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利用者:モフミ/sandbox三山

三山
三山跡地の碑
三山跡地の碑
三山の位置(京都府内)
三山
三山
北緯35度43分16.4秒 東経135度10分18.2秒 / 北緯35.721222度 東経135.171722度 / 35.721222; 135.171722
日本の旗 日本
都道府県 京都府
市町村 京丹後市
大字 丹後町三山
人口
(年国勢調査
 • 合計 0人
郵便番号
627-0102(変更)

三山(みやま)は、京都府京丹後市丹後町宇川地域の廃村地名。1974年(昭和49年)に当時の丹後町と住民が交渉し同町三宅に団地を造成、全戸が集団移住し廃村となった[1]。2004年(平成16年)京丹後市移行後の大字は「丹後町三山」。


地理

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鞍内の東南方、宇川中流の右岸で、その支流三山川沿いの谷間に位置し、碇高原へ通じる谷間の急斜面であり、丹後半島の尾根にあたる。集落内を東から西へと三山川が流れる[2][3][4]

歴史

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江戸期から年(明治22年)は三山村として丹後国竹野藩に属す。はじめ宮津藩領、年(享保2年)より幕府領となる。年(明治元年)に久美浜県に属し、年(明治4年)豊岡県を経て年(明治9年)に京都府に所属する。年(明治22年)上宇川村の大字となる。年(昭和30年)丹後町三山となる[1]

集団移住

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三八豪雪(丹後豪雪)の被害を伝える新聞記事

主な生業は稲作であったが、田の多くは三山川上流東方直線距離2.5キロメートルの碇地区にあり[3]、海抜400メートルの高原まで朝5時半に自宅を出て帰宅は夜7時という生活だった[5]。積雪が多く、冬は男性は杜氏として10月から翌4月の半年間、京都伏見、奈良、名古屋、島根方面へ出稼ぎに出るものが多かったため、女性ばかりの生活であり、小学校に通学することも大変であった[2][3]。1963年(昭和38年)の豪雪(世帯数26戸[3])を経て、1軒、1軒と離村が始まり、1974年(昭和49年)に当時残った12戸が集団で京丹後市丹後町三宅に移住することなった。その背景は、三山(及び小脇、竹久僧地区)の田が多くある碇が京都府営の碇牧場として開発・造成されたことによる。住民が碇で所有していた土地を無償譲渡するかわりに、移転の手配を当時の丹後町に依頼し、相談や交渉を重ねて、住宅を建設する補助金も支出された[2]。 丹後町としては、人口の町外流出を防ぐ切り札として、また、当地区住民の安定した職業と収入を確保すること、さらには丹後縦貫林道周辺の乱開発を予防する観点から団地造成に踏み切った[4]。 移転先の丹後町三宅は、三山より東方直線距離6キロメートルの地で[3]、もともと近くに土地を持っている人がいて利便性が高い、借りて耕作できる田があったことなどで選ばれた[2]。三宅にて造成された宅地は総面積1万平方メートルで18戸、配置は抽選で決め、家屋の間取りもそれぞれに考えて建てた[3][6]

氏神は三柱神社にて愛宕大権現を祀っていたが、集団離村時に離村先である三宅の氏神三柱神社に合祀した[3]。曹洞宗釈迦山蔵福寺は、集団離村と共に廃寺となり仏像は京丹後市丹後町平の曹洞宗常徳寺に移した[2][7]。墓は、離村後に三宅に墓地を造成し、抽選で場所決めをし新たに墓を建てた。三山にあった戦死者の墓石のみ三宅まで持ってきた[8]

世帯数と人口の変動

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1884年(明治17年)には39戸、1888年(明治21年)には38戸、1896年(明治29年)には38戸と、明治期には安定した集落であったと思われる。1960年(昭和35年)に31戸139人の人口を記録するがその後その後だんだんと世帯数が減少していった[2][9]

人口の変遷
1930年(昭和5年) 147人
1955年(昭和30年) 139人
1974年(昭和49年) 46人
1975年(昭和50年) 0人
世帯数の変遷
1884年(明治17年) 39戸
1888年(明治21年) 38戸
1896年(明治29年) 38戸
1930年(昭和5年) 30戸
1960年(昭和35年) 31戸
1966年(昭和41年) 17戸
1974年(昭和49年) 12戸
1975年(昭和50年) 0戸

近年の動向

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(廃村後の跡地の活用)


離村後の人々

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(移住先での暮らし)



脚注

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  1. ^ a b 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典26京都府上巻』角川春樹、1982年7月8日、1371頁。 
  2. ^ a b c d e f 小山元孝『消えない村』林直樹、2015年12月25日、47頁。 
  3. ^ a b c d e f g 京丹後市史編さん委員会『京丹後市の民俗』京丹後市長 中山泰、2014年3月30日、242頁。 
  4. ^ a b 丹後町役場 (1974年3月1日). “三宅団地に集団移転”. 広報たんご106号 
  5. ^ 池井保『亡び村の子らと生きて』あゆみ出版、1977年11月10日、65頁。 
  6. ^ 小山元孝『消えない村』林直樹、2015年12月25日、50頁。 
  7. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典26京都府上巻』角川春樹、1982年7月8日、1371頁。 
  8. ^ 小山元孝『消えない村』林直樹、2015年12月25日、48頁。 
  9. ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「東1997,p47」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません

参考文献

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  • 『日本歴史地名大系 26 京都府の地名』平凡社、1981年、ISBN 4582490263
  • 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 26京都府 上巻』角川書店、1982年
  • 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 26京都府 下巻』角川書店、1982年、ISBN 4040012623
  • 京都府『丹後地区広域市町村圏振興整備構想研究報告書』京都府、1976年
  • 坂口慶治「丹後地方における廃村の多発現象と立地環境との関係その1 : 地形的・地質的条件との関係」『京都教育大学環境教育研究年報』第6号、1998年3月、pp. 51-82、hdl:20.500.12176/4152
  • 高橋達夫「丹後半島における挙家離村と機業」『人文地理』第22巻4号、1970年、pp. 454-475、doi:10.4200/jjhg1948.22.454