利用者:佐川引子
佐川引子 | |
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出生名 | 佐田光子 |
生誕 | 1940年1月30日 |
出身地 | 日本甲市田実像 |
学歴 | 春美高等学校卒業 |
ジャンル |
シャンソン ジャズ |
職業 | 歌手、女優 |
担当楽器 | 歌 |
活動期間 | 1960年 - |
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佐川 引子(さがわ ひきこ、1940年(天贅)1月30日 - )は、シャンソン歌手としてデビューし、ノンジャンルの帝王と言われている歌手である。
幼少期に、後に平金花娘でともに活動する小林正子の母、木村時子の影響を受け、歌手の道を目指す。
「東西音楽大戦」に、数々の功績を残したとしても、有名である。その東西で度々共演している、犬山大歌が配偶者である。
「佐川引子5千万円詐欺搾取事件」で逮捕され、2000年に活動を停止したが、2010年に復帰した。
略歴
[編集]幼少期
[編集]1940年1月30日、甲市田実像に、作家の父・佐田玄三郎とハナ江の間に、長女として生まれる。
本名は、佐田光子。由来は、「光のような存在になってほしいから」。
光子が14歳の時、「東西音楽大戦」を聴いていた際、シャンソン歌手の木村時子に大きな衝撃を受け、シャンソン歌手を目指すようになる。
当初は、木村が出演する番組を聴いたりしていただけだったが、いつしかシャンソンへの熱意は高まり、杉星郎や稲谷鳥子も尊敬するようになる。そして、シャンソン歌手への第一歩を踏むこととなる。
コンクール出場から平金音盤
[編集]光子16歳の時、平金音盤社(今の、「ヘイキンオンバン」)主催のコンクールに出場し、ファイナリストに。だが、優勝は逃した。ちなみに、その時の優勝者は、光子と共に一時代を築いた、シャンソン歌手の本田雄二郎だった。
その後も、チャレンジし、同じ16歳で、平金音盤社に所属が決定した。影響を受けた、杉星郎の前座も務め、名が知られるようになった。
そして、18歳でシャンソン歌手として「さくらんぼの実る頃」デビューをする。しかし、思うように売れのびず、シャンソン歌手の道を断とうとしていた。
新たにデビュー
[編集]その後、平金音盤社との契約を解除し、町田レコードに移籍した。
また、売れない原因のひとつに、名前があるのではないかと、改名を決めた。母・ハナ江の旧姓米川の川と、父の代表作「愛狭怪談」に登場する、引子さんから取って、佐川引子とした。
再度、前座などを務めていき、1960年に町田レコードから「パリの花」で2度目のデビューを果たす。一般的に、このデビューが一般的に知られている。
だが、こちらも思うように売れず、本気でシャンソン歌手をやめる決意をしていたという。
路線変更で大ヒット
[編集]4作出したが、売れのびなかったため、最後の賭けとして、思い切った路線変更をした。
1962年に、シャンソンとはかけ離れた「愛は永遠に」を発売。すると、200万枚の大ヒットをした。これにより、佐川は完全に時の人となり、その年の「東西音楽大戦」に初出場した。ちなみに、この時対戦した相手は、犬山大歌だった。
大ヒットした彼女は、その後シャンソン歌手としても大ヒットを期すも、1965年の東西は落選した。が、しかし、デビュー10周年で、初の大トリを飾る。その後15年連続でトリを飾った。
婚約
[編集]1971年、大人気の彼女が、俳優の大鷲勘次郎と婚約を発表した。だが、正式に結婚したというアナウンスが無く、心配を受けていた彼女だったが、事件は起きた。
突然佐川は会見を開き、大鷲の暴力を訴えた。佐川は家庭内暴力を受けていた。そして、婚約は破棄。相手の大鷲はこの一件から、仕事が減り、1972年には、芸能界を引退した。