなくなったが、それだけにより洗練されたファンが高く多様化された雰囲気を求めえる結果が、性能だけでなく独特のムードを持つ外車ファンの増加に繋がっているのだと思う。

「MOTO CAFE」をテーマに掲げた大阪では、 カフェに集まった二輪車好きの仲間たちが、熱く語らいその魅力や楽しさを多くの人たちにアピールしようというのがコンセプトで、 クルマと共に用品関連も同一ブースに展示されているのがいい。

昔と比べて、当然のことながら出品されているクルマの持つ雰囲気が華やかになっている。 それだけ時代は進んでいるのだと思う。 特にスタイリングが、ユニークなクルマが沢山あって楽しい。

バイクは、好きな人にとっては何ものにも変え難いかっこいい乗り物である。 乗る人の期待に応えるかっこよさがまず求められるのは当然である。

我々の時代と違ってH、S、Y、Kの国内4社だけでなく、 今はハーレー、BMW,ドウカテイ、トライアンフなどアメリカや二輪の本場ヨーロッパからのメーカーのクルマも人気があって、華やかさを倍加させている。

それを提供しているメーカーや販社も、単にバイクというハードだけでなく、ユーザーが真に求めているソフト面への対応がより大事な時代になったのだと思う。 ソフト対策の重要性がハーレーなどの伸びに顕著に、その傾向が見られる。

いずれにしても、来場者が増加していることはバイク業界にとってもいいことだと思う。


20070409 カワサキ単車の昔話-49

[編集]

2007-04-09 06:01:53 | カワサキ単車の昔話 もう何年もBMWに乗っている。私の唯一の贅沢みたいなものである。

BMに乗ったきっかけは、浜脇さんがBMWジャパンの社長になって、何人かの人がカワサキから異動した。 その中の一人に中田譲君という仙台時代一緒に仕事をしたのがいて、彼に薦められたのが直接の動機である。

そんなことで、その後ずっと乗り続けているのだが、昨年明石のBMWのショールームに遊びに行ったときに、浜脇洋二さんの書かれた「45歳までにあなたもトップになれる」と題した本を頂いた。

もう引退した身で今さらトップにも興味がなくそのままにしていたが、つい先日Z1会のコンペに浜脇さんが参加されることになって思い出して読んでみた。


浜脇さんは私より3~4年先輩で、私の入社当時は本社の経営企画におられた。 その頃はまだ本社も明石にいて、事務所の同じ階にいたこともありよく知っている。

碁が強かったし、話が面白かった。とにかくスケールが大きかった。 この本の物語はこの頃のことから始まっている。

当時の川崎航空機は明石工場がもともと航空機のエンジン製作をしていたことから、エンジンの活用が柱で井関への農発エンジンや、マツダなどへのミッション供給など、その中の一つにメイハツ工業へのバイクエンジンの供給もあったのである。

戦後の復興期で近代化が着々と進みバイクの需要もうなぎのぼりの時期だった。

日本のモータリーゼーションの到来を予見して「カワサキのエンブレムをつけたクルマを走らせたい」という夢。

そのクルマとは、二輪ではなく四輪だったのである 私が入社した昭和32年(1957)ごろの話である。

確かに、岐阜工場を巻き込んでの四輪製造の話はあった。

カワサキのZ旗であるという意味をこめて「KZプロジェクト」と名づけられたプロジェクトであったが、 事業化の検討に入った頃に三菱500やマツダ360の販売開始があった。 この出遅れが致命的で昭和34年(1959)にこのプロジェクトは中止が決定するのである。

この乗用車プロジェクトで、下から旗を振ったのが浜脇さんであったことはこの本ではじめて知った。

浜脇さんは、その後本社の調査課でブラジル市場などの調査を担当したが事業としては実現せず、アメリカでのモーターサイクル事業展開に三度目の夢を託すのである。

その頃からは私の記憶にも鮮明に残っている。 本当に昔話であるが、何事も最初に井戸を掘るときの話は面白いのである。 昔を一緒に楽しんでみたい。


つい先日、こんな浜さんと久しぶりに会っていろんな話ができ、ゴルフを楽しめたのは良かったと思っている。


20070410 カワサキ単車の昔話ー50

[編集]

2007-04-10 05:59:33 | カワサキ単車の昔話 1964年3月浜脇さんの本によると、ブラジルでの事業展開を諦め帰国の途につくが帰りにアメリカに立ち寄りカワサキの二輪事業のアメリカでの展開を企図している。

丁度その頃日本では、日本能率協会の調査で「単車事業脈あり」と判断されて64年1月に会社の方針として単車再建が宣言されている。

能率協会の意見書の項目の中の一つに「広告宣伝の項目」があり、 本社は開発費として年1億2千万円を予算計上してくれたのである。 私はたまたま、その広告宣伝課を担当することになった、そんな時期であった。

レースもこの費用の中で運営され、モトクロスを中心に本格的に取り組んだ。


当時は、市場は国内がまだまだ中心で、アメリカの市場対策には浜脇さん以下7人のサムライが苦労を重ねたようである。

7人のサムライとは私の勝手な推測だが、浜脇、久保,杉沼、田崎、種子島、中川、斉藤ではないだろうか。66年ごろのアメリカのメンバーである。

66年にAIがアメリカで発表されているが、7人のサムライにちなんで「サムライ」と名づけられている。

このA1のテスト時点では出来たばかりの名神高速で行われ、当時カワサキのライダーであった金谷や星野、山本などがテストを手伝ったりしている。

この66年にシカゴに、今のKMCの前身のアメリカンカワサキが設立されてアメリカでの直販体制が始まるのである。

当時、私が予算管理していた1億2千万円の広告宣伝費は、私の年収が50万円に満たない時代であったから相当な額で、注目されていて悪く言えば諸先輩たちが何かと理屈を行けて「タカリにきた」ものである。

これは国内向けの対策費ではあったが、アメリカ市場対策に浜脇さんにも用立てした。 これが当時の岩城常務にバレテ私はひどく怒られたのだが、この話は浜脇さんには言っていないのでご存知ないと思う。

浜脇さんは当時の少ない輸出台数ではあったが、輸出金額のほんの数%だが負担して国内に戻してくれるようなことにしてくれた。

この数%がその後、アメリカの大発展でどんどん金額が大きくなり、国内が経営不振が続いた時代にそれこそ億の単位となって、国内販社の経営に貢献したものである。

当時輸出マージンと称されていたものだが、1980年に400FXが出て国内が立ち直った時点まで続いたのである。

まだ川崎航空機の時代で、川重,川車、川航の三社合併前でありタイミングとしてもいい時期であったと思う。

KMCとして設立されたのは合併の前年1968年のことである。


20070411 カワサキ単車の昔話-51

[編集]

2007-04-11 06:19:21 | カワサキ単車の昔話

A1(1966),H1(1968),Z1(1972)。

この3機種と共にカワサキの二輪事業は発展し、カワサキのブランドと二輪事業の基盤を造ったと言っていい。

これらはアメリカでのカワサキの事業展開の歴史であり、この時期のアメリカでの事業展開が若しなかったら、カワサキの二輪事業はまた違った道を歩んだであろう。

この時期のアメリカを引っ張ったのが浜脇さんである。 今回、改めて浜さんの本を読んでみて思うところがいっぱいあったし、当時を懐かしく思い出せた。

A1の発売からマッハⅢの60年後半にカワサキは実用車のカワサキから大型車、スポーツのカワサキへとイメージを変えていった。

国内でもB8,B1の実用車が主力で東北、九州などの地方の時代から、ようやく東京、大阪などの都会へと販売の重点が移されたのである。

私自身もその流れの中で、67年から4年間東北を担当していたが、71年には大阪担当となり73年には東京、名古屋、大阪の直営部の担当となっている。

アメリカも日本もZ1で大躍進をするのだが、 この時期のアメリカ市場の拡大は凄まじいと言っていいほどのものであった。

1966年に部品会社としてシカゴに直販会社アメリカカワサキ設立し、現地主義を表明してアメリカ人アランマセックをGMに採用し優秀な現地人中心のアメリカ式経営方式を採用している。

商品開発も経営方式もベースにある考え方は「差別化」である。 他の競合他社との徹底した差別化戦略がそこにあった。

浜さんの本の中に「差別化」と言う言葉を見つけて大いに我が意を得たのである。

68年にはKMCを設立、現地のマーケッテングから72年に上市されたZ1の開発を技術部と共に成功させて飛躍を続けた。

73年には売上高1億ドル、税引き前利益400万ドルの優良企業になっている。


ニューヨーク市場への上場を究極の目標とし、コマーシャルペーパー発行による資金調達やアメリカでの現地生産を目指したリンカーン工場の設立など、いずれもスケールの大きい日本の企業では初めての試みであった。

73年にリンカーン工場の建設に着手しているが,ホンダのアメリカ生産に先んずること3年であった。

このような新しい取り組みにより75年頃まで、アメリカ市場の最盛期が続いたのである。

単車に携わった人たち誰もが懐かしく想い出す最高の時期であった。


20070413 カワサキ単車の昔話-52

[編集]

2007-04-13 05:51:24 | カワサキ単車の昔話 この時期のアメリカ市場の事業展開は、素晴らしいの一語に尽きるものであった。

1973年のKMC。 販売台数16万台、デーラー数1000店。 売上金額1億ドル。税引き前利益400万ドル。 当時の事業部の売上の60%、利益の70%がアメリカ市場からもたらされていた。文字通り単車事業部の経営を支えたのである。

まだ、若かった私もいろんな意味で影響を受けたし、その後の動きの支柱となったものも多い。

前述の売上、利益についても、私が特に印象に残っているのは、この売上と利益が総資本利益率8%近いものであったこと、即ち総資産の回転が年2回に近かったのである。

多分こんなことを意識した人は殆どいないと思う。 当時東北で在庫過多から来る資金回転の悪さ、借入金の金利に悩み続けた経験が売上の大きさよりは回転のよさに驚いたのである。

大阪担当のときに各所長に総資本利益率10%を目標に指示したのも、スケールではとてもアメリカにかなわぬが、内容では勝負したいと思ったからである。

その後、販社や事業部の企画時代も経営の関心事は、総資本利益率であり回転率であった。 これは、このときのKMCの実績が教えてくれたものであり、本当に役に立ったのである。

現実に、その後の事業部再建時に特に留意したのはこの問題であったし、更に後、KMJで借入金ゼロの無借金経営が出来たのも、このときのKMCの経営内容、回転率の良さを常に意識し続けたお陰である。


このほか、マーケッテングで「はハードと共にソフトを売る」というコンセプトで当時の全米広告グランプリを獲得するなど一世を風靡しカワサキのブランドイメージを築き上げる端緒となった「Kawasaki Let the Good Times Roll」のフレーズが発表されたのもこの時期である。

これは、一時他のフレーズに置き換えられていたが、高橋さんや私が企画を担当した時期に基本コンセプトとして復活し今尚カワサキのコンセプトとして受け継がれているのである。

このように、いろんな意味で素晴らしかったアメリカの事業展開も75年頃からいろいろな問題が重なって大変な時期に繋がってゆくのである


20070417 カワサキ単車の昔話-53

[編集]

2007-04-17 05:59:14 | カワサキ単車の昔話 何事もいいことばかりがずっと続くことはないのである。 企業の経営環境もいつどう変るか解らない。

あれだけ好調に業績を伸ばしたアメリカ市場であったが、 1973年のオイルショックで需要そのものが大きく後退した上に、為替の変動相場制への移行で円高の荒波が押し寄せたのである。

固定相場時代の1ドル360円から、300円を割ることがたびたびとなり、77年には240円、その後一時170円台になったりした。

為替変動の事業に与える影響の凄まじさは、直接責任を持った立場で経験した人でないと幾ら口で説明しても解らないと思う。

丁度その頃、私は販社から76年に企画に戻ったのだが、為替が大変で事業部長などKMCとの値上げ交渉に明け暮れていたのは知っていたが、その痛みは本当のところ、そんなに解らなかった。


後に企画を担当したときに200円を割る円高に直面したが、その時は身に沁みてその怖さが解った。 当時のカワサキのレベルでも1円の変動で8億円ぐらいの利益変動になるのだから、10円で80億、50円も変動したときがあったが実に400億円の利益が減少するのである。


70年代の為替は360円から100円以上の変動であったので少々の経費対策などではどうにもならなかったのはよく解った。

事業部としてはアメリカ一辺倒から、ヨーロッパと共にCKD市場の東南アジア対策として市場開発室を新たに組織しその対策を開始したのが丁度この頃77年のことであった。


65年ごろからアメリカ市場開拓を開始し、 部品会社の設立、現地直販会社KMCの設立から更にリンカーン工場の建設、 A1,H1、Z1とカワサキの二輪事業の基礎を築いた素晴らしい発展の時代であった。 ジェットスキーもこの時期に販売が開始されている。

丁度この時期12年間アメリカで活躍された浜脇洋二さんは、後半の経営環境の激変の中で、勇躍凱旋というわけにはいかなかったのだが、 この時期の業容の拡大がカワサキの単車事業のその後の基盤になったことは間違いないと思う。


特に75年からの10年間は激変の時代で、中長期計画の検討が頻繁に行われ、私も企画部門にいた期間もあり、幾つもの計画の策定に従事した思い出多い懐かしい時代であった。


浜脇洋二さんの書かれた「45歳までにあなたもトップになれる」を参照しながらシリーズでこの時代のことに触れたが、一応ここで区切りとしたい。 昨日、ご本人からメールを頂いた。先日ゴルフでお会いできたし、何かのご縁があったのだと思う。 会社の仕事では特にご一緒する機会もなかったのだが、私は個人的に、浜脇さんのファンなので今後ともご指導を頂きたいと思っている。


20070423 カワサキ単車の昔話ー54

[編集]

2007-04-23 05:54:59 | カワサキ単車の昔話 若い頃のこと

カワサキの単車事業は会社にとって始めての未経験の分野であった。

そんなことで、経験を積んだ先輩が殆どいなくて、若い頃からいろんなことが経験できてよかったことも多かったが、中にはやはり若過ぎて、もうひとつしっくり来ないことにも度々出くわした。

まだ30代後半の頃だが、その頃の肩書きが余り一般的ではないが「大阪母店長」であった。 小さな営業所を統括するという意味だが、銀行などではよく使われていた肩書きである。

大阪のある銀行の「大阪母店長」と名刺交換したことがあるのだが、相手は正真正銘の専務取締役母店長だった。 こちらはただの母店長で、こういうときは少々気まずい思いがした。


当時、全国カワサキ会の副会長もさせられていた。

東京で世界のBPICMの総会があって、この肩書きに対して招待状が来たのである。 世界の流通業界の団体の長が,メーカーの招待を受ける形だったのだと思う。

高松の宮様が出席され、歓迎委員長は本田宗一郎本田技研社長が務められた。 日産の川又社長や自動車工業各社の重役さんや、川重からも中南専務、吉田常務、山田事業部長らが出席されていて、その方たちがずらっと並んでアタマを下げて出迎えられる前を,夫人同伴で40才前の実質課長の若造が歩くのは、どうしてもサマにならなかった。

世界各国からの招待客が主流のそんな立派なパーテイで、本田宗一郎がされた歓迎挨拶は、日本人離れして本当に立派だったのをよく覚えている。 あのような挨拶は、長い経験がさせるものだ思った。

高松の宮様も出席されるようなパーテイだったから、多分堅苦しい雰囲気ではと思い、出席前にラーメンで腹ごしらえをしてから出席したのだが、そんなことは全然なく和やかないい雰囲気でパーテイは進行した。

私も場違いに若かったが、同伴した家内も確かに出席者の中で若いことには間違いなく、会社の偉い方々に殊のほか気軽に声をかけて頂いて喜んでいた。


こんな経験は、私に限らず当時世界のあちこちで同じような経験をした人は多いのだと思う。 段々とこんなことにも慣れて、一見厚かましい人たちや単車独特の雰囲気が造られていったのだと思う。

カワサキだけでなく何となく二輪業界の特徴のような気もするのだが。

確かに、どんなことにも動転したような記憶はない。 そんな風に育ってしまった。環境が人を造るということか。


20070425 カワサキ単車の昔話-55

[編集]

2007-04-25 06:02:03 | カワサキ単車の昔話 カワサキのサーキット専用4輪スポーツヴィークル、X-11

カワサキの昔話もいろいろあるが、これは4輪に関するもので余り一般には知られていない。 ハードとしては完成し、カタログまで造ったのだが、最後に何故現実の販売にならなかったのか、直接担当はしていたのにもう一つ良く覚えていない。 人間の記憶は本当になくなってしまうこともあるのだと思う。

そんな話を思い出させてくれた人に、ヴィンテージモトクロス、ON ANY SANDAの日に出会った。 大阪の貴島久裕さん。

このヴィンテージモトクロスに深く関係して、立脇君の所からファクトリーマシンを調達して展示したり、ご自分の持っているマシンも展示したりしている方で、当日年寄りの私の話し相手を積極的に引き受けてくれたのだが。

話は、止まるところを知らず面白かった。 その貴島さんからX-11の話が出たのだが、その前の自己紹介を聞いてビックリした。

少し横道にそれるが、解る人が読めば直ぐ解る。このブログをお読みの方も解る人は多いと思うのだが。

「今は自分で商売をやっていますが、以前、Taichi に居ました。」 「佐々木さんのところにもいました。その頃お会いしたこともあります。」 「吉田純一さんの手伝いもしていました。」

夫々、この道では有名人であり、全国区である。 私は直接,深く関係のあった人たちばかりである。

「ここからは、後からの挿入です。 山本隆君のブログのコメントから飛んで行ったのですが、ON ANY SANDAについても、貴島さんについても、詳しく写真入りのブログを見つけました。貴島さんのことホントに詳しく出ています。是非ご覧下さい。ここまで。」

X-11は、

90年の秋、開発NO.015の試作がほぼ完成し、その販売を中心にソフト面でのお手伝いを当時のケイスポーツシステムが引き受けた面白いプロジェクトであった。

どんな4輪かというと、 FJ1600よりは限りなくF3に近いサーキット走行専用車で、 ZX1100ccのエンジンをベースに160PS/105000rpm、車重409kg, ホントにかっこいいマシンだった。

エンジンは当然カワサキの開発陣が関わったのだが、サポートしてくれた人たちがまた、かっこよかったのである。

シャシーは、FJ1600の創始者で鈴鹿のウエストレーシングカーズ㈱社長の神谷さんが直接担当してくれた本格的なものだった。 このマシンに興味を持ったのは、出来たばかりの4輪の個人メンバーを集めようとした「TIサーキット」の千々岩さんや国井さん。 そのテストと評価は、元F3チャンピオンの佐々木さんで、その評価も上々であった。

その他、星野インパルの金子社長、星野はタイヤの契約の関係で乗れなかったのだが、この件で金子君はわざわざ明石まで足を運んでくれたりした。

少し脱線するが、金子豊君は若い頃、星野と同じカワサキコンバットにいた。 秋田の出で、その後、私が仙台で東北6県を担当した頃もよく遊びに来ていて、彼のトヨタの空冷のスポーツカーで一緒に走りまわったりした仲なので、特に頼みやすかったのである。 90-12-4、発表されたばかりのホンダNSXに乗ってカッコよくやって来た。 チームグリーンの連中が、思わず車に群がったのをよく覚えている。

レース界では名を知らぬ人は居ないほど有名だった、ダンロップの京極さんなどもタッチしてくれている。 大げさに言えば、レース界の日本の最高レベルの人たちが関与してくれていた。

KSSでは、当時のチームグリーン監督の重本君ほかが、いろいろとお手伝いをした。

当時カワサキに出入りしていた岩城洸一や二輪ライダーの宗和なども乗りたくて、乗れたときには子供のように喜んでいた。 乗りたくて仕方がなかったそんな魅力いっぱいのマシンであった。 岡山のTIサーキットでのKAZEのイベントでルマン耐久3位入賞コンビの宗和,多田が走行披露したりしたこともあった。

特に、二輪エンジン10,000回転を上回る独特のノイズが何とも言えぬいいムードであった。

TIをベースにテストは続けられ、川重社内の経営会議決済でも承認された。 当時の社長の「大庭さんも上機嫌」と日記には書いてある。91-10-17のことである。

当時の雑誌、カーグラフィックにも記事が掲載され、その評価も至って良く、カタログも作って1台800万円ぐらいで売り出すべく準備をしていたのだが。

そこまでの記憶も記録もあるのだが、何故本格的な発売にならなかったのか、それが解らないのである。

私自身は、松井田のサーキットや、JJSBAの改組、新宿ショールームなど同時進行の面白いプロジェクトを手一杯に持っていて、X11はアタマの片隅にしかなかったのか。 そんなことはないと思うのだが、どうしても思い出せない。

今日はこのくらいにして、また調べてみたい。貴島さんとの話でXー11を思い出した。


20070507 カワサキ単車の昔話-56

[編集]

2007-05-07 05:41:01 | カワサキ単車の昔話 源平芸能合戦出場

ホントに単車がスタートしたばかりの昔話である。 「源平芸能合戦」、福助足袋がスポンサーの当時TVの人気番組であった。

1964年8月22日のことだから40年以上前の話である。「知ってる」と答える人は50代以上の方だろう。

出場2チームが夫々4種目ずつ自慢の芸能を披露し、その点数を競うという内容の番組であった。 「ゴールデンタイムのTV番組にタダで出場出来ますよ。」と言うある広告代理店のお誘いに乗って始まった。8月8日のことである。

「タダで出場できる」 が魅力で飛びついたのだが、4種目ぐらいの芸能は簡単に何とかなると思っていたのが,そうはいかなかった。 忘年会などでの芸達者は幾らでもいるのだが、テレビ番組での芸能披露となると簡単ではなかった。

全国的にも「トップレベルの合唱団」が明石工場で組織されていて、これは直ぐ決まった。 手塚さんが「真剣での剣舞」をとこれも決まった。 岐阜工場に「ハワイアンバンド」があってこの出場をということになったが、演奏だけでは面白くないので「フラダンス」を添えようと、そこまでは決まった。

ところが、40年も前のことである。今では考えられないと思うが、出場してくれる女性を探すのが大変だった。 今川重の会長をしている田崎さんなども「口説く役割」を担当してくれて、何とか人数は揃ったが、腰蓑がどうのこうのとこれがまた大変だった。

後一つがどうにもならなくて、困り果てて広告代理店に頼み込んだら「少し金はかかるが」とのことだったが、吉本興業に頼み込んだのである。

吉本興業の企画案は、月を目指しているロケット宇宙時代を先取りした「かぐや姫の寸劇物語」という流石に素晴らしいもので、筋書きから演技指導も含めて手伝ってもらった。 フラダンスの演技指導もついでにお願いした。

本社の岩城常務の耳にも入り「うちは芸人を飼っているのではないから、芸に負けても、応援だけは負けるな」と妙なハッパもかかり、連日の応援練習が始まった。

応援の内容はその頃、藤田まことを起用して流していたテレビCMの「カ ぁちゃん,ワ ても、サ んせい、キーメタ。 カワサキ。」から流用して身振りよろしく声を張上げるという勇ましいものだった。。

前日の8月21日には、ABCのディレクターにわざわざ明石までも来てもらって「通し稽古」もした。 「こんな会社ははじめて」とABCも驚く熱の入れ方だったのである。

連日の練習の成果もあって、本番前の練習でも、応援は相手の「三洋電機」を圧倒して,よく揃って差は歴然であった。


いよいよ本番、四つの出し物も上手くいって、100点を越える高得点であったのだが、三洋も淡路浄瑠璃など抜群の演技で僅少差で負けてしまった。

「演技では負けたが、応援で勝ったからいいか。」と帰りのバスの中で自分を慰めていたが、後日テレビに映った画面を見て驚いた。

あれだけ揃って立派にこなせた応援も、テレビ写りはもう一つだし、声もそろってはいるがこれも映えないのである。

それに対して三洋の応援は、オリンピックの応援団よろしく階段にユニホーム姿の女性を並べて、ただ動いているだけでもう一つと思っていたら、これのほうが余程テレビ写りがいいのである。 動作の不揃いなどアップの映像になれば関係なく、美しいのである。

テレビの画面では、応援は完敗であった。 テレビに慣れている「スマートな三洋」と、「無骨な男、カワサキ」の差が歴然と出た勝負であった。


「タダでテレビ番組に出場できる」でスタートした企画であったが、 吉本興業への支払い、応援練習の夜食代、岩城常務に「よく頑張ったから、全員に記念品を」などいろいろあって、当時の金で300万円位掛かったのである。ちなみに、サラリーマンの年収50万ぐらいの頃のお話である。

かぐや姫役の上路さん、剣舞の手塚さん、ハワイアンの増木さん(津カワサキ)をはじめ合唱団や応援団など多くの人たちが参加してくれた。

応援団などで活躍してくれた田崎さんも私も、まだ「ぺいぺいの元気な頃」だった。 その後いろんなイベントに関係したが、これが一番神経をすり減らした私にとっては思い出多いイベントであった。


20070508 若いころの田崎さんのこと

[編集]

2007-05-08 06:23:49 | カワサキ単車の昔話 若い頃の、田崎雅元さんのこと


非常にユニークで、至ってネアカで、好奇心、知識欲旺盛な勉強家でもある。 ご縁もあって、気もあって、30年以上同じ釜の飯を食った仲間である。

「共有する想い出」を沢山持っている。その中から若い頃の田崎さんをご紹介しようと思う。

私のほうが年次で一つだけ上なのだが、カワサキの単車の同じ時代を一緒に過ごした。 何故か本当にご縁があって、一緒に仕事をしたり行動をしたりすることが多かった。 ひょっとすると一番多かった仲間かも知れない。



昨日、アップした源平芸能合戦でも、いろんなことでいろいろ援けてくれた。 ハワイアンの演奏で踊る、女性候補たちを口説いて集めることなどに関しては、私より数段上の能力を発揮してくれたのである。


はじめて彼と出会ったのは、労働組合の常任幹事の会合のときである。 私は、単車がまだ発動機の中にあった発動機部門代表、田崎さんはJET部門代表で出席していた。 そんな労働組合の会議で、どんな議題でも、どんな話題にでも入っていって、また上手く喋って器用にこなしてしまうのである。

間違いなく事務屋だと思っていたら、技術屋と聞いて驚いた。


1964年に単車再建が本格的に決まって、JET部門から大勢の人が単車に移籍した。 高橋鉄郎さんも田崎さんもその時単車に移って来たのである。

それから仕事の上でのお付き合いが始まった。 高橋さんも田崎さんも生産工場関係で、私は販社の広宣担当で関係はなかったのだが、お二人とはレースで繋がったのである。

源平芸能合戦は64年の8月だが、 その翌月、9月13日甲府で行われた山梨モトクロスには、私がライダー関係、田崎さんはメカニックの統括で一緒に出かけている。 私の始めての現場でのレース活動だったが、技術オンチの私を援けてくれた。 先日のON ANY SADAのヴィンテージMXにも出場していた85J1の初陣で、90ccクラスは三吉一行君が乗って優勝している。

このことを以前ブログに書いたら、田崎さんから「その時の彼のツナギ姿の写真」をメールで送ってくれているのだが、私のパソコン技術ではご紹介出来ないのが残念である。


65年5月3日、カワサキがはじめて鈴鹿を走った日。走ったライダーはMXの山本隆君だった。

今年、MFJのふれあいミーテングに山本隆君に誘われ出席したのだが、その帰りの車の中でその時の話になった。

山本独特の語り口でホントはもっと面白いのだが、文章では表現が難しい。 話の中身は、「どうしても、ロードレースに出たかったが、あの頃は会社がモトクロスだけだったので、自分で車を買ってくるからそれをチューン改造してくれませんかと田崎さんに相談したら」 「まかしとけ。車は僕が都合してやると言ってくれた」と言う。

このお陰で、カワサキがはじめて鈴鹿を走ることになるのである。

「マシンは闇で造って、鈴鹿のモトクロスに行くという名目での出場を画策した」のは私だったのだが、 母体の車を都合してくれたのが田崎さんだったのだが、山本とそんなやり取りがあったとは、つい先日山本の話を聞くまで知らなかった。

これが、当日の雨にも援けられて、3位入賞の結果となり、カワサキのロードレースへの進出に繋がってゆくのである。 (もっと詳しく知りたい人は、このブログをどうぞ。) (このブログも、関連があります)

本格的にロードレースへの進出を決めて、 その翌月、6月13日に鈴鹿で行われた6時間耐久ロードレースに出場することになった。 監督大槻幸雄さん、助監督田崎さんで3台6人のライダーで出場した。

神戸木の実の歳森、金谷のコンビで、はじめて金谷秀夫君がカワサキのライダーとして鈴鹿に登場したのである。 こんなライダー関係は私の担当だった。


そんな関係であったが、日記の記録を見ると、その年の7月23日に田崎さんのアメリカ行きが決まり、大槻さんのドイツ留学も決まっている。

そして、8月10日にレース関係者で明石デパートの屋上ビヤホールで「大槻、田崎さんの送別会」をやっている。 ちなみに、会費1000円、当時としては相当の額であった。


田崎さんとの付き合いは、その後延々と続くのだが、ここまでが、私(33歳)も田崎さんも(31歳)未だぺいぺいの若い頃、レース関係で繋がっていたころの昔話である。

田崎雅元さんは、元川重社長、今、会長である。 川崎重工業を「柔工業に」と提言し実行した、アタマの柔らかい田崎さんの若い頃です。


20070512 続 田崎雅元さんのこと

[編集]

2007-05-12 06:09:27 | カワサキ単車の昔話 続 田崎雅元さんのこと  (コメントのお礼)


カワサキ単車の昔話ー56,57で連続して, 現川重会長の田崎さんの若い頃のことを書いたら、ご本人から直接コメントを頂いた。

普通なら、なかなかコメントをするのも難しい立場の人なのに、 仲間のよしみか、実名でコメントをしてくれたのである。 その内容も田崎さんらしく面白いのでご紹介し、お礼も兼ねてコメントしてみたい。


「古谷さん!懐かしい話を有難う」 で始まるコメントは、 「技術屋でありながら会社に残した図面は一枚もありません。唯一裏で作ったレーサーJ1Rの設計図と部品明細表に私の承認印があるはずです。」 と続いている。


「図面を描いたことがない。」 これには、面白い話がある。 彼は本当に頭は柔らかく、技術屋さんらしくない大雑把なところもあるのだが、 そのことに触れて 「苧野さんや田崎さんは技術屋らしくないところがある」, という話になった時。 田崎さん即座に応えて、 「それはな、図面を一枚も描いていないから。」 確かに図面は、きっちりと描かないと役に立たない。 「なるほど、田崎さんが図面を描いたら走らぬ車しか出来ないかな」 と思ったことを思い出す。

「レーサーJ1Rの図面」 は、そんな田崎さんのたった一枚の 「印を押した」 貴重な図面というのである。


更に続いてコメントには 「製造部門にいた私にその権限も責任もないはずですから、これは当時設計部門の大槻さんとの共謀であったとおもいます。」 と結ばれている。


私の 「マシンは闇でつくってーーー」 という表現を、 直接話法で咎めもせずに、 「闇を裏に書き変えて」 とやんわりと修正し、 「ちゃんと承認印も押してある正規のものですよ。」 と匂わせ、

更に続いている文章も、 PLやダンピングなどで大変だったアメリカの裁判社会を実地に切り抜けてきた、 「流石に、スキのないものだ」  と、妙に独りで感心した。

本当にあのPLやダンピングのアメリカでの裁判問題は、カワサキのみなならず大変だったのを今では懐かしく思い出す昔話になりました。


それはともかく、 カワサキがはじめて鈴鹿を走った 「J1Rロードレーサー」 は、こうして誕生し、 山本隆というモトクロスライダーがロードへの道を開いたのである。

ホントにほんの一握りに人しか知らない昔々のお話である。

田崎さん、有難う。  またいつか、昔話の続きに付き合って下さい。


カワサキ単車の昔話ー57 に田崎さんのコメントがあります。


20070515 Micky Hesseと岩崎茂樹

[編集]

2007-05-15 06:30:24 | カワサキ単車の昔話 今朝、このURLからのアクセスが相次いだ。

「Micky Hesseと岩崎茂樹氏」と題するブログの記事がそこにあった。

是非とも、ご紹介したいと思った。

岩崎茂樹、もう故人となってしまったが、ある意味カワサキを支えた男である。 彼と一緒に、鈴鹿への道を何度も走ったのが懐かしい。

カワサキマニアにとって面白いマシンの話、いっぱいです。


20070517 続、岩崎茂樹君のこと

[編集]

2007-05-17 05:35:45 | カワサキ単車の昔話 seaz companyのtoyamaさんが岩崎茂樹君の話をして頂いた関係から、 私のブログにいろんな所からアクセスがあったのだが、その中の一つにこんなのがあった。

1993年7月25日、鈴鹿8時間耐久レースでカワサキが優勝したときの日刊スポーツの記事である。 この記事にもあるように、このときの8耐はカワサキにとって最高の結果をもたらした。 塚本、北川が5位に入り日本人最高ペアとなったし、日本航空高校の高校生チームがカワサキで参戦したり、4時間耐久では月木チームがクラス優勝を飾ったのである。

7月26日の私の日記には、 「朝の営業報告会、シャンパンでの乾杯から会議はスタートした。この席には居なかったが、岩崎君が一番喜んでいるだろう。-----」と書かれている。


この日刊スポーツ記事にも最後の方にちょっとだけ記述があるのだが、このとき岩崎茂樹君は新設されたモータースポーツ部の部長だったのである。

カワサキにとってたった一度だけの鈴鹿8耐の優勝が、岩崎の直接担当のときでよかったと思う。 このときのスポンサーは伊藤ハムだったのだが、当時博多の「イムズ」に展示スペースを持っていて伊藤ハムと組んで「8耐優勝イベント」を展開したのも懐かしく思い出される。

岩崎君は、モータースポーツ部以前は営業の広報で永く新車発表会なども世界規模で担当していたし、 若い頃にはハーレーに乗っていたり、私と一緒にSPA直入を造ったりしていて一見派手な世界ばかりを歩いたように見られているが。

彼の職務の一番初めは「本社の監査部門」なのである。そんなことで、経理知識なども非常に豊富である。 田崎さんと組んでリンカーン工場関係を担当したり、 イランのCKDのために現地所長として鶴谷君(現川重商事社長)と一緒に苦労したりした。

最後はKMJに来て、物流部門を手伝ってくれたのだが、 彼が川重から異動するときに広報やレースのイメージが強すぎて、「大丈夫ですか」と心配する向きもあったほど、レースやマシンのイメージは強かった。

亡くなる直前まで、しょっちゅう我が家を訪ねてくれていたのだが、彼の博学のいろんな話も聞けなくなった。


ブログのお陰で、「岩崎のこと」 も 「鈴鹿8耐の優勝のこと」 も懐かしく思い出させてくれた。

最初に、ふと書いた岩崎君の記事はこれです。


20070519 カワサキ単車の昔話-59

[編集]

2007-05-19 05:37:02 | カワサキ単車の昔話 東北6県営業担当 仙台時代---1


1967年1月から、広告宣伝、レースなどのから、仙台での事務所を開設しての営業担当に異動した。 私の始めての営業経験であった。

当時はまだ地方の代理店制がまだ残っていて、メーカーの資本も入っていない、所謂自前のデーラーも存在していた。 まだ、メグロ系とかメイハツ系だとかが言われていたし、メーカー資本が入ったとはいえ、社長は従来の地元の人たちだったし、その従業員も現地採用の人たちばかりで構成されていた。

各社長の独特のやり方で経営がなされていたし、デーラーの特徴も県ごとに異なっていた。 五つの系列デーラーと、規模は小さいが八つの自前のデーラーで東北は構成されていた。

まだ、実用車全盛期で、カワサキにとっては東北が一番、九州が二番というような時代であった。


そんな中に、全くのド素人の35才の若僧が営業の世界に責任者として飛び込んだのである。 丁度4年間、仙台でお世話になったが、 一番末端の状況が解ったというか、勉強になった時代であったと言っていい。

粗っぽく言うと、1,2年目はどんどん売って全国の金賞、銅賞など頂いて悦にいっていたが、3,4年目はその反動で資金不足に陥り、デーラーの社長と銀行回りをしたり、本社に資金援助の稟議を書くのが仕事のようなことであった。

このときの経営に於ける資金繰りの重要性は身に沁みこんで、この経験が後に大きく役に立ったのである。 本当に、在庫を抱えての商売は常に資金を頭に置いておかないととんでもないことになるのである。

いつに時代にも、数を売りたい、売上高を大きくする誘惑にかられるが、一番は資金とのバランスである。


そんなことを実地に経験した時代、いろんなことを教えてくれた人たち。

会社の上司では、宮川部長。 デーラー社長では、岩手の久保社長、福島の中西社長。 思い出多い人たちは、秋田の斉藤雄幸、青森の小林清久さん宮城の門伝さん。

一緒に仕事をした仲間たち、宇田川、石塚、海老沢、田中、中田、菊池、君たち。

みんなに、本当にいろんなことを教えて貰った。


営業のド素人を助けてくれたのは、レース経験だった。 無茶苦茶、レースが盛んだったし、開催頻度も多かった。MFJの全日本モトクロスが郡山、札幌と2年続けて北日本で開催されたりした。 事、レースに関しては、各地の社長さんも足元にも寄せ付けない、知識と経験、それに山本、星野、岡部、歳森など全盛期で、彼らに顔が利いたことが、営業での未熟さを大いにカバーしてくれたのである。

この時期、お世話になった人のお話や出来事を少し続けてご紹介してみたい。」


20070520 カワサキ単車の昔話-60

[編集]

2007-05-20 05:31:34 | カワサキ単車の昔話 仙台時代ー2   東北での昔話

仙台を拠点に東北6県を担当した。 商売としては、代理店営業であったがその先の販売店の訪問もあったので、車を使っての出張であった。

今は高速道路も出来ているが、1967年当時の東北は峠越えなどまだ地道のところが殆どで大変であった。 それにとにかく関西などでは想像できないほど広いのである。 仙台ー盛岡は隣だが200キロ。盛岡ー青森も200キロ。 200キロとは兵庫県明石を基点にすると名古屋までの距離である。 兵庫、大阪、京都、滋賀、岐阜、やっと愛知、五つの県をまたいでの距離なのである。

それでも人間慣れで、200キロはそんなに遠いとは思わぬようになり、夕方まで秋田に居て300キロの道を夜車を飛ばして帰ってきたりしていた。 冬場になると雪道で、それこそ大変だったのだが、雪の舗装で夏の砂利道よりいいと思ったりした。

レース担当直後だったし、アウトイン、アウト。スローイン、ファーストアウト。ダブルクラッチ、ヒール&トウ、カウンターなどのレーステクニックは結構雪道では重宝した。 ある意味、安全運転テクニックでもあった。

まだ珍しかったミシュランのラジアルタイヤをはいて、回転計をセットして、東北6県走り廻った。お陰で殆どの道も、温泉もを知っている。

その車に、一本500円の二級酒をいっぱい積んでいた。 販売店といっても自転車屋さんが殆どだったが、訪問して酒を二本お土産に上げると大体なんでも解決した。 金の多寡ではなく、気持ちが何よりも優先した。 関西から行って、人に二級酒を思ったが、一本は駄目で二本なら二級酒で十分というそんな時代であった。

仙台で肉といえば、豚肉のことで、すき焼きも豚肉、牛肉は殆どなかった。 仙台の牛タンなど、あろう筈はない1967年から70年頃の話である。

仙台の家に雨戸がないので、「用心が悪い」と言ったら、大家さん曰く「ここは泥棒はいない」と仰った。そんなのどかな時代でもあった。

確かに東北の人たちは、人間本来の良さを沢山身につけていて、東北で4年間過ごせたのは本当によかったと思っている。 その最後の一年、隣の北海道もついでに担当してくれと言われて引き受けた。


然し、これには本当に困り果てた。北海道そのものが広く大きい上に、関西から見ると確かに隣だが、仙台ー明石と仙台ー札幌は電話代が一通話同じなのである。 ということは、距離が一緒丁度1000キロ離れている、という事である。

更に冬場は、飛行機が飛ばず汽車と船を乗り継いでの札幌への移動で、動くだけでバテテシマッタ。

後年、国内を担当したとき、北海道は迷うことなく東京の担当とした。 まだどこも、そんなテリトリー制を敷いているところはなかった、1979年の話である。札幌は東京が一番近く便利なのである。

今は、そんなテリトリーも珍しくなくなったが、これは経験が生み出した知恵だった。 私も30代後半、若くて元気であった時代の昔話だが、40年ほど前の話である。


20070603 カワサキ単車の昔話-62

[編集]

2007-06-03 09:07:11 | カワサキ単車の昔話 仙台時代-4  田舎なれども、金のやま。 


仙台に赴任するとき、清水屋辰夫さん(故人)に言われた言葉は今でもよく覚えている。

「ちゃんと東北の民謡を覚えてこいよ。」 仙台での4年間、心のどこかにその言葉があった。 八戸小唄も覚えたし唄いもした。青森や秋田の民謡も聞くには本当によかったのだが、唄うには難しすぎた。

そんな中で、一番好きな印象に残っている民謡、何度か人前で唄ったこともある、 「田舎なれども、南部の国はよ、西も東もよ、金の山ーーー」で始まる、  「南部牛追い唄」 はその後、世間にも知られるようになった。


日本の民力度で言えば、下から何番目の岩手県、南部のくにが、 当時のカワサキの売上台数で毎年金賞を取り続けたし、東北各県が全国の上位を占めたのである。 まさに、私にとって 「西も東も金の山」 のように思えた。

この東北の販売を支えた人たちは、当時はまだ代理店制が残っていて、その地方出身の人たちばかりだった。 こう言えば何だが、大学卒などは居なくて学歴で言えば中学卒が中心であったかも知れない。

振り返って考えてみると、その前のレースで付き合った仲間のライダーもメカニックも、東北の人たちもみんな学歴などはなかったが、いい奴ばかりだった。


私の生き方の原点みたいなもの、 人間の力は学歴やアタマの良さではなく、真っ直ぐに何かに向かって努力できる事だと思ったし、 そうした力を引き出すのが戦略的に綿密に仕組まれたシステムだということを、 岩手カワサキの久保克夫社長(故人)から学んだ。

岩手カワサキの久保さん独特の仕組みは、 本当に上手く綿密に出来ていて 「南部の国、岩手」 が金賞を取り続ける謎がそこに隠されていたのだが、 何年か後、直営組織になり一律政策に変っていって 「差別化の効力」 も消え、民力度なりの販売台数となっていった。 実用車からスポーツ車への需要の変化も、より東北を苦しいものにしたのである。


殆どが自転車屋さんであった販売店の人たちにもいろんなことを教わった。 いい人たちばかりだった。東北の4年間で、人のぬくもりを実感できた。 末端のひとたちや販売店とのお付き合いがその後の私の人生の大きな部分となった。 完全に体質となった基礎が、レースと東北時代に造られたといっていい。

そしてその後ずっと、人間は本来、いいものだという 「性善説」 にたっている。

これは、東南アジアや回教国の人たちにも通じたと思っている。 若し、それが通じないとしたら中途半端な 「性善説」 だからだと思う。


そんな、懐かしい私の心のふるさと東北の仲間たちはいっぱいいるのだが、 先日、服部カワサキの30周年で服部君や山本、浅沼、海老沢君などと会えて楽しかった。 服部、山本、浅沼君もみな出身は 「南部のくに」 である。

東北も仙台の伊達よりは、南部、津軽、会津など地方の方にほんとうのよさがあるようにも思った。 私の生き方を支えてくれた、東北、田舎で出会った人たちに感謝したい。


20070610 カワサキモータースジャパンOB会

[編集]

2007-06-10 05:36:24 | カワサキ単車の昔話

(写真をクリックすると大きくなります)

恒例のOB会、慶睦会が開催された。 今年から、入会1年生で定期採用一期、二期生の冨永、山田君が会長、副会長に就任して、新しくスタートしたOB会であった。

また、KMJも30年振りに現場責任者の河野君が社長に就任するなど、文字通り若返った溌剌とした体制となった。 会長、副会長が会員の中で一番若手であるという、普通一般の世の中では考えられない、ユニーク且つ画期的な新体制である。

写真をご覧頂くと、真ん中に座っている三人が飛びぬけて若く、 周りを取り巻く人たちが「おじん」であることを見ても、その若さを実感して頂けると思う。


克って社長を務められた高橋鉄郎元川重副社長や、単車再建期の企画担当の黒河内さん、定期採用一期生の面接をされた西さん、遠く長野から今井さん、豊橋から中村さん、本当に久しぶりの奈良の岩田さんなども出席されて、1年振りに懐かしい人たちが集まったいつもながらのいい会合であった。

KMJのOB会は東京、九州にもあり、東北に支部もある。 夫々の時期に夫々開催されている。 どこのOB会に何度出席しても特に問題はない。

グループの生い立ちが、メイハツ、メグロ、川航、川重、KMJと多岐に亘ること、途中二輪販売店に独立開業した人、メーカーから出向していたが帰任した人など、いろいろあって、

OB会員になれる資格は、1日でもKMJグループに勤めた実績さえあればいい。 従って、集まった人たちもメーカーの人、販社の人、今販売店、業界など様々である。 ただ一度、同じ釜の飯を食った人なら有資格である。 そんなユニークさが、かっての職位の上下などに関係なくフリートークでいい雰囲気をつくりだすのだと思う。

今年からは,奥嶋宏文君、元明石カワサキの一ちゃんこと吉田一郎君も新加入してより賑やかになった。


東京地区は6月16日開催らしいが、こちらも石塚会長が自慢するようないい会合のようである。 (石塚君のことは仙台の昔話で近日中にアップの予定です。)

いずれも14回目の開催で、来年は15周年を迎える。 何か特別企画を考えると言っていた。 きっといい会合になるだろう。

20070610 Dream Plus

[編集]

2007-06-10 07:32:56 | カワサキ単車の昔話

Dream Plusのホームページがありましたので、まずご覧下さい。


OB会の席上、新社長の河野君が熱心に新商品のDream Plusについて説明をしてくれた。

出来たばかりの新商品だから、ご存知の方はまずいないだろう。 先ず第一報を。


新しい部門には、 アメリカのKMCに逆出向してKMO再建に尽力した日野勉君を長として、 東京は東北でお世話になった斉藤君、 こちらは二輪専門の自動車学校開設の初期から手伝ってくれた北出君という、 特に私としては仕事で関係もあった積極的かつ有能な実力者が担当することとあって、 少しでも応援をしようという気持ちで、このブログにアップすることとした。


一言で言えば、空気中の酸素を取り入れた健康器具である。

有名スポーツ選手、5月の富士スーパーGPで優勝した四輪ドライバーなどが既に実験的に利用してその効果を認めているようである。

あのゴルフの宮里藍ちゃんもお兄ちゃんたちも使ったとか、使わなかったとか。 そんなニュースは別のルートで少し前に耳にした。

約1時間この中に入っていると、1.3気圧の水面下3メートルと同じ圧力で無理なく身体をリフレッシュするという。

医療器具ではないので、スポーツジムやスポーツマッサージ、エステサロンなどで既にそこそこに販売実績があり出足はいいようである。

試してみた人に聞くと、めっちゃ気持ちいいとか。 特に、首から上、目などには非常にいいそうである。

ただ1台336万円もするので個人ではどうかと思うが、世の中にはお金持ちもいるのでひょっとしたら欲しいという人がいるかも知れぬ。

早速、doppyさんから専門家のようなコメントを頂いたが、ブログの広がりとスピードに驚いている。


密閉技術では航空機や新幹線で豊富な経験のある川崎重工業の製品で、 (株)カワサキモータースジャパンが新商品として発売を開始した。

東京都中野区野方と神戸市西区玉津町居住に体験ルームがあるという。 企業、団体向けには、出張体験も移動体験カーで可能。

より詳しくお知りになりたい方は 東京 03-5380-2072 神戸 078-921-4102 へお電話下さい。


久々に仕事をしていた頃を思い出した。 ご関心のある方、よろしくお願いします。


20070611 カワサキ単車の昔話-63

[編集]

2007-06-11 05:45:56 | カワサキ単車の昔話 仙台時代ー5   宇田川勇、石塚益治君


東北での4年間いろんな人に出会った。 その中で本当に会社で最後の最後まで一緒に仕事ができた人、二人。

宇田川勇君と石塚益治君、石塚君の益は、これに金へんが付くのだが、字が見つからない。失礼する。


お二人とも、メイハツ入社だから年に関係なく単車の大先輩である。 仙台で出会ったときは宇田川君はサービス、石塚君は経理のスペッシャリストだった。 私もその頃は、レース専門であったかも知れない。

そんな営業のド素人が集まって、べテランの代理店社長さんを相手の営業活動をスタートさせたのである。


宇田川君はサービス出身でとにかく話上手だったし、交渉ごとをやらしたら100%安心して任すことが出来た。 弁も立ったが、誤魔化すのではなくベースに誠意があった。

あの、この二輪業界で誰もが対抗できなくて有名であった、多分今でも有名なヤマハオートセンター、今のレッドバロンの杉浦さんも一目置いた存在だった。

会社の業務で、難しく、ややこしいものを選んで担当してもらい援けて貰ったというのが実感である。

最後は、西武自動車との関連もあって非常に難しかったジェットスキーのレース協会、JJSBAの常務理事を引き受けてもらった。 琵琶湖の近江舞子で開催したワールドカップや、石川県千里浜での1000台のマシンを集めたジェットスキーレースなど最盛期の活動を演出してくれた実力者だった。

引退した今でも、旧い西部の方たちや当時の人とはお付き合いがあるようだ。

仙台時代、一緒に仕事をした久保さんや小林さん、それに秋田の斉藤雄幸さんなどは、宇田川君と共通の思い出を持つ懐かしい名前である。

昨年だったか、星野インパル社長の金子君の口から「斉藤雄幸さん」という懐かしい名前が出て「へー」と思った。 いろいろ関係があるものだ。 ちなみに、金子君は秋田の出身で東北時代もいろんなことでお付き合いがあった。



石塚君は経理出身で無茶苦茶堅かったのだが、 東北でで一番ぐじゃぐじゃと細かい文句を言う山形の自前のデーラー担当をさせたら、人間が変ったのではないかと思うほど柔軟になった。

経理に詳しいのは当然だが、筆を持たせたら本当に達筆で、年賀状でも群を抜いている。よく印刷でない手書きの表彰状など書いてもらった。

人当たりは至っていいのだが、意外に意思がはっきりしていて、思ったことを直言してくれる。 永い会社の生活ではっきりと私に注意をしてくれた回数は、間違いなく彼がトップである。有難かった。

何故か、私のところで飼っていた犬と関係があって、仙台のとき生んだ子犬も確か貰って頂いたし、現在まだ家にいる13歳のTOM,LOVEの仔犬も貰ってくれた。 今でも元気なようで、ご近所でも評判の人気の犬だとか。、写真なども送って頂いている。

印鑑を自分で彫ったりする趣味もあって、わざわざ私の名前を彫って贈って頂いた。 毎年、筆で自筆で書く年賀状に捺させて頂いている。

もともと経理が専門だから今でもどこかの会社を手伝っておられるとか。 東京地区のカワサキOB会の会長でもある。 いずれも彼の実力と人望であろう。



仙台での4年間、その後も当時の関係のまま続いたお二人とのお付き合いである。

お二人が、このブログをご覧になっているかどうかは、定かでないが、 私としては、お礼状の積りで昔話を書いている。

お礼状を書かなければいけない人は、もっともっと居るのだがーーーー。


20070612 Dream Plus -2

[編集]

2007-06-12 05:53:24 | カワサキ単車の昔話 Dream Plusの第二報である。

昨日、第一報を出したら早速、doppyさんから非常に詳しいコメントも頂いた。 朝、このプロジェクトの日野勉君に電話でいろいろ聞いたら面白い話、いっぱいである。

昨日のブログに追加しようかとも思ったが、 ニュース性もあるし、いいデーターも既に発表しているし、これはこのブログを読んで頂いている方々にも、結構面白そうな話なので、第二報としてアップしたい。


昨日、既にそこそこの実績があるとお伝えしたが、


その実績先が、かっこいいのである。こんな話を大人しく抱いている手はない。 どんどん発信して広がりを期待すべきである。

この手の話は、「格好の口コミ材料である。」

まず、ホームページにある導入店をご紹介してみよう。


三つのお店が紹介されているが、

まず一つ目は、日本のスポーツトレーナーとして著名で且つ実績もある。 宮里藍や聖志、優作兄弟のコンデショニングトレーナーである鎌田貴さんのお店,STA JAPAN 広尾。

鎌田さんはゴルフのほか、モータースポーツ分野では、 二輪ではモトGPの玉田誠選手やJSB1000チャンピオンの伊藤真一選手。 四輪ではスーパーGTやフォーミュラーニッポンを走る山本哲選手などを支えるプロトレーナーである。

「Dream Plusは病みつきになる」 というコメントも頂いている。


二つ目は、矢作治療院。 治療院という屋号だが、元巨人軍のトレーナー 矢作(やはぎ)晋院長が経営する独創の総合整体術を施す治療院である。


三つ目は、 「ネイル&02サロン アルタモーダ」とそのネーミングを聞いただけでも、かっこよさが目に浮かぶ、川田明子オーナーが経営するネイルサロンとフットケアクリニック。

川田さんは単なる経営者だけでなく、NPO法人日本ネイリスト協会の本部認定講師として主宰するネイテイブアカデミーから600人を越す生徒を世に送り出しているという。

ホームページにはより詳しく紹介されています。是非ご覧ください。


初期の納入先としては、非常にいい線を行っている。 ゴルフ、野球、モータースポーツ今後スポーツ全般に広がるだろう。 ネイル&フットケアなど女性が対象に入るのもいい。

将来は家庭への浸透を考えて、それに適応する商品も研究中とか。

商品の時代への適応性、健康商品としてのイメージも、 川重の航空機や新幹線技術からのハイテク技術というのもいい。

川崎重工業全体の企業イメージ向上にも大いに貢献すると思うし、 Dream Plusという商品名どおり夢膨らむ商品と言っていい。 田崎さんが関心をもつのもよく解る。


いい事ずくめだから、あとは広報活動とか販売方法が、 商品、それを使うユーザーのかっこよさに見合ったものであって欲しいと願うものである。

今の時代、そのためのいいツールなど、幾らでもその辺に転がっている。 人の足や汗と努力で売る商品ではないことは、確かである。

日野君をはじめ斉藤、北出君の若いアタマとソフトに期待したい。


20070616 Dream Plus-4

[編集]

2007-06-16 06:55:28 | カワサキ単車の昔話 今朝のGoogleアラートの「カワサキ」のニュースに、 先日来ご紹介したDream Plusのニュースが飛び込んできた。


意外な商品という見出しで、 東京有明の東京ビックサイトで開かれた「ヘルス&フィットネスジャパン」に、 昨年ハンカチ王子も使って話題となった商品、Dream Plusと紹介されている。

作るのは作れたが、どうやって販売したらいいのか解らずに、 カワサキモータースジャパンが販売を担当することになったが、畑違いの商品に少し戸惑いを見せている。


そんなことはない。 新商品の販売方式の設定ほど楽しく面白いものはない。 柔軟なアタマで、いい発想を。 こんなチャンスは余りない。


昔、新商品ジェットスキーの販売方法を巡って、 水の商品だから西武やヤナセのボート屋さんに売ってもらうべきというのを、

新しい商品だから新しい発想で新しい販売網でと、白紙に絵を書いて、 「楽しみながら、遊びながら売る」、JJSBAのレース組織と綿密に連携した今の体制を築き上げたこともある。


「楽しく」と「仕組みで売る」をKEYにして、 夢いっぱいのDream Plusというネーミングに相応しいセールスシステムの構築を是非考えて欲しいものである。


20070620 温泉めぐり

[編集]

2007-06-20 06:28:20 | カワサキ単車の昔話 国内の担当が永かったので、日本国中知っているほうである。

当然、あちこちの温泉にもお世話になった。 仙台にいた頃は、東北6県を車で飛び歩いていて、温泉の方が市内のホテルに泊まるより安いような環境だったので、大げさに言えば東北の温泉の9割は訪ねたことがあるだろう。

北海道も地方の温泉も含めて、多分8割は行ったことがある。 それもツアーなどではいけないようなところが多いのが自慢である。


あまり豪華な建物のホテルよりは、昔ながらの和風の温泉のほうが温泉らしくていい。

訪れた回数では仕事の関係もあって、今は竹田市となっているが、大分県直入町の長湯温泉が圧倒的である。 宿泊日数のべ50日は多分越えるだろう。

大丸旅館の大女将(おばあちゃん)には本当にお世話になったし、名物のしいたけなどよく送って頂いた。 丁度その頃、次男の首藤文彦さんが荒地から一人で小さなブルで土地を造成して造り上げた広大な敷地の、 「宿坊翡翠之荘」 にはオープン当初から大丸の大女将にそちらに泊まるように頼まれたりしてよくお世話になったものである。

その後も、お客とご一緒したり、お客ではないが当時カワサキにしょっちゅう出入りして、ジェットスキーやサーキット走行を楽しんでいた岩城洸一などもよく泊まったものである。

直入町には大分空港からレンタカーで湯布院経由であったので、湯布院も懐かしいまちである。 駅の建物など風情があっていい。


昨日の武雄市長物語。 樋渡さんはその由布院を訪れている。


その記事の後ろの方で、「まだ僕の案に過ぎないのですが」と断わり付きだが。

湯布院、武雄を含む7つの九州の温泉、名湯が組んで周遊、広域的なプランを提示する。 7つは直ぐには無理なので、 もう一つ加えて「九州三湯物語」を「食」をテーマにというプランである。 こじんまりした温泉で「食」と「湯」に自信があるところ。

樋渡さんのプランはいつもコンセプトが確りしていてブレがない。 ほぼ実現が可能な段階での発表も、結果的に早く実現したというイメージになる。

こんな楽しく夢のある話、大好きである。 武雄の枠の中に止まらず常に外を向いてネットワークでというところがいい。


面白そうなので、一つ提案。 竹田市直入町、「長湯温泉」を是非お奨めしたい。

まず間違いなく、「名湯」である。 「周遊」というから将来どこか4つ目に向かうには、久住高原から阿蘇を通って行くだろう。その通り道である。 竹田市そのもののイメージもいい。

「食」はしいたけ。「魚」はヤマメ、地の人は「ヤマメ」とは言わずに、地方の呼び名で「エノハ」呼んでいる。 その他にも湧き水で栽培される「わさび」「豆腐」「地鶏」など。

コンセプトにはないが、ドイツ村やSPA直入があったりして、旧いだけでなくかっこいい。


将来、7つをお考えのときは「オートポリス」の近くの黒川とか菊池温泉も候補に入れて欲しい。 どうしてもSPA直入とオートポリスが出てきてしまうのは、カワサキOBなのでお許し願いたい。

だけど周遊の息抜きに、2輪でも4輪でもサーキットランを経験されるのも余りないチャンスでお奨めである。


樋渡さんの夢に便乗して、早速ですが三つ目が決まる前に、(ひょっとしたら既に決まっているかも) 私の夢物語を申し上げました。


20070628 カワサキ単車の昔話-65

[編集]

2007-06-28 05:37:46 | カワサキ単車の昔話 ジャンボリー。当時はそんな呼び方をしていた。

1973年8月4日、琵琶湖マキノ町で2000人のユーザーを集めて盛大に開催した。


その前の年もその年も、ジャンボリーは二輪のユーザーを集めて、いろんな遊びを楽しもうという目的で、全国各地で行われていたが、その規模は200名ほどの規模であった。

担当地区の近畿でこれを企画するに当たり、まず1000名以上の大きな規模でやろうということをまず決めた。

そのために大阪管内だけでなく、名古屋も含めて共同で行おうということになり、場所は大阪と名古屋の真ん中辺りを目標にして候補地を探した。

最初、候補地として挙がったのは、奈良の曽爾高原である。 雄大なすり鉢状の地形は非常に面白いと思ったし、ツーリングで訪れるには格好のロケーションであった。

一端候補地として村の許可も貰って、雑誌広告まで打って進めていたが、1000人の人が来ると解って村は一転、許可を取り消したのである。 理由は環境問題であった。環境問題のハシリのような出来事であった。


それからが大変であった。候補地を琵琶湖のマキノ町に変更し,町の積極的な協力もあって、目標人数を2000人としその規模でのイベントを考えた。


当時では、はじめてのとも言える大掛かりな舞台を組んで、当時の有名バンドなどを呼んでのイベントとなった。 あまり名前まで覚えていないが、タレント料で260万円も払っているから、そこそこだったのだと思う。

大変ではあったが、大成功であった。 当時の特約店が会場で店を出したり、当時は初めて見る人が殆どだったジェットスキーのデモンストレーションや、ヨコの川での魚のつかみ取り大会、 夜のバンド演奏は本格的なものだった。

同じ夜にマキノ町が直ぐヨコで、花火大会をやってくれたのでそれを借景にした豪華な雰囲気であった。


一番の思い出は、その運営が非常に上手く何の問題もなく行われたことである。

企画の段階で、2000人も集めたら運営が大変と、いろんな所からいろいろ言われた。 意地でもきっちりと整然とした運営にしたかった。

そのために、デイズニーランド方式の金券やら、ユーザー各自がテントの回収をする仕組みとか、それこそ職位に拘らないやれそうな奴が長になる班編成などいろいろ考えて、殆どが上手く機能した。

2000人分のテントを張るスペースが砂浜に確保できるか。非常に難しかったのだが、その年未曾有の渇水で砂浜がどんどん増えたりした幸運にも恵まれた。 お陰で、隣の川で魚のつかみ取りが出来る環境にもなったりした。


このジャンボリーに携わってくれた人たち。今、思うとその後のいろんなイベントを支えてくれた人たちである。 思い出すままに列挙すると、

鍋島英雄,平井稔夫、藤田孝明、岡島、南昌吾、古石喜代司、竹内優、宮本進、谷沢高明君らがキーマンで若手の中にも想いでを共有する仲間葉大勢いるはずである。


マキノ町とはその後毎年10年近くのお付き合いが続いたと思う。


20070629 ミッションステートメント

[編集]

2007-06-29 05:41:52 | カワサキ単車の昔話 好景気を反映して各企業の業績もいいようだ。 川崎重工業も売上、利益共に過去最高を更新したようである。OBの一人としてご同慶の至りである。


株主総会にあわせて、広報誌「かわさき」が送られてきた。

「カワサキミッションステートメントを新たに制定する」 ことが、トップ記事にあってその説明が詳しく載っている。

「ミッション」、最近になって使われるようになった。 「企業理念」よりは、より広く、より具体的で、「より高い位置づけ」かなと漠然と思っていた言葉であるがはっきりとは解ってはいなかった。


一般に、日本の企業は売上、利益の追求にばかり熱心で、「企業理念」とか「企業の社会的責任」とかは口では言うが、現実には新聞紙上を賑わすゴマカシ体質の企業や談合体質の自治体など、例を挙げればきりがない。

本音と建前は違うのである。 こんな日本的な考え方も時代と共に変りつつあるのだろう。

川重にも1966年に制定した「企業理念」はあったのだが、 「当社経営と社会、経営環境の変化」に対応した「新たな役割、機能の必要性」があったと説明している。

田崎、大橋と 「ゴマカシの大嫌いなアメリカ」 の現地を経験した社長が続いているので、 田崎会長、大橋社長の体制下で制定されたこの 「ミッション」 には大いに期待したいのである。


「世界の人々の豊かな生活と地球環境の未来に貢献するGlobal Kawasaki」 をグループミッションとし、  「カワサキバリュー」「グループ経営原則と行動指針」 を具体的の規定している。

川崎重工も単車、車両と一時は経営の足を引っ張った事業ではあったが、 いずれも、アメリカや世界で事業展開をしてきた事業部からトップが出て、初めて重工業の企業体質の転換がはかれ始めたと思っている。

本当に全グループ、全社員がこのミッション通りの行動が果たせるか。その真価が問われている。


ところで、「ミッション」 とはどんな意味か。 辞書やWikipediaで調べてみたが、大したことは書いていない。 いろいろ調べていたら、こんなのが見つかった。

これは詳しく、よく解った。制定に当たってもこんな資料を勉強しながら作ったに違いない。

私なりの感想であるが、 「今回のミッションは細部までよく出来ている」 と思っている。

詳しく、知りたい方は是非こちらをどうぞ。


世の中はすごいスピードで変化し、進化している。 世の企業、自治体なども、自らの「ミッション」を再確認し再定義して堂々と発表するような時期に来ていると思うのだが。

これは、間違いなくトップの判断、トップの仕事である。


20070703 カワサキ単車の昔話ー66

[編集]

2007-07-03 05:50:39 | カワサキ単車の昔話 アメリカ視察旅行


1972年1月、全国の二輪車販売店約100店が参加してのアメリカ視察旅行を行った。 35年も前の話で、多分日本で始めて行った販売店の団体での海外視察旅行だったと思う。

70年頃から、カワサキもA1,H1,W1など大型スポーツ分野へと進出し、 従来の実用車の地方主体からようやく東京、大阪、名古屋など都会への進展を急速に進めていた頃であり、大型スポーツ二輪車専門店の育成を目的に実施されたのである。

まだ世の中の二輪車販売は、自転車屋さんが主体で二輪車専門店など珍しい時代であった。 私も始めての海外旅行であったが、参加した全員が多分始めての海外旅行であった筈である。

大型スポーツが主力のアメリカの市場とはどのようなものか。 ディストリビューターKMCは、 デーラーは、 スポーツイベントやレースは。 こんなマーケッテングのための視察旅行であったが、今思い出しても新鮮で、はじめての多くのことを学んだ。まさに新しい世界を見たという印象であった。

1月8日に羽田を出発して、 9日  トレールランド、サウンドバックパークとデイズニーランド見学 10日 KMCとロスのデーラー見学 11日 ロス近郊のヨットハーバーなど 12日 サンフランシスコでデーラー見学 13日 サンフランシスコ見学 14日 ハワイ 15日 ハワイから羽田へ

というスケヂュールで至極真面目なものだった。 参加した販売店も若い販売店主が多く、全般的には何事も学ぼうという姿勢が強かった。 はじめてのものを、直に見聞するということが如何に人々にとって刺激的なことであるのかよく解ったし、文字通りのいい体験であった。


ただ、全員がはじめての海外で初体験のことばかりで、いろんな面白いことにもいろいろ出くわした。

誰かがホテルのロビーで少し酔っ払って大声で話していたのを注意されたのだが、英語がダメでよく理解できずウロウロしていると、警備員がピストルを持って駆けつけたと、私に連絡があったりした。 やっと、事の次第が解ると、今度は日本流に「迷惑をかけた」とお詫びのしるしにタバコを買って配るなど、周囲をビックリさせる出来事もあった。

今では、笑い話だがその時は大変だったのである。 その張本人は、昼間のデーラー見学などでは超マジメナーーのーーさんだった。

日本流での当時の風習とは全然違って、食事のときの飲み物も一人ひとりに聞いてくる。 今ではそれも普通だが、「ビール」と頼むと「どこの銘柄」、その銘柄の名前が解らない、ヤット運ばれると1本づつその場で精算する、チップが要るなどの慣習は全くはじめてで、それに慣れた頃にはアメリカ本土はお終いだった。

先方も日本人の団体旅行などはじめての経験のようで、どちらもお互いにビックリした経験であった。

ハワイでのさよならパーテイは、やっと慣れた日本式で行われみんな大満足であった。 銘柄などには拘らずさされるままに酒を飲む日本流はいいものだ、ということがよく解った。


この視察旅行は、私は全国カワサキ会の関係から団長格の参加で、事務局としては北村敏、野田浩志さんがいたのだが、販売店はどうしても顔なじみの私にいろいろ言ってくるので、その対応に終始大変であった。 英語も全然喋れず「大学出も大したことはない」と冷やかされたりした。

ハワイの頃には疲れ果てて、ずっと部屋に閉じこもり切りで、ハワイの青い海もろくに見ないままで帰国したのである。


一番多く参加した東京からは、北多摩、城東、城南、城北、城西などそれぞれの地区からその地域のグループ単位での参加であったし、東京地区が一番元気に全国を引っ張っていた懐かしい時代でもあった。

大阪からも、船場モータースの岡田さんや西形さんなど。 会社側からは東京の佐藤君、大阪の宮本君(現滋賀カワサキ)などが参加した。

この旅行の後、カワサキの特約店制度が具体的に展開されていくのである。


台数はともかく、国内の販売網政策ではその後も業界を終始リードしたカワサキの幕開けみたいな、アメリカ視察旅行であった。


20070705 二輪車ファン

[編集]

2007-07-05 05:45:51 | カワサキ単車の昔話 二輪車の業界やジェットスキーの業界にに40年もいた。 振り返って考えてみると、 「面白かった」 という感想が一番当たっている。

ホンダ、スズキ、ヤマハという競争相手が、大企業でありながら普通一般の大企業と全然違っていたのもよかったが、何にもまして、 「面白かった」源泉は二輪のユーザー、二輪ファンのお陰だと思っている。


二輪のお客さんは、普通のお客さんとは少し違っていて、お客に対していると言うよりは、 「好きな仲間の集まり、ファンの集まり」 のようなところがある。

メーカーも販売店もユーザーも、二輪という商品を通じて知り合った仲間なのである。

40年間売るほうの立場にはいたが、丁寧な言葉は使ったことは当然あるのだが、 お客さんに対しても、販売店に対しても「敬語を使った」という意識は皆無である。 多分、私自身敬語で話し続けたことはないと思う。 思い出せないのである。

特に、若いユーザーの人たちとの会話は、バイクそのもの、レース、遊び、ツーリングなど楽しい話題が圧倒的だし、修理やクレームなどの話しにしてもそれなりに技術的な趣味の範疇の事柄などもあって、それ自体が専門的でありある意味楽しいのである。 そんな中で、敬語が連続したりすると、折角のいい雰囲気が壊れてしまうのである。

二輪という商品もずっと以前通勤や商売だけが主流であった時代もあったが、 中大型のスポーツバイクが中心の二輪ファンがお客の主流になってからは、 売る側の活動も単に商品を売るよりも、商品に付随したいろいろなものを提供することが活動の中心になるべきだと思っていた。

二輪ユーザーもいろいろあって、ツーリングやレースなど本来のライデイングを楽しむ人から、いろんな車を集める人、乗るよりも磨いたり分解したりすること自体を楽しんでいる人たちなど多種多様である。


私の家の直ぐ近くにも、ハーレーを持っている人がいて、休みになるとしょっちゅう車を磨いたり分解をして楽しんでいる。ホントに大事にしている、それ自体を楽しんでいるというのが、ヨコから見ていてもよく解る。

このブログにも何回か登場した、seaz companyの登山さんたちのグループも旧い空冷4気筒を中心に全国的なグループを造っている。

まあ言えば、そんな個人個人の趣味を共通に持っている人たちばかりがいろんなグループを形成して、それらが集まったものが二輪ユーザーだと思っている。

いろんな二輪車ファンの集まりなのである。 四輪も同じ自動車工業会で同じ範疇ではあるが、お客さんは二輪車とは全然違って、売るほうの方は「敬語」はMUST条件である。


私自身の勝手な発想かも知れぬが、正直そんな風に思って40年過ごしてきた。 昨年、9月からブログをはじめて続きが始まった、また新しい二輪のファンの方ともお知り合いになれた。 今後も、ブログをやっている限り新たな出会いがあるだろう。

二輪のそんな世界が私の性にあっているし、心底「面白かった」という感想に通ずるのである。 晩年、熱中したジェットスキーの世界は、JJSBAのレースが中心でこれもまた、たまらぬ「面白さ」の連続であった。


20070706 競争

[編集]

2007-07-06 05:27:36 | カワサキ単車の昔話 世の中で生きていく上で、個人でも企業でも競争は避けて通れない。

私が経験した二輪業界は、その企業間競争が極めて激しかったし、面白かった。 戦後、エンジン付き自転車として再スタートを切った時期の二輪メーカーはその数100を越えて幾つあるのか解らぬほどであった。

その殆どが淘汰されて、昭和30年(1960)頃には数えられるほどに減っていた。。 その中には未だ名だたる大企業が入っていたのである。 三菱重工業、新明和、富士重、トーハツ、ブリジストンなどなど。 勿論、ホンダ、スズキ、ヤマハやメグロ、ライラックなどもまだ残っていた。

それが更にH,S,Y,Kの4社に集約されてしまうのだが、 その間企業間競争があったと言うべきかどうかは別として、大企業が浜松の企業に負けてしまったのである。 だが、三菱重工業に競争に負けたという意識が果たしてあるであろうか。一度聞いてみたい気もする。


ホンダ、スズキ、ヤマハの浜松を引っ張ったのはホンダであり、本田宗一郎であったと言えるだろう。 直ぐまじかでお会いしたこともあり、話はしたことはないがお話を聞いたことは、業界の会合などで何度もある。

高松の宮様や官庁の偉い方が出席される会合などでも、お上に媚びたりするような所は微塵もなく、常にホンネで、その場の雰囲気を壊さぬ素晴らしい話をされていたのが印象に残っている。

常に世界を意識して、自由に競争するトップメーカーのフェアな姿勢が、二輪業界そのものをフェアな競争の世界に導いたと言えるだろう。

その競争は、常に熾烈であった。 スズキ、ヤマハもそれぞれの企業の個性があって、この3社に付いていくのは大変であった。 当時の川重というような重工業の企業体質とは全然異なる世界の発想や価値観が二輪業界にはあったのである。


40年以上も前から、今現在言われているようなことが全て現実に実行されていたし、それが二輪業界の常識であった。

今頃になって四輪などで問題となっているリコールなどは、もうずっと以前からアメリカでは行われていたし、 日本でもリコールを 「我々が認可したものに欠陥があるというのか」 とお上の担当者がいい顔をしなかった当時から、二輪は日本でもリコールを申請していたのである。

常にフェアな競争が常識で、談合などの日本的な発想は考えられないことであった。 官庁にも強かった。四輪と違ってお国の援助など受けずに自分たちの力で世界に進出したという自負があったからだと思う。 その反面、交通安全面などでは官庁への協力も、特にホンダの安全運転への取り組みは突出して素晴らしいものだった。


常に競争の結果を世に明示する、シェア競争もあったし、レースという技術の競争の世界もあった。 こんな競争の世界で、最後尾ではあったかも知れぬが、脱落せずに走りきっているカワサキも捨てたものではない。

四社のなかでは、特に台数や売上高では敵わぬのだが、ブランドや独特のイメージ、特色ある商品で世界中から数多くのファンを獲得している。

そんな、素晴らしい業界の中を経験できたのは本当によかったと思っている。 川崎重工業の中にも今はこの二輪で得た幾つもの経験が、他の事業にも生かされようとしている。


決められた規則、規律のなかでのフェアな競争。

それは世の中の進歩を促すものである。 競争を避けるような姿勢が見られたりするが、そこからは何も生まれない。


20070714 Dream Plus 神戸体験会

[編集]

2007-07-14 18:45:18 | カワサキ単車の昔

「Dream Plus の体験会を川重本社のあるクリスタルビルでやりますからおいでになりませんか」と

この事業の担当の日野勉さんからお誘いの電話を頂いたので、丁度アメリカから夏休みで帰省している孫たちを連れて、久しぶりに神戸へ出た。

今日、明日と2日間の体験会だが一人の体験時間が40分と時間もかかるので、2台のマシンで予約を取ってやっている。

場所がいいこともあって、何事かと飛び入りのお客さんもあった。


Dream Plus がはじめての方は、ホームページの説明をじっくりどうぞ。

ハンカチ王子や宮里藍など有名スポーツ選手のコンデイショニングトレーナーが絶賛する健康器具である。


午後1時からのオープンに少し早く行って、孫たちのうち二人は実際に体験させて頂いてご満悦であった。


私自身は商品もさることながら、この販売方法には非常に関心がある。 こんな時代の先端を行く新しい商品は、全く新しい方法での販売を試みるべきだと思っている。

健康、スポーツ、などのイメージもいいし、口コミにも乗り易い。

その昔、ジェットスキーの販売を水の商品だからと 「ヤナセや西武」のボート屋さんで売るというのを、「全く新しい商品だから、全く新しい販売網を」とレースを極端にイメージした新しい販売ネットを造ったのを思い出している。


孫たちも喜んでくれました。 アメリカで今独りのお父さんにこの写真を。 アメリカでも同時に見れるのは、ブログの良さだと思います。

20070718 カワサキ単車の昔話-67

[編集]

2007-07-18 05:39:45 | カワサキ単車の昔話 このところ 「カワサキ単車の昔話」 のアップの頻度が落ちているが、 決して種切れになった訳ではない。

書きたいことはいっぱいあるのである。


一番書きたいと思っているのは、「カワサキが一番苦しかった」頃の 「大庭さん時代」である。  当時一緒に苦労した高橋鉄郎さんや田崎雅元さんのことなどいっぱいあるのだが、まだ田崎さんが現役会長なので、少々書きにくい部分もある。

この部分はボツボツにして、もう少し先に延ばしたい。


今、1988年以降のことを少し纏めている。

この年の10月、私は3度目の国内担当に任命された。 前回担当した頃の、販社の経営再建などの時代とは違って、大庭さん時代の「苦しい時代」を何とか乗り越えて、国内市場は文字通り最重点市場という位置づけであった。

高橋鉄郎さんに数値目標としては、 「売上高400億、台数7万台、KHIの国内の限界利益100億」 をお約束してスタートした。 そのベースは「カワサキのイメージ向上」「二輪車のイメージ向上」であった。


もう55才だったし、最後の担当だと思ったので今までの経験の集大成として、面白いことやりたいことを何としてもやりたかった。

この時期、二輪業界そのものはどちらかというと衰退気味ではあったが、 全体に新しい時代であったこと、カワサキのニューモデルゼファーが予想できないほどよく売れたことなどもあって、二度とこんな時期は無いと思えるほどの絶好調の時期が4年間ほど続いた。

カワサキの環境もよかったが、今、振り返ってみるとよくまあこんなことをよくやったとわれながら感心するほど沢山のことを同時進行でやっている。

その殆どが業界初とか日本初などが多く、こんなプロジェクトを一緒にやってくれた当時のカワサキの仲間たちにも、特に「進む方向に共感して」一緒に協力して頂いた外部の方たちに感謝したいと思っている。

単にモノを売るところから脱却して「ソフトや遊びの事業化」や「仕組みシステム」での販売など、レースやサーキット、ショールーム展開などをベースに楽しく明るいことが多かったので、遊びと仕事を一緒にしている感じであった。 手伝ってくれた人たちもそれぞれ「かっこよくて」 面白かった。

当時から有名人であった、岩城洸一や島田しんすけなどもいたが、 まだまだ若くて今からという業界のいろんな人たちとのお付き合いが懐かしい。 そして、そんな方たちが20年た経った今、それぞれの立場で活躍されているの嬉しい限りである。


10年一昔というが、もう20年になる。 私にとって「つい最近のこと」と思っていたが、20年も経つと「昔話の範疇」に入れてもらえるのかと思う。

そんなことで、メモしてみたが面白そうなこといっぱいなので、気長にあわてずにアップしていきたいと思っている。


20070730 KAZE VOL.184号と8耐

[編集]

2007-07-30 05:53:02 | カワサキ単車の昔話 KAZEのVOL.184号が送られてきた。

今日は鈴鹿8耐である。 ポールポジションはホンダ、2位がヤマハ、3位にスズキの順でスタートが切られるようである。 そんな8耐のニュースの中にもカワサキの文字がない。

KAZEの機関紙もこの時期なのに8耐の記事はない。 ファクトリーでの8耐出場は見送られているのだろうか。

そんな初歩的なことも解らないのである。 もう現役を離れてだいぶ経つので会社のニュースも広報誌などでは見て解っているのだが、そこに記事のない事柄については解らない状況にある。


今回のKAZEはサンフランシスコで行われた1400GTRやドイツのアウトバーンで行われたZ-750のロードインプレッションの記事などそれなりに充実した記事である。

時期的に丁度いい北海道のレンタルツーリングの記事などもあって一応の格好はついているのだが、この時期8耐の記事がないのは拍子抜けである。


過去にもいろんな事情でレースを中断した時期もある。 レース方針にはいろいろあって、8耐だけがレースでないことはよく解っている。 レースの目的が何なのか、何のためにレースをやるのか。 膨大な予算が要るだけに、よく議論されるテーマではあるのだが。

メーカー側からの判断ではなく、カワサキを購入してくれたユーザーたちがどのようなレース出場を待望しているのか。 特に、二輪のレースはユーザーたちがいろんな形で自らレースをやったりする場合も多いので、「ユーザーサービスの一環として」の「メーカーの義務」という観点での対応がいると思う。

私自身、今はそんな一ファンの立場である。 そんな観点からの対応があっての結果なら、それはそれなりに納得できるのだが。


それにしても。4つのメーカーの名前が揃わないのは寂しいことである。 こんなことを書いてはいるが、ひょっとしてカワサキもファクトリー参加しているかも解らない。憶測で書いているのである。


たまたま,今日は川重相信会の鈴鹿と同じく創立30年の記念総会があり出席する予定である。 昔、レースに関係した人たちや、勿論現役のトップ連も出席されるので聞いてみようと思っている。


鈴鹿30周年記念大会はプライベーターの「ヨシムラ」がファクトリーを押さえて制したとか、素晴らしいことである。

昔懐かしい「ヨシムラ」が30周年の記念大会の覇者、27年振りの優勝である。 記念大会に一番似合う覇者であるように思う。 心から、「おめでとう」と申し上げたい。


20070814 カワサキ単車の昔話-71

[編集]

2007-08-14 05:56:44 | カワサキ単車の昔話 海外出張


JALの御巣鷹山の航空事故からもう22年も経ったという。

お盆休みの前だった。 その翌日、JALに乗って高橋鉄郎さんと一緒にアメリカに出張している。 1985年8月13日である。

流石に飛行機はがらがらだった。 もう既に決まっていたので、「事故の翌日だから大丈夫だ」と変に理屈を作っての搭乗だったが、余り気分はよくなかった。

大庭本部長の3年目で、あの頃はめちゃくちゃ忙しい頃でお盆休みでみんなが休んでいるときに、わざわざ海外出張の日程を組んだのである。

KMCは田崎さん(現川重会長)リンカーンのKMMは佐伯さん(元川重副社長)の時代であった。 KMMへも行っている。リンカーンの夏はかロスと違って猛烈な暑さであった。

確か田崎さんの最後の年で、次期百合草体制の相談だったと思う。 佐伯さんは一番張り切っていた頃だった。 当時の日記に「KMMはよくやっている」と書いている。余り工場のことなど解らぬのだが、素人にもそんな風に見えたのだろう。

8月22日、無事帰国している。


飛行機と言えば、 もっと以前の話だがCKDの調査団でイランからタイに向かう飛行機の一番後ろのトイレでごみを捨てる箇所のふたに、突然指を吸い込まれて抜けなくなった。 真空状況になっていたのだと思う。

何人もの人が助けに来てくれて、指を幾らか切ってやっと抜くことが出来た。 アメリカの航空会社であったが機体はジャンボであった。


その時の状況はホントにアッと言う間の出来事で、話をしてもなかなか信じて貰えず、そんな仕様の機体にもその後出会わなかった。

その後何年かして、日本でJALのジャンボに乗ったったとき、同じ仕様のトイレを見つけて、同乗していた田崎さんに「これだよ」と一緒に見に行った。

確か、御巣鷹山に落ちたジャンボは後部の翼か何かが動かなくなり操縦不能になったとか。 ひょっとしたら,あんな風に真空状態になったのではと、勝手に想像したりした。 事故機がどんな機体であったのか、確認などはしていないので単なる想像だが。


その時の怪我はタイの空軍病院で幾針か縫って貰った。 帰国したら「これはPLで訴えたら」と言ってくれた人もいたが、 直ぐファーストクラスに移してくれて,タイの病院の手配やらいろいろやってくれた日本人のスチュワーデスの対応と印象がよかったので何にもしなかった。

高橋鉄郎さんは、その後そのスチュワーデスに会われて当時の話をされたとか言われていた。

JALの事故22年ということを聞いて、こんな昔話を思い出した。


20070815 インターナショナルトレーディング ムラシマ

[編集]

2007-08-15 05:55:22 | カワサキ単車の昔話 90年ごろ国内のジェットスキーの販売網を新しく設定していた。

日本ではじめての商品で、今までに専門に売る販売網はなかったのだが、 白紙に絵を書くように一つ一つ造り上げていった。 従来のボート屋さんとは完全に差別化した、遊びやレースもこなせる専門店網を目指したのである。

既にあった二輪の専門店の併売は認めず、あくまでもジェットスキー専門に拘ったのである。

こんなコンセプトで造り上げたジェットスキーの販売網の経営者は、若くて非常にユニークな人たちが多かった。 そんな経営者のなかのひとりが村島さんである。 91,92年ジェットスキーが無茶苦茶売れた時代が一段落した93年6月の話である。

二輪関係で当時機能別の販売網の設定を目指していたのだが、部品供給専門でやりたいと、突如村島さんから話があり7月にOKしている。 それ以来のお付き合いである。

つい先日、メールで暑中見舞いが届いた。 昨年も、突然ブログ見ていますと連絡があった。 神戸に墓参りに帰るので出来たらお会いしたいとあったが、そのままになっている。

今年も近況が書いてあった。

東京で全国を視野に部品専門店を開き、特にカワサキの逆輸入車関係の部品や旧型車の部品などを在庫して供給することで実績を上げ、私の現役時代で既に億単位の商売をしていたと思う。

りんごの木を買って委託栽培し、カワサキの「Kマーク入りのりんご」をお歳暮で送ってくれるなど仕事以外でもユニークであった。

本業の部品関係のホームページは、何故か二つあって、 一つはカワサキが主体のようでもう一つは、ヤマハ、スズキもある。


メールには次の二つが近況報告で、

一つは、国内で販売終了した部品を海外8カ国からかき集めて里帰り輸入をして販売しているというのである。 カワサキの旧い車は国内で特に人気が高いようで、こんなユーザーの方には大いに耳寄りな話である。 このブログの読者の方にも、そんなにクラブに所属されている方もいらっしゃるようなので、ニュースとしてご紹介しておきたい。

もう一つは、ラジコンの話である。 村島さんは、知らなかったが、子どもの頃からラジコンお宅であったとか。 いまはそれを商売にして5年ほど前から、世界のハイテク潜水艦や戦車などを揃え、国立大学や、企業の研究室などから注文も入っているようである。

毎月ラジコン雑誌に執筆もしているとか。 勿論一般のラジコンユーザーにも販売するのだろうが、ハイテクと言うだけあって値段も私などはビックリしてしまう水準である。

そんな中に、カワサキZ1の精密ダイキャストというのがあった。 8月8日大量入荷、即納とある。 値段は他のものに比べると格段安く、15750円とあった。


そんな具合で、面白い人である。経営者としても有能である。 さらに、ラジコンお宅とは。趣味で商売が出来るのは羨ましい限りである。


20070822 山本隆との昔話合作

[編集]

2007-08-22 06:05:29 | カワサキ単車の昔話


この何の変哲もない1枚の鉄橋を渡る電車の写真からこの話はスタートした。

そして山本隆君がきっちりと締めくくってくれた。


これはYahooに毎日連載している私の写真ブログの1枚なのだが、

ふと昔のことを思い出して、 「この電車はちゃんと左から右へ走っているのである。」 とコメントを書いてどんどん発展したのである。 仮にこの電車右から左に走っていても写真に撮ったら同じに写るであろう。


ずっと昔、1966年、A1が発売される年のことである。

私はカワサキで広報やレースを担当していた。 翌年のカレンダー用の写真の撮影に、新幹線と併走するA1を長良川の西詰めの鉄橋のところで撮ろうという計画だった。

撮影当日、橋の直ぐ東側の岐阜羽島の駅からスタートするこだまが、鉄橋を渡りきったところでA1と一緒に撮れるように、ライダーの山本隆が加速調整しながらあわすという設定だが、これが簡単なようでなかなかいかないのである。

1時間に1,2本の下り電車だけでは難しいかもと、逆走になるが上り電車でもという案も出たりしたのである。

その時のことをつい思い出してのはじめの「ちゃんと左から右に」のコメントなのだが、

いつもこのYahooのブログに訪れてコメントを下さる山本隆ファンのkakogawalionya(RM250)さんへのサービスの積りで書いたのである。

「山本君に聞いて見て下さい。多分覚えていると思います。ひょっとしたら星野一義も一緒だったかも知れません。でも、その頃は山本隆が主演スターでした」とコメントをつけたのである。 直ぐに、「その写真見たことあります。はっきりと頭の中に残っています。」とコメントが戻ってきた。

カレンダーの写真だったから、当時の方ならご覧になった方も多い筈である。


その後である。ご本人の山本隆君から

「鮮明に覚えています。まず明石から星野がA1をライディング養老サービスエリアからバトンタッチーーーーーー白バイに捉まった話。 もう一つは、当日富士スピードウエイでジャパンインデイレースが開催されていてテレビを用意してもらう約束で撮影協力。 テレビに見とれて新幹線の数少ないチャンスを逃がしたり、2日間の撮影でした。今思うとあのときのテレビ観戦が星野を日本一早い男にした始まりかも?確か昭和41年です。」

というコメントが届いた。

よく覚えているものである。 私はテレビでインデイ観戦の話など全然覚えていない。星野が居たのではなかったかという、かすかな記憶だけである。

広報担当としてホントに写真が撮れるのかどうか。そればかりが関心事であった。 やはり、それぞれ関心事が違うのである。

2日間の撮影だったのも覚えていない。 1日目は結局撮れなかったということだ。 1枚いいのが撮れればいいのだが、プロはそのために何10枚も、何百枚も写真を撮るのである。

余談だが、4*5のネガで、使う写真は1枚10万円ぐらいであったと思う。 ロケでの写真撮影は大変である。 当時付き合っていたのは、一流のカメラマンだったので、気に入らなかったら何枚撮ってもボツだった。そんな結果が1枚の写真に2日を掛けたことになる。


このブログのコメントは省略してある。10ほどのコメントが並んでいる。

そして、もともとこの写真は、三木のnmwcg423さんからの 「鉄橋を渡る電車を入れて、三木城址を見上げた写真を」というご要望に応えてアップしたもので、最初の仕掛け人はnmwcg423さんなのである。

ブログの面白さである。

20070827 カワサキ単車の昔話-72

[編集]

2007-08-27 05:51:43 | カワサキ単車の昔話 KAZEとショールーム-2

90年に岡山のショールームを第1号点として開設してから、全国展開を目論んだ。

カワサキのイメージ向上もその目標ではあったが、同時に世界一の商品であるモーターサイクル全体のイメージ向上、業界レベルのアップ、意識改革など、ある意味もっと大きく考えてスタートした。

今15年以上が経過して、モーターサイクルショップの規模や店舗は当時と比べて格段に進歩した。 カワサキの当時の動きはそんな流れを造るきっかけになったと思っている。

岡山に続いて、明石のショールームの改装も行い、翌年の91年、平成3年3月3日には札幌にショールーム兼営業所を従来では考えられない規模で開設した。

さらに東京新宿のビルの一階をショールームに、 屋上には「Kawasaki Let the Good Times Roll」の企業理念のメッセージ看板を設置した。 上と下がカワサキだったので、借り物であったのだが「カワサキのビルですか」と聞かれたりすることが多かった。

新宿の駅前からも、電車からも真正面に見えるいい立地であった。 92年7月ごろのことである。

二輪車新聞の根本社長から「業界として嬉しい」と言って頂いて感激したのを覚えている。

その後も、博多の「イムズ」や「神戸ハーバーランド」のビルに従来モーターサイクルなど展示しなかった繁華街のど真ん中にショールームを開設していった。

ただ、金は掛かるのである。1件5000万円以上は掛かるだろう。 ただ、バイク1台の粗利益10万としても、500台分なのである。


今思うといい時代であった。 ゼファーやジェットスキーなど、ニューモデルが無茶苦茶に売れて、7万台の目標を達成しレースも強かったし、KAZEのユーザー活動も5万人を集めて最盛期であった。 億の話も、そんなに経営に影響はなかった時代であった。


だから、出来たのか。 やったから、売れたのか。   いつも議論になるところである。

でも、販売、特にモータサイクルのような面白い商品の販売は、 販売戦略と言うかイメージ戦略の影響は大きいと思っている。それ次第であるとも言えるのである。

特に日本人は、世の中の傾向に追随する、それも流れを造ってしまうほどの勢いなのである。

韓流、ハンカチ王子、そのまんま東みんなそうである。今度の参議院もそうかも知れぬ。 業界の会合などで「1強3弱」と冗談でオチョクラレたりしたが、 台数はともかく、流れの先頭は間違いなく走っていた。

当時、殆ど影の薄かったハーレーダビットソンは、今大型車の分野でトップを走っている。当時のカワサキの行き方に一番イメージの近いのは、ハーレーだと思っている。

ハーレーは本当に、そんなにいい商品なのであろうか? 雰囲気は確かに独特のものを持っているのだが。


そんな風にも思うが、やはり商品かも知れない。 いつまでも、答えの出ない、難しいマーケッテングの課題ではある。

「ショールーム」私にとって懐かしい思い出である。基本戦略の中核課題であった。 今、カワサキワールドが同じコンセプトを引き継いでくれている。


20070909 KMJのゴルフコンペ

[編集]

2007-09-09 07:37:08 | カワサキ単車の昔話 昨日はカワサキモータースジャパンのゴルフコンペに参加した。

7,8月と夏の間はゴルフを休んでいたのだが、9月に入っての再開第1戦である。

スコアのほうはもうひとつであったが、KMJの現役の皆さんと久しぶりに会って、気持のいい1日を過ごした。

気分がよかったのは、パートナーは「社長さんの河野君」と一緒で、いろんな楽しい会話が交わせたこと、ニヤピンを二つと何よりもドラコンが取れたことである。

結構よく飛んだ。 最終組だったので既に立っていた旗をオーバードライブしてのドラコンはまた格別である。

「社長さんの河野君」という言い方もおかしいが、 河野さんの入社時の研修も担当した間柄だし、「カワノくん」のほうがどうしても親しみがもてるのである。

話の中には、このブログでもご紹介したドリームプラスが好調だとか、 9月1日に大阪にオープンした、「Kawasaki good times PLAZA 大阪」など話は尽きなかった。

そんな、楽しいゴルフだったが、 なんだかんだ言いながら河野社長さんはハンデイにも援けられて、見事2位に入賞したのである。 勿論パートナーもよかったのだと思う。

べスグロは、これもOBの元チームグリーン監督、重本君が39,41で取ったので、OBもそこそこのものである。


大阪のKawasaki good times PLAZA について、 先日このブログでKAZEとショールームについて、アップしたら、沢山のコメントを頂いたのだが、その中にkyuuさんが「Kawasaki good times PLAZAの取材に行きます。」というコメントがあった。

「激突!ホンダvsカワサキ」という過激なネーミングのブログも出しておられるが、ネーミングには特に深い意味もないとも言っておられた。

取材記事が出るかなと思っていたら、今日のブログにアップされているので、ご紹介しようと思う。 綺麗な写真もいっぱいだし、きちっと取材記事が出ています。是非ご覧下さい。

この他に、 カワサキではなく、「ホンダさんが紹介している」、メグロジュニア、A1R、H1R、マッハ、W1、Z1、400FX などの写真も見られます。


20070921 カワサキ単車の昔話-73

[編集]

2007-09-21 16:08:57 | カワサキ単車の昔話 入社当時のカワサキ

ずうっと遡って私が会社に入社した頃、 昭和32年、何故か前年までの不景気が吹き飛んで、神武景気に世の中が沸き入社も意外に簡単なそんな年であった。

まだ西暦の年号など誰も使わなかったが、西暦で言うと1957年である。 実は、前年の卒業であったが、不景気で会社が人を採らないので、ゼミだけを残して1年間野球部の監督をしていたのである。

ツイテいたというべきだろう、前年に会社に入った人たちは余り大手には就職出来ていなかった。


就職したのは川崎航空機である。

軍事会社ということで、一時休眠していたのが再開された。 そんなこともあって、あんまり年寄りのいない若い空気の会社であったが、業績がどうだったのか余りそんなことは解からなかった。

給料が12000円ということだったが、入社してみると1時間残業をして12000円でその支払いは月2回だったから、業績が良かったはずはない。

ジェットエンジンのオーバーホールや発動機のエンジン、ミッションなどを作っていた。 オートバイのエンジンはメイハツ工業のものを供給していたのだと思う。


配属は財産課であった。 何をする課かというと、会社の財産の管理である。 入社して直ぐ、担当分けがあった。

先輩が「君、機械はわかるか」「?」「工具器具備品は」「車両運搬具は」と聞かれて、それは机や椅子や自転車だというので「それは解かります」と答えたら、その担当になった。


土地や建物など、或いはいろんな所有権のような管理もあるのだが、それはみんな 先輩たちが担当をした。

戦前の川崎航空機は非常に大きかったので土地は広いし、戦前の機械は山ほどあった。戦時中の空襲で工場は全焼していたので、その鉄骨などもあった。

そんな財産物件を売りながらの経営で、営業収入より財産課の財産処分益で食っていたような時代であった。


新入社員にはそんな大事な仕事は廻ってこずに、毎日がタイガー計算機を回しての償却計算に明け暮れていた。

当時の財産物件の基準は、取得価格1万円以上であったのだが、 ジェットエンジン工場は新設で、300円以上が財産に計上されていたので、バケツやすだれまでが財産物件、勿論机椅子の類もそうだった。

そんな訳で無茶苦茶数が多いのである。 これは今思うと先輩たちにハメラレタのかも知れない。数が多いということは、それだけ計算の工数が掛かるのである。


さらに、財産台帳が工具器具備品だけがちゃんと揃っていないのである。

課長に台帳の整備を命じられて、就職1年目がスタートしたのである。 まあ、大変な会社であった。今の人たちに言っても信じて貰えないと思う。


然し、1年目から思いのほか束縛されずに自由であった。 先輩で、誰もそれをやった人がいなかったからである。

1年目から私の流儀で仕事をすることが出来たのである。


この続きはまた。

M/Cレース(114)

[編集]

ジェットスキー&KAZE(47)

[編集]

7万台の挑戦の時代(26)

[編集]