利用者:千屋牛さん/sandbox
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千屋牛(ちやうし、ちやぎゅう)は、岡山県新見市地区で育てられている黒毛和種の牛、およびその精肉(ブランド牛)である。
碁盤乗り
[編集]高梁川に架かる美郷大橋(新見市正田)や、千屋ダムには碁盤に乗る千屋牛のブロンズがある。この由来は、千屋牛はかつて役牛として飼育された歴史の中で、人が思うように牛を動かせるように調教されてきた。この地域には「牛の碁盤乗り」と呼ばれる伝統芸能が伝わりっており、これは牛が人に従順に育つよう行われた高等調教の一つである。岡山県立新見高等学校生物生産科では、授業の一環として牛の碁盤乗りを調教し、地元のイベントなどで披露することがある。
外部リンク
[編集]太田辰五郎
[編集]太田辰五郎(おおた たつごろう、1790年-1854年、または1802年-1854年)は日本の鉄山業経営者、畜産家。太田政蔵政克の長男として産まれ千屋牛の改良に尽力し大赤蔓を造成。千屋牛馬市を開設した。没後、第1回中国連合畜産共進会で農商務大臣から追賞された。
略歴
[編集]1790年(寛政2年)、阿賀郡実村(現在の岡山県新見市千屋実)に太田政蔵の長男として生まれた。太田家は代々鉄山業を経営し、大地主でもあり、近隣では有力者であったと言われている。1831年(天保2年)父の死後、家業の鉄山業を営む一方、千屋牛の改良に注力したとされる。(1802年(享保7年2月生)、1854年没(嘉永7年2月18日没)という伝えもある)1833年-1834年(天保4年-5年)に発生した飢饉の際、近郷の窮民救済のため私財を上納した。 1837年(天保8年)花見村で農民が強訴を企てた際には説得して中止させ、この功績として苗字帯刀を許された。当時の辰五郎は他国の地主や事業家のみならず、近隣の藩に多額の融資をするほどの資産を有していた。千屋は産牛が少なく、資質も劣っていたのを嘆き、良牛を買い集めた。1820年代(文政の末)大阪天王寺牛市で石橋孫右衛門から買い入れた伹馬系の黒毛牛である牡牛を、難波千代平(阿哲郡新郷村大字釜字竹の谷(現新見市神郷))から買い入れた牝牛に交配したところ優良な赤毛の牡牛を生産した。この牛を繁殖に供用したところ良牛を生産し大赤号として広く種付けしたところ黒毛の良牛を生産し、千屋牛の改良に顕著な効果を示した。この産牛の特性を引き継いだ牛の系統を大赤蔓と言うようになった。また販売にも尽力し、天保5(1834)年、自分の邸宅を提供し千屋牛馬市を開設した。当時、牛市には闘牛の余興を設け、牛市の維持繁殖を図ったと言われている。 1854年(嘉永7年)2月18日53歳で病没した。没後の1900年(明治33年)島根県三瓶原野において、第1回中国5県連合畜産共進会が開催された際、農商務大臣からその業績を讃えて追賞された。また、昭和2年県下の有志により千屋市場に頌徳碑を建てて、その功績を表彰された。
関連項目
[編集]代表的な蔓
[編集]- 岩倉蔓(広島県比婆郡)
- 竹の谷蔓(岡山県新見市)
- 周助蔓(兵庫県美方郡)
以上の3つを3名蔓、と呼ぶ。
蔓の特徴を受け継ぐ和牛
[編集]- 比婆牛(岩倉蔓)
- 千屋牛(竹の谷蔓)
- 但馬牛(周助蔓)
参考文献
[編集]- 家畜改良学とその応用(著:羽部義孝 出版社:産業図書)
- 但馬牛のいま―全国の黒毛和牛を変えた名牛(著:榎勇、出版:彩流社 2008年2月20日、ISBN 978-4-7791-1326-0)
田尻号
[編集]日本全国の黒毛和種の母牛の99.9%以上が「田尻」号の子孫である。
竹の谷蔓?大赤蔓?
[編集]大赤蔓→竹ノ谷? 竹ノ谷→大赤蔓?
周助蔓
[編集]周助蔓は兵庫県における最古の蔓 美方郡小代村 聴取のみ?
大赤蔓
[編集]阿哲郡千屋村(現新見市千屋)の豪農、太田辰五郎(1802-54)が造成した蔓牛。太田辰五郎は畜産に熱心で、地元の産牛を栄えようと、良牛を遠近から買い集めた。 1820年代(文政)大阪天王寺牛市で石橋孫右衛門から体尺4尺4寸(133.3センチメートル)もある黒毛の但馬系の牡牛を買い入れ、これを浪花千代平から買い入れた牝牛に交配し牡牛を生産した。この牛は赤毛、成育しすると体高は4尺6寸(139.4センチメートル)にもなった。この牛を繁殖に供用したところ,黒毛の良質な子牛を生産し、産牛の改良に効果を示した。この牛の系統を大赤蔓と呼ぶようになったとされる。
岩倉蔓
[編集]現在の比婆牛 天保(約170年前)広島県比和町、 岩倉六右衛門が造成
明治初年 帝釈村(現東城町)の有実蔓
あづま蔓
[編集]昭和 岩倉蔓と有実蔓の父系を辿ると「第10野田屋」号に 両蔓の血統を有し、特色を同じくするものをとして認定
近江牛
[編集]滋賀県 神戸牛、松阪牛に並ぶ、三大和牛のひとつ
蔓の分派(分かれ蔓)
[編集]- 表蔓
- 紺屋蔓
- 卜蔵蔓(島根県仁多郡)
- 彦右衛門蔓(同能義郡)
- 興平蔓
- 風呂屋蔓
- 大赤蔓 千屋村(現新見市千屋)
- 寺田蔓 千屋村(現新見市千屋)
- 亀屋蔓 上形部村(現大佐町)
竹の谷蔓の特色
[編集]この当時、一般の和牛は牝で体高3尺4、5寸ないし7、8寸(103-115センチメートル)であったのに対し、竹の谷牛は4尺(121センチメートル)以上に達したと言われる。また、この牛は長命連産で、23歳まで生きて19頭の生産犢をあげたと伝えられている。この系統牛の中には老齢になると全身白毛となり,失明するまで生存したものもあったという。 現在では、
- 体格は一般のものよりやや大きく体積があり後躯の発育が良い。
- 毛色は黒色で光沢がある。(初めの頃は簾毛あるいは赤褐毛がでた)
- 角は「い」の字形でやや細く、角色は角の根が飴色、中央部は水青色、先端は黒色。
- 性質は温和で活発、老衰の度が少なく繁殖力および遺伝力がきわめて強い。
とされている。
参考
[編集]- 家畜改良学とその応用 著:羽部義孝
第13花山号
[編集]本牛は、大正9年8月、阿哲郡新郷村(岡山県新見市神郷町)で、竹の谷蔓牛である母明石号と同じく竹の谷蔓牛である国有種牡牛の花山号との間に産まれた牡牛である。
第13花山号略歴
[編集]大正11年、第9回中国6県連合畜産共進会で1等賞を獲得した後、農林省(当時)が購買し、同村にて種付けに供用された。 1926年(大正15年)11月10日から矢神村農会に転貸となり、一層よい成績を挙げたので、1930年(昭和5年)11月20日、無償払下げとなり引き続き同地で繁殖に供用された。 晩年になって昭和7年(1932)4月10日岡山県種畜場千屋分場に管理を委託されたが、同年11月4日、老衰のため13歳で死亡した。
第13花山号特徴
[編集]種付供用期間は大正11年(1922)11月10日から昭和7年(1932)11月4日までの満10年間で、種付頭数878頭、生産頭数780頭(補助牛登記234頭、予備登録280頭、うち77点以上30頭)という成績を残している。当時、本牛の仔牛は一般牛の3倍余の価格で取引された。
昭和16年(1941)調査したところによれば、県内種牡牛361頭中、この牛の血統を受けついでいるもの190頭に達し、阿哲郡の種牡牛48頭のうち47頭がこの牛の子孫であった。一時は岡山県の供用種牡牛や登録牛の大多数がこの牛の系統であり、岡山県の和牛改良に非常に大きな功績を挙げている。また、現在岡山県新見市にある名牛第13花山号の碑はその功労を偲ぶ記念として県下の有志が建立したものである。