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利用者:㭍月例祭/sandbox/HR/16

en:Hannibal (horse)(oldid=900505530)

  • 評価
  • A - 日本語として自然で、専門用語の選択も正しく、文意も問題なく、そのまま使える。
  • B - 日本語としておおむね通じ、文意もおおよそあっており、専門用語の選択もだいたい正しく、少々の手直しでいける
  • C - 日本語として通じ、文意もおおよそあっているが、専門用語の選択が誤っている
  • D - 一見、日本語として通じるようだが、文意が間違っている
  • E - 日本語として意味が通じない
  • 34の文章のうち
  • A - 02
  • B - 02
  • C - 03
  • D - 08
  • E - 19

そのまま使える水準の文章は2。「Hannibal did not race as a two-year-old, and his first race was in the 1804 Epsom Derby.(ハンニバルは2歳のときにレースをしませんでした、そして彼の最初のレースは1804年のエプソムダービーでした。)」と「Hannibal ran twice in 1805.(ハンニバルは1805年に2回走った。)」。

意味が正反対や大間違いになってしまっているもの
(例)「covering few mares (牝馬はほとんどなく)」
(例)「was foaled in 1801(1801年に葬られました。)」
(例)「Sancho was ridden by Francis Buckle(サンチョはフランシス・バックルに乗って)」
(例)「Wilson's colt by Waxy(Wilson氏のWaxy)」


原文 翻訳ツール(Google Translate 人力(第1稿) 評価
Hannibal (1801 – c. 1806) was a Thoroughbred racehorse that won the 1804 Epsom Derby. ハンニバル (1801 - c。1806)は、1804年のエプソムダービーを獲得したサラブレッド競走馬でした。 ハンニバル(1801年生まれ - 1806年頃死亡)は、1804年の英国ダービーに勝ったサラブレッド競走馬である。 B 
Hannibal raced until he was four-years-old, winning only one race over his two-year racing career. ハンニバルは4歳になるまでレースを続け、2年間のレースで1レースだけ優勝しました。 ハンニバルは4歳まで競走馬として走り、2年間の現役生活の中でただ1勝しかしなかった。 D
His breeder, Lord Egremont, won the Derby five times and Hannibal's victory was his third time winning the event. 彼の飼育者であるEgremont卿はダービーに5回勝利し、ハンニバルの勝利は3度目のこのイベントに勝利した。 ハンニバルを生産した3代エグルモント伯爵は、生涯でダービー5勝をあげており、ハンニバルでの勝利はその3番目のものだった。(2回目の間違い) E
Hannibal retired from racing in 1806 and had a limited stud career, covering few mares and standing for only the 1806 breeding season at Lord Egremont's stud in Petworth. ハンニバルは1806年にレースをやめ、スタッドでのキャリアは限られていました。ペットワースにある Egremont卿のスタッドでは、牝馬はほとんどなく、1806年の繁殖期しか立っていませんでした。 ハンニバルは1806年に現役を退いたが、種牡馬としての供用期間は短いもので、1806年の種付けシーズンをペットワースにあるエグルモント伯爵の牧場で過ごし、わずかな牝馬に種付けしただけだった。 E
  • untilがやばい
  • 牧場に牝馬が少なかったように読めてしまう

Background

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Background 出自
Hannibal was foaled in 1801 at Lord Egremont's estate Petworth House. ハンニバルは、1801年にエグレモン卿の遺産ペトワース邸で 葬られました。 ハンニバルは1801年に第3代エグルモント伯爵所有のペットワース・ハウスで生まれた。 D 
Egremont's Driver, Hannibal's sire, was bred by Lord Egremont and was described as a "tolerable runner."[1] ハンニバルの種であるEgremont's Driverは、Egremont卿によって飼育され、「忍耐強いランナー」と表現されていました。 ハンニバルの父馬であるエグルモントドライバーは、第3代エグルモント伯爵による生産馬で、「まずまずの競走馬(tolerable runner)」と評されている。 E
Hannibal's dam, Fractious (foaled in 1792), was also bred by Lord Egremont. Hannibalのダム 、Fractious(1792年に誕生)は、Egremont卿によっても繁殖されました。 ハンニバルの母馬であるフラクシャス(1792年生まれ)も、第3代エグルモント伯爵の生産馬である。 E
Hannibal was Fractious' fourth foal and one of seven by Driver. HannibalはFractiousの4番目の子馬で、Driverの7人に1人でした。 ハンニバルは、フラクシャスの4番仔で、父をエグモントドライバーとする産駒としては7頭のうちの1頭であった。 E
Fractious produced fifteen foals between 1798 and 1816.[2] 1798年から1816年にかけて、15頭の子馬が生まれました。 フラクシャスは1798年から1816年までの間に15頭の産駒を出している。 D
Fractious is present in the female-line of the influential broodmare Pocahontas and was her fifth-dam through Fractious' daughter Amazon. Fractiousは影響力のある繁殖動物Pocahontasの女性系列に存在し、Fractiousの娘アマゾンを通して彼女の5番目のダムでした。 フラクシャスの牝駒アマゾンを通じ、5代孫に血統的影響力の大きい根幹牝馬ポカホンタスが出て、その血は現代の牝系に受け継がれている。 E
  • 生まれたと葬るで正反対
  • 種、ダムなど意味が通じない
  • 後半にいけばいくほど意味がわからない

Racing career

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Racing career 競走成績
Hannibal did not race as a two-year-old, and his first race was in the 1804 Epsom Derby. ハンニバルは2歳のときにレースをしませんでした、そして彼の最初のレースは1804年のエプソムダービーでした。 ハンニバルは2歳時には出走せず、1804年の英国ダービーが初出走だった。 A
Hannibal was trained by F. Neale at Newmarket.[3] ハンニバルはニューマーケットで F.ニールによって訓練されました 。 ハンニバルの調教師は、ニューマーケットのF・ニールだった。 B 
In his career, he started five times, winning only the Derby. 彼のキャリアの中で、彼はダービーだけに勝って、5回始めました。 ハンニバルは生涯を通じて5戦1勝、唯一の勝利がダービーだった。 E 
  • 短い文ならいけるかと思いきや最後のは意味がわからない

1804: three-year-old season

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1804: three-year-old season   3歳時(1804年)  
Hannibal's first start was in The Derby held on 17 May with a field of eight horses. ハンニバルの最初のスタートは5月17日に開催されたダービーで、8頭の馬の畑で行われました。 ハンニバルの初出走は5月17日の英国ダービー(8頭立て)だった。 E 
Hannibal started at 3 to 1 odds and won the 1650-guinea race, with Mr. Wilson's colt by Waxy second and Mr. Dawson's colt Hippocampus third.[4] ハンニバルは3対1のオッズでスタートし、1650年のギニアレースで優勝しました。Wilson氏のWaxyが 2番手、Dawson氏のHippocampusが3番手。  ハンニバルは3対1(4.0倍)の賭け率で出走して優勝、1着賞金1650ギニーを獲得、2着にウィルソン氏所有の無名馬(牡馬、父ワキシー)、3着にはドーソン氏のヒッポカンポス(牡馬)が入った。 E 
Lord Egremont won the Derby for the second time with Hannibal, having won in 1782 with Assassin.[5] Egremont卿は1782年にAssassinで勝利したHannibalで2度目のダービー勝利を収めました。 第3代エグルモント伯爵は、1782年にアサシンでダービーを勝っており、ハンニバルによる勝利がダービー2勝目となった。 E 
He won the Derby three more times, with Cardinal Beaufort the next year, Election in 1807 and with Lap-dog in 1826.[5] 来年はボーフォート枢機卿 、1807年には選挙 、そして1826年にはラップドッグと共に、ダービーをさらに3回獲得した 第3代エグルモント伯爵はこのあと、翌年のカーディナルボーフォート、1807年のイレクション、1826年のラップドッグと、更に3回ダービーを勝っている。 E 
At Ascot in June, Hannibal received a 50-guinea forfeiture from Mr. Warrington after his colt by Guildford withdrew from a match race.[6] 6月のアスコットで、ギルフォードによる彼のコルトが試合レースから撤退した後に、ハンニバルはウォリントン氏から50ギニアの没収を受けました。 6月のアスコット競馬場では、ワリントン氏の牡馬(父ギルドフォード)とマッチ・レースが予定されていたが、ワリントン氏は取消料50ギニーを第3代エグルモント伯爵に支払ってマッチ・レースを辞退した。 E 
Hannibal was third in the Pavilion Stakes held at Brighthelmston on 28 July, losing to the colt Enterprise and a colt by Waxy.[7] Hannibalは7月28日にBrighthelmstonで開催されたPavilion Stakesの3位で、Enterprise EnterpriseとWaxyのColtに敗れました。 7月28日にハンニバルはブライトヘルムストン競馬場のパビリオンステークスに出走、エンタープライズ(牡)と名無し馬(牡、父ワキシー)に敗れて3着におわった。 D 
Hannibal was beaten by Hippocampus a few days later in a 650-guinea sweepstakes race whilst carrying seven more pounds than Hippocampus as a handicap for his Derby win.[8] 彼のダービーの勝利のためのハンディキャップとしてハンニバルは海馬より7ポンド多くを運んでいる間、海馬によって650ギニアの懸賞レースで殴打された。 2、3日後、ハンニバルは賞金650ギニーのステークス戦に出走したが、ダービー優勝によって7ポンド(3.17キログラム)重い斤量を背負っており、ダービーのとき負かしたヒッポカンポスに敗れた。 E 
  • 固有名詞が増えると絶望的
  • 「Waxyの仔」が「Waxy」になっている
  • 着、位、番手
  • beat(負ける)が殴打されるになっている
  • おそらく競馬のルールを知らなければ英文科でも訳せないかも


Sancho (foreground) leading Hannibal in a 26 July 1805 match race held at Brighton. This was the last start of Hannibal's racing career.


1805: four-year-old season

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1805: four-year-old season   4歳時(1805年)  
Hannibal ran twice in 1805. ハンニバルは1805年に2回走った。 ハンニバルは2戦した。 A
At the First Spring meeting in Newmarket in April, Hannibal finished third in the New Claret Stakes losing to Lord Darlington's colt Pavilion and Mr. Mellish's colt Sancho.[9] 4月にニューマーケットで開かれた第1回春季大会で、ハンニバルはダーリントン卿のコルトパビリオンとメーリッシュ氏のサンチョ氏に敗れてニュークラレットステークスで3位に終わった。 4月、ニューマーケット競馬場の春季第一開催のニュークラレットステークスに出走、ダーリントン卿所有の牡馬パビリオンとメリッシュ氏の牡馬サンチョに敗れて3着になった。 D
In the last start of his career on 26 July at Brighton, Hannibal participated in a match race against Mr. Mellish's colt Sancho.[10] 7月26日のブライトンでの彼のキャリアの最後のスタートで、ハンニバルはMellish氏のコルトサンチョとの対戦に参加しました。 ハンニバルの最後の出走になった7月26日のブライトヘルムストン競馬場のレースでは、メリッシュ氏の牡馬サンチョとのマッチ・レースが組まれた。 C 
The odds were 11 to 10 against Hannibal for the 1,000-guinea race. 1000人以上のギニアのレースでのハンニバルに対するオッズは11から10でした。 マッチレースの賭け金は1000ギニーで、馬券の倍率はハンニバルが負けるとの予想が11対10(2.1倍)だった。 E 
Sancho was ridden by Francis Buckle and quickly took the lead in the mile-long race, winning easily and was never challenged by Hannibal in the race.[11] サンチョはフランシス・バックルに乗ってすぐにマイル獲得のレースでリードを奪い、そしてレースでハンニバルに挑戦されることはなかった。  サンチョに騎乗していたのはフランク・バックル騎手で、1マイルの競走で発馬後すぐにサンチョが先手を取ると、ハンニバルは一度も並びかけることができないまま、サンチョが楽勝した。 D 
The running was described as "a great betting race"[11] and an engraving of the match (right) was commissioned from a painting by John Nott Sartorius and published in Volume 28 of the Sporting Magazine.[12] ランニングは「素晴らしい賭博レース」 と表現され、試合の彫刻 (右)はJohn Nott Sartoriusの絵から依頼され、 Sporting Magazineの第28巻に掲載されました。 「スポーツ・マガジン28巻」では、ジョン・ノット・サルトリウスによる挿絵つきでこのマッチ・レースが掲載されており、「巨額の馬券売上があった」と描写されている。 E 
  • 誰が何に乗っているって?

Season at stud

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原文 翻訳ツール(Google Translate) 人力(第1稿) 評価
Season at stud   種牡馬として  
Hannibal retired from racing at the end of the 1805 season and was listed in the Racing Calendar as a breeding stallion for the 1806 season (from 1 February to 14 July) at Lord Egremont's Petworth House stud. ハンニバルは1805年シーズンの終わりにレースから引退し、Egremont卿のPetworth Houseスタッドでの1806年シーズン(2月1日から7月14日まで)の繁殖用種牡馬としてRacing Calendarにリストされました。  1805年の競馬シーズンを最後にハンニバルは現役を退き、1806年2月1日から7月14日までの種付けシーズン向けに第3代エグルモント伯爵所有のペットワース・ハウス繋養の種牡馬として『レーシング・カレンダー』に掲載された。 C 
At Petworth, he stood for a 5-guinea per mare stud fee and 1-guinea groom's fee alongside the stallions Gohanna, Bobtail and Brother to Driver.[13] Petworthでは、彼は種牡馬のGohanna 、Bobtail、そしてBrother to Driverと並んで、1匹あたり5ギニアのスタッド代と1ギニアの新郎代の代金を支払った。 ハンニバルはペットワースでジョハンナ、ボブテイルやドライバーの半弟などと並んで供用され、その種付料は5ギニー、これに加えて馬丁への手数料として1ギニー支払うことになっていた。 E 
Hannibal does not appear in the 1807 stallion register for Petworth or any other stud farm, suggesting that he died early in the 1806 breeding season or was sold for other purposes. ハンニバルは、ペットワースまたは他のスタッドファームの1807種牡馬登録簿には現れていません。これは、彼が1806年繁殖期の早い時期に死亡したか、または他の目的で売却されたことを示唆します。 ハンニバルは1807年の種付けシーズン向けの種牡馬リストにはペットワースほかどこの牧場にも名前がなく、1806年の種付けのあと斃死したか、種牡馬以外の用途に売られていったのだろうと推測される。 C 
The General Stud Book reports Hannibal covering only three mares in 1806: Martha, Lord Grosvenor's mare Ariadne[14] and Quiz (full-sister to Wowski, Smolensko's dam)[15] before Ariadne and Quiz were sent to the West Indies. ジェネラルスタッドブックは、ハンニバルは、1806年に3つしか繁殖牝馬をカバーする報告:マーサ、主グロブナーの馬アリアドネとクイズ(フル姉妹Wowskiに、 Smolenskoのダム) アリアドネとクイズの前に送られた西インド諸島 。 『ジェネラル・スタッド・ブック』(サラブレッド血統書)によると、1806年にハンニバルが種付けした牝馬は、マーサ、グローヴナー卿の牝馬アリアドネ、スモレンスコの母ウォウスキーの全姉妹であるクイズ、のわずか3頭で、その後アリアドネとクイズは西インド諸島へ輸出されてしまった。 E 
The only foal recorded for Hannibal in the General Stud Book is the chestnut filly, Hannah, produced by Martha (by Woodpecker) in 1807.[16] General Stud Bookでハンニバルのために記録された唯一の子馬は、1807年にMartha(Woodpecker作)によって制作された栗の牝馬、Hannahです 『ジェネラル・スタッド・ブック』(サラブレッド血統書)に掲載されている唯一の産駒は1807年生まれの栗毛の牝馬ハンナ(母馬マーサ、母の父ウッドペッカー)である。 E 
Hannah raced until she was four-years-old, winning several races. ハンナは4歳になるまでレースを重ね、数回のレースで優勝しました。 ハンナは4歳まで出走し、何勝かあげた。 D 
Hannah by Hannibal does not appear in subsequent editions of the General Stud Book and does not appear to have produced any registered offspring. HannibalによるHannahはGeneral Stud Bookのその後の版には現れず、登録された子孫を生み出したことはないようです。 ハンニバル産駒のハンナは、それ以降の年度の『ジェネラル・スタッド・ブック』には登場せず、産駒もまったく記載がない。 D 
Carthaginian, who was later gelded, was another of Hannibal's offspring that also raced, but his dam was not identified in the racing literature and he does not appear in the General Stud Book. 後にゲル化したカルタゴニア人は、同じくレースしたハンニバルの子孫の一人でしたが、彼のダムはレースの文献では確認されず、彼はゼネラルスタッドブックには登場しません。 カーサギニアンというハンニバル産駒(牡馬、のち騙馬)が、後年出走していることがわかっているが、母馬は不詳で、『ジェネラル・スタッド・ブック』にもカーサギニアンは掲載されていない。 E 
  • 西インド諸島あたりがめちゃくちゃ

Pedigree

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血統

{Pedigree |name = Hannibal (GB), Bay Colt, 1801[17] |inf = |f = Driver (Egremont's) (GB)
Brown, 1783 |m = Fractious
Bay, 1792 |ff = Trentham
1766 |fm = Coquette
1765 |mf = Mercury
1778 |mm = Woodpecker Mare
1785 |fff = Gowers Sweepstakes |ffm = Miss South |fmf = Compton Barb |fmm = Sister to Regulus |mff = Eclipse |mfm = Tartar Mare |mmf = Woodpecker |mmm = Everlasting |ffff = Gower Stallion |fffm = Brown Crofts |ffmf = South |ffmm = Young Cartouch Mare |fmff = Unknown |fmfm = Unknown |fmmf = Godolphin Arabian |fmmm = Grey Robinson |mfff = Marske |mffm = Spilletta |mfmf = Tartar |mfmm = Sister to Mogul Mare |mmff = Herod |mmfm = Miss Ramsden |mmmf = Eclipse |mmmm = Hyaena }}

References

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  1. ^ Taplin, William (1803). The sporting dictionary and rural repository of general information. London: Vernor and Hood. pp. 214. https://books.google.com/books?id=Ge09AAAAcAAJ&dq=%22driver%22%20egremont%20trentham&pg=PA214#v=onepage&q=%22driver%22%20egremont%20trentham&f=false 
  2. ^ Weatherby, Edward and James (1832). “Fractious”. The General Stud-book 1–2: 375. https://books.google.com/books?id=qCMCAAAAYAAJ&dq=mare%20fractious%20egremont&pg=PA375#v=onepage&q=fractious&f=false. 
  3. ^ Black, Robert (1893). Horse-racing in England : a synoptical review. London: Richard Bently and Son. pp. 248. http://hdl.handle.net/2027/njp.32101064795196?urlappend=%3Bseq=268 
  4. ^ Weatherby, Edward and James (1804). “Epsom”. The Racing Calendar 32: 31–32. https://books.google.com/books?id=kUAFAAAAYAAJ&dq=racing%20calendar%201804&pg=PA32#v=onepage&q=hannibal&f=false. 
  5. ^ a b Rice, James (1879). History of the British Turf, Volume 2. London: S. Low, Marston, Searle, and Rivington. pp. 372. https://books.google.com/books?id=v1lHAAAAMAAJ&dq=%22cardinal%20beaufort%22%20egremont%20derby&pg=PA372#v=onepage&q&f=false 
  6. ^ Weatherby, Edward and James (1804). “Ascot”. The Racing Calendar 32: 39. https://books.google.com/books?id=kUAFAAAAYAAJ&dq=racing%20calendar%201804&pg=PA39#v=onepage&q=hannibal&f=false. 
  7. ^ Weatherby, Edward and James (1804). “Brighthelmston”. The Racing Calendar 32: 70. https://books.google.com/books?id=kUAFAAAAYAAJ&dq=racing%20calendar%201804&pg=PA70#v=onepage&q=hannibal&f=false. 
  8. ^ Weatherby, Edward and James (1804). “Brighthelmston”. The Racing Calendar 32: 72. https://books.google.com/books?id=kUAFAAAAYAAJ&dq=racing%20calendar%201804&pg=PA72#v=onepage&q=hannibal&f=false. 
  9. ^ Weatherby, Edward and James (1805). “Newmarket”. The Racing Calendar 33: 18. http://hdl.handle.net/2027/nyp.33433066590880?urlappend=%3Bseq=82. 
  10. ^ Weatherby, Edward and James (1805). “Brighton”. The Racing Calendar 33: 71. http://hdl.handle.net/2027/nyp.33433066590880?urlappend=%3Bseq=133. 
  11. ^ a b Staff (1805). “Brighthelmston”. Sporting Magazine 26: 40. http://hdl.handle.net/2027/nyp.33433066599089?urlappend=%3Bseq=388. 
  12. ^ Staff (1806). “Sancho beating Hannibal”. Sporting Magazine 28: 56. http://hdl.handle.net/2027/nyp.33433066599063?urlappend=%3Bseq=68. 
  13. ^ Weatherby, Edward and James (1805). “Advertisements of stallions”. The Racing Calendar 33: 392. http://hdl.handle.net/2027/nyp.33433066590880?urlappend=%3Bseq=452. 
  14. ^ Weatherby, Edward and James (1832). “Ariadne”. The General Stud-book 1–2: 159. https://books.google.com/books?id=qCMCAAAAYAAJ&dq=mare%20fractious%20egremont&pg=PA159#v=onepage&q=hannibal&f=false. 
  15. ^ Weatherby, Edward and James (1832). “Quiz”. The General Stud-book 1–2: 467. https://books.google.com/books?id=qCMCAAAAYAAJ&dq=mare%20fractious%20egremont&pg=PA467#v=onepage&q&f=false. 
  16. ^ Weatherby, Edward and James (1832). “Martha”. The General Stud-book 1–2: 426. https://books.google.com/books?id=qCMCAAAAYAAJ&dq=mare%20fractious%20egremont&pg=PA426#v=onepage&q&f=false. 
  17. ^ Staff. “Hannibal 5x Pedigree”. 25 January 2012閲覧。

{Epsom Derby Winners}}

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