利用者:リンゴン/sandbox
イェルバ・アナ・マリア・リンド Ylva Anna Maria Lindh | |
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生誕 |
1957年6月19日 スウェーデン・ストックホルム郊外 |
死没 |
2003年9月11日(46歳没) スウェーデン・ストックホルム |
国籍 | スウェーデン |
職業 | 社会民主労働党に所属するスウェーデンの政治家 |
著名な実績 | スウェーデン外務大臣 |
イェルバ・アナ・マリア・リンド(Ylva Anna Maria Lindh、 1957年6月19日 - 2003年9月11日)は、スウェーデン社会民主労働党に所属するスウェーデンの政治家で、1998年から2003年に暗殺されるまで外務大臣を務めた。
経歴
[編集]アナ・リンドはスタファン・リンドとナンシー・リンドの間にストックホルム南東部の郊外Enskede-Årstaで生まれ、エンショーピン(Enköping)で育った。12歳のときスウェーデン社会民主労働党の青年部に参画し、政治に関わるようになる。 1982年ウプサラ大学を卒業(北欧の法学修士にあたる学位)し、同年セーデルマンランド県より国会議員に選出される。1984年に女性初のスウェーデン社会民主労働党青年部の部長となり、ニカラグア、ベトナム、南アフリカ、パレスチナなどの紛争調停に注力し、冷戦時代を象徴する軍拡競争に異議を唱えた。
アナ・リンドは1982年から1985年、1998年から亡くなる2003年まで国会議員を務めた。1991年から1994年は文化・環境長官およびストックホルム市の副市長を務めた。 1994年に総選挙で社会民主労働党が勝利をおさめると、イングヴァール・カールソン首相はアナ・リンドを環境大臣に指名した。アナ・リンドの環境大臣としてのレガシーのひとつとして、EU欧州連合の有害化学物質に関する規制法の扉を開いたことである。また酸性雨に対するEUの共通戦略の策定を呼びかけた。 1998年の総選挙の後、ヨーラン・ペーション首相は当時41歳だったアナ・リンドを新内閣の外務大臣に指名した。スウェーデン社会民主労働党青年部の部長としてすでに世界中にネットワークを広げていたリンドは国連とEUを通じた国際協力を熱心にサポートした。 2003年3月に米英軍がイラク侵攻を行った際には、こう言っている。 「"ett krig som förs utan stöd i FNs stadga är ett stort misslyckande". 国連憲章に拠り所を持たずに行われる戦争は、大きな失敗だ」
私生活
[編集]アナ・リンドは1991年にセーデルマンランド県の知事ボー・ホルムベリと結婚し、二人の息子フィリップとドーヴィッドをもうけた。
暗殺
[編集]2003年9月10日の午後4時、当時外務大臣だったアナ・リンドはストックホルム中心街にあるNK(Nordiska Kompaniet)デパートの婦人服売り場で買い物をしていた時、突然男に襲われに胸部腹部、および腕をナイフで刺された。スウェーデンの欧州統一通貨ユーロへの参加の是非を問う国民投票が、14日に控えており、国民投票の投票日直前にテレビ討論番組に着る服を買うためだったのだ。アナ・リンドはユーロ参加賛成派のキャンペーンを主導していた。公安警察の護衛はついておらず、1986年のオロフ・パルメ首相の暗殺と類似していることから、警護がなかったことが問題となった。 すぐさま救急車でカロリンスカ大学病院へ搬送され、手術と輸血を受けたが、翌2003年9月11日の5時29分、死亡が確認された。アナ・リンドの死亡は欧州連合加盟国すべてでヘッドラインを飾った。
9月24日にセルビア人を親にもつ男性Mijailo Mijailovićが逮捕され、2004年の1月男は罪を認めた。同3月には裁判で終身刑が言い渡されたが、その後上訴審でこの判決は覆され、精神的な疾患を負っているとされ、さらに12月最高裁は終身刑を妥当と判断した。 アナ・リンドの人気と殺害が国民投票の直前という時期に起こったことから、当初政治的な意図があったのではと疑われたが、そのような事実は浮かび上がってこなかった。Mijailovićは、この事件は無差別殺人であったとし、収監されて以来カウンセリングその他の精神科の支援を受けている。