利用者:加藤勝憲/新日本音楽運動
宮城道雄は満州から帰国して「新しい日本の音楽」を唱えた。本居長世は宮城道雄や吉田晴風らの新日本音楽運動に参加、洋楽と邦楽の融合を模索した[1]。
改訂新版 世界大百科事典 「新日本音楽」
日本の伝統楽器による近代的な音楽の一時期のものに対する通称。狭義には,宮城道雄,吉田晴風,本居長世らが中心となって実践した大正期・昭和初期の音楽運動ならびにその所産の作品の総称。1920年11月27日東京有楽座で行われた宮城・本居の作品発表会を,吉田が〈新日本音楽大演奏会〉と命名したことに始まる。このときには,宮城の《秋の調》などのほか,本居の《十五夜お月さん》なども発表されたが,その後,箏を中心とする邦楽の新傾向の作品のみについていうようになり,音楽学者の田辺尚雄,町田嘉章,尺八家の中尾都山ら,箏曲家の中島雅楽之都(うたしと)なども加わる。宮城作品のみならず以上の諸家の創作曲についてすべてこの名称でいうようになり,とくに明治以降,おもに大阪を中心として行われていたいわゆる明治新曲風の創作活動や,東京の山田流箏曲界で続けられていた古典的な手法による新作活動などとは,一線を画して区別されるようになった。
1927年には,以上の宮城,田辺,町田,中尾,中島が成和音楽会を組織,28年以降その会名で作品発表演奏会が開かれるようになったが,それ以前に町田が組織していた伶明音楽会をも吸収し,また全国的な演奏旅行も行った。その共鳴者も増え,十七弦その他の新しい楽器を含む編成上のさまざまな試みもなされた。この宮城らの運動は,東京盲学校の久本玄智ら山田流箏曲家や長唄界の4世杵屋佐吉などにも影響を与え,一方において洋楽理論を摂取し,一方において伝統楽器の可能性を拡大しようとする新しい試みが次々と行われるようになった。また中能島欣一などの異なる傾向の創作活動が台頭し,清水脩らの洋楽系の作曲家の参加も見られるようになる。それとともに,〈新邦楽〉ということばも用いられるようになった。
第2次世界大戦後は,新しい邦楽の創作活動をすべて〈新邦楽〉の名で呼ぶことも行われ,〈新日本音楽〉もその中に包含されてしまった。さらに昭和30年代の後半以降には〈現代邦楽〉ないし〈現代の日本音楽〉ということばが生まれ,単なる邦楽器による新作活動ではなく,日本音楽の伝統性・民族性を重視しつつも,むしろ伝統楽器ないし伝統音楽の新しい可能性を追求して現代的な意義を見いだそうとすることが目的とされるようになった。ひいては邦楽・洋楽の区別をこえて,新しい現代音楽の創造の一環として位置づけられるにいたり,〈新日本音楽〉は,歴史上の一時期の所産とのみみられるようになった。しかしながら,宮城作品をはじめとする新日本音楽の諸作品の中には,今や準古典として邦楽家の間に愛好されている曲も多い。また初世中尾都山らの尺八作品は,中尾の創立した都山流尺八界においては同流の本曲と扱われているが,その中には新日本音楽運動に呼応して作られた作品も含まれる。(執筆者:平野 健次)
ブリタニカ国際大百科事典 「新日本音楽」
大正中頃から昭和初期にかけての音楽運動,およびその運動から生れた楽曲の総称。箏曲家の宮城道雄とその協力者で尺八家の吉田晴風が中心。邦楽の伝統に根ざしつつ,洋楽の要素も摂取し,種目,流派の枠をこえた新しい邦楽を目指す。名称は,1920年 11月 27日東京有楽座で催された宮城道雄と本居長世 (洋楽の作曲家) との合同作品発表会を,吉田の発案により「新日本音楽大演奏会」と銘打ったことに始る。本居はまもなく離脱したが,邦楽界の新気風を求める共鳴者は多く,都山流尺八家の1世中尾都山,金森高山,箏曲家の中島雅楽之都,研究家の田辺尚雄,町田佳聲らが運動に参加し,作曲を発表し,演奏や啓蒙に努めた。作品としては,宮城のものが量的質的に代表的。 25年ラジオ放送開始後は,宮城らの新曲には「新日本音楽」の名があたかも種目名のごとくに冠され,名称が確立するにいたった。楽曲は独奏から大合奏まで含む器楽曲が多く,楽器は箏,三味線,尺八が主流をなすが,他の邦楽器や洋楽器をも用い,また新考案の楽器も生み出した。なかでも宮城の考案による十七弦は低音邦楽器として定着し,現在でも現代邦楽のなかで重要な役割をになっている。洋楽摂取の面では古典的形式,機能和声法,カノン形式など邦楽に取入れやすいものに限られる。 30年頃からは,提唱者自身も「新日本音楽」の名をあまり用いなくなり,より広い範囲をさす「新邦楽」の名のもとに包括されるようになった。
日本大百科全書(ニッポニカ)
漠然と新様式の日本音楽という意味で用いられることもあるが、一般的には大正中期から昭和初期にかけて、宮城(みやぎ)道雄、吉田晴風(せいふう)、本居長世(もとおりながよ)らが中心となって行った音楽活動をさす。また、そのおりに発表された作品群をさす場合もある。1920年(大正9)11月、東京の有楽座で催された宮城と本居の合同作品発表会を、尺八の演奏を受け持った吉田晴風が「新日本音楽大演奏会」と命名したのがこの名のおこりである。邦楽と洋楽の融合により新しい日本音楽を創造することが目的であったため、保守的な当時の邦楽界からはあまり歓迎されなかったが、しだいに学者や演奏家の協力を得るようになり、のちには宮城の影響を受けた邦楽畑(主として箏曲(そうきょく)系)の作曲家も現れた。宮城らの活動は、開始されてまもないラジオ放送や、レコード録音、演奏旅行などによって全国的に広められ、日本音楽の動向に多大の影響を及ぼした。[千葉潤之介]
世界大百科事典(旧版)内の新日本音楽の言及
【箏曲】より
…これを〈明治新曲〉という。大正から昭和初期にかけて,東京に進出した宮城道雄や米川親敏(ちかとし)(琴翁)らは,洋楽の技法をも取り入れた創作活動を展開,とくに宮城を中心とする派は,〈新日本音楽〉と称して,単に箏曲のみならず,邦楽全体の新創造を目標とし,以後,箏曲を中心とする創作活動はきわめて活発となり,山田流箏曲家でも,中能島欣一などきわめて現代的な作品を作る者が多くなるとともに,洋楽の作曲家も,箏の作品を書くようになる。現代では,〈現代邦楽〉と呼ばれる創作の一つとしても,箏曲が存在する。…
【宮城道雄】より
[編集]…保守的な邦楽界は冷淡だったが,文化人,評論家,洋楽作曲家の注目を浴び,しだいに各界人士の支持・後援を得るにいたる。20年洋楽系の本居長世との合同作品発表会の際に吉田の発案で〈新日本音楽〉と銘打ったが,以来これが宮城,吉田らの新作活動の通称となった。23年以来宮城は初世中尾都山とも提携,帯同して各地を巡演,都山流の組織により宮城曲は全国的に普及する。…
世界大百科事典(旧版)内の新日本音楽運動の言及
田辺尚雄】より
…その間,東洋音楽学校(現,東京音楽大学)を振出しに,東京大学や東京音楽学校(現,東京芸術大学音楽学部)など多くの学校で音響学,音楽史,音楽理論などの講義を担当,23年には国学院大学教授,49年には武蔵野音楽大学教授となり,また1937年に東洋音楽学会が設立されるとともに会長に就任し,それぞれの場で多くの研究者や演奏家の教育,指導を行った。一方,作曲や新楽器〈玲琴(れいきん)〉の考案などにより,新日本音楽運動にも参加した。これらの功績によって,1929年に帝国学士院賞,57年に紫綬褒章を受け,81年には文化功労者に選ばれた。…
脚注・参考文献
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 金田一春彦『十五夜お月さん 本居長世 人と作品』三省堂、1982年12月 。
- 金田一春彦『十五夜お月さん 本居長世 人と作品』(普及版)三省堂、1983年3月 。