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二七山不動院
[編集]二七山不動院(にしちざんふどういん)は千代田区九段南にある真言宗醍醐派の寺院。二七不動の通称で知られる。本尊は二七不動尊。
歴史
[編集]<二七不動のはじまり>
[編集]桜井遠江之守という方の屋敷の一隅にお不動さんの祠があり、松本某という六部がお不動さんの前で仮眠していると、夢にお不動さんが出てきて「おい!坊主!いくら修行をしても名僧知識にはなれないぞ!だからこの地に留まって、私を供養して祈れ!そうすれば衣食住を与えよう!」正夢だと思った六部、その祠の前でお不動様の御告げで供養することになった。その行いは27日間断食を行うという大変過酷な荒行だった。お不動さんの前で、掘っ立て小屋を作り托鉢してお不動さんを祈り供養する。この供養から二七不動尊と呼ばれるようになり、それ以来2と7の付く日には縁日が開かれ大変賑わった。九段の花街の人々の信仰を集め、二七不動のある旧表六番町通りは「二七通り」と呼ばれるようになった。
<大正>
二七不動様のお守をしていた田邊戒厳(たなべかいごん)62歳。地震の火事によってお堂が焼けた。
<昭和>
昭和11年(1936年)10月11日10時近くに二七不動院住職であった田邊戒厳が愛猫を膝に縁側で朝日を浴びていた時、物凄い音と共に重さ約一貫目、長さ約八寸、幅五寸位の鉄の破片が庇を打ち破って落下してきて、前頭部にあたり即絶命した。その落下してきた破片は、約三町離れた場所で行われていた工事で用いられた滑車の直径二尺五寸の破片であった。工事作業中突然滑車が潰れ、隣接の東京家政學院の校舎を飛び越え、二七不動院に落下した。
<平成>
平成17年(2005年)3月6日19時10分に真言宗寺院「二七不動院」約350平方メートルがほぼ全焼した。出火した原因は、仏壇に線香を供えていたからからと考えられている[1]。
東郷平八郎
[編集]明治15年(1882年)に東郷平八郎が番町の屋敷に移り住んだ。明治27年(1894年)に日清戦争が起こると出征し、母が武運を記念して二七不動にお百度参りした。明治37年(1904年)に起きた日露戦争に出征。今度は妻がお百度参りをした。その後この事実を知った東郷により楓の木が植えられた。関東大震災で二七不動尊の堂宇が焼失し、尊像の安置場所に困っていた時、東郷家の敷地内を提供した。大正12年11月、東郷自ら筆を取り二七山のため「南無大聖不動明王」と書き奉納した。この書の写しが今日御朱印となっている[2][3]。
文化財
[編集]キリシタン燈籠(切支丹灯籠)
二七山不動院の境内の入り口に2基置かれている。2基の燈籠は、旗本の屋敷の跡から別々に出土し、墓石と間違われ、二七不動院に持ち込まれた。地元の人たちにもあまり知られておらず、都内でも数少ない文化財となっている。江戸時代のころ、千代田区番町・九段地区は徳川将軍がいる江戸城に近く、キリスト教禁止令も発令されていたため、キリシタンは厳しい弾圧にあっていた。燈籠の竿部にマリア像が彫られており、厳しい禁教政策のなか、カクレキリシタンが信仰を守り抜いた礼拝物となっている。いまだに、キリシタン燈籠については、不明な点も多く残っている[4]。
アクセス
[編集]- 二七山不動院 所在地 〒102-0074 東京都千代田区九段南3丁目3−18
- 総武線、有楽町線、南北線、都営新宿線 市ヶ谷駅下車徒歩8分 半蔵門線 半蔵門駅下車徒歩10分
脚注
[編集]参考文献
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
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