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利用者:三三五五/汚名演説

議会において演説を行うフランクリン・ルーズベルト。後ろにいるのは、ヘンリー・A・ウォレス副大統領(左)とサム・レイバーン下院議長(右)。右にいるのはルーズベルトの息子、ジェームズ・ルーズベルト
アメリカ合衆国大統領 フランクリン・ルーズベルト

屈辱演説くつじょくえんぜつ: Infamy Speech)は、ハワイ準州真珠湾にあるアメリカ海軍基地に対する大日本帝国攻撃と、アメリカ大英帝国への大日本帝国の宣戦布告の翌日、1941年12月8日[注釈 1]アメリカ合衆国議会合同会議で行われたアメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトの演説である[1][2][3][4][5]。この名前は演説の冒頭に出てくる「屈辱の日(a date which will live in infamy)」に由来する。アメリカでは「パールハーバースピーチ(Pearl Harbor Speech)」とも呼ばれる[6]。日本では、「汚名演説」[7]や、「『屈辱の日』演説」[8]と呼ばれることがある。

演説から1時間以内に、アメリカ合衆国議会は日本に対する正式な宣戦布告を通過させ、正式にアメリカは第二次世界大戦に参戦することとなった。この演説はアメリカの政治演説の中で最も有名なものの一つである[9]

分析

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汚名演説の最初の草案。ルーズベルトによる変更があった。
真珠湾攻撃後に燃え上がるアリゾナの残骸。

屈辱演説は短く、7分強に過ぎない。コーデル・ハル国務長官は、ルーズベルトが日米関係の平和的な解決策を見つけるために長い間努力したが叶わなかったことを時間をかけて説明することを勧めた。 しかし、ルーズベルトはこの内容のほうがより劇的な効果をもたらすと信じて、演説を短いままにした[10]

ルーズベルトによって改訂された内容は、アメリカの真珠湾攻撃に対する見解を後世においても永遠に支持するであろう強調された主張によってより一層強固なものとなった。それは単に大統領による個人的な反応としてではなく、大きな集団的トラウマに直面したアメリカ人のための声明として意図された。真珠湾攻撃の不可抗力を唱え、その「卑劣な」性質への怒りを表現することで、演説は国民の反応を具体化し、集団的な反応と決意へと導くように働いた[11]

演説の最初の段落は、いわれのない日本の侵略の、罪のない犠牲者としてのアメリカというルーズベルトの表現を強化するために注意深く書かれた。文章は意図的に受動態で書かれ、「日本がアメリカを攻撃した」という能動態ではなく、アメリカは攻撃対象、つまり前景に置くことを選び、被害者としてのアメリカを強調した[12]。またルーズベルトが、対米戦争の準備を密かに進めていた日本政府に冷笑的で不誠実な対応されていたように進行中の日本との外交交渉を説明し、「無実の侵害(innocence violated)」であったことをより強めた[13]

ルーズベルトは、アメリカが第一次世界大戦に参戦した1917年4月の議会でのウッドロウ・ウィルソン大統領の演説のような、より抽象的な訴えを意識的に避けた[14]。ウィルソンはドイツによる戦略的な脅威を説き、戦争へのアメリカの参加の背後にある理想主義的な目標を強調した。しかし、1930年代のアメリカ世論はそのようなテーマに強く反対し、「公正な戦争」を通じて世界を再構築するという理想主義的なビジョンに、活発に敵対していたわけではないが、警戒をしていた。したがってルーズベルトは、感覚的な訴え、つまり理想主義ではなく愛国心に訴えることを選択した。それでもなお、ルーズベルトは1917年4月の宣戦布告との象徴的な繋がりを持たせるために苦心し、1941年12月8日に議会へ行ったとき、ウィルソン大統領の未亡人であるイーディス・ウィルソンが同行した[15]

ルーズベルトが採り入れた「屈辱のフレームワーク(infamy framework)」は、アメリカははじめは大敗を喫するというパターンに倣っていたことで、さらなる反響があった。 1876年のリトルビッグホーン戦いと1898年のメインの沈没は、どちらも激しい国民の怒りの元となり、敵に戦いを起こす決意となった。 敗北と挫折は、いずれも、やがて来る必然的な勝利へのきっかけに過ぎないと表現した。サンドラ・シルバスタインによれば、ルーズベルトの演説は、「修辞的な慣習によって、大統領が最高司令官として並外れた力を持ち、反対意見が最小限に抑えられ、敵が非難され、再び神の下で団結した国を守るために命が失われる」という確立された伝統に従ったものだった[16]

ルーズベルトは、適切なタイミングで話すことについて、カイロスの「好機はすぐに捉えなければならない」という考えを巧みに使った[17]。これは、屈辱演説を強力かつ修辞的に重要なものにした。 真珠湾攻撃の翌日に演説を行ったルーズベルトは、この問題にすぐに直面する準備ができていることを示し、ルーズベルトと国の両方にとってその重要性を示した。演説のタイミングは、ルーズベルトの強力な戦争のレトリックと合わさって、アメリカの参戦の即時かつほぼ満場一致の承認を可能にした。ルーズベルトの演説とタイミングは、憲法上議会が有するはずの宣戦布告や開戦の権能を、実質的に大統領の権能へと拡張した。[要出典]

演説の全体的な語調は、ある種のはっきりとした現実主義だった。ルーズベルトはアメリカ軍の被った甚大な被害を隠そうとはせず、真珠湾攻撃によって「極めて多くの国民の命が失われたこと」を認めた[注釈 2]。しかしルーズベルトは、日本が引き起こしたこの試練を直視するアメリカ人の強さへの信頼を、「我々国民の限りない決意」という言葉で強調した。ルーズベルトは自らの陸軍及び海軍の最高指揮官[注釈 3]としての役割を言及し、すでに「あらゆる措置を講ずるよう指示した」ことを宣言し、国民の安全の保証する措置を講じることで国民を安心させようとした。

ルーズベルトはまた、「国民や国土や国益が重大な危機にある」と伝え、ハワイとサンフランシスコの間の太平洋における日本の攻撃の報告を強調した。 そうすることで、ヨーロッパでの戦争へのアメリカの関与に強く反対して運動していた孤立主義者を静まらせようとした。フィリピンのようなアメリカ本土から遠く離れた領土だけでなく、本土とその海域が直接の脅威にさらされていると見なされた場合、孤立主義は持続不可能な行動方針となる。 ルーズベルトの演説は望ましい効果をもたらし、下院議員のジャネット・ランキン、ただ1人だけが宣戦布告に反対票を投じ、広まっていた孤立主義の運動はまもなく崩壊した。

演説の最初の行は、しばしばアメリカにおいて「屈辱の曜日(a day that will live in infamy)」と誤って引用される。しかし、ルーズベルトはかなり意図的に日曜日という攻撃の曜日よりも1941年12月7日という日付を強調した。演説の中で攻撃を受けた曜日である日曜日について言及するのは最後の一行のみである。ルーズベルトは真珠湾攻撃の歴史性を強調するよう努め、アメリカ国民にその攻撃を決して忘れず、またその日付を追悼するように暗に促した。それにもかかわらず、「屈辱の曜日」という用語は、この上ない恥や不幸な瞬間を指す言葉としてメディアで広く使用されるようになった[18]

演説の影響と遺したもの

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ルーズベルトの演説は、アメリカの政治に即時的にも長期的にも影響を与えた。彼が話し終えてから33分後、議会は日本に対して宣戦布告し、1人の下院議員、ジャネット・ランキンだけが反対票を投じた。演説はラジオで生放送され、アメリカのラジオ史上最大の聴衆を集め、アメリカの81%以上の家庭が大統領の演説を聞いた[10]。議会の内外で、演説への反応は圧倒的に肯定的だった。 ルーズベルトの大統領顧問を務めたサミュエル・ローゼンマン裁判官は、その時の光景をこのように記している。

それは下院本会議場で最も劇的な景色だった。合同会議前に大統領が登壇するほとんどの場合、片側—民主党側—から大きな拍手が聞こえた。しかしこの日は違った。拍手、協力の精神が両側から等しく寄せられた。(中略)この12月8日の本会議場で突如として現れた新しい一体感、大統領のリーダーシップを裏付ける共通の目的、成り行きを見届けようとする共有の決意は、全国で一般的に起こっていることだった。[19]

ホワイトハウスにはルーズベルトの姿勢をたたえた電報が殺到した(「その日曜日、私たちは動揺し怯えていたが、あなたの限りない勇気が私たちをひとつにした[20]。」)。募兵事務所は志願兵の急増で混み合い、申し込みを求める人々への対応のために24時間勤務しなければならなかった。その数は1917年のウッドロウ・ウィルソンの宣戦布告後の数の2倍となった。演説の結果、反戦運動と孤立主義運動は崩壊し、大統領の最も痛烈な批評家さえも同調した。主要な孤立主義者であったチャールズ・リンドバーグはこのように言った。

今や戦争は起こり、私たちは、政府が取ってきた政策に対するこれまでの姿勢に関わらず、アメリカ人として団結してこの戦争に立ち向かわなければならない。(中略)我が国は武力によって攻撃を受けたため、武力によって報復しなければならない。私たちは今、すべての努力を世界で最も大きく最も素晴らしい陸海空軍を作ることに向ければならない[21]

真珠湾攻撃のルーズベルトのフレーミングは、事実上、1941年12月7日の出来事に関するアメリカの標準的な物語になりました。 ハリウッドは、 ウェイクアイランドアカデミー賞を受賞した 空軍 、フリスコの男 (1944)、 東の裏切り (1945)などの戦争映画の多くで熱狂的に物語を採用しました。 12月7日より前の日本との交渉の実際の無線レポートがすべて含まれており、敵の重複のメッセージが強調されていました。 太平洋全域 (1942年)、 海兵隊への敬礼 (1943年)、およびスパイ船 (1942年)は同様の装置を使用して、新聞の見出しを通じて日米関係の進展を関連付けました。 裏切られたアメリカの無垢のテーマも画面に頻繁に描かれ、物語の旋律的側面が自然に映画に貸し出されました。 [22]

1941年12月7日の大統領の「悪名高い日」との記述は裏付けられた。 1963年11月22日と2001年9月11日がそれぞれジョンFケネディの暗殺9月11日の攻撃と密接に関連するようになったのとほぼ同じ方法で、日付は非常にすぐに真珠湾攻撃の略記になりました。 [23] [24] [25] [26] 「12月7日を思い出せ」と「12月7日を復讐する」のスローガンが集結の叫び声として採用され、ポスターやラペルピンに広く飾られました。 [27] フランクキャプラのなぜ私たちが戦う 」映画シリーズ(1942〜45年)の最初の戦争の前奏曲 (1942年)は、アメリカ人に1931年9月18日の日本の満州侵攻の日付を覚えるように促し、「12月も覚えています。 1941年7月、1931年のその日に、私たちが今戦っている戦争が始まった。」 [28] 日付の象徴性は、1943年の映画ボンバルディアのシーンで強調されました。そこでは、飛行士のグループのリーダーが壁のカレンダーに近づき、日付を指し示し(「1941年12月7日」)、彼の部下に話しました:「紳士、私たちが常に覚えている日付があります-そして彼らは決して忘れません!」 [29]

22年後、 ジョン・F・ケネディの暗殺に続いて、インファミー・スピーチの共鳴が続きましたこれは、世界中の多くの人々に対する永続的な印象に関して、多くの評論家がパールハーバーと比較したものでもあります。 [30] [31] [32]

60年後、 9月11日の攻撃の後、悪名高いスピーチの継続的な共鳴が実証されました。多くの評論家も、世界中の多くの人々に対するその印象の点でパールハーバーと比較しました。 [33] 攻撃後の数日間、リチャードジャクソンは彼の著書『テロリズムとの戦争:言語、政治、テロ対策 』の中で、 ジョージWブッシュ政権の側で「意図的かつ継続的な努力があった」と述べています。真珠湾自体への攻撃へのdiscursivelyのリンク2001年9月11日」、 [34]直接ルーズベルトの悪名スピーチ呼び出すことによって両方の[35] 、彼の演説の中でルーズベルトが採用したテーマを再利用することによって。 2001年9月11日のブッシュ大統領の国民演説で、彼は「邪悪で卑劣なテロ行為」と、アメリカが彼の見解で表明した「自由と機会のための最も明るい標識」を対比させた。 [36] サンドラ・シルバースタインは、ルーズベルトとブッシュが使用する言語の直接の類似点を描き、9月11の悪名高いスピーチとブッシュ大統領の演説の間の多くの類似点を強調した[16] 同様に、エミリーS.ローゼンバーグは、「軸」という用語をアメリカの敵を指すために使用するなど、ルーズベルトが使用した種類の第二次世界大戦の用語を再利用することにより、1941年と2001年の紛争をリンクする修辞的な努力に言及しました(「 悪の枢軸 」)。[15] スペインのホセマリアアズナール首相は、 2004年のマドリードの爆撃から数時間後に、「2004年3月11日、すでに悪名の歴史の中でその地位を占めている」と述べた。 [37]

ダニエル・イマーワールはスピーチの編集で、ルーズベルトがアメリカの一部としてハワイを昇格させ、 フィリピンを外国人に格下げしたと書いている。 [38]

こちらもご覧ください

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脚注

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注釈

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  1. ^ 日本では真珠湾攻撃の日付は12月8日として知られるが、ハワイ時間では12月7日だった。
  2. ^ 死傷者の数は調査中だったため具体的な数を伝えることはなかった。
  3. ^ この当時、アメリカ空軍アメリカ陸軍航空軍だった。

出典

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  1. ^ Presidential Materials, September 11: Bearing Witness to History, Smithsonian Institution (2002) ("Printed copy of the Presidential address to Congress Reminiscent of Franklin D. Roosevelt's address to Congress after the Japanese attack on Pearl Harbor")
  2. ^ Address by the President of the United States, December 8, 1941, in Declarations of a State of War with Japan and Germany, Senate Document No. 148 (77th Congress, 1st Session), at p. 7, reprinted at the University of Virginia School of Law project page, Peter DeHaven Sharp, ed.
  3. ^ See Senate Document No. 148 (77th Congress, 1st Session), in Congressional Serial Set (1942)
  4. ^ William S. Dietrich, In the shadow of the rising sun: the political roots of American economic decline (1991), p. xii.
  5. ^ Franklin Odo, ed., The Columbia documentary history of the Asian American experience, p. 77.
  6. ^ Joseph McAuley (7 December 2015). “FDR’s ‘Pearl Harbor Speech,’ then and now”. America Magazine. 9 April 2019閲覧。
  7. ^ 日本首相の米議会演説は、なぜ54年間も行われなかったか”. nippon.com (2015年4月7日). 2020年10月7日閲覧。
  8. ^ 今を読む 「禎子の折り鶴」真珠湾に”. 中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター (2013年9月30日). 2020年10月7日閲覧。
  9. ^ "FDR's "Day of Infamy" Speech: Crafting a Call to Arms", Prologue magazine, US National Archives, Winter 2001, Vol. 33, No. 4.
  10. ^ a b Brown 1998, pp. 117–120
  11. ^ Neil J. Smelser, in Cultural Trauma and Collective Identity, p. 69. University of California Press, 2004. ISBN 0-520-23595-9.
  12. ^ James Jasinski, Sourcebook on Rhetoric: key concepts in contemporary rhetorical studies. Sage Publications Inc, 2001. ISBN 0-7619-0504-9.
  13. ^ Hermann G. Steltner, "War Message: December 8, 1941 — An Approach to Language", in Landmark Essays on Rhetorical Criticism ed. Thomas W. Benson. Lawrence Erlbaum Associates, 1993. ISBN 1-880393-08-5.
  14. ^ Onion (2014年12月8日). “FDR's First Draft of His "Day of Infamy" Speech, With His Notes”. Slate. 2015年11月16日閲覧。
  15. ^ a b Emily S Rosenberg, A Date Which Will Live: Pearl Harbor in American Memory. Duke University Press, 2003. ISBN 0-8223-3206-X.
  16. ^ a b Sandra Silberstein, War of Words: Language, Politics, and 9/11, p. 15. Routledge, 2002. ISBN 0-415-29047-3. 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "Silberstein"が異なる内容で複数回定義されています
  17. ^ Poulakos, John (1983). “Toward a Sophistic Definition of Rhetoric”. Philosophy & Rhetoric 16 (1): 35–48. JSTOR 40237348. 
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  19. ^ Samuel Irving Rosenman, quoted in Brown 1998, p. 119
  20. ^ Quoted in Brown 1998, p. 119
  21. ^ Quoted in Brown 1998, p. 120
  22. ^ Barta 1998, pp. 85–87
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  29. ^ Quoted in Barta, 1998, p. 87.
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  31. ^ Dinneen, Joseph F. (November 24, 1963). “A Shock Like Pearl Harbor”. The Boston Globe: p. 10. https://pqasb.pqarchiver.com/boston/access/1793798052.html?FMT=ABS&FMTS=ABS:AI&type=historic&date=Nov+24%2C+1963&author=JOSEPH+F+DINNEEN&pub=Boston+Globe+(1960-1979)&edition=&startpage=10&desc=A+Shock+Like+Pearl+Harbor  (Paid subscription required要購読契約)
  32. ^ United in Remembrance, Divided over Policies” (September 1, 2011). Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  33. ^ See for instance CNN, "Day of Terror — a 21st century 'day of infamy'", September 2001.
  34. ^ Richard Jackson, Writing the War on Terrorism: language, politics and counter-terrorism, p. 33. Manchester University Press, 2005.
  35. ^ See e. g., Paul Wolfowitz, "Standup of US Northern Command", speech of October 1, 2002: "Although September 11th has taken its place alongside December 7th as a date that will live in infamy ..."
  36. ^ George W. Bush, Address to the Nation of September 11, 2001.
  37. ^ Sciolino, Elaine (11 March 2004). “Spain Struggles to Absorb Worst Terrorist Attack in Its History”. The New York Times. https://www.nytimes.com/2004/03/11/international/europe/spain-struggles-to-absorb-worst-terrorist-attack-in-its.html 23 March 2019閲覧。 
  38. ^ Immerwahr, Daniel (15 February 2019). “How the US has hidden its empire”. The Guardian (United Kingdom). https://www.theguardian.com/news/2019/feb/15/the-us-hidden-empire-overseas-territories-united-states-guam-puerto-rico-american-samoa 23 March 2019閲覧。 

    Immerwahr, Daniel (28 February 2019). How to Hide an Empire : A Short History of the Greater United States. Vintage Publishing. pp. 14–16. ISBN 978-1-84792-399-8. https://books.google.com/books?id=e16RDwAAQBAJ&pg=PT14 

参考文献

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外部リンク

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