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馬ノ山 | |
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標高 | 106.91[1] m |
所在地 | 日本 鳥取県湯梨浜町[2] |
位置 | 北緯35度30分5.3秒 東経133度52分58.3秒 / 北緯35.501472度 東経133.882861度座標: 北緯35度30分5.3秒 東経133度52分58.3秒 / 北緯35.501472度 東経133.882861度 |
馬ノ山の位置 | |
ウィキデータ項目に座標がありません | |
プロジェクト 山 |
馬ノ山(うまのやま)は鳥取県湯梨浜町にある山である。古くは「馬野山」と書かれた。[3]
山頂には二等三角点「馬之山」(標高106.91m)が設置されている[1]。
概要
[編集]実際には山というよりも、東郷湖北東岸の御冠山から北に伸びる溶岩台地の突端にあたり、標高90メートルから100メートル前後の高原の様相を呈していることから「馬ノ山高原」と呼ばれることもある。全体に安山岩から成り、北を日本海、西を橋津川に囲まれて急斜面になっていて、麓からは独立した山のように見える。[4][3]
馬ノ山は倉吉平野(羽合平野)の北東端にあり、平野と丘陵地帯の境になっている。山の南麓は東郷湖に向かって急激に落ち込んでおり、湖岸の干拓地を除いてほとんど平地がない。東郷池から流れ出る橋津川が馬ノ山の西麓を流れており、山裾と川の間のわずかな平地に主要な集落が集中している。北は日本海へ断崖となって落ちているが、小さな川筋の河口には平地があり、いくつかの集落がある。東側では宇谷川を挟んで砂浜があり、浜にそって旧泊村の村落が形成されている。[4]
現代の馬ノ山
[編集]馬ノ山には山頂まで道路が整備され、車で行くことができる。山麓から徒歩でも20分から40分ほどで山頂まで登ることができる。羽合平野や東郷湖、日本海を見下ろし、伯耆大山を遠望する展望地として、観光客が訪れる。馬ノ山はほぼ全域が鳥取県名産の二十世紀梨の果樹園になっていて、4月の後半には梨の花見の名地とされている。11月は紅葉の名所となる。一帯は東郷湖羽合臨海公園の域内にある。[2]
北麓の海岸には国道9号が走っており、宇野地区には国の名勝である尾崎氏庭園がある。2003年に開業した青谷羽合道路は、馬ノ山の中程を貫いて東西に走っており、山の南端の東郷湖を見下ろす場所にははわいサービスエリア(道の駅はわい)が設けられた。山腹には橋津古墳群や「ハワイ風土記館」がある。ハワイ風土記館は1992年(平成4年)にふるさと創生事業によって建築されたもので、古墳群と合わせて周囲はハワイ・馬ノ山公園となっている。[5][2][6]
西の麓には橋津川との間の狭い平地に橋津集落がある。ここは旧橋津村にあたり、江戸時代には鳥取藩の重要な港だった場所で、橋津の藩倉などの歴史的建造物がある。[2][3]
歴史にみる馬ノ山
[編集]古代
[編集]馬ノ山の斜面には大規模な古墳が集中しており、橋津古墳群(馬ノ山古墳群とも)と呼ばれている。最大の四号墳は全長110メートルの前方後円墳で、山陰地方有数の大きさをもち[注 1]、4世紀後半のものと推定されている。四号墳は全国的に見ても最大級となる長さ8.5メートルの竪穴式石室を伴っていて、国の史跡に指定されている。このほかあわせて22基の古墳が確認されており、そのうち14基が国の史跡となっている。本格的な調査はまだ行なわれておらず、詳細は不明だが、おおむね3世紀末から7世紀にかけてのものとみられている。[3][7][8][2]
橋津川を挟んだ対岸には羽合砂丘が西へ向けて連なっているが、この砂丘の砂の中からは長瀬高浜遺跡という大規模な集落跡が発見された。これは160以上の住居跡や41基の古墳、3棟の大型建築跡などを含むもので、弥生時代から室町時代までここに大規模な集落があったことを示している。[7]
中世
[編集]馬ノ山と橋津川は倉吉平野・羽合平野の端にあり、因幡国からみると伯耆国の重要な平野の入り口であり、伯耆国からみると因幡への入り口だった。また、当時は倉吉平野最大の天神川は橋津川を経由して日本海に注いでおり、水運の拠点でもあった。このため、馬ノ山付近は何度か大きな合戦地となった。[4][3]
- 東郷庄下地中分絵図に描かれた「馬野」
鎌倉時代中期の東郷庄下地中分絵図は、平安時代から一帯を支配してきた松尾大社の荘園を、新たに鎌倉幕府によって地頭の地位を与えられた東郷氏が侵略し、争いを収めるために行なわれた下地中分を描いている。この絵図では馬ノ山一帯は「馬野」と記され、馬が11-12頭描かれており、あたりが馬の放牧地であったことを示していると考えられている。馬野はこの下地中分によって東西に分割され、西方は領家(松尾大社)のものとして馬5頭、東方は地頭のものとして馬6頭が描かれている。[4][3][9]
- 橋津川の戦い
天文年間(1532-1555年)には、尼子氏による因幡侵攻を契機とする橋津川の戦いがあり、馬ノ山や橋津川の橋が戦場となった。[3]
- 馬ノ山の戦い
天正年間(1573-1593年)には、[中国攻め|中国地方制覇]]を目指す豊臣秀吉と毛利勢の守将吉川元春による対峙の舞台となった。数ヶ月に及ぶ兵糧攻めによって因幡の中心である鳥取城を陥落させた秀吉は、伯耆国を目指して西進した。元春は援軍を率いて鳥取城救援へ向かう途上、馬ノ山で鳥取落城を知った。元春は各地から馬ノ山へ増援を集めると、伯耆への唯一の連絡路となる橋津川の橋の板を外して渡れなくし、港の船もすべて陸へ引き上げて退路を断ち、馬ノ山に背水の陣を敷いた。これを見た秀吉は伯耆国入りを諦めて引き返した。この結果、伯耆国内で秀吉に与した羽衣石城の南条元続は孤立し、羽衣石城は落城した。(馬ノ山の戦い)[3][10]
近世
[編集]近代
[編集]関連リンク
[編集]- 宇谷の連理根上りマツおよび根上りマツ - 東麓の宇谷地区にあった巨木。
注釈
[編集]- ^ 1982年(昭和57年)の『日本地名大辞典 31 鳥取県(角川日本地名大辞典)』では山陰で2番めの大きさとしている。同規模のものとしては、近隣の北山古墳も110メートル級の前方後円墳である。その後各地で新たな古墳が発見されており、2015年時点でも「2位」であるかは定かではない。日本の大規模古墳一覧なども参照。
出典
[編集]- ^ a b 基準点成果等閲覧サービス2015年5月6日閲覧。
- ^ a b c d e 『新・分県登山ガイド30 鳥取県の山』p60-61「馬ノ山」
- ^ a b c d e f g h 『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』p453-455「馬ノ山・橋津古墳群・馬ノ山四号墳」
- ^ a b c d 『日本地名大辞典 31 鳥取県(角川日本地名大辞典)』p142「馬野・馬ノ山」
- ^ 湯梨浜町公式HP 伯耆ロマンの里「ハワイ・馬ノ山公園」2015年5月6日閲覧。
- ^ 鳥取県教育委員会事務局 文化財課 文化財係 尾崎氏庭園2015年5月6日閲覧。
- ^ a b 『県史31 鳥取県の歴史』p30-35
- ^ 『県史31 鳥取県の歴史』p14-18
- ^ 湯梨浜町公式HP 東郷荘絵図 池畔に広がる古の暮らし2015年5月6日閲覧。
- ^ 『鳥取県史ブックレット1 織田VS毛利』p76-80
参考文献
[編集]- 『新・分県登山ガイド30 鳥取県の山』,藤原道弘・著,山と渓谷社,2010,ISBN 9784635023801
- 『日本地名大辞典 31 鳥取県(角川日本地名大辞典)』,角川書店,1982,ISBN 978-4040013107
- 『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』,平凡社,1992
- 『県史31 鳥取県の歴史』,内藤正中・真田廣幸・日置粂左ヱ門・著,山川出版社,1997,ISBN 4634323409
- 『鳥取県史ブックレット1 織田VS毛利』鳥取県総務部総務課県史編さん室,2008(第3刷)
- 『鳥取県大百科事典』,新日本海新聞社鳥取県大百科事典編纂委員会・編,新日本海新聞社,1984
- 『新日本山岳誌』日本山岳会・編著,2005,ISBN 978-4779500008
- 『日本山岳ルーツ大辞典』竹書房,池田末則・監,村石利夫・編著,1997,ISBN 978-4812403440
- 『日本地名大辞典 31 鳥取県(角川日本地名大辞典)』,角川書店,1982,ISBN 978-4040013107
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