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利用者:亀山市文化保存会

孝子萬吉伝(孝子万吉伝)

孝子萬吉伝(万吉伝)とは、親孝行の美談として三重県亀山市に伝わる史実を元にした逸話である。

この話は明治時代に国定教科書に修身(道徳)教材「近世孝子伝」の中の一話として採用された。万吉伝は昭和に入り「検定教科書」にも採用された他、日本統治下の朝鮮での教科書にも採用された。

万吉:後に徳本姓を賜り、徳本萬吉


①話の内容

②史実

万吉は安永五年(1776年)父、市右衛門、母、久米の長男として伊勢国鈴鹿郡坂ノ下古町(現亀山市)の貧しい農家に生まれた。

田畑に恵まれず、収穫が僅かであったため、父、市右衛門は日々険しい東海道鈴鹿峠に出ては旅人の荷物を運び、わずかな謝礼を得て生活していた。

 安永八年(1779)三月、父、市右衛門が病死した。万吉が四歳のときである。弟の吉次郎は乳飲子であった。

 母は幼児2人を懐に抱きながら、麦つきや稲こぎなど、現在の家政婦のような日雇いをすることで、露命をつないでいた。しかし、二年後に弟の吉次郎も病死。

苦労が重なったのか、母もついに病気になって寝込んでしまった。僅かな田畑も人手に売り、生活はさらに困窮を極めた。

万吉は六歳ながら、亡くなった父に倣って毎日、街道に出ては、行き来する旅人の小さな荷物を持って、わずかな運賃をもらうようになった。

まだ幼いので、思い大きな荷物は持てない。少しの風呂敷包や槍長刀などを持ち、鈴鹿峠を登り下りしていた。

来る日も来る日もこれを続け、日中は何回も家に立ち帰っては、母の様子をうかがい、夕方には集めた銭で薬を買ってきてこれを飲ませ、母の身体を揉みさすって痛みをやわらげたという。

 天明三年(1783)の大飢饉が起こると、米麦の価格は高騰し、雑穀ですら平時の十倍の値がくようになり、普通の農商の人の中にも餓死者が多発した。八歳の万吉は力をふりしぼり、日に何度も鈴鹿峠を往復しては僅かな米穀を貰っては母に与える。母が食事を取れないときは、自分も一粒の御飯も食べなかったという。

 その苦労は並み大抵ではなかった。その頃になると近隣の村々に万吉の孝養が知られだしたのである。

 この年の盛夏八月十五日、江戸の幕臣、旗本石川忠房候が大阪城番の勤務満了の折、帰途に鈴鹿峠蟹ケ坂を通過したところ、万吉が縄の指尾に銭四文をさして持ち運ぶ様子を見て「その銭はいかにするか」と問うたことから、万吉の孝行を知ると、非常に感心した。

 彼は万吉の家まで出向くと白銀を与えて母子を激励した。万吉は頂いた白銀を持って傍らの部屋へいって平身して伏した。石川候はそれを見て

『彼は何をしているのか』

と尋ねると、母は

『父の位牌に手向けて礼をのべています』

と云う。石川候はますます感心したのであった。石川候はその冬、江戸から大阪に下る際も万吉宅を再訪し、様々な世話をした。大阪に到着すると、万吉のことを様々な人に話したところ、多くの人が万吉の家を訪ねたがった。石川候は訪問者の便宜を図るため、「孝子万吉宿 為易尋志等 石川某記之」と書いた表札を万吉宅の門に掛けさせた。

こうして万吉宅には訪問客が訪れるようになった。彼らは鈴鹿峠を超える時の荷役に万吉を使ってくれるようになったので、母子の生活は楽になった。万吉は客から餅などを貰っても自分では食べず、持ち帰って母に与える。人々はみな感心してお金などを与えたり、または手習いの筆硯などを与えた。

 天明四年(1784)甲辰の秋、石川候の同僚である幕府大御番役の三橋成烈が鈴鹿峠を越えたときに万吉宿を訪ね、和歌を詠んだ。

『尋ねずば かけても知らじ 母木々の 木陰の露に 秋をふる身と』

そして万吉に青銅若干を与えた。三橋候は京都で師事していた和歌の大家であり朝臣の冷泉民部為泰卿にこの歌を見せた。冷泉為泰はこれを見て、傍に返歌を付した。

『なでしこの これぞまことの 花の露 かかるもありと あはれにぞきく』

三橋候はこれを大いに喜んだ。

天明五年、万吉十歳の七月、石川候の妻が病気にかかったことを知った万吉は連日、鈴鹿神社に参詣した。

天明六年、万吉十一歳の年、が日光山例幣使の帰路で万吉宿に立ち寄った際にこの歌を御覧になり、


歌を額に入れて万吉の家に掲げさせたという。

この万吉宿の評判が御公儀に聞き召された。

翌年、天明七年(1787)三月四日、満十二才の春、幕府江戸城にて時の道中奉行の桑原伊予守より、褒美として白銀二十枚を賜り、また母には一生一人扶持を賜った。

大田南畝も彼が江戸滞在中に宿まで出向いたが、大勢の来客で溢れており、面会をあきらめている。

大田南畝はこの時の体験を随筆「一話一言」に書き残し、万吉を紹介している。

寛政元年(1789)、この孝行美談の顛末を記した書物「勢州鈴鹿 孝子万吉伝」が京都の書店より発刊された。

文化十年(1821)には母が亡くなった。これにより母の一人扶持も終わる。

翌年、文政四年(1822)四十六才のとき坂下駅宿の支配者だった近江国信楽代官、多羅尾鞆負に召し出されて足軽となり、下級武士として俸給をもらう身になった。この時、代官より「徳本」の姓を賜り、苗字帯刀を許された。その後は多羅尾家に忠誠を尽くした。

 万延元年(1861)十二月二十八日に満八十五才の長寿で亡くなった。

 昭和の初めまでは万吉の屋敷跡も坂ノ下古町の街道筋にあったが、現在は見られない。

子孫:

二男の金次郎は西陣織の名家、木村卯兵衛に奉公に出たことが木村家所蔵の「奉公人召抱控」に残っている。これが徳本京都分家の祖となった。


史跡:

鈴鹿峠の廿七曲がり坂を下りると、鈴鹿権現、片山神社がある。

その鳥居の左には孝子万吉の顕彰碑が建っている。


参考文献:

 大田南畝 「一話一言」

 「孝子万吉小伝」

 「勢州鈴鹿 孝子万吉伝」

 「関町史」