利用者:久良岐のよし/sandbox
表示
ここは久良岐のよしさんの利用者サンドボックスです。編集を試したり下書きを置いておいたりするための場所であり、百科事典の記事ではありません。ただし、公開の場ですので、許諾されていない文章の転載はご遠慮ください。
登録利用者は自分用の利用者サンドボックスを作成できます(サンドボックスを作成する、解説)。 その他のサンドボックス: 共用サンドボックス | モジュールサンドボックス 記事がある程度できあがったら、編集方針を確認して、新規ページを作成しましょう。 |
間宮綱信は北条家臣で久良岐郡笹下城主間宮信元の子、間宮康俊の実弟に当たる(注1)。
妻は鎌倉郡永野城主宅間上杉富朝の娘(注2)。
間宮家の多くは玉縄城主北条綱成率いる黄備え隊に与力したが、綱信自身は滝山城主/八王子城主の北条氏照に与力として仕え内政外交で実績を残した(注3)。
又、間宮家は特に鷹狩や鷹の飼育に関する知識と技術を得意とした一族でもあった(注4)。
北条氏政が当主の時代、北条家の外交官として安土城で織田信長に謁見し、北条家からの贈答品として鷹を献上している。織田信長の命を受けた滝川一益の案内で安土の城下町を見学している(注5)。
小田原北条家の滅亡後は徳川家康から隠居料として間宮家旧領の内氷取沢を与えられ間宮家の一族氷取沢間宮家の家祖と成った。織田家への訪問の際、岡崎に立ち寄った事で家康と既知だった為、間宮家中で最も早く徳川家臣に取り立てられた。(注6)。
菩提寺は横浜市磯子区宝勝寺(注7)。
(注1,注3,注4,注5)六浦文化研究第十号「盛本昌広著:間宮氏由緒の形成」P95,P96
(注2)六浦文化研究第十号「盛本昌広著:間宮氏由緒の形成」P103
(注6)六浦文化研究第十号「盛本昌広著:間宮氏由緒の形成」P96
(注7)六浦文化研究第十号「盛本昌広著:間宮氏由緒の形成」P100