コンテンツにスキップ

利用者:列島/sandbox

環濠集落と社会

[編集]

弥生後期から、特に弥生中期大規模な環濠集落が発展した。 以下、環濠集落のあり様を、小規模を含め見て見る。

松菊里型住居 について

[編集]

平成 30年 3月 13日  原 紘

筑紫古代文化研究会 

http://kodaiken.sub.jp/old_siryou/index.htm


端野 晋平, 石田 智子, 渡部 芳久, 奥野 正人

韓半島南部の松菊里型住居址・掘立柱建物と集落構造, 第55回埋蔵文化財研究集会-弥生集落の成立と展開, 2006年8月. https://core.ac.uk/download/pdf/144436063.pdf

日本稲の起源1960年以前 農学者

[編集]

稲作の 起 源(Ⅳ)�照葉樹林文化論との関連において�

田 畑 久 夫  学苑 No.852(32)~(48)(201110) https://core.ac.uk/download/pdf/268266781.pdf

「古代米」から稲の世界へ  誌名 日本醸造協会誌 = Journal of the Brewing Society of Japan  ISSN 09147314  著者 猪谷, 富雄  巻/号 107巻10号  掲載ページ p. 719-732  発行年月 2012年10月

https://agriknowledge.affrc.go.jp/api-agrknldg/media/pdf/show?id=2010833989


file:///C:/Users/user/Downloads/KU-1100-19581130-01%20(1).pdf 日本稲の起原について(2) : 南方伝来説批判 鋳方貞亮 關西大學經済論集 巻 8 号 2-3 ページ 113-134 発行年 1958-11-30 日本古代の伝来稲は日本型水稲であるとすること、又その稲作の故郷は華北であるとすること、その伝来経路. は華北ー ... 考古学的には古代籾、土器に遺る籾痕の考察はもとよりのこと、遺跡の地理的状況についての検討も必要であ. ると思う

国分直一


https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/237880/1/shirin_051_4_545.pdf <論説>わが国の焼畑経営方式の地域的類型 (上) : わが国の<主穀生産型>焼畑の経営類型に関する地誌的研究

佐々木, 高明 1-Jul-1968 出版者: 史学研究会 (京都大学文学部内) 誌名: 史林 巻: 51 号: 4  開始ページ: 545  終了ページ: 592

環濠集落の構造

[編集]

大きさとあり様

発掘遺跡の住居跡の戸数が数十戸と多くても、同時代での生活を共にする戸数は少なく、2~3戸であたり10戸に満たない事が多い。 水田の近くに、住居跡がみられるのが普通で、静岡の登呂遺跡では、水田のそばの土手に、水田に平行に住居が並んで建てられていた。これらも環濠集落として構成され、周りに溝と土手が設けられた。[要出典]


松菊里型住居 について 平成 30年 3月 13日 原 紘

[編集]

http://kodaiken.sub.jp/old_siryou/ronbun/kouza_pdf/hara2018.pdf

松菊里型住居についてhttp://kodaiken.sub.jp › kouza_pdf › hara2018

クニの首都としての環濠集落

[編集]

これは小規模な例だが、大規模な環濠集落も多くあった。特に前期末から特に中期以後、大規模な構造を持ち、地域の中心と見られる環濠集落が発展した。それは、小さいながらも、次第に発展していくクニの首都の役割を果たしていた。[要出典]

大規模環濠集落の構造と階層の分化

集会所か、宗教儀礼所の役割を果たす、大きな建物が、環濠集落の中心にあり、また、金属器や石器や玉類の手工業者の作業跡が集まる場所も環濠集落内にあった。この様な環濠集落が、北九州では見つかっている。そこでの墓所には、大量の鏡や玉類が見つかる例があり、そこには、王に相当する地位にある者が埋葬されていた。[要出典]

女性首長

この埋葬物から、ネックレスなどの装飾品が多くある場合、この墓制の主は女性であると推定されている。

同一社会からか首長の支配へ

[編集]

この様に階層分化が進んでいた。そして、やがてふたつの大きな変化が尾と付れる。 首長の館の出現と、墓が大きな塚となり、一般の覇かとは別の場所に移る事である。これが古墳、特に前方後円墳の前兆となる。[要出典]

首長の館も環濠集落を出て、周りに溝を巡らし、策を設けて、独立して行った。

外部施設 支石墓など

[編集]

縄文時代の支石墓

支石墓は朝鮮半島の墓制で、弥生の開始の前に、九州の北西にまず出現している。この支石墓の主は、漁撈者か、畑作を行う人々と考えられている。

この時代よりさらに遡って、漁業は、朝鮮半島中南部から九州を中心とした西日本にかけて大型の魚を取る漁具が共通して見られている。この様に、大型魚の漁業は縄文時代から発達していた。

この漁具は、縄文時代の初期に、日本の中部地方で発見されているが、それ以後見つからず、やがて朝鮮半島で多く見いだされ、それに続いて九州にも多く出現するようになった。

2 オホーツク氷民文化 海に生きたオホーツク人 高橋 健 http://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DKankoub/Publish_db/2002Okhotsk/03/3300.html

北太平洋沿岸における海獣猟の展開 : 銛・銛頭を指標として

著者 山浦 清  雑誌名 国立民族学博物館調査報告 巻 132  ページ 79-123 発行年 2015-12-01 URL http://doi.org/10.15021/00006019

久我谷渓太 北太平洋沿岸における海獣猟の展開 : 銛・銛頭を指標として  東京大学考古学研究室研究紀要第30号 1-32P

file:///C:/Users/user/Downloads/kouko3001.pdf file:///C:/Users/user/Downloads/SER132_03%20(1).pdf

熊本大学学術リポジトリ Kumamoto University ... - COREhttps://core.ac.uk › download › pdfPDF 甲元眞之 著 · 被引用数: 1 — 中国東海岸と台湾、それに朝鮮半島と九州に囲まれた環東中国海沿岸地域の密接な交流に関しては、かって ... 環東中国海沿岸地域の新石器段階に見られる漁携具のうち釣針は、単式釣針、逆T字形釣針と結合式釣針の

いずれにせよ、朝鮮半島から西日本からなる、漁業圏があったか、漁業の技術の交流があったとされている。この漁業者が、支石墓を取り入れたと推定されている。その理由は、支石墓だが、その内部に縄文時代の特徴的に甕棺が収められていたからである。[要出典]

弥生時代の支石墓の広がり


三韓と倭の交流

[編集]

国立歴史民俗博物館研究報告 第151集 2009 年 3 月

kenkyuhokoku_151_09.pdf

武末純一

[論文要旨]

弥生時代の農村は,海や山の生業が主体となる村を生み出す。この場合,海村・山村の目安に なるのが石庖丁の量である。海村とした福岡県御床松原遺跡での石庖丁の量は通常の農村の 1/5 程度である。海上活動の比重が高かったとみられる対馬ではこれまで石庖丁は数点しかない。

前期末~中期前半の国形成期には,朝鮮半島から渡ってきた後期無文土器人系の集団が,拠点 集落の周縁部に位置しながら故地との交流回路を維持して交易を主導し,港を整備し,青銅器生 産技術を転移させて,国づくりにも関与したとみられ,いくつかの海村では海上交易活動が本格 化する。

またこの時期には朝鮮半島南部にも弥生人の足跡が見られる。勒島遺跡の弥生系土器は中期前 半が主体とされたが,近年では中期後半の土器も大量に出て,下限は弥生後期前半である。

弥生中期前半以前を勒島Ⅰ期,中期後半以降を勒島Ⅱ期とすると,勒島Ⅱ期には勒島Ⅰ期よりも日本 との交流の範囲は拡大する。ここには北部九州系の漁具(アワビおこし,結合式釣針)があり, 北部九州の 「倭の水人」 の移住を示す。山陰地域にもそうした漁具があり,海民のつながりがで きていた。

中期後半以降(弥生後半期)の西日本と朝鮮南部の海村には楽浪土器や中国銭貨が目立つよう になり,近畿から楽浪郡までの交易網に組み込まれたと見られる。

とくに中国銭貨は,中国鏡とは対照的に,海村の日常生活域から多数出土するが,国の中心となる巨大農村やそこから展開した都市的集落ではほとんど出ない。これは朝鮮半島南部も同じで,勒島遺跡では日常生活域から5 点出たが,拠点集落の日常生活域からは出ない。

しかも倭と三韓の沿岸部では,ともに大量の中国銭貨が発見されている。したがって西日本と朝鮮半島南部の海村では農村とは別の世界をつくり,生業活動の主体である交易活動の場で中国銭貨を対価に用いたと見られる。

交易の対象物はおそらく原料鉄や鉄素材であった。また,海村の南北市糴とは,南の物資を北に,北の物資を 南に単に移動させるだけでなく,中間で加工して付加価値をさらに高めた可能性も出てきた。

【キーワード】日朝の海村,弥生時代後半期,原三国時代,渡来人集団,楽浪土器,中国銭貨 はじめに ❶海村の設定 ❷国の形成と海村 ❸朝鮮半島南部の弥生人 ❹楽浪土器と中国貨幣 ❺冶鉄遺構と鉄素材,原料鉄 おわりに

韓半島南部地域青銅器~三韓時代における環濠遺跡の変化と性格

[編集]

国立歴史民俗博物館研究報告 第 195 集 2015 年 3 月

李 秀鴻

https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=2240&item_no=1&page_id=13&block_id=41

青銅器が出現したのは紀元前8世紀

file:///C:/Users/user/Downloads/kenkyuhokoku_195_01.pdf

 4P環濠集落分布図

本稿では,これまで調査された韓半島南部地域の青銅器~三韓時代の環濠遺跡48ヶ所を集成し,環濠の時期ごとの特徴や性格,変化の傾向を検討した。

韓半島南部地域において環濠は,青銅器時代前期には登場しており,清原大栗里遺跡で確認できる。幅の狭い3列の溝が等高線方向に曲走する。出土遺物からみて遼寧地域から直接移住した集団が築造したものと判断できる。 青銅器時代において環濠の成立および拡散が明瞭に確認できる時期は,青銅器時代後期である。この時期には,大部分の環濠が嶺南地域に集中的に分布し,その中で地域的な差異も看取できる。まず,蔚山圏ではすべて丘陵上に分布し,1列の環濠がムラの周りを取り囲む形態が多い。地形や立地の特徴から,儀礼空間を区画する性格があったと判断できる。本稿では,環濠自体と環濠が眺望できる集落からなる結合体を,拠点集落と把握した。一方で,晋州圏では主に沖積地の大規模な集落に環濠が備わっている。木柵をともなう場合もあり,防御もしくは境界という機能がより強かったようである。ただし,防御といっても必ずしも戦争の際の防御だけではなく,野生動物の脅威にも対応した施設であった可能性もある。環濠が大規模な集落に設置されているため,拠点集落の指標となることは蔚山圏と同様である。環濠の成立は,青銅器時代の前期と後期の画期と評価でき,大規模な土木工事である環濠の築造を可能にした有力な個人の登場を推測することができる。 三韓時代の前期には,韓半島の広い範囲に環濠遺跡が分布する。この時期には儀礼遺構としての意味が極大化する。1列の主環濠の外部に同一方向の幅狭の溝が並行するものが一般的な形態である。山頂部に円形に設置する例が多い。三韓時代の後期には環濠遺跡の数が急減する。これらは木柵をともなったり,環濠の幅が広くなったりしており,社会的緊張による防御的性格が強くなるように見受けられる。三韓時代後期に環濠が急減するのは,中国や高句麗から土城が伝来し,各地の国々が統合する過程において,地域の小単位としてあった環濠集落もより大きな単位への統合されていくためと考えられる。


弥生社会における環濠集落の成立と展開

[編集]

http://www.initiative.soken.ac.jp/journal_bunka/110329_fujiwara/fujiwara.pdf 総研大文化科学研究第 7 号(2011)

藤原  哲  総合研究大学院大学 文化科学研究科 日本歴史研究専攻

1980年代までの研究において、環濠集落は弥生時代の代表的な集落であり、かつ防御的な機能を有しているという認識が強かった。近年では環濠集落像の見直しが進み、防御説に立脚しない論旨を展開する研究者も多く、集落ではない環濠の存在も指摘されるなど、新たな環濠像が数多く提示されるようになってきている。

従来のように「環濠集落=標準的な弥生集落」という見方は正しいのであろうか、小論では日本列島や弥生集落全体の中で、環濠集落がどのように位置づけられるのかの検討を試みた。

研究方法としては、近年、数多く調査されるようになった環濠集落のうち、ある程度構造が明らかな約300遺跡を集成し、時系列と分布とを中心として再整理する。また、集落規模や立地条件をもとに環濠集落の分類を行った。

上記の分析を通じて、環濠集落は源流となる韓国においても、日本列島での弥生時代を通じてみても、標準的な集落ではなく、むしろ極めて希少な集落形態であることを明らかにした。また、集落ではない環濠遺跡が多数あることも改めて認めることができた。

環濠集落の分類結果では、農耕文化が本格的に定着した時期に成立するような中・小規模の農耕集落が大多数であった。しかし、農耕文化成立期の全ての弥生集落に環濠が巡っていたわけではないため、環濠集落とはある特定の農耕集団の所産によるものと推察した。

大規模な環濠集落や高地性の環濠集落などについては、更に数が少ない特殊な集落であることを指摘した。

これらの分析から、これまで標準的な弥生集落と思われがちな環濠集落が極めて希少な例であり、日本列島の弥生社会では農耕文化そのものを受け入れない地域、農耕文化と環濠集落の両方を受け入れる地域、農耕文化は受け入れても環濠集落を受け入れない地域など、様々な地域差が想定できた。


3.環濠集落の成立       総研大文化科学研究 61

3. 1 環濠集落の源流

弥生時代における環濠集落の出現の背景には朝鮮半島南部からの一系列だけのものではなく、より古い縄文時代以来の北方ルートと長江流域との関係が存在した公算が強い、という見解もあるが[寺沢1999]、石器や土器など総合的な文化的所産から考えて、直接的な祖形としては韓国南部地域を源流とするのが妥当であろう。

原三国時代の環濠も含めると韓国では20 ~ 30遺跡の環濠集落が検出されている。そのうち集落構造の把握が可能な無紋土器時代の環濠集落は芳基里遺跡、八達洞遺跡、南山遺跡などが挙げられよう。

日本列島の最も古い板付遺跡の環濠と比較してみると、韓国では大栗里遺跡のように比較的古い環濠集落が清原で見つかっているが、環濠集落の大部分は蔚山(芳基里、検丹里)、大邸(八達洞)、昌原(南山)、晋州(大坪里玉房)などの嶺南地方、かつて慶尚道と呼ばれていた半島南東部に集中している。

立地条件も丘陵上に立



P]====韓半島の初期青銅器文化と初期弥生文化==== https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185002.pdf

[論文要旨]

はじめに ❶突帯文土器からの視点 ❷集落構成要素からの視点 ❸集落構造からの視点 おわりに

李 亨源

Relationship between the Early Bronze Culture of the Korean Peninsula and the Early Yayoi Culture: From the Viewpoints of Tottaimon Pottery

本稿は,突帯文土器と集落を使って韓半島の青銅器文化と初期弥生文化との関係について検討し たものである。

最近の発掘資料を整理・検討した結果,韓半島の突帯文土器は青銅器時代早期から前期後半(末)まで存続した可能性が高いことがわかった。その結果,両地域の突帯文土器の年代差はほとんど,なくなりつつある。したがって,突帯文土器文化は東アジア的な視野のもとで理解すべきであり,中国東北地域から韓半島の西北韓,東北韓地域,そして南部地域と日本列島に至る広範囲の地域において突帯文土器を伴う文化が伝播したことを想定する必要がある。

集落を構成する要素のうち,これまであまり注目してこなかった地上建物のうち,両地域に見られる棟持柱建物,貯蔵穴,井戸を検討したところ,韓半島の青銅器文化と弥生文化との間には密接な関連があることを指摘した。

集落構造では韓半島南部の網谷里遺跡北部九州の江辻遺跡との共通点と相違点を検討し,とくに網谷里遺跡から出土した九州北部系突帯文土器の意味するものについて考えた。

さらに青銅器中期文化において大規模貯蔵穴群が出現する背景には社会変化があること,初期弥生文化においてやや遅れて出現する原因を,水田稲作を伝えた初期の渡海集団の規模が小さく,社会経済的な水準あるいは階層が比較的低かったことに求めた。

弥生早期に巨大な支石墓や区画墓のような大規模の記念物や,首長の権威や権力を象徴する青銅器が見られないのも同じ理由である。

これは渡海の原因と背景を,韓半島の首長社会の情勢変化と気候環境の悪化に求める最近の研究成果とも符合している。 【キーワード】突帯文土器,集落,青銅器時代,弥生時代,渡海人,渡来人


はじめに 韓半島青銅器時代の農耕文化が日本列島の弥生文化形成に大きな影響を与えたことはさまざまな 考古学的な発掘と研究成果からすでに明らかである。灌漑施設を備えた水田稲作に代表される生産 経済的な側面をはじめとして,松菊里型住居や環濠集落支石墓を含む墓制,煮沸容器と貯蔵容器に使用した土器,石製あるいは木製の農工具磨製石剣・石鏃のような武器や武装具にいたるまで,生と死の世界,全般にわたっている。

韓半島の水田稲作文化が弥生文化の祖型である点については,日本の考古学界にも意見の違いはないが,その実態については 1950 年代から 2 つの考え方がある[藤尾 2009]。1 つは縄文人が必要とするもののみを選択的に受容して弥生文化が成立したという縄文人主体説。もう 1 つは渡来人(1)が指導的な役割を果たすことによって弥生文化が成立したという渡来人主体説である。 本稿はこのような研究状況を念頭におきながら,弥生文化と青銅器文化との関連を研究することに役立つ韓半島における最近の発掘成果を紹介し,これらがもつ意味について私見を提示したい。 検討の対象とするのは突帯文土器と集落の 2 つである。

❶……………突帯文土器からの視点

韓半島の突帯文土器(2)は,青銅器時代早期の指標土器として前期まで存続する[安在晧 2000, 千羨幸 2005]。西日本の突帯文土器は,縄文晩期後半の指標土器として位置づけられていたが,この土器に灌漑式水田稲作が伴うことが明らかになった 1980 年代以降,弥生早期に再設定された経緯がある[藤尾 2009(3)]。両地域に存在する突帯文土器の関係については,関連を積極的に認める研究者[李弘鍾 1988・2006, 安在晧 2000, 千羨幸 2008・2009]と,否定する研究者[藤尾 2002, 深澤・庄田 2009]がある。否定する最大の理由は,両地域の突帯文土器文化が基盤とする生業が,韓半島では畑(田)作農耕,九州北部では水田稲作と異なっていることと年代差があまりにも大きいことである(4)。このように両地域の突帯文土器をめぐる考え方に違いがみられるなかで,韓半島の突帯文土器を検討して,弥生早期の突帯文土器との関連について検討する。

(1)韓半島の突帯文土器

韓半島の突帯文土器は 1990 年代後半までは無文土器研究のなかではあまり注目されてこなかった。もちろん最大の理由は資料があまりにも少なかったからである。刻目突帯文土器(5)は,口縁端部直下の胴部上位に突帯を貼り付け,突帯の上に直線・斜線・X 字文・鋸歯文などの文様を刻んだ青銅器時代初期の特徴的な無文土器である。忠北堤川黄ファンソッリ石里遺跡の調査で初めて知られることになった突帯文土器は,李弘鐘が韓半島南部と九州の刻目突帯文土器を比較・検討してから関心をひくようになった[李弘鐘 1988(5)]。李弘鐘は堤川黄石里の包含層出土の刻目突帯文土器を分析した結果,弥生早期から弥生前期にかけての九州北部水田稲作社会で使用されていた,いわゆる夜臼式土器と形態が類似していることを根拠に,韓半島の刻目突帯文土器文化が九州北部に初期水田稲作を伝えたと主張したのである。

その後,京畿道河南渼沙里遺跡慶尚南道南江ダム水没地区の先史遺跡などで刻目突帯文土器を多数出土する住居址が調査されたことで,この土器と関連するより詳しい文化全般についての理解が可能になった。安在晧は正方形の平面プランに石床囲石式炉址をもつ渼沙里式住居址から出土した刻目突帯文土器を,青銅器時代前期(可楽洞式,礫三洞式,欣岩里式土器)に先行する早期の土器として設定する一方で,慶南晋州上村里遺跡同泗川本村里遺跡でみられるような,駅三洞式あるいは欣岩里式土器突帯文土器が共伴する遺跡は,前期後半に比定できるという理解を示した[安在晧 2000]。

筆者は漢江流域の渼沙里遺跡をはじめ,南江流域の先史遺跡などで確認された多くの遺跡にみられる特徴は,安在晧が提示した住居構造や遺物相と同一のパータンを示すことを認めた上で,これらを渼沙里類型と名づけた。すなわち,渼沙里類型は次のように意義できる。“ 住居構造は渼沙里式住居址(方形あるいは長方形のプランに板石敷囲石式炉を設置),土器は渼沙里式土器(刻目突帯文土器),石器は三角湾入石鏃半月形石庖丁,扁平石斧などを指標とする ”[李亨源 2001・2002]。

青銅器時代早期の指標土器である刻目突帯文土器,すなわち,渼沙里式土器は依然として資料があまりにも少ないため細分できない状況にあるが[千羨幸2005],渼沙里遺跡11号住居から出土した突帯文土器は,新石器時代最終末の櫛目文丸底土器と共伴するためもっとも古く位置づけられる(図1)[安在晧2000]。櫛目文の丸底土器内面に付着していた炭化物の14C年代は3360±40 BPであり,較正年代では前17~前15世紀に位位置づけられる。南部地域でも全羅北道淳昌の院村遺跡慶尚南道晋州大坪里玉房5地区D-2号住居址(3230±50 BP,3180±80 BP),晋州上村里D-2号住居址(3030±50BP)(図2)などが,南部地域のもっとも古い突帯文土器と考えられる。          一方,突帯文土器が出土する遺跡のなかには,青銅器時代前期に比定される資料が数多く存在する。可楽洞式の二重口縁あるいは二重口縁短斜線文土器,駅三洞式の孔列文土器が共伴するのがその代表で,筆者はこれを前期に属するものと判断している。これらの資料の中で 14C 年代測定が行われた一部を列挙しよう。 ◦江原旌善アウラジ 1号:刻目突帯文土器+可楽洞式土器(二重口縁短斜線文), 14C年代3010±60 BP(図1)

      3000BP=紀元前1280年    BC1300年~1100年

◦江原洪川 外三浦里 3号:節状突帯文土器+瘤状突帯文土器+(孔列文土器),14C年代 3080±60BP(図1) ◦江原洪川 外三浦里 5号:刻目突帯文土器+節状突帯文土器+瘤状突帯文土器+可楽洞式土器(二重口縁鋸歯文),二段柄式石劍,14C年代 3120±80 BP(図1) ◦京畿加平 蓮下里1号:刻目突帯文土器+節状突帯文土器,三角湾入石鏃,一段莖石鏃,14C年代3090±60 BP,3070±50 BP,3030±60 BP,3000±60 BP,2810±60 BP(図1) ◦京畿加平 蓮下里13号:刻目突帯文土器+瘤状突帯口脣刻目文土器,有血溝石劍◦慶南晋州 大坪里 漁隠1地区77号 :節状突帯文土器+可楽洞式土器(二重口縁鋸歯文) ◦慶南晋州 大坪里 漁隠1地区 104号:可楽洞式土器 共伴, 14C年年代 2850±60 BP (コメ), 2830±60BP(アワ), 2840±60 BP(アワ) ◦慶南晋州 上村里 D地区 10号:刻目突帯


◦慶南晋州 平居洞 3-1地区 5号 : 刻目突帯文土器+短斜線孔列文土器+孔列文土器, 14C年代 2945±25BP, 2935±25 BP(図3) ◦慶北金泉 松竹里 1段階 : 刻目突帯文土器+節狀突帯文土器+可樂洞式土器, 14C年代 6号  2910±60 BP(図2)

上記した資料は大部分が前期前葉に相当する。これに続く前期中葉は益山永登洞 I-3 号住居址の節状突帯文土器に可楽洞式土器と口唇刻目文土器が共伴し,錦山水塘里遺跡の 6 号住居址(2830 ±50 BP)の節状突帯文土器には口唇刻目文土器が共伴する[李亨源 2009]。

一方,前期後葉の突帯文土器として,安在晧は泗川本村里遺跡ナ 3 号住居址において欣岩里式土器(二重口縁短斜線孔列文)と共伴した突帯文土器をあげ根拠とした[安在晧 2000]。藤尾[2002],千羨幸[2005・2008]も同様な立場をとっている。その中で安在晧と千羨幸は本村里遺跡のナ 3 号住居址の編年的位置に基づき,韓半島の突帯文土器が日本列島の突帯文土器に影響を与えたと主張するようになった(図 4 -上)。

この本村里のナ 3 号住居址の刻目突帯文土器と欣岩里式土器の共伴関係を認めない見解もある。金炳燮[2009]と庄田慎矢[2010]は,本村里遺跡の正式発掘報告書[趙榮濟他 2011]において,二重口縁短斜線孔列文深鉢形土器をはじめ,口唇刻目孔列文土器,孔列文土器など前期の土器は,ナ 3 号住居址の上部堆積層から出土したため,突帯文土器とは共存しなかったと報告されたことを受けたものである。したがって,本村里遺跡のナ− 3 号住居址出土の突帯文土器の時期は前期前半に編年されるという。もちろん報告者の見解を信頼すべきであるが,筆者はナ− 3 号住居址から一段茎式石鏃が 3 点出土したことや,前期後半の住居址であるナ− 6 号・8 号などと並んで配置されている点を考慮する必要があると考える。

さらに,今まで説明した突帯文土器よりも時期が下る可能性のある資料がある。'慶北慶州金丈里遺跡の下層 8 号住居址の突帯文土器である(図 5 -上)。8 号住居址からは刻目突帯文土器と口唇刻目文土器,赤色磨研土器などの土器類とともに,一段柄式磨製石剣と船形石器(舟形石器)が出土した[朴光烈他 2006]。突帯文土器の型式変遷が明らかにされていないため細分が難しいのは事実であるが,金丈里の突帯文土器と共伴した資料のなかに,中期松菊里文化段階に盛行した一段柄式石剣や,石槍と石鏃の製作の中間素材であるる船形石器が存在することを考慮すると,前期後葉から中期初頭のあいだに編年される可能性が高いと考えられる。

ただ,突帯文土器文化の時間的な流れを勘案すれば,前期末程度に位置つけてもおかしくないと考えられる。

最後に青銅器時代中期の馬山網谷里遺跡から出土した突帯文土器が注目される(図 5–下)。環濠から赤色磨研壷,口唇刻目土器,内湾甕などと共に出土し,口縁部が欠けていることを除けば全体の形状はよく残っている方である。胴体上位に明瞭な屈曲があり,そこに刻目突帯文が施されている。報告書によると,胎土と外径接合などの成形方法および器面調整などは無文土器と共通するが,器形的な特徴は,九州西部地域の弥生早期の屈曲形 2 条突帯文土器に類似している(6)。内径接合で粘土帯を積み上げる弥生早期の突帯文土器とは異ななり,無文土器に一般的な外径接合で積み上げる点,網谷里遺跡から出土した他の無文土器と同一の胎土および調整法を用いていることから,網谷里遺跡の環濠から出土した突帯文土器は,弥生早期の屈曲形 2 条突帯文土器を模倣して韓半島南部で作られた土器と考えられている[金炳燮 2009]。端野晋平も網谷里出土の突帯文土器が九州西部の突帯文土器と類似するが,製作技法や胎土,色調などからみて,九州からの搬入品ではなく九州に一定期間の滞在したか,あるいは交流を通じて突帯文土器を知った無文土器人による模倣品である可 能性が高いとみている[端野 2010]。筆者も金炳燮や端野晋平の見解に賛同する。

(2)韓半島の突帯文土器と西日本の突帯文土器との関係 前述したように,1988 年に李弘鐘が初めて提起した韓半島突帯文土器の祖型説は,当時こそ注目されなかったが,2000 年代に入って安在晧[2000],李弘鐘[2006],千羨幸[2008]があいついで主張される傾向がある。

韓国の研究者と違って日本の研究者は,弥生早期が青銅器時代中期の松菊里類型(先松菊里類型含む)段階の水田稲作文化と密接な関係をもつという考えが支配的で,弥生早期の突帯文土器である夜臼Ⅰ式土器は,縄文土器から内部発展したものと考えていたので,韓半島の突帯文土器にはあまり関心を持っていなかったと考えられる。だた,唯一関心を持っていた藤尾が韓半島の突帯文土器の整理をしたことはあるが[藤尾 2002],先述したような理由から関連性を否定してきたのである(7)。

現状を打開したのは千羨幸である。千羨幸は韓日両地域の突帯文土器の炭素 14 年代と土器の形態を分析して以下のような結論を導き出した。すなわち瀬戸内西半部の縄文土器が,青銅器時代前期Ⅲ期に属する韓半島南部,南江流域圏の突帯文土器文化(刻目突帯・沈線文)を受け入れ,西日本の突帯文土器を成立させたと[千羨幸 2008]。

しかし,両地域の突帯文土器に見られる共通点は装飾面にとどまり器種構成,器形,調整などには及んでいないため,韓半島から直接多くの人びとが渡海して西日本の突帯文土器文化を成立させたのではなく,少数の人たちによって文様のような視覚的な情報だけが伝えられたか,縄文人が刻目突帯と沈線文のような文様だけを模倣した可能性が高いと考えた[千羨幸 2008]。

実はこれと似たような状況は,韓半島における突帯文土器の成立過程でもみることができる。渼沙里類型は中国東北地域をはじめ,鴨緑江流域と清川江流域に分布する住居構造,土器,石器,紡錘車などが韓半島南部へ拡散して成立したものである[安在晧 2000,李亨源 2002, 朴淳發 2003, 千羨幸 2005]。住居構造および遺物の組み合わせからみて人びとの移住が背景にある可能性が高いが,突帯文が施された器種と器形には両地域のあいだに違いが見られる。

要約すると,中国東北地域や西北韓地域の突帯文土器文化が韓半島南部地域へ南下する時には,住居構造や石器組成などを維持しつつ,土器相には多少の変化がみられることに対し,韓半島南部地域から西日本への影響は突帯文の文様に限定されていることである。

14C 年代からみると,およそ前 15 世紀から前 10 世紀にかけての期間には,中国東北地域を含んだ韓半島西北韓と東北韓,南部地域へ突帯文土器が拡散する様相を確認できる。この過程で西日本へも伝わったと理解される(表1 参照)。突帯文土器文化を東アジア的な広い視点でみることが必要な時である。さらに,日本の突帯文土器文化が韓半島とは異なり,比較的遅くまで存続したのは日本列島の地理的な位置や文化的な特徴を考慮すべきと考える。突帯文土器文化と松菊里文化はある程度の時間差をおいて西日本に伝わったが,突帯文土器が文様のモチーフに限定された反面,松菊里文化は文化全般が拡散したと考えられる。

特に,韓半島では畑作を生産基盤としていた突帯文土器文化と,水田稲作を生産基盤とする松菊里文化は,社会・経済・文化的な側面において長所と魅力を持っていたため,西日本に強く根付くことができたと考えられる。このような状況のなかで韓半島南部から九州へ渡海し,ある程度,滞留した人びとの一部が,また故郷へ戻ってきたことは,前述した馬山網谷里遺跡の西部九州系屈曲 2 条甕の模倣品の存在からも推測できる。

❷……………集落の構成要素からの視点

この章では,集落を通じて韓半島の青銅器文化と初期弥生文化との関係について検討する。青銅器時代早期から前期にかけて存続した突帯文土器を使用する人びとの集落は,主に川辺の沖積地に立地し,規模はあまり大きくない。住居は大型のものが多く,列状に配置される例も確認できるが,まだこの時期の墳墓は発掘されていない。

青銅器時代中期の松菊里類型の時期になると,初期弥生文化との深い関連性がみられるようになるので,環濠集落や松菊里住居へ関心があつまるようになる。ここではこの分野における今後の議論を発展させるために,これまであまり比較・検討が行われてこなかった棟持柱建物と貯蔵穴,井戸について考察する。

(1)地上建物(堀立柱建物) 福岡県江辻遺跡で確認された弥生早期の地上建物(堀立柱建物)は,松菊里文化との関連がとりあげられたことがある[武末 2002, 小澤 2006]。今回,一般的な地上建物以外に棟持柱地上建物を検討の対象にしたのは,韓半島の棟持柱地上建物に関する研究があまりないためである。

保寧寬グャンチャンリ倉里遺跡[李弘鐘 2001]や公州新影里遺跡[吳圭珍 2005]で確認された地上建物は一般的な地上建物とは異なり,梁部(短軸側)に突出した棟持柱を持っている独特な形態をしている点である(図 7)。

このような形態の地上建物址は日本では多くの事例が知られてあり,多くの研究が行われている。この特徴的な棟持柱建物については象徴的な性格を持たせようとする傾向がつよい[大阪府立弥生文化博物館 2002]。つまり,日本の独立棟持柱あるいは近接棟持柱建物は主に祭祀的な性格が強い祭殿として理解されている。

その根拠は数多く発掘された堀立柱建物の中で,この形式はごく一部に過ぎない点である。また,8 世紀代に創立されたと考えられる伊勢神宮正殿と柱の配置が同一であり,奈良時代以後は神殿形式の一つとして現在まで命脈を保ってきたためである。

さらに,弥生時代や古墳時代にもこの形式の建物が集落の中心に位置すること,銅鐸や土器にシャーマンとみられる人物やシカ,船などと共に装飾された高床建物として描かれる例が多いことなどからみて,弥生時代以後の独立(近接)棟持柱建物は儀式や儀礼と関連した象徴的な建物として把握されていると考えられる[小笠原好彦1990, 宮本長二郞 1996, 清水真一 1997, 広瀬和雄 1998, 設楽博己 2009](図 6(8))。

特に広瀬和雄[1998]はこれを農耕祭祀と結び付けて,この建物が普通は稲を収納する高床倉庫として利用され,春の播種から秋の収穫までの期間のみを神殿として利用したという仮説を提示したこともあるし,清水真一は倉庫の機能を兼ねた拝殿とみている[清水 1997]。

また,設楽博己は弥生時代の独立棟持柱建物が住居域に位置する場合と墓域に位置する場合に分けて解釈を行っている[設楽 2009]。前者はまた,竪穴住居と混在するものと特定場所に造られるもの,区画施設を持つものなどに細分し,これを時間の経過を加味しながら,共同体的な施設から首長居館施設への変貌すると考えた。前述した弥生絵画に描かれた独立棟持柱建物の特殊な装飾,竪穴などから出土する遺物などからみて,このような建物が祭殿の役割を果たしていたと推定した。さらに,墓域を伴う独立棟持柱建物がもつ祭儀の中身の一部を祖霊祭祀と連動させた。

上記のような象徴性を付与する見解について否定的な見解[佐原 1998]もある反面,それが持っている解釈上の問題もやはり考古学的に究明するには困難な分野であるため,今後の議論が期待される。

では韓半島での独立(近接)棟持柱地上建物の特徴をみてみよう。現在,青銅器時代中期保寧寬倉里遺跡 1 棟,扶餘松菊里遺跡 1 棟,公州新影里遺跡 1 棟,晋州大坪里玉房 1 地区,泗川梨琴洞遺跡などにその存在が知られている。そして,河南渼沙里遺跡には原三国段階に比定される地上建物 7 棟,最後に三国時代の百済泗沘期に属する扶餘軍守里遺跡から 1 棟が発掘されている。保寧寬 倉里の独立棟持柱建物址を,他の地上建物や住居との位置関係でみると,数棟の住居と一つのグループをなしているようにみえる。しかし,集落内で棟持柱を持つ唯一の建物集落東側の境界地点の比較的よい立地に単独で占地していることは多少の別の意味をもつと考えることができる。また,隣接して貯蔵穴と土器窯が多数存在することも考慮する必要がある。

公州新影里遺跡では,貯蔵穴が密集分布するところの外廓に 1 棟だけが分布している。これは集落の調査の一部のみであったためと考えているが,詳細な検討が不可能な状況である。ただ,棟持柱地上建物が貯蔵空間に接していることは寬倉里と共通している。

比較的多い 7 棟の棟持柱建物が確認された渼沙里遺跡の場合,やはり混在する他の地上建物との同時性を認定するのは困難だが,住居群と一定の間隔を保って 3 棟あるいは 4 棟ごとに集まって群を成している。特に注目できるのは SB205 号の場合,建物内部の地面に 3 基の土坑が一列に整然と配置されていることである。報告者はこの土坑の存在から,この遺構を地上建物というよりは地面に設置した貯蔵施設物を保護するための構造物として把握した[尹世英・李弘鍾 1994:196]。しかし,筆者は日本の絵画土器などを根拠として,この遺構も高床倉庫である可能性が高いと考えているし,土坑は報告者の指摘のように貯蔵穴ともみえるので 2 つの機能を兼ねたと理解したい。

以上,棟持柱地上建物を祭殿と関連した祭祀遺構とみる日本の研究方法にしたがって検討してきたが,韓半島の場合は資料不足もあり分析対象とすることはまだ困難であることがわかった。特に,日本の研究成果を検討するうちにこの遺構が祭殿のような象徴性を兼ね備えているのかどうかを認定することはできなかったが,棟持柱地上建物がハシゴをもつ高床建物であり,さらに,穀物貯蔵に関連した倉庫として利用された可能性が高いことを確認した。また,渼沙里遺跡の SB205 号の例からみて一部の独立棟持柱地上建物には高床倉庫と貯蔵穴の機能を兼ね備えていることもわかった。青銅器時代中期の寬倉里や新影里の例でも特定はできず,高床倉庫あるいは儀礼空間として利用されたと推定される。とにかく,地上建物は出土遺物から時期と比定することが難しく,性格の把握も難しいのが現実だが,形態・規模と関連した建築学的な側面をはじめ,集落内での位置関係,絵画資料,民俗事例などに注目して考える必要がある。

韓半島の考古学研究ではまり注目されてこなかった棟持柱建物は,日本との関連のなかでより深い研究が必要であることをここで強調しておく。

(2)貯蔵穴

青銅器時代前期の住居内部に設置された貯蔵穴は,壷形あるいは深鉢形土器に穀物を貯蔵して,世代ごとに消費するための短期的な貯蔵施設である可能性が高い。しかし,中期になると屋内貯蔵孔はほとんどみられなくなり,住居の外により大きな貯蔵穴を造ることが一般的になる(図 8 -上)。

住居外の貯蔵穴が群集して貯蔵空間をようになると,個別住居単位ではなく,住居群別あるいは集落単位で穀物が管理されるようになったことを示している。

屋外貯蔵穴に何を貯蔵したのか,という点については,二つの異なる解釈が常存している。まず,貯蔵対象物を堅果類と根莖類に限定する考えである。孫晙鎬は堅果類を編物などに入れて貯蔵穴の内部に安置して蓋をしたとみている[孫晙鎬 2004]。そして,貯蔵穴の目的は冬の酷寒期の間に貯蔵対象物を凍結させないことにあり,翌年の春になって貯蔵物から芽が発芽する直前まで保管されたと推定している。簡単に言えば,松菊里文化の貯蔵穴を堅果類と根莖類の冬越し用の短期保管場所と考える説である。

これと異なるのが松菊里段階の屋外貯蔵穴を穀物貯蔵施設と考える金壯錫の説である[金壯錫2008]。大規模な貯蔵穴群,とくに住居の数よりも貯蔵穴がはるかに多い貯蔵専門の遺跡として存在するという事実は,貯蔵用の竪穴が穀物の貯蔵用として主に利用された可能性を高めていること。

仮に補助食料である非穀物の短期貯蔵用とした場合,住居地区から遠く離れたところに莫大な労力をかけて貯蔵専門施設を造ったとは考えにくいからである。

筆者は金壯錫の見解と同様に松菊里段階の貯蔵穴が穀物貯蔵に利用されたという立場で検討してみる。韓半島で屋外貯蔵穴に関心が持たれるようになったのは天安大興里遺跡の発掘を契機とする。当時,竪穴内部の土壌を対象としたプラントオパール分析をふまえて,貯蔵穴はイネを貯蔵する施設と考えられたことがある。韓半島の農耕文化と密接な関連がある弥生時代にも数多くの貯蔵穴が発掘されている事実も,このことと関連する。研究成果もやはり豊富な弥生研究を参考にする必要

77P

弥生時代における武器の形成と展開 寺前, 直人

[編集]

大阪大学学術情報庫 OUKA(Osaka University Knowledge Archive) は大阪大学の機関リポジトリ https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/769/16504_%E8%AB%96%E6%96%87.pdf

7p


柱状片刃石斧を横断面形と基部形態などの属性から6型式に区分することにより、 時問的な変化を明らかにした(下條1991b・1994b・!997)。そして、朝鮮半島南部の柱状 片刃石斧にもっとも類似するA型式が、北部九州地域にいち早く出現し、その後瀬戸内地 域から近畿地方へとその分布を拡大していくにつれて、形態の変容が進行していくという 分布諭を展開したのである(下條1997)。

支石 墓伝播 の プロ セス 韓 半 島南端 部 ・九 州 北 部 を中心 として 端 野 晋 平

[編集]

日本考古学 2003 年 10 巻 16 号 p. 1-25

https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonkokogaku1994/10/16/10_16_1/_pdf


  疑念  他の書き込みによくみられる様に、非常に偏った書き込みが行われた 聖今上氏によるもの  

[編集]

5月1日 から 5月6日でごく最近です。

 ブロックなどの処置をされた人物ではないか。誰か調べていただきたい。

2021年5月6日 (木) 15:18 差分 履歴 −411‎ 弥生時代 ‎ 縄文土器は発掘されていない。また出典がない内容は削除。 最新 タグ: ビジュアルエディター 2021年5月6日 (木) 14:49 差分 履歴 −1‎ 弥生時代の墓制 ‎ 最新 2021年5月6日 (木) 14:48 差分 履歴 −2‎ 弥生土器 ‎ 最新 2021年5月6日 (木) 14:48 差分 履歴 −1‎ 弥生土器 ‎ 2021年5月6日 (木) 14:47 差分 履歴 +1‎ 弥生人 ‎ 2021年5月6日 (木) 14:46 差分 履歴 +1‎ 弥生人 ‎ →‎起源 2021年5月6日 (木) 14:45 差分 履歴 −388‎ 弥生人 ‎ 2021年5月1日 (土) 17:06 差分 履歴 −282‎ 弥生土器 ‎ →‎縄文土器との関係、文化圏、海外との関係: 出典なし。 2021年5月1日 (土) 17:01 差分 履歴 +3‎ 弥生土器 ‎ →‎朝鮮半島での弥生土器の大量出土と交易の確立 2021年5月1日 (土) 16:59 差分 履歴 −129‎ 弥生土器 ‎ →‎朝鮮半島での弥生土器の大量出土と交易の確立: 個人的意見では 2021年5月1日 (土) 16:57 差分 履歴 +247‎ 弥生土器 ‎ 中国拳法が趣味である人のブログに乗ったものが根拠になれるかどうかはさておき、一人の学者の意見がまるで他の主張を全部覆すような言い方は百科事典によくないと思います。 タグ: ビジュアルエディター: 中途切替


詳細
[編集]

2021年5月6日 (木) 15:18 差分 履歴 −411‎ 弥生時代 ‎ 縄文土器は発掘されていない。また出典がない内容は削除。 最新 タグ: ビジュアルエディター 2021年5月6日 (木) 14:49 差分 履歴 −1‎ 弥生時代の墓制 ‎ 最新 2021年5月6日 (木) 14:48 差分 履歴 −2‎ 弥生土器 ‎ 最新 2021年5月6日 (木) 14:48 差分 履歴 −1‎ 弥生土器 ‎ 2021年5月6日 (木) 14:47 差分 履歴 +1‎ 弥生人 ‎ 2021年5月6日 (木) 14:46 差分 履歴 +1‎ 弥生人 ‎ →‎起源 2021年5月6日 (木) 14:45 差分 履歴 −388‎ 弥生人 ‎ 2021年5月1日 (土) 17:06 差分 履歴 −282‎ 弥生土器 ‎ →‎縄文土器との関係、文化圏、海外との関係: 出典なし。 2021年5月1日 (土) 17:01 差分 履歴 +3‎ 弥生土器 ‎ →‎朝鮮半島での弥生土器の大量出土と交易の確立 2021年5月1日 (土) 16:59 差分 履歴 −129‎ 弥生土器 ‎ →‎朝鮮半島での弥生土器の大量出土と交易の確立: 個人的意見では 2021年5月1日 (土) 16:57 差分 履歴 +247‎ 弥生土器 ‎ 中国拳法が趣味である人のブログに乗ったものが根拠になれるかどうかはさておき、一人の学者の意見がまるで他の主張を全部覆すような言い方は百科事典によくないと思います。 タグ: ビジュアルエディター: 中途切替

 要出典もなくいきなり消された 聖今上氏の行為  

[編集]

聖今上氏の書き込み履歴を見ましたが、文献の一方的な解釈が多い様です。

特に、要出典もなく、いきなり消すなどの行為は目に余ります。

この聖今上氏は、5月から書きだし、ブロックされた人のなり替わりかと判断しています。 私はこれ以上、調べられません。調べられる能力のある方がこれを見られたら、申し訳ありませんが、調べていただ事を願います。

書き込みの詳細は、別の機会に行います。

出典を明記し、一方的に消されたものを復元し、さらに文献に基づき、追加しました。 --列島会話) 2021年5月15日 (土) 06:05 (UTC)


お手数ですが、出来れば、調べていただきたい。 書換の一覧(1週間か2週間後)を待っていただいてからでも、もちろん、かまいません。

聖今上氏(テコンドー?聖なる今は上?氏)のノートにも書き込む予定です。

語句を、修正しました。--列島会話) 2021年5月15日 (土) 06:12 (UTC)

縄文土器は朝鮮半島では一つも発掘されていない 聖今上氏  無茶苦茶、何とかして

[編集]
聖今上 会話 投稿記録‎ 99,668バイト −411‎ 縄文土器は発掘されていない。また出典がない内容は削除。


  • 聖今上氏の書き込み
稲の品種が日本の稲の40%を占め、朝鮮半島由来は60%を占めていた。佐藤洋一郎は少なくとも稲の40%は中国南部由来じゃないかと主張している[1][2]。しかし、佐藤洋一郎によって中国中南部に由来する稲は確認されたがその稲の収穫に必要な中国式道具は全く発掘されていない。発見されたのは半島式の磨製石斧だけである。


  • 無知
1.抉入片刃石斧、だけが、朝鮮半島固有で、他は、大陸と半島で共通している。両方ある。山東半島から農具、水田技術が伝わったのだから、大部分が共通しています。当然でしょう。
推定ですが、聖今上氏は、何も知らず、読まず、抉入片刃石斧をここ、もしくは弥生土器で知り、すべての農具が朝鮮半島と主張した、しかし、朝鮮半島固有は、抉入片刃石斧だけです。元文献を読んでいない。読んでいれば、解ります。これが解らない。


農具が、朝鮮半島由来とできる理由はどこにもないのです。(抉入片刃石斧だけは、朝鮮半島由来と確定できる。)

2.40%は朝鮮半島には無い稲です。残りの稲は、山東半島に存在し、それが朝鮮半島に渡った。従って、60%が、朝鮮半島由来とする理由は皆無です。どちらの可能性もある、当然の話です。これを、聖今上氏は、すべて朝鮮半島由来と主張する。あり得ません。


  • 以上から解る事。
  • 聖今上氏は、文献を読んでいない。
1.縄文土器が朝鮮半島で発見される例は、多くの文献にある。数え切れない。しかし、記憶でしか無いので、ネット上で見られる例を最後の部分に挙げました。
2.こう言う、無茶苦茶なあり得ない事を、書く(独自解釈)のに対応するのは、時間の無駄です。
1.稲の遺伝子の60%は朝鮮半島から来た(40%は大陸にしかない。他は大陸と朝鮮半島に共通であるのに)、2.農具の由来(すべて朝鮮半島と主張、しかし、朝鮮半島独自は、抉入片刃石斧だけです。他は、すべて山東半島から伝わるか、北回りで朝鮮半島に伝わっています。朝鮮半島独自とする根拠は、どこにも無いのです。)、3.縄文土器が朝鮮半島で一切出土していない。(東三洞遺跡では、縄文時代各期の縄文土器が出土します)


文献の例  韓国系の雑誌社での講演会の報道    東洋経済新報社 (創刊以来、在日社会の発展を目指しています。) <韓国文化>古代朝鮮と日本との交流 ――西谷正・九州大学教授  (朝鮮奨学会「古代史シンポジウム」から)[3]

対馬の縄文時代遺跡の出土遺物を見ると、その中にごく微量ながら櫛目文土器が含まれていたり、対馬には生息せず朝鮮に生息していたキバノロの牙製装身具が出土したりする。

 一方、朝鮮東南部の櫛目文土器文化の代表的遺跡として知られる釜山市の東三洞遺跡では、縄文時代各期の縄文土器が出土するばかりか、西北九州産の黒曜石およびその製品である石鏃(やじり)などが共伴している。また、朝鮮の南海岸地域にあたる欲知島では、縄文時代早期末の九州の轟式土器のほか、朝鮮で初めて縄文時代によく見る石匙(さじ)が出土している。

 これらの諸事実は、両地域の人々の間で何らかの交流が行われていたことを物語ってくれる。

ただし、その後、西谷は、考古学的には、弥生時代の稲作は、朝鮮半島由来と述べている。

  •  こう言う聖今上氏の書き込みに対応するのはかなわない。何とかしてほしい。

--列島会話) 2021年5月15日 (土) 08:05 (UTC)


分布圏について

[編集]

弥生の文化。農耕は、尾張の東西で分かれ、一度拡大が止まっています。これは、集団の交流が縄文末期無かったことを示しています、異なる文化の特徴です。伊勢湾の東西で交流が無かったのです。しかし、この非常に重要な事実が、JuthaDDAさんの記述には見当たらない。文献を調べておられるようですが、非常に不十分に見えます。これに限らず、漁撈文化圏とか、北方や大陸との関係が欠けている、調査が足りない、記述内容に比し、調査が足りていません。この指摘を、考えて見てください。私の書いたものが、文献調査が不十分と言われますが、私から見て、JuthaDDAさんにおいて事実に対する調査が十分なされていない、その様に見えてしまいますl。JuthaDDAさんは、非常にまじめにやっておられるが、見える範囲が狭すぎます。私に要求されたと同様に、調査の在り方の見直しをおJuthaDDAさんの側でも願いいたします。基本的な構造の把握がされていない。私の調査も不十分です。しかし、uthaDDAさんの指摘を受け、私は再検討し、投稿を止めています、しかし、私から見て、JuthaDDAさんの投稿は、あまりに不十分です。私は、自分の書くことについて、論文をきちんと読みかいておその上で投稿しております。(過去の記憶の部分はあり、すぐに文献を挙げられない事もありますが、読んでいただければわかるように、文献は基本挙げています。自分から見て他の人の投稿は不十分い見える、それは自分の知識と、他者の知識が異なっているからです。文献調査が不十分、具体的に指摘してください。失礼な書き方ですが、非難されましたので、先にお答えしましたように、JuthaDDAさんの指摘は受け入れて、私も再考しているのです。その点をご考慮下さい、他の物への、回答がいただけ無いので、JuthaDDAさんのページにも、書きます。ふたつ書くなと言う事ですが、議論は、JuthaDDAさんのページでしたいので、コピペします。失礼します。ここに公開し、JuthaDDAさんのページで話をしたい。 --列島会話) 2021年5月20日 (木) 03:49 (UTC)

ネット索引を追加--列島会話) 2021年5月15日 (土) 08:28 (UTC)

聖今上氏 無茶苦茶、5月から開始、なりすましと考えられます。こんな事を書いて、追放されないわけがない。そう考えています。

追放されたとしても、

追放後、再度書くのに、私は反対しません。きちんとルール通りにすれば。--列島会話) 2021年5月15日 (土) 08:28 (UTC)修正

半保護依頼の形式

[編集]

https://ja-two.iwiki.icu/wiki/Wikipedia:%E4%BF%9D%E8%AD%B7 半保護依頼の形式 --列島会話) 2021年8月30日 (月) 05:17 (UTC)

編集合戦になり、反保護の編集を依頼いたします

[編集]

対象人物、-聖今上   1.書き込みは、弥生時代、弥生土器のみです、期間は5月1日から15日まで20数回。     それ以前にも、それ以後も、今回、8月30に再度編集合戦に及ぶまで、一切、他の物で書き込みがありません。     この事から、誰かのなりすましと考えられます。     もちろん内容が、きちんとしていればいいのですが、以下の複数の問題があります。   2.文献に基づかない書き込みが多いだけでなく、感情的な表現、独断、文献の捻じ曲げた解釈が見られます。   3.ノートの議論がまともではありません。     例、私は、文献に在日を支援すると書かれていたので、朝鮮韓国系の新聞社かと思い、引用しましたが、それでもって、私を非難する。ただ、この新聞は、どうも、韓国を嫌う様子が見えました。

--列島会話) 2021年8月30日 (月) 05:24 (UTC) https://www.jomon.or.jp/archives/127.php 国際縄文学協会 長浜浩明インタビュー(平成23年2月1日 国際縄文学協会図書資料室にて)


https://kaken.nii.ac.jp/report/KAKENHI-PROJECT-24242032/242420322012jisseki/ 2012 年度 実績報告書 先端技術を用いた東アジアにおける農耕伝播と受容過程の学際的研究

本年度は、青森県三内丸山遺跡、宮崎市本野原遺跡など縄文時代の遺跡における圧痕調査において、コクゾウムシ属甲虫を含む家屋害虫の圧痕を多数検出することができた点が大きな成果であった。これはこれまで生体化石としては検出しにくかった家屋害虫が土器圧痕として残りやすいことを証明したもので、土器製作の環境や土器づくりに対する先人の意識についての基礎的な資料を得ることができた。これらの成果を受けて、低湿地遺跡から出土する昆虫や種実の生体化石と台地上の遺構から出土する炭化種実、それらと土器圧痕として検出される昆虫や種実の性質の違いについての論考をまとめた。さらに土器づくりの環境の中でどのようにして圧痕が残るのかについても論考を発表した。 沖縄での調査では弥生時代~古墳時代相当期の野生雑草の種実を検出するにとどまったが、徳之島面縄貝塚において縄文時代後期相当期のコクゾウムシ属圧痕を検出することができた。コクゾウムシは五島列島の中島遺跡から縄文時代後期例を検出しており、九州北西部の島嶼地域にも存在することが明らかになった。 さらに、韓国での圧痕調査によって、韓国最古および最古級のキビ・アワ資料を検出し、これまで考えられていた年代より1000年~1500年古い時期に華北型の乾燥地農耕が朝鮮半島南部まで拡散していた事実を明らかにし、学会の注目を集めた。この成果は韓国における東三洞貝塚および飛鳳里遺跡の発掘調査報告書の中で公表された。これ以外に凡方貝塚においても新石器時代初期の雑穀資料を検出しており、今後、韓国農耕史の書き換えが必要と思われる。 縄文時代晩期~弥生時代早期の資料について福岡市・熊本市の複数遺跡において圧痕調査を行い、イネ以外にアワ・キビを検出している。 また、これまで検出した圧痕およそ1300点を再度点検し、再同定を行った。この結果については、本年度報告書を作成予定である。 --列島会話) 2021年8月31日 (火) 13:18 (UTC)


縄文時代の植物のドメスティケーション 那  須  浩  郎*  本論文では遺跡から出土したダイズ,アズキ,ヒエ属の種子サイズデータを集成し,縄文時代 における形態上のドメスティケーション (種子の大型化) の過程を検討した.ダイズとアズキは 6,000 年前頃から 4,000 年前頃にかけて中部高地と関東地方西部地域 (諸磯・勝坂式土器文化圏) において出土数が増加し,現在の野生種よりも大型の種子が出現していた.この種子の出土数の 増加と大型化は,当時の人口増加と連動していた可能性があり,この時期に形態上のドメスティ ケーション (種子の大型化) が始まったと考えられる.しかしながら,この時期には小型の種子 も依然として見られ,大型の種子をつける品種がまだ定着していなかったか,野生種の採集も継 続していた可能性がある.4,000 年前以降になると中部高地からは大型種子が見られなくなり, その代わりに九州地方や西日本で見られるようになる.この時期には大型種子の品種が定着し, 栽培されていた可能性が高い.ヒエ属についても,東北地方北部で 6,000 年前頃,北海道渡島半 島で 4,500 年前頃に,時期は異なるものの,同じ円筒式土器文化圏で大型種子が一時的に見られ る.この大型化はそれぞれの時期の人口増加と連動しており,この時期に一時的な形態上のドメ スティケーションが起きていた可能性があるが,その後は 10 世紀まで大型種子が見られない. 10 世紀以降には小型の種子も少なくなることから,この頃にヒエ属の大型種子が定着したと考 えられる. キーワード:縄文時代,ドメスティケーション,栽培,栽培化,種


http://www.toyo-keizai.co.jp/news/culture/2000/post_3605.php <韓国文化>古代朝鮮と日本との交流 まず旧石器時代から考えてみよう。同時代、朝鮮や日本は氷河期の影響を受けて陸続きになったことがあったかもしれない。そうした自然環境を考えると、中国山西省の丁村、朝鮮京畿道の全谷里、群馬県の権現山などの諸遺跡で出土する細石器に見られる親縁性は、当然のこととして理解できる。したがって、日・朝交流の始まりは旧石器時代にさかのぼって考えねばならない。

 対馬の縄文時代遺跡の出土遺物を見ると、その中にごく微量ながら櫛目文土器が含まれていたり、対馬には生息せず朝鮮に生息していたキバノロの牙製装身具が出土したりする。  一方、朝鮮東南部の櫛目文土器文化の代表的遺跡として知られる釜山市の東三洞遺跡では、縄文時代各期の縄文土器が出土するばかりか、西北九州産の黒曜石およびその製品である石鏃(やじり)などが共伴している。また、朝鮮の南海岸地域にあたる欲知島では、縄文時代早期末の九州の轟式土器のほか、朝鮮で初めて縄文時代によく見る石匙(さじ)が出土している。

 これらの諸事実は、両地域の人々の間で何らかの交流が行われていたことを物語ってくれる。

 日本における稲作は、実はすでに縄文時代の終末期に開始されている。その代表的遺跡は、北部九州の佐賀県唐津市の菜畑遺跡だ。そこでは炭化米が水田跡から検出され、木製農具を伴っていた。木製農具の製作に使われていた磨製石器や、稲の収穫具である石包丁の形式を見ると、朝鮮南部のものと共通している。そのほか、同時期の武器である磨製石剣・石鏃や墓制である支石墓を見ても共通点が指摘できるので、北部九州に始まった日本最初の稲作文化は、直接的には朝鮮南部から移植されたといえる。紀元前1千年紀の後半のころのことだった。


弥生時代の開始:朝鮮半島から日本列島へ

中村大介(埼玉大学人文社会科学研究科) https://www.pref.kanagawa.jp/documents/8040/r01tokubetsukouen3.pdf 3. 文化的起源 水稲農耕は長江流域を起源として、山東半島と遼東半島を経由し、朝鮮半島に導入される かながわの遺跡展特別講演第2回 2020 年 1 月 26 日(日)14:00~16:00 2 (図 5、宮本 2009)。朝鮮半島の青銅器時代早期は前 13 世紀頃であり、その段階の土器から イネが確認されている(図 5b・6、孫・中村・百原 2010)。また、それ以前の新石器時代か ら華北型農耕と呼ばれる雑穀栽培が入っていた。そのため、朝鮮半島の農耕は、水稲・雑穀 複合型で、弥生時代に併行する青銅器時代後期以降にも継続している。ただし、農耕の存在 を示す石包丁は型式からみて雑穀農耕が主体であった遼東地域から来ており(古澤 2018)、 雑穀の利用は単純に新石器時代からの継続とはいえない。 日本列島に農耕が拡散する前の朝鮮半島の様相をみてみると、様々な変化を経ていたこ とがわる。まず、青銅器時代早期から前期前半まで、人々は河川沿いの平野に居住していた (図 6)。しかし、前 10〜9 世紀頃の前期後半になるとほぼ全ての集落が丘陵に移る(図 7・ 8)。青銅器時代前期後半の集落は、住居数が著しく多いものを含んでおり、人口増加が顕著 である。青銅器時代後期になっても平野に展開する事例は、晋州大坪里(図 9)、馬山網谷 里(図 10)など南端を除き、稀である。この点は西日本とは大きく異なるといえよう。ま た、前者では広大な畠も確認されており、後者では北九州の突帯文土器を摸倣したものが確 認されている(図 10-2)。他にも北部九州の夜臼式の大型壺が達城坪村里にあり、近年にな ってようやく弥生文化の形成は一方的な渡来ではなく、相互交流の側面があることが分か ってきたといえる(中村 2016)。 墓については、石槨墓(図 11)や支石墓(図 12)が出現し、副葬品を多くもつ墓も散見 されるようになる。注目すべきは、遼東地域を経由して影響を受けた遼寧式銅剣とそれを模 倣した石剣がみられるようになることであり(図 13)、すでに青銅器を入手できる社会にな っていたことである。



最後に青銅器時代中期の馬山網谷里遺跡から出土した突帯文土器が注目される(図 5–下)。環濠 から赤色磨研壷,口唇刻目土器,内湾甕などと共に出土し,口縁部が欠けていることを除けば全体 の形状はよく残っている方である。胴体上位に明瞭な屈曲があり,そこに刻目突帯文が施されてい る。報告書によると,胎土と外径接合などの成形方法および器面調整などは無文土器と共通するが, 器形的な特徴は,九州西部地域の弥生早期の屈曲形 2 条突帯文土器に類似している (6) 。内径接合で粘 土帯を積み上げる弥生早期の突帯文土器とは異なり,無文土器に一般的な外径接合で積み上げる点, 網谷里遺跡から出土した他の無文土器と同一の胎土および調整法を用いていることから,網谷里遺 跡の環濠から出土した突帯文土器は,弥生早期の屈曲形 2 条突帯文土器を模倣して韓半島南部で作 られた土器と考えられている[金炳燮 2009]。端野晋平も網谷里出土の突帯文土器が九州西部の突

帯文土器と類似するが,製作技法や胎土,色調などからみて,九州からの搬入品ではなく九州に一 定期間の滞在したか,あるいは交流を通じて突帯文土器を知った無文土器人による模倣品である可 能性が高いとみている[端野 2010]。筆者も金炳燮や端野晋平の見解に賛同する。 (2)韓半島の突帯文土器と西日本の突帯文土器との関係 前述したように,1988 年に李弘鐘が初めて提起した韓半島突帯文土器の祖型説は,当時こそ注 目されなかったが,2000 年代に入って安在晧[2000],李弘鐘[2006],千羨幸[2008]があいつい で主張される傾向がある。 韓国の研究者と違って日本の研究者は,弥生早期が青銅器時代中期の松菊里類型(先松菊里類型 含む)段階の水田稲作文化と密接な関係をもつという考えが支配的で,弥生早期の突帯文土器であ る夜臼Ⅰ式土器は,縄文土器から内部発展したものと考えていたので,韓半島の突帯文土器にはあ まり関心を持っていなかったと考えられる。だた,唯一関心を持っていた藤尾が韓半島の突帯文土 器の整理をしたことはあるが[藤尾 2002],先述したような理由から関連性を否定してきたのであ る (7) 。 現状を打開したのは千羨幸である。千羨幸は韓日両地域の突帯文土器の炭素 14 年代と土器の形 態を分析して以下のような結論を導き出した。すなわち瀬戸内西半部の縄文土器が,青銅器時代前 期Ⅲ期に属する韓半島南部,南江流域圏の突帯文土器文化(刻目突帯・沈線文)を受け入れ,西日 本の突帯文土器を成立させたと[千羨幸 2008]。しかし,両地域の突帯文土器に見られる共通点は 装飾面にとどまり,器種構成,器形,調整などには及んでいないため,韓半島から直接多くの人び とが渡海して西日本の突帯文土器文化を成立させたのではなく,少数の人たちによって文様のよう な視覚的な情報だけが伝えられたか,縄文人が刻目突帯と沈線文のような文様だけを模倣した可能 性が高いと考えた[千羨幸 2008]。 実はこれと似たような状況は,韓半島における突帯文土器の成立過程でもみることができる。渼 沙里類型は中国東北地域をはじめ,鴨緑江流域と清川江流域に分布する住居構造,土器,石器,紡 錘車などが韓半島南部へ拡散して成立したものである[安在晧 2000,李亨源 2002, 朴淳發 2003, 千羨 幸 2005]。住居構造および遺物の組み合わせからみて人びとの移住が背景にある可能性が高いが, 突帯文が施された器種と器形には両地域のあいだに違いが見られる。 要約すると,中国東北地域や西北韓地域の突帯文土器文化が韓半島南部地域へ南下する時には, 住居構造や石器組成などを維持しつつ,土器相には多少の変化がみられることに対し,韓半島南部 地域から西日本への影響は突帯文の文様に限定されていることである。14C 年代からみると,およ そ前 15 世紀から前 10 世紀にかけての期間には,中国東北地域を含んだ韓半島西北韓と東北韓,南 部地域へ突帯文土器が拡散する様相を確認できる。この過程で西日本へも伝わったと理解される(表 1 参照)。突帯文土器文化を東アジア的な広い視点でみることが必要な時である。さらに,日本の突 帯文土器文化が韓半島とは異なり,比較的遅くまで存続したのは日本列島の地理的な位置や文化的 な特徴を考慮すべきと考える。突帯文土器文化と松菊里文化はある程度の時間差をおいて西日本に 伝わったが,突帯文土器が文様のモチーフに限定された反面,松菊里文化は文化全般が拡散したと 考えられる。特に,韓半島では畑作を生産基盤としていた突帯文土器文化と,水田稲作を生産基盤

  1. ^ 佐藤洋一郎 稲の来た道  日本古代史つれづれブログhttps://aomatsu123.blog.fc2.com/blog-entry-208.html
  2. ^ 佐藤洋一郎 稲の来た道  日本古代史つれづれブログhttps://aomatsu123.blog.fc2.com/blog-entry-208.html
  3. ^ http://www.toyo-keizai.co.jp/news/culture/2000/post_3605.php