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利用者:中村明裕/平和学または平和研究について

本稿はUser:中村明裕による、平和学に対しての意見である。平和学の詳細はWikipedia平和学を見よ。

平和学は科学か?

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科学ではない。ただし、いまだ科学的に体系化されていないというそれだけの意味において。平和学は将来的に科学となる運命にある。

平和学は規範学か?――すなわち、平和学は平和を正義とするか?

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否。少なくとも、否であるべきだ。平和学の研究対象は、紛争の原因とそれを防止する方法の究明である。平和学は平和を実現するべきであるかという倫理的問題には立ち入らない。もっとも現実的に平和学を研究する者は平和主義者が多いであろう。しかしそれは平和学の研究者が平和主義者であるべきであることを意味しない。逆に平和主義者は平和学の知識のよき保有者であるべきだが、現実はそうではないだろう。

平和学の知識を逆に利用して紛争を起こし、あるいは激化させることは可能であろう。また、平和学は紛争を積極的に起こす方法を研究することができる。したがって平和学はどこまでも科学である。平和学は世界が平和であるべきと主張しない。とはいえいずれにせよ平和学を利用して紛争を起こすような倫理観のない為政者はいまい。戦争の原因は人類がいまだ平和学上の知識をわずかしか持たないことにある。

殺人ロボット問題と平和学の黎明性

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 【ニューヨーク共同】兵士に代わって敵を自動的に殺傷する「殺人ロボット兵器」の研究開発が米国などで進んでおり、戦争の形態が一変する時代が到来しかねないとして、開発凍結や検討委員会開催を求める勧告が国連に提出されたことが25日分かった。ジュネーブで27日から始まる国連人権理事会の通常会期で討議される。

 遠隔操作式の無人機攻撃が広がる中、兵士を危険にさらさない装備が重宝され、いずれ殺人ロボット兵器の導入に踏み切る国が出てくるとの危機感が背景にある。人権団体ヒューマン・ライツ・ウオッチも4月、禁止キャンペーンに乗り出しており、国際社会の新たな課題となりそうだ。

2013/05/26 02:00 【共同通信】

殺人ロボット凍結、国連で討議へ 検討委開催も勧告

殺人ロボットの禁止が平和に資するか否かは平和学上まったくいずれとも言えないだろう。この問題に答えられないこと自体が平和学の黎明性を表している。

「戦争の形態が一変する時代が到来しかねない」と危機感は十分に理解できる。しかし、できるだけ自分たちの兵士を安全にして標的だけを殺害する、というのはいままでの軍事が目指してきたところである。

理想的には、あらゆる紛争は誰も殺さないで文化的に決着をつけることが望まれるだろう。にもかかわらず、そのための技術や方法論はまだ未発達であって、今後の開発が待たれる。平和学はまだ黎明なのである。

戦争は人間の本性か?

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否。ごくごく一部の異常者を除いて、誰が戦争を望むのか? 戦争は望まれるものではなく、「なぜか起こってしまう」ものである。しかし一方で、ある地域においてときに数百年起こらず、戦争を知らずに一生を終える者はいる。戦争は避けたくても避けられないという点で生理現象と似るが、避ける気もなく避けられるという点で生理現象とは異なる。戦争は人間の本質でもなければ、人間らしさの根拠でもない。

「我々が戦争を避けたくても避けられず、避ける気もなく避けられるのは、戦争を回避するための知識を我々が持たないためである」という仮説の下に、平和学は構築される。

平和を実現するためには、概念的には、戦争は平和への「ツナギ」であるべきだ。もっとも「あらゆる学問において仮説が永遠に辿りつけない真理への『ツナギ』であるように、戦争が永遠に辿りつけない平和への『ツナギ』であって戦争はなくならない」という主張は平和学上可能である。そのための「ツナギ」としてロボット兵器を利用できるか否かは平和学上考えてみる必要がある。少なくとも大量破壊兵器よりはよろしいように思われる。

「戦争は人間の本性でない」という原理の応用: 「平和学が規範学であることは許されるか?」という問いへの答え

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否。許されない。第一に言うまでもなくそれは科学でない。もしわれわれに「戦争をしてはならない」のような規範が必要ならば、それは倫理学者と主権者個々人の倫理観に任せるべきである。平和学の仕事は、その規範を発揮させる方法、力そのものを作り出すことである。そしてそれを行使するのは主権者の意志である。主権者が主権者の意志で主権者の倫理観にもとづいて、平和学の作りだした力を行使するのである。

第二にそれは平和学に混乱をもたらす。なぜなら、「我々が戦争を避けたくても避けられず、避ける気もなく避けられるのは、戦争を回避するための知識を我々が持たないためである」という仮説の下に、平和学は構築されるからだ。「戦争をしてはならない」のごとき端的な教条によっては戦争が回避できないことは平和学の大前提である。そのような教条は平和学の大前提に反するのである。そしてその教条が実際に戦争の回避に資するであろうか? 逆にその教条を唱えることが戦争回避を阻害するものであれば、それは倫理的にも許されないだろう。